四話

「……ねえ、どうしたの?」


 リズは歩くリッツォの横に並び、不思議そうに聞いた。しかし返事は返ってこない。


「やっぱり何か怒ってるんでしょ? 言ってよ」


 宿を出てからここまで、リッツォはむすっとした様子でほとんど口を開いておらず、明らかに機嫌が悪そうだった。だがリズにはその理由がまるでわからず、こうして聞くしかなかった。


「私のせいなの? それとも宿のあのおばさん? 教えてよ」


 しつこく聞いてくるリズを、リッツォは冷めた目でいちべつした。


「……怒ってねえよ。少し寝不足で気分が悪いだけだ」


 昨晩のリズの寝相によって多大な迷惑を被ったリッツォだが、無意識で故意ではなかったと理解している以上、リズを咎める気はなかった。それよりも変な意地を張ってベッドにい続けようとした自分の行動を後悔していた。大人しく移動してしっかり眠っていれば、こんなひどい気分で朝を迎えることはなかっただろう。


「寝不足なの? 寒かったんでしょ。だから言ったのに。ベッドがいいならどうぞって」


 リッツォは思わずリズをねめつけた。


「え、何……?」


「この話はもう二度とすんな。気分がもっと悪くなる」


 覇気のない声でそう言い、てくてくと歩くリッツォの姿をリズは見つめる。


「怒鳴らないなんてリッツォらしくない……本当に気分が悪いんだ」


 それ以上の話はせず、二人は黙って目的地へと歩き進んで行った。


 森からまた別の森へと渡り歩き、休憩を挟みながら代わり映えのしない景色の中を進むこと数時間。日は傾き、木々の切れ目から西日が眩しく照らしてくる夕暮れ時になって、二人はようやく目的地であるバンベルガーの家にたどり着いた。


「はあ、やっと到着か……」


 雑草だらけの地面に座り込んだリッツォは目の前の家を見上げた。リズの家と比べると、それよりも小さく、丸い窓や三角の屋根はどことなく可愛らしさを感じさせ、おとぎ話に出てくる魔法使いの家のような雰囲気をかもし出している。だが細かいところを見れば、木の壁や屋根の端などはひび割れていたり欠けていたりして、それなりに年数の経った家だとわかる。


「いるかな……」


 玄関の前に立ったリズは、コンコンと軽く扉を叩き、声をかけた。


「バンベルガーさん、いらっしゃいますか?」


 しばらく待っていると、中から足音が聞こえ、そして静かに扉が開いた。


「……ほお? 随分と若いお客だな」


 白髪頭に長い口ひげ、黒いローブ姿のバンベルガーは、リズを見るとその顔を青い目でまじまじと見た。


「だが、どこかで会った気もするが……」


「リズです。ファルカスの娘の。小さい頃に会ったことがあります」


「おお! ファルカスの娘……あの時のお譲ちゃんか! 大きくなったものだ」


 相好を崩し、バンベルガーはリズの肩をぽんぽんと叩き、喜びを見せた。


「さあ入って。ここまで疲れただろう。何か飲み物を出してあげよう」


「ありがとうございます。でもお気遣いなく」


 招き入れられ、リズは部屋に入るが、その後ろに続いて入って来た灰色の猫に気付き、バンベルガーは足を止めた。


「ん? この猫は……」


「あ、この子は――」


 リズが説明を始める前にバンベルガーはリッツォに顔を近付けるなり言った。


「珍しい。人間の魂が宿った猫か」


 これにリッツォは驚き、思わず興奮する。


「わ、わかるのか? 俺のことが!」


「ふっふっ、元気にしゃべる猫だ」


「すげえ! 一目で見抜くなんて……リズ、お前が言った通り、やっぱすげえ魔術師だな!」


 バンベルガーはリズに向き直る。


「これを見るに、何か困り事があって訪ねてきたようだな」


「はい。バンベルガーさんに頼るしかなくて……」


 うつむくリズにバンベルガーは優しく微笑む。


「そう暗い顔をするな。わしでよければ何でも助けになろう。散らかった部屋だが、とりあえず座って話を聞こう」


 促され、居間に通されたリズは、そこにあった木製の椅子に座った。散らかった部屋だと言った通り、辺りには様々な物が雑然と置かれていた。日用品から本や書類の束、何が入っているかわからない箱に、複雑な作りの器具。その中でも一番多いのは植物だった。大小の鉢に植えられた植物が窓際を中心に占領している。花が咲いているものもあれば葉だけのものもあるが、どれもすべて青々として綺麗な艶を放っていることから、ちゃんと世話が行き届いているとわかる。ざっと見ただけでも二十以上はある鉢を毎日世話するのはかなり大変だろうなと、リズは眺めながらそう思った。


「以前ファルカスに貰った希少な黒山ユリは元気に育っているぞ。夏には立派に花を咲かせてくれた」


 バンベルガーはティーポットとティーカップを持ってくると、リズの前の机に置き、紅茶を注いだ。


「遠出した時に見つけた茶葉でな。これがなかなかうまい。ついさっき入れたばかりだから、体が温まるぞ」


「ありがとうございます。いい匂い……」


 かぐわしい香りと湯気の立つティーカップを持ち、リズはすするように一口飲んだ。


「お前さんはどうする? 猫の口では紅茶は合わないと思うが」


 リズの足下にいるリッツォにバンベルガーは聞く。


「もともと紅茶なんか好きじゃねえ。でも喉は渇いてっからな。水でもくんねえか?」


「そうだな。水が無難なところだろう」


 バンベルガーが台所へ消えるのを見送り、リッツォは机に飛び乗った。それをリズは不満げな目で見る。


「……何だよ。猫が机に乗るのは行儀が悪いってのか」


「そうじゃなくて、私達は助けを求めに来たんだよ? バンベルガーさんに対してもっと丁寧な口の利き方出来ないの?」


「俺はずっとこのしゃべり方なんだよ。自分の体に戻れたら礼くらいは言うよ」


「それは当たり前でしょ。話を聞いてくれる今だって――」


「そら、新鮮な井戸水だ。これなら猫舌を気にすることもない」


 バンベルガーは浅い器に入った水を手に戻ると、それをリッツォの乗る机に置いた。


「お、来た来た」


 揺れる水面に鼻を近付け、匂いを確かめると、リッツォは舌を出して水を飲み始める。


「もう、今もお礼を言うとこでしょ!」


 怒るリズに構わず、リッツォは水を飲み続けている。


「ちょっと、聞いてんの?」


「そう怒るな。礼などいい」


 笑顔を見せながらバンベルガーはリズのはす向かいの椅子に座った。


「すみません……この人、リッツォっていうんですけど、私にもこんな感じで」


「リズの友人か何かか?」


「いえ、まったく知らない、十六歳の人です。一昨日知ったばっかりで……」


「俺はこの子供のしたことに巻き込まれた単なる被害者だ。……はあ、水うまかった」


 おもむろに顔を上げるとリッツォは言った。


「リズは魔術師でも見習いらしいからよ。だからじいさん、代わりに俺を戻してくんねえか? じいさんなら何か信用出来そうだ」


「悪かったね、私の腕が未熟で!」


 口を尖らせたリズは紅茶をぐいっと飲んだ。


「もちろん、わしに出来ることならするが、その前に、この困り事の経緯を聞かせてはくれないか」


「はい、そうでした。事の始まりは一週間くらい前で――」


 リズは順を追って説明した。父ファルカスの意識が突然なくなったこと、その原因を知ろうと降霊術を試みたこと、その結果、誤ってリッツォの魂を降ろしてしまったこと……。


 これを聞き、バンベルガーの表情は真剣なものに変わった。


「驚いたな……ファルカスとはついこの間顔を合わせて飲んだばかりだ。体調を悪くしている様子はなかったのだが」


「私も同じです。意識がなくなる前の日まで、お父さんは元気でいました。だから病気だと思えなくて」


「本人の魂に直接聞こうとしたのだな。リズは降霊術をファルカスから教わっていたのか?」


「それはまだでしたけど、でも、何度か試して、その時は上手く出来たんです」


「虫でな」


 嫌みったらしくリッツォが言った。


「虫は関係ないから! 生き物で出来たことが重要なの。……そうですよね?」


 リズはバンベルガーに同意を求める。


「その通りだ。虫だろうと魚だろうと、自然に生きる命で成功したのなら、それは立派な降霊術と言える」


 この言葉にリズは口角を上げ、リッツォに得意げな笑みを見せ付けた。


「しかし、まだ降霊術の経験が乏しいことは明白だ。続けて成功するとは限らないだろう」


 これに今度はリッツォが鼻を鳴らし、リズを嘲笑するような眼差しを送った。


「降霊術はそれ以降、行っていないのか?」


「はい。リッツォの魂を降ろしてしまって、迷惑をかけちゃって、それどころじゃなくなったというか……」


「失敗に、自信をなくしたか」


 うつむいたリズは小さく頷いた。


「もう自分だけの力じゃ、どうしようもないと感じてしまって……お願いです。助けてください」


 悲痛な表情のリズの肩を、バンベルガーは優しく叩く。


「もちろんだ。ファルカスはわしの大事な友人でもあるしな。どれ、もう一度降霊術を試してみよう」


 椅子から立ち上がったバンベルガーはリズから少し離れると、目を瞑り、右手を軽く上げた姿勢で呪文を唱え始めた。


「ケシュ、ドータ、ジスカルノーディ」


 何度も唱えられる呪文を聞きながらリッツォは呟いた。


「やっぱリズよりじいさんのほうが、呪文が滑らかに聞こえるな」


「当然でしょ。私が生まれる前から魔術師なんだから。それにこの呪文は短縮詠唱っていって、たくさん魔力を備えた人しか出来ないすごい詠唱法なんだから」


「ふーん、よくわかんねえけど、時間がかかんねえのはありがてえな」


 二人はじっと待ちながらファルカスの魂が降りるのを待っていたが、バンベルガーの繰り返される呪文は一向に止まる様子を見せない。さすがに二人もその長さに違和感を覚え始めた時、ようやく詠唱は途切れ、バンベルガーはゆっくりと目を開けた。


「お、お父さんはどこですか?」


 待ち切れず聞いたリズに、バンベルガーはゆるゆると首を横に振った。


「……すまない。降ろすことは出来なかった」


「え、失敗、っていう、ことですか……?」


 リズは驚きを隠せず、老魔術師を見つめる。


「何だよ。じいさんも結局、降霊術が下手なのかよ」


「ちょっ、やめて。失礼なこと言わないで」


 リッツォの率直な言葉をリズは慌ててさえぎる。


「言い訳をするのではないが、正しく言えばこれは失敗ではない」


「じゃあ何なんだよ」


「何かが、わしの魔術をさえぎっているようだ」


 二人は同時に首をかしげた。


「さえぎるって、どういうことだ」


「降霊術を邪魔してるということですか?」


 バンベルガーは長い口ひげを撫でながら考え込む。


「いや、降霊術自体は行えるのだ。だがファルカスの魂を呼ぼうとすると何かが壁となってさえぎられてしまう……ふーむ、こんなことは初めてだ」


「バンベルガーさんの魔力でも、その壁は抜けられないんですか?」


「しつこくやってみたのだがな、どうにも上手くいかなかった」


「そんな……どうして……」


 頭を抱える魔術師二人を、リッツォは交互に眺める。


「……つまり、何なんだよ。じいさんもリズの父親を助けらんねえってことか?」


「助けようにも、ファルカスの魂を見つけられないのだ」


「あの世へ行っちまったんじゃねえの? 魔術でも届かない、ずーっと上のほうまで」


「降霊術はそもそも死者の魂を呼び出す魔術なんだから、どこへ行ってたって問題なく呼び出せるものなの」


「それじゃ、逆に生きてるから呼び出せねえとか?」


「健康体の者の魂を呼び出すのは難しいが、何か異常が生じて意識を失っている者ならば、生霊として呼び出すことは可能なのだ」


「ふーん、じゃあ何で呼び出せねえんだよ」


「それがわかんないから困ってるんでしょ」


 リズは困惑した表情で溜息を吐く。


「これはおそらく、何かしらの異常があるのだと思う。ファルカスの体にではなく、魂そのものに。でなければ見つけられないことなどありはしないはず……」


「お父さんの魂に、何が起こったんでしょうか」


「ファルカスが意識を失っているだけならば、生霊として必ずどこかにいるはずなのだが……」


「俺みたいに、魂で飛び回んのを楽しんでんじゃねえか? さすがの魔術師だって空は飛べねえんだろ?」


「だとしても、バンベルガーさんの降霊術で見つけられないはずない」


「なら、他の誰かに呼ばれてここに来れねえんじゃねえの? 俺の、今まさにこの状態みたいによ」


 リッツォは長い尻尾で机をぱたぱたと叩き、自分を示した。


「私達以外の魔術師がお父さんに降霊術を使ったっていうの? そんなこと――」


「それはあり得ることだ」


 バンベルガーの反応にリズは目を丸くして振り向いた。


「え? そ、そうなんですか?」


「ファルカスの魂を探しながら、わしはさえぎる何かに違和感を覚えたのだが、それが第三者の力だとすると、この違和感も納得だ」


「俺、いいこと言ったんじゃねえ? だろ?」


「静かに! ……そうだとして、でも誰が何のためにお父さんの魂を?」


「それはわしでもさすがにわからない。ファルカスを狙ったのか、あるいは魂なら誰でもよかったのか。どうであれ、わしの手応えとしては、何者かの力が加わっている可能性が高いように思える」


 第三者の存在を示唆され、リズの中には疑問と不安が一緒くたとなって広がる。父も慕い、尊敬するバンベルガーなら、たちまち解決してくれると楽観視していただけに、思わぬ展開はリズを少なからず動揺させた。


「父親は同業者から、何か恨まれるような真似してなかったのか?」


 怪しむように聞いてきたリッツォをリズは強く見返した。


「それどういう意味? お父さんが悪いことしたから、こんなことになったって言いたいの?」


「よくある話じゃねえか。恨み恨まれた結果、大事になるなんてよ」


「お父さんはそんな人じゃないから! 恨まれることなんてしてない!」


 怒りの眼差しで怒鳴られたリッツォは、その迫力に思わず机の縁まで後ずさる。


「そ、そういう話もあるって言っただけじゃねえか。わかってんよ。リズの父親はすごい魔術師なんだろ? だったら嫉妬されたって線もあるかもな……」


 軌道修正し、穏便に終わろうとするリッツォだったが、リズの気持ちはまだ治まらなかった。


「お父さんは誰にも優しいし、同じ魔術師の人には本を貸したり、薬の材料を分けてあげたり、いつも親切にしてたんだから! 恨まれも嫉妬もされない! バンベルガーさんもそう思いませんか?」


「ファルカスはリズの言葉の通りの男だ。魔術師として優秀でありながら、それを鼻にかけることもなく、控え目に、平和的に周囲とは接していた。わしもこれが恨まれた結果とは思えない」


 だが、とバンベルガーは続けた。


「本人にまったく非がなくとも、相手が一方的に負の感情を持つことはあるだろう。嫉妬、妬みなどがそれだ。リッツォ、お前さんの言うことも多少の可能性はあるだろう」


「へへっ、やっぱじいさんは話がわかんな。どっかの半人前の子供とは違って」


 そう得意げに言ったリッツォの小さな頭を、バンベルガーは指先で小突いた。


「その一言は余計だ。お前さんはファルカスを見習い、もっと平和的になるべきだ」


 老魔術師を見上げたリッツォは、わずらわしそうに舌打ちをした。


「でも、お父さんとよく会ってる魔術師の人は、バンベルガーさんくらいしか私知りません。他にどんな人と知り合いなのか……」


 ファルカスを目標に何らかの力を加えたとするなら、その者は当然ファルカスを知り、顔見知りということもあるだろう。しかしリズは父の交友関係を知らず、唯一知るのはバンベルガーただ一人だった。他の魔術師が係わっているとしても、どこの誰を疑えばいいのかすらわからない。


「わしもファルカスとは互いの近況を交わすくらいで、その他の話はほとんどしないのでな。ファルカスがどのような者と付き合いがあったかはわからない」


「この辺りに住んでる魔術師全員に聞いて回れば? ここは多いんだろ? 住んでる魔術師が」


「それでもいいが、少々面倒だ……この森を西へ出ると、小さな町があってな。そこにある酒場は近辺に住む魔術師連中の情報交換の場にもなっている。わしとファルカスもそこへよく飲みに行っているのだ」


「じゃあそこへ行けば、大勢の魔術師の人に会えるんですね」


「うむ。だが当然魔術師だけでなく、町の住民も飲みに――ああ、一つ思い出したことがある」


 何か閃いた様子のバンベルガーをリズは見つめた。


「何ですか? 心当たりのある魔術師ですか?」


「いや、そうではないが、以前ファルカスと話した時に、その酒場である女性と知り合ったという話をされてな」


「女性、ですか……?」


「ふーん、恋愛絡みの線もありか?」


 リズはリッツォをねめつけ、黙らせる。


「ファルカスが言うには、初めて見る女性で、とても美しかったそうだ。一人で酒場に行った時に知り合い、一緒に飲んだそうだが、その後もたびたび酒場で会うと、同じように飲んだらしい。わしにも紹介したいと言っていたのだが、二人で行く日に限ってその女性はおらず、その時は運がないと笑っていたが」


「その女性は魔術師なんですか?」


「詳しいことは何も聞いていない。もしかしたら町の住民かもしれないが、ファルカスと知り合いには違いない。それらしい女性を見かけたら話を聞いてみてもいいだろう」


「綺麗な女性ですね。わかりました。リッツォも、見かけたら教えてよ」


「綺麗って言ってもなあ、リズの父親の趣味がわかんねえからなあ」


「細かいことはいいから! あなたが綺麗だと思った人はすぐ教えて」


「わしは邪魔するものが何なのかを調べようと思うが、リズはどうする」


「今からその酒場へ行こうと思います。日が暮れた時間帯ならお客さんもいっぱい来てるでしょうから」


「そうか。ではわしも一緒に行ったほうがいいな。子供だけでは心配だ」


 これにリズは右手を振り、断る。


「大丈夫です。バンベルガーさんは邪魔するものの正体を突き止めることに集中してください。こっちは話を聞いて回るだけのことですから」


「しかし……」


「心配いりません。何かあっても、どうにかして逃げますから」


 やる気を見せるリズにまだ心配を拭えない表情のバンベルガーだったが、少女の意志を尊重し、渋々頷いた。


「……わかった。だが少しでも危険が生じたら、すぐに戻って来るのだぞ」


「はい。……行くよ、リッツォ」


 椅子から立ち、リズはリッツォの背中をぽんっと押す。


「ええ? 俺も行くの?」


「あなたがここにいたら、バンベルガーさんの気が散っちゃうでしょ。ほら早く」


「俺は猫だぞ? 話なんか聞き出せねえよ」


「綺麗な人は探せるでしょ? そのくらいは役に立って」


 リズは灰色の背中を強引に押し、机から降ろそうとするが、リッツォは四本の足で踏ん張り、抵抗する。


「そんなことより俺は、自分の村に帰って、自分の体に戻りてえんだよ。……そうだ、じいさん。俺が住んでるシュラム村って、ここからどこらへんにあるか知ってる?」


「シュラム村……? はて……少し待ってくれ」


 そう言うとバンベルガーは別の部屋へ消え、そして何かを手にすぐ戻って来た。


「この地域の地図だ。大半の町村は記されている」


 机のティーカップなどを端に除けると、長方形の地図をそこに広げる。


「わしの家は……この辺りだ」


 指で指し示した場所は、広大な森の南端の辺り。


「そして、ここから西へ抜けると、リズの向かう町が……ここだ」


 指でたどると、サクロツという町名が記されていた。


「思ったより近い場所なんですね」


 リズの家からバンベルガーの家までの距離と比べると、まるで子供のお使い程度の距離しかなく、ほど近いことがよくわかる。


「で? 肝心のシュラム村はどこだよ」


「ふーむ、森の周りには村が多く点在しているからな……」


 バンベルガーの言う通り、もっとも大きなセルバトイの森を中心に、その周囲にはいくつもの村の名が記されていた。だが文字は小さく、少し色あせているため、三人は目を凝らしてシュラムの文字を探す。


「……あっ、あった!」


 リズは声を上げると、それと共に指をさした。それはここからセルバトイの森を挟んだ西側、村がいくつか密集する中の一つに、シュラムという名が確かに記されていた。


「こ、こんな遠いのかよ……」


 リッツォの目にも、その遠さは一目瞭然だった。リズの家からここまでの距離の比ではない。歩いて向かったら一体何日かかるのかさえわからない。


「ほお、お前さんはこんなに離れたところからやって来たのか」


 のほほんと呟いたバンベルガーに、リッツォはすがるように身を寄せた。


「なあじいさん、じいさんなら俺を戻せないか? リズの未熟な腕じゃ信用できねえから」


「ちょっと待って。それは私のせいじゃないって説明したでしょ? リッツォの意思の問題だって」


「で、でも、戻りたい気持ちだってあんだよ! ……じいさんの力でどうにかなんねえか?」


 バンベルガーは難しい表情を浮かべる。


「魂を解放するには、その魂の意思も重要になる。拒む意思があるのに強引に解放しようとすれば、降ろされた体と、魂そのものに深刻な傷が付きかねないのだ。そうなれば死しかない」


「ほら、私が言った通りでしょ? これ以上バンベルガーさんに迷惑かけないでよ」


「じゃ、じゃあ、俺はどうすればいいんだよ」


「定まらない意思を自分で決めるしかない。そのための方法として、眠る自分に会いに行くというのもいいかもしれない。客観的に自分を見れば、気持ちを変えるきっかけを得ることもあるだろうからな」


 リズに言われたことと変わらない言葉に、リッツォはわかりやすくうなだれた。


「気が済んだ? それじゃ行くよ」


 リズは灰色の小さな体を持ち上げると、床に降ろした。


「もう暗いからな。気を付けて行くのだぞ」


「はい。じゃあ話を聞いてきます」


 玄関へ行き、扉を開けると、西日の差していた景色はもう暗闇に包まれている。とぼとぼと後を付いてくるリッツォを待ち、リズは真っ暗な森の中へと踏み出した。


 ランプを持たない代わりに、リズは手のひらを広げると、そこに魔術で光の球体を作り出した。優しく穏やかな白い光が辺りにふわっと広がる。これで道に迷うことも、つまずくこともないだろう。


 だが、照らし出された足下のリッツォは、明るくなったことにも気付かないかのように、沈んだ様子で歩いていた。


「ねえ、暗くならないでよ。こんなとこじゃ余計に暗く感じちゃうでしょ」


「……うるせえ。俺は今、自分のことがすっげえ情けなく思えてんだよ」


 リズは困ったように一息吐くと、正面を向きながら言った。


「情けなくなんてないよ。リッツォは自由が欲しかったんでしょ? 猫の体とはいえ、一度手に入れたものを手放すのは誰だって惜しいもんだよ」


「同情なんて、いらねえぞ」


「そんなんじゃないし。……言ったこと、私は守るから。お父さんのことが落ち着いたら、できるだけ早くリッツォを家まで連れてくから」


「当然だ。それがお前の責任だからな」


「うん。任せといて。リッツォの魂は必ず戻れる。だから心配しないでよ」


 これにリッツォは少しだけリズを見上げた。


「そこまで言うんなら……今は信じてやるよ」


「ふふっ、それはどうも」


 二つの影は並びながら、静かに森の出口へと歩き進んで行った。

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