三話
季節は冬で、常時気温が低く、かつ日陰の多い森の中は、その寒さが際立つ。もし雨でも降っていれば寒さに震えて歩みも鈍るところだろうが、今日は太陽の機嫌がすこぶるいい。小春日和とも言えそうな暖かさはリズの足を軽快に運ばせてくれる。しかしリッツォのほうは彼女ほどの軽快さはない。
「……リッツォ、大丈夫?」
どこかぎこちなく歩く姿に、リズは振り向いて聞いた。
「大丈夫じゃねえよ。俺は四足歩行も、森の中歩くのも初めてなんだ」
「家の中じゃ普通に歩いてたじゃない」
「まっ平らだったからな。でもここはでこぼこで歩きづれえんだよ。足の裏も何かちくちくするし」
「猫用の靴なんてないんだから、まあ頑張ってよ」
「言われなくたってこっちは頑張ってんだよ。……にしても、寒くねえか?」
「そうかな? 日差しがあって暖かいと思うけど」
「風が冷たくて足が動かしづれえ」
灰色の小さな体は少し風が吹き抜けるたびに、その身を縮こまらせ、寒さに耐えているようだった。
「猫は寒さが苦手な生き物だからね。ましてベーラは狩りと用足し以外、ほとんど家の中にいるから、余計寒がりなのかも」
「なあ、一瞬で目的地に行ける魔術とかねえのか? 寒さに耐性のねえ俺にはきついよ」
「ないことはないけど……」
「あんのかよ! じゃあそれ使えよ!」
「無理だって。瞬間移動は高等魔術で、私なんかが使えるわけないんだから。お父さんくらいすごい人じゃないと使いこなせないの」
「ちっ、役に立たねえやつだな」
「リッツォは病気でベッドから出られないんでしょ? 自分の足で歩いて、今のうちにいろんなものをいっぱい見ておいたら?」
「そのつもりだったけど、こんな寒いんじゃ歩き続けたくねえよ」
「そんなふわふわの毛皮着といて、ちょっと寒がりすぎじゃない?」
これにリッツォはぎろりとリズを睨んだ。
「だったらこの体になってみろ! 俺の辛さは大げさでも何でもねえから!」
「そんなに言うなら、私が抱っこして、ローブの下に入れてあげようか?」
一瞬想像してしまったリッツォはすぐさま言い返した。
「ばっ……何度言わせんだよ! 俺は年上だ! 子供に抱き抱えられてたまるか!」
「そっちだって子供のくせに……もう勝手にして」
些細な会話が終わり、二人はしばらく黙々と歩き進んでいた。梢の揺れる音と動物達の鳴き声だけを聞いて、少しずつ傾く日を感じながら足を動かし続ける。
「……なあ、バンなんとかってやつのとこにはいつ着くんだよ」
少し疲れの混じる声でリッツォは聞いた。
「バンベルガーさんね。着くのは明日の午後くらいかな」
これにリッツォは思わず瞠目する。
「あ、明日、だと?」
「だからちょっと遠いの」
「ちょっとじゃねえ。普通に遠いだろ!」
「町とか友達の家に行くのに一日かかるなんて、ここじゃ普通だよ?」
「なら、今夜はどうすんだよ。森で野宿なんて俺はごめんだぞ! 熊とか狼がうじゃうじゃいそうな場所でそんな馬鹿な真似――」
「心配しないで。熊にも狼にも襲われないから。まあ、熊は冬眠してるから、そもそも出てこないと思うけど」
「どうする気なんだよ」
「今夜は宿に泊まるの。このまま行けば日暮れには着くはずだから。私だってそれくらい考えてるんだから」
「宿……でも、子供だけで泊めてもらえんのか?」
「大丈夫。いつも使わせてもらってる顔馴染みのとこだから。早く温まりたいなら、ほら、急いで歩いて」
野宿ではないとわかって、リッツォは一安心してリズの背中を追った。日の差す今でも十分寒いというのに、それさえなくなって暗闇に包まれたら、おそらくリッツォは震えが止まらず歩くことさえままならなくなるだろう。だがそんなひどい状況にはならずに済みそうだった。
リズの言う通り、日が暮れてきて辺りの影が色濃くなり始めた頃、二人の前に灯りのともった小さな建物が見えてきた。
「……あれか?」
「そう。今夜はあそこで休ませてもらうの」
気温が一気に下がったせいか、話すリズの口元からは白い息が吐き出されていた。昼間の暖かさからは一転、森の中は冷気が充満する寒さに変わっていた。暖かい食事とベッドを求め、二人の足は自然と早くなっていく。
宿屋と言っても、建物の外観は小さな民家のようで、看板すら出ていない。初めて見た者は宿屋とは絶対に気付かないだろう。そんなところにリズは入って行く。
「こんばんは」
挨拶をした相手は、カウンターの向こうで読んでいた本を置くと、リズに気付いて笑顔を見せた。
「あら、こんばんは。また来てくれたのね」
ふくよかな中年の女性は穏やかな声で出迎えてくれる。
「一晩泊まらせてください。あと、食事も」
「ええ、わかったわ。二十五タードいただくわね」
代金をかばんから取り出したリズはカウンターに置く。
「今日は他にお客がいないから、好きな部屋を使っていいわよ。……お一人でお出かけ?」
「はい……あ、じゃなかった。もう一人、というか、もう一匹が……」
リズが自分の足下に視線を落とすと、女性もカウンター越しに足下をのぞき込んだ。
「……まあ、猫ちゃん」
「一緒に泊まってもいいですか? 外だと凍えちゃうんで」
「もちろんいいわよ。この猫ちゃん、お行儀よさそうだし」
少し警戒心を見せながらも、じっと座って見上げるリッツォを、女性はにこにこと見つめる。
「よかった。……それじゃ行こう」
促され、リッツォはリズの後を付いて行く。ふと振り返ってみると、女性はカウンターの向こうからまだ笑顔でリッツォを見ていた。猫が好きなのだろうかと思いつつ、リッツォはすぐに視線を戻した。
好きな部屋と言っても、ここには三つの部屋しかなく、広さも内装も大して変わらない。リズは比較的よく使っていた一番奥の部屋を選び、休むことにした。
「ふうう、やっと休める」
扉が開くや否や、リッツォは部屋に駆け込んだ。一人部屋のようで、狭い部屋にはベッドと小さな机と椅子、飾り棚がこぢんまりと置かれていた。
「やっぱ家ん中はあったけえな。壁があるとないじゃ大違いだ」
リッツォはベッドに飛び乗ると、その柔らかさと暖かさを足で感じ取った。
「そうだね。私も久しぶりに長く歩いたから、今夜はよく眠れそう」
リズはベッドの脇にかばんを置きながら言った。
「その前に食い物だ。腹が減った。さっきのやつが持ってきてくれんのか?」
「うん。いつもすぐに――」
その時、扉がコンコンと叩かれた。リズはリッツォにほらねと目で言うと、すぐに扉を開けた。
「お食事よ。足りなかったらおかわりも言ってね」
女性は水とシチューの載った盆を手に部屋に入ると、それを机に置いた。
「わあ、美味しそう。ありがとうございます」
湯気が立つ器には、大きな野菜と肉が赤茶色のスープの中で所狭しとひしめき合っている。少女の腹なら、これだけで十分に満腹になれそうだった。
「こっちはもう一人の方に、ね」
リズに出されたものより一回り小さな器に入ったシチューを、女性は机の下の床にそっと置いた。
「野菜抜き肉多めの、スープ少なめにしておいたから、その体でも美味しく食べられると思うわよ」
これが自分に言われている言葉だとすぐに気付かず、ぽかんとするリッツォに、女性は笑顔を残して部屋を出て行った。
「それじゃ、食べようか」
リズは椅子に座ってスプーンを手に取る。だがリッツォは自分の器を見て表情をしかめた。
「俺だけ床で食えってのかよ」
「仕方ないでしょ。猫なんだから」
「俺は猫じゃねえ! 人間だ!」
「じゃあ椅子に座って、スプーンで食べたら? その体で出来るんならね」
「うぐっ……」
リッツォは毛むくじゃらの丸みを帯びた足先を見下ろし、歯噛みした。人間としての自尊心は傷付いても、怒りに任せてシチューを蹴り飛ばすことはできなかった。立ち上ってくる美味しそうな匂いを前に、空腹でありながらそれを遠ざけることは今のリッツォには難しかった。くすぶる感情を抑えながら、スープをまとった肉に鼻を近付け、そして噛み付いた。その途端、口から全身に美味しさの幸福感が広がり、自尊心が傷付いたことなど一瞬でどうでもよくなった。ただ腹を満たし、肉の味をもっと感じたいという欲求だけに衝き動かされ、リッツォは一心不乱に食べていた。その姿はまさに腹を空かせた猫そのものだった。
「……はっ! お、俺は……」
空腹が満たされ、我に返ると、目の前の器はすでに空になっており、綺麗に食べ終えていた。
「その食べ方、結構慣れてる感じね。やっぱり猫はその食べ方がいいんだよ」
そう言ってリズはスプーンですくった野菜をぱくりと食べ、リッツォに笑いかけた。怒鳴り返そうとしたが、図星を指されたリッツォには返す言葉もなかった。最初は器から直に食べるなど抵抗があったのに、いざ食べてしまえば難なく出来てしまった。人間ではないこの体が慣れているとしか言いようがなかった。中身は人間でも、やはり自分は猫なのだと改めて自覚させられるのだった。
「何か悔しいけど、うまかったよ……でもあのおばさん、何で俺のは肉だけにしたんだ?」
「猫は肉食だからね。野菜なんて食べないの」
「そうなのか。だけど持って来た時、変な言い方してなかったか? その体でも美味しく、とか……」
「猫でも食べられるようにってことでしょ?」
「だったらそう言わねえか? その体でもって言い方じゃ、何か俺が不自由してるみたいに――」
するとリッツォは何かに気付いたかのようにリズを見上げた。
「もしかしてあのおばさん、俺が人間だってわかってんじゃねえか?」
「そうかなあ……」
「そうだよ! 俺のことすっげえ見てくるし。絶対気付いてんだよ」
「まあ確かに、あり得なくはないかな」
水をごくりと飲んで食事を終えたリズは椅子から立ち上がる。
「何だよ、心当たりがあんのか?」
「うん。前にお父さんとここに来て、知り合いだっていうあの人のこと聞いた時、昔魔術師をしてた人だって言ってたから、正体を見抜く力があってもおかしくないかも」
茶色のローブを脱ぐと、リズはそれを椅子の背もたれにかけた。
「元魔術師なら絶対にわかってるに決まってんよ。……にしても、ここに降ろされてから今まで、魔術師にしか会ってねえな。普通の職業の人間はいねえのかよ」
「この辺りの森は薬作りの材料がいっぱいあるし、お隣さんから気味が悪いって苦情を言われることもないから、魔術師が暮らしやすいんだよね」
「ああ、だから魔術師ってのは近所で見たことも聞いたこともねえのか」
「私達を変人扱いする人は少なくないから。……さ、お腹いっぱいになったし、早く寝よ」
ベッドに向かうと、リズは毛布をめくり、その柔らかな中へ潜り込んだ。それをリッツォは呆然と眺める。
「……おい、俺の寝場所は?」
「好きなとこでどうぞ。床でも椅子でも、このベッドでも」
「お前と寝ろってのかよ!」
「お前じゃない。リズ」
「寒がってる俺をベッドから追い出すってのか!」
「だからベッドがいいならどうぞって言ったでしょ」
「お前がいたんじゃ寝れねえだろ!」
「寝られるから。自分の体がどれだけ小さいかわかってる? 何なら毛布の中で一緒に寝る? 寒い日のベーラはいつもそうしてたけど」
「するか! 他人と添い寝するくらいなら鼻水流しながら寝る!」
「じゃあそうしたら? おやすみ」
毛布を首までかけてリズは目を瞑った。残されたリッツォは部屋の中をうろうろと歩き回るが、すでに日の暮れた時間帯、床で寝ようにもわずかに入り込んでくる冷気が足下から這い上がって体を冷やそうとしてくる。添い寝などできないと言った手前、部屋の隅で我慢して寝ようと思ったリッツォだったが、やはり冬の寒さには勝てないとわかると心の中で前言を撤回し、たまらずベッドに飛び乗った。
横たわるリズは微動だにせず、すでに寝入っているようだった。毛布越しのリズに近付くと、足下からその温もりがじわじわと感じられた。毛布の下に入り込めば、きっと冷え切った体がすぐに溶かされることだろう。だがさすがにそこまで図太くはなれず、リッツォはリズの足下近くの毛布の上で横になった。毛布をかぶらなくても、柔らかいベッドにいるだけで温かさは感じられる。
猫の体とはいえ、これほど長く外を歩いたのはリッツォにとって初めてのことだった。いつもは限られた景色しか見ることができず、自由に動いて見たいものを見ることは決して出来ない。この体には大いに不満はあるものの、しかし心の一部では動ける自由を楽しんでもいるのが正直なところだった。いつもは出来ないことが出来たおかげで、心地よい疲れの溜まったリッツォは、体を丸くさせるとすぐに眠りに落ちていった。
その三十分後――
体を揺らされた感覚にリッツォの目は覚めた。部屋の中はまだ暗く、夜は明けていない。今の揺れは何だとリズを振り返ってみるが、起きている様子はなく、横たわったままだった。夢でも見ていたのだろうかと再び眠りについた数分後――
ズリッと足下が動き、リッツォの体がまた揺れた。やはり夢ではない。すぐに目を開け、周囲を確認してみる。と、最初に寝ていたベッドの位置から自分がずれていることに気付いた。毛布ごとベッドの中ほどまで移動している。これはどういうことだと考えている時だった。
「ううーん……」
リズの小さな声が聞こえたかと思うと、ゆっくりと寝返りを打った。その際、リズは足で毛布を引っ張り、そこに乗るリッツォごと引きずった。ぐらりと揺れた小さな体は危うく転がりそうになる。
「……お前か」
原因がわかり、怒鳴りたいのをこらえて睨むだけにしたリッツォは、毛布の反対側へ移動し、そこで再び丸くなって寝ようとした。だがまどろみ始めた時、リズはまたしても寝返りを打った。無意識なのだろうが、毛布に乗るリッツォが重いとでも言うように、自分のほうへ毛布をぐいっと引き寄せた。咄嗟に爪を立てたリッツォはどうにか踏ん張り、転がらずに済んだが、続けてリズはまだ重いと感じたのか、あろうことに毛布を蹴り上げてきた。慌てて爪を引っかけ、しがみ付くも、ベッドの外へ蹴り出されては成す術もなく、リッツォはあえなく床に落ちた。
「……おい! これは嫌がらせか! 寝ぼけたふりして実は起きてんじゃねえのか!」
とうとう怒鳴ったリッツォだが、リズからは寝息しか聞こえてこない。嫌がらせでも寝たふりでもなく、単なるこういう寝相のようだった。
「ちっ……俺は負けねえぞ。意地でもベッドで寝てやる」
ベッドに飛び乗り、その隅で寝ようとするリッツォだったが、まどろむたびにリズは寝返りを打ち、その足や毛布がリッツォの睡眠を妨害してきた。
「うがああ! 邪魔すんな!」
何度怒鳴ってもリズにその声は届かない。リッツォの意地は睡眠時間を削り、朝方まで続くのだった。
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