二話
「俺は帰るからな!」
苛立ちを隠さないリッツォは、リズの背後にある扉に向かう。
「帰るって、どこに?」
「自分の家に決まってんだろ!」
リッツォは扉の前まで来るが、扉は当然閉まっている。仕方なく爪を引っ掛けて開けてみようとするが、猫の手で開けられるような扉ではない。これがさらにリッツォを苛立たせる。
「おい! 開けろよ!」
「ベーラの体で帰る気? そんなことさせられない」
「じゃあどうやって帰れってんだよ!」
扉を諦めたリッツォは踵を返し、カーテンの引かれた窓際に飛び乗った。そしてカーテンの隙間に体をねじ込む。その途端、ガラス越しに差し込む眩しい陽光に照らされ、一瞬目が眩んだ。白くなった視界に徐々に色が戻ると、ようやく外の景色が見えた。窓の向こうは一面緑が覆っている。大小の樹木に背の高い茂み、その下に広がる落ち葉の絨毯――ここは森の中だろうか。何にせよ、リッツォは知らない、初めて見る景色だった。
「落ち着いてよ。失敗はしてるけど、魂を解放する方法はちゃんとあるんだから。ベーラの体にいるのは今だけ。一生いるはめにはならないから」
「だったら早く成功させろよ! 俺を帰らせろ!」
「それはあなたの意思次第でしょ? 私は正確に呪文を唱えてる。問題はそっちにあるの」
びしっと指をさされ、言い返せないリッツォは口ごもってしまう。自分の体に戻りたいという気持ちはちゃんとあるが、その一方でそれを拒否する気持ちもあることをリッツォは自覚していた。この相反する意思が失敗する原因だと、リズも結果も指摘しているのだ。つまり自分は本気で戻りたいと思っていない――否定したいが、しきれないことをリッツォは認めなければならなかった。
「帰りたいなら、あなたがその意思を固めればいいだけ。私はそれまで待つしかないんだから、あんまり怒鳴らないでよね」
「………」
何も言えないリッツォは黙って窓際から離れた。その様子にリズは小さく息を吐くと、持っていた本を置き、扉の取っ手をつかむ。
「ちょっとお父さんのこと見てくるから、ここで待ってて」
カチャ、と扉を開けた瞬間だった。
「でも俺は、猫の体なんて嫌なんだよ!」
叫び、走り出したリッツォは、開いた扉の隙間をくぐり、部屋を飛び出した。
「あっ、ちょっと!」
突然のことに対応できなかったリズは、猛然と走り去る愛描の後ろ姿をすぐに追った。
暖かな光の入る短い廊下を駆け抜けたリッツォは、前方に見えた二つの入り口を確認する。一つは正面、扉はなく、奥の部屋に入れる。もう一つは左側、こちらは扉が閉まっていて入れそうにない。向かう進路はおのずと決まった。リッツォはそのまま直進して正面の部屋に入ろうとした。
だがその時、不意に左側の扉が開き、リッツォの進路を妨害するように立ち塞がった。
「んなっ……!」
慌てて急停止し、危うく扉に突っ込む手前で止まることができた。
「……てめえ、いきなり開けやがって――」
そう言いながら見上げた相手は、リッツォよりも年上に見えるごく普通の青年だった。しかしその顔を見て、急激な違和感を覚えた。突然猫が突っ込んで来たにもかかわらず、微塵も驚いた様子がない。というより、無表情そのものだ。単に暗かったり落ち込んでいるのではなく、一切の感情がどこにもない。それは真っ黒な瞳に如実に表れていた。リッツォと目が合っても、何を考え思っているのかがまったくわからない。たとえるなら一点を見つめ続ける人形の目……いや、表情が作られた人形のほうがまだ心安らぐ。この青年の黒い瞳はリッツォを見ながら、実は何も見ていないかのような、不思議で不気味な雰囲気を感じさせた。
すると青年の視線が追って来たリズに向けられた。
「ご主人様」
「あ? ご主人様……?」
想像もしていなかった呼び方にリッツォは驚きを見せた。
「別に無理矢理呼ばせてるんじゃないからね。勝手にそう呼んでくるから」
「何なんだよ、こいつ。お前の兄弟……じゃねえよな」
歩み寄ってきたリズは自分よりも少し背の高い青年の肩に手を置いた。
「違うよ。この子はゾルタン。私の使い魔」
「使い魔……? 何だそりゃ」
「お手伝いをしてもらうために魔術で呼び出した生き物のことよ」
リッツォは改めて目の前の青年をまじまじと見つめた。
「魔術で呼び出したって……これ、どう見ても人間だろ。お前、人間なんて呼び出せるのか?」
「これは見た目だけ。ゾルタンの本当の姿はもっと小さくて子供くらいしかないの。この姿は雑用をしやすいように、私が魔術で変えたの」
そう聞いてリッツォは納得できた。
「そうか。お前が変えた姿だから人間っぽくない表情なのか」
「細かいところは、その、私はまだ見習いだから、追い追いね……」
「ご主人様」
無感情な声がリズを呼ぶ。
「旦那様のお世話を終えたので、居間の掃除に移ってよろしいですか?」
「うん。お願い」
小さく会釈すると、使い魔ゾルタンは静かに奥の部屋へと消えて行った。
「……あんなやつに父親の世話任せてんのか? 俺だったら信用できねえけどな」
「使い魔は完全に支配下に置けば、すごく優秀なの。勝手に悪さすることもないし。お父さんのことは見ててあげたいけど、そうなった原因を私は探さないといけないから」
わずかに表情を曇らせたリズは、ゾルタンが出て来た部屋に入って行く。
「最初はそんなつもりなかったんだけど……あなたも来て。お父さんを紹介するから」
ちらと振り返ったリズに言われたリッツォは、黙ってその後を追った。
最初にいた部屋より大分広い空間には、窓からの陽光と暖かな空気が充満していた。その中で真っ先に目が向くのは、部屋の半分ほどを占領している大きな机と無数の本だった。魔術師らしく、本棚や机の上には分厚い本が並び、他にも液体の入った小瓶や丸められた紙の束、色鮮やかな石や金属製の器具などが整然と置かれている。そして部屋の反対側を見れば、ベッドで白い毛布をかけて横たわる男性の姿があった。これが危篤状態の父親――リズと共に近寄ったリッツォは、その顔を見ようとベッドの縁に前足をかけ、のぞき込んだ。
「私のお父さん……ファルカスっていうの。こうして、ずーっと眠ったまま……」
三十代半ばと思われるファルカスは、ゾルタンの世話のおかげか、茶の髪は綺麗に整えられ、服や寝相も乱れてはいない。だがその顔色は青白く、まるで生気が感じられない。リズが最初に見た時に死んでいると思ったというのも頷ける姿だ。だが耳を澄まし、注意深く見れば、弱々しい呼吸をしていることがわかる。いつ止まってもおかしくないような、浅く、短い呼吸……。
「今はこの状態が続いてるけど、いつどうなるかわからない。毎朝起きてお父さんを見に来るたびに、心臓がどきどきして不安でたまらない」
「きっと、苦しいんだろな、本人も……」
ただベッドで眠り続けるだけで、言葉も発せず、動き回ることもできず、好きなものを見て、触れることもできない。自由を失った体ほど辛く、はがゆいものはないだろう。リッツォには想像するまでもなく、ファルカスの苦しみが伝わってきた。
「その苦しむ原因を教えてもらうためにお父さんの魂を降ろそうとしたのに、なぜかあなたの魂が降りてきちゃって……無駄な時間過ごしてる暇なんてないのに」
この言葉にリッツォはすぐさまリズを見上げた。
「ああ? 無駄な時間だと?」
「そうでしょ? 私は早くお父さんを助けて――」
「他人巻き込んでおいて、無駄な時間だとほざく前に、俺に謝る気持ちはねえのかよ」
「事情説明した時に謝ったじゃない」
「じゃあ助けたらどうだ。父親の前に、迷惑かけた他人との問題を解決しろ!」
「そうしようとしたって失敗するんだから――」
「だったら俺を家に帰らせろ!」
「帰ったってどうしようもないでしょ」
「こんな知らねえ場所にいたって仕方ねえんだ。俺は自力で自分の体に……人間の体に戻ってやるよ!」
「そんなの無理だよ。どうやってやるつもりなの?」
「し、知るか! お前が考えろ!」
「もう……」
困り顔のリズは腰に手を置き、しばし目を瞑って考え込む。
「……でも、一度家に帰ってみるのも、いいかもしれない」
「ん? 何だよ、いい方法でもあんのか」
「方法っていうほどのものじゃないけど、自分の体と対面したら、あなたの意思が固まりやすくなるんじゃないかって思ったの。動かない自分を見て、戻らなきゃって気持ちにならないかな?」
聞かれたリッツォはすぐに答えられなかった。確かに自分の体はかわいいが、同時に厄介なものでもあり、多くの苦しみを与えてくるものでもあった。しかしこのまま猫の体に留まっているのも嫌だった。自分は動物ではないのだ。人間でいたい。では自分の体と対面するかと問われれば、ためらう気持ちがまだある――やはりリッツォの意思はしばらく固まりそうになかった。
「どうだろな……俺にはわかんねえよ……」
「それじゃあ、行くだけ行ってみる? 家に着いたら気持ちも変わるかもしれないし。ね?」
「俺を助けるってんなら、何だっていいよ……」
「ならそうしよう。住んでるとこは? 家はどこなの?」
「シュラム村ってとこだ」
「シュラム村……? 聞いたことないな。ここから遠いの?」
「知るか! 俺はここがどこだか知らねえんだぞ」
「ああ、そっか。そうだよね……ここは王都からずーっと北に上った場所で、セルバトイの森って知ってる? すごく広くて深い森」
「名前くらいならな」
「その中を流れる川をたどって上流まで行った辺りが、ここ」
「じゃあここはセルバトイの森の中なのか?」
「ううん。また別の森だよ。北の地域には名前もない小さな森がいくつもあって、ここはセルバトイの森から東のほうに行ったところの森」
「わかりづれえよ! もっと具体的な言い方できねえのか?」
「だって森の中に目印になるようなものなんてないし、セルバトイの森の東のほうとしか言えないよ。……それで? あなたのシュラム村はどの辺りなの?」
「その森が基準ってんなら、ここから真逆の西のほうだと思う」
「森に近いの?」
「さあ、わかんねえ」
リズは小首をかしげる。
「自分の住んでる村なのに、わかんないの?」
「行ったこともねえ森との距離なんかわかるわけねえだろ」
「じゃあ他には? 別の村や町があったりとか」
「あるけど、場所は知らねえし、名前は忘れた」
ぶっきらぼうに言ったリッツォを、リズは怪訝な目で見つめた。
「……何だよ。こっち見んな」
「あなた、どんなふうに暮らしてるの?」
「関係ねえだろ。地理に詳しくないのがそんなにおかしいってのか」
「そうじゃないけど……でも、知らなさすぎじゃない? どんな暮らししてるの?」
「だから関係ねえっつっただろ! とにかく、森の西のほう行けばあんだから、それでいいだろ」
ぷいっと顔をそらしたリッツォを見て、リズにはある疑念が浮かんだ。
「もしかしてあなた、もう死んでたり、しないよね?」
これにリッツォはじろりと振り返った。
「……どういう意味だよ」
「死んじゃった魂は強い想いのある出来事は憶えてるけど、その他の記憶は薄れるって、前に読んだ本に書いてあった」
「だから俺は死人だって? そんなの生きてる人間にも当てはまるじゃねえか」
「そもそも普通に生きてる人間の魂が降りてくるなんて、おかしいことなの。お父さんみたいに意識がなかったり、死んじゃった魂だけを降ろすのが降霊術なのに……ねえ、ベーラの体に降りる前、あなたどんな状態だったの? 正直に教えて」
「お前に教える筋合いなんか――」
また顔をそむけようとしたリッツォだったが、リズは灰色の体ごとつかみ、自分へ向かせた。
「これは大事なことなの。死んだ体に魂は戻せないんだから。だとしたら他の方法を探さなくちゃ。で、どうなの? 生きてるならちゃんと憶えてるでしょ?」
両手でがっちりとつかまれ、身動きの取れないリッツォは、至近距離で見つめてくるリズに反発の眼差しを向けていたが、やがて諦め、口を開いた。
「……俺は、生きてるよ。多分」
「多分って何よ。はっきり言って」
「そうとしか答えられねえんだよ。……俺は病気なんだ。そのせいでよく意識がなくなる。気付くと高い空をふわふわ飛んでんだ。その時だけが楽しい時間で、でもまた気付くとベッドの自分の体に戻ってる。寝てるだけしかない役立たずの体にな……」
リズはゆっくりと両手を放した。
「あなた、重い病気にかかってるの?」
「ああ。生まれた時からな。そのおかげで村の中すら満足に歩いたこともねえ。意識がなくなるのは最近の得意技だ」
「つまり、あなたの意識がなくなった時に、私が降霊術を使って、それで間違って降りてきちゃったってこと……?」
「言っとくけどな、俺は好きで降りてきたんじゃねえからな。ここに吸い込まれるように勝手に降りてきたんだ。こっちに非はねえからな」
「だけど魂が戻らないのはあなたの意思のせいだからね。まあ、重い病気にかかった体じゃ戻りたくないのもわかるけど」
「ぐっ、それは、うむう……」
まさにその通りで言い返せないリッツォに、リズは笑顔を向けた。
「これで詳しい状況も、失敗した原因もわかった。やっぱりあなたの体に会いに行ってみるべきだね。病気なら命があるうちに行かないと」
「当たり前だ。俺がくたばる前に早く戻せ!」
「言われなくたってそうするってば。でもその前に、お父さんのことをどうにかしなくちゃ」
そう言うとリズは小走りに机のほうへ向かった。
「はあ? お前の父親より、俺のほうが先だろが!」
「お父さんはずっと意識がないんだよ?」
「俺だってねえよ!」
「あなたの場合はよくあることなんでしょ? それに魂はここにいて、体から離れてそんなに時間は経ってないはず。でもお父さんは意識をなくして一週間経ってる。もし魂が離れてる状態だったら、急がないと体が弱って魂が戻れなくなっちゃうかもしれないんだから」
そう言いながらリズはファルカスの机の上や引き出しを探っていく。
「俺は病気なんだ。俺のほうが弱りやすい体だ!」
「わかってる」
「わかってねえ!」
怒るリッツォはたまらずリズの足下に駆け寄る。
「俺を見捨てる気だろ! どうせ戻る意思がないって思ってんだろ!」
「心配しないでよ。あなたのこともお父さんのことも同時進行でやるから。でも場合によってはお父さんを優先するけど」
「なにい! お前、他人だからって――」
「あ、あった!」
引き出しを探っていたリズは、そこから一通の手紙を取り出した。茶色の封筒には綺麗な文字で「ファルカスへ」と書かれており、裏には差出人も記されているが、住所などは一切書かれていない。
「バンベルガーさんなら、助けてくれるはず……」
「おい! 無視すんな! 俺の話を――」
「しっ! 静かにして。集中するから」
真剣な声にリッツォは思わず言葉を止めた。リズは差出人の名を指先でゆっくりとなぞりながら、小さな声で呪文を唱える。するとなぞった文字から砂粒のような光が湧き出し、そして一つにまとまっていく。
「な、何してんだよ」
リッツォが呆然と見上げる先で、丸くなった小さな光はゆらゆらと浮かんでいたが、やがてリズの額に吸い込まれるように消えてしまった。
「……ちょっと遠そう」
「あ? 何がだよ?」
「バンベルガーさんの家。今のは居場所を見つける魔術なの」
「あんな光だけで、相手の居場所がわかるのか?」
「うん。便利でしょ」
リズは元の引き出しに手紙をしまう。
「ってか、バンベルガーって誰だよ」
「お父さんの友達で、すごい魔術師なの」
「お前の周りにはどんだけすごい魔術師がいんだよ」
「バンベルガーさんは本当にすごいんだよ? お父さんがお手本にするくらいなんだから。でも私はちっちゃい頃に会っただけで、よく知らないんだけどね」
「じゃあすごいかどうかなんて、わかんねえじゃねえか」
「お父さんがそう言ってたから、絶対にすごいの」
リズはファルカスの部屋を出て行くと、居間のほうへ足早に向かう。
「どこ行くんだよ」
リッツォは聞きながらその後を付いて行く。
「バンベルガーさんのとこに行くから、その支度」
机とソファーが置かれた居間に入ると、その傍らではゾルタンが黙々とほうきを振って掃除をしていた。だがリズはそれには目もくれず、左にあった扉を開けて部屋に入った。
「……ここは、お前の部屋か?」
続いて入ったリッツォは中を見回しながら聞いた。ファルカスの部屋の半分ほどの広さの中には、やはり大きな机や無数の本や見慣れない器具などがいくつも置かれていたが、そのところどころに動物や女の子の可愛らしい人形がのぞいており、少しだけ少女らしさを感じさせる部屋だった。
「うん。汚いとか言わないでよね」
確かに物の多い部屋だが、ファルカスの机周りよりはまだ少ないほうか。リズはベッド横にあるクローゼットやタンスから、手にした肩掛けかばんに必要なものを次々に詰め込んでいく。
「その、すごい魔術師ってやつなら、俺のこと助けてくれんのか?」
「多分ね。でも一番のお願いはお父さんのことだから。あなたのお願いはその後だよ」
「なっ、同時進行だって言っただろ!」
「出来ない時はお父さんが優先だって言ったでしょ。バンベルガーさんは一人しかいないんだから」
リズは茶色のローブを羽織ると、かばんを肩から斜めにかけ、支度を終えた。
「やっぱり俺を見捨てる気だろ! どうでもいいんだろ!」
また怒り始めたリッツォを見て、リズは溜息を吐く。
「そんなこと思ってないから」
「なら早く助けろよ! 間に合わなかったら、俺はお前を呪ってやるからな!」
「もう、いい加減にしてよ! 私はあなたを助けようとしてるでしょ!」
「巻き込んだ他人を後回しにするなんて、本気で助ける気があるとは思えねえけどな」
「それって何? 私のことが信用できないってこと?」
「命の危険にさらした他人をどうすれば信用できるってんだよ!」
怒鳴り散らすリッツォに、リズは冷めた視線を送った。
「……あっそ。信用できないんじゃ、一緒に行動できないね。私は頑張って助けようとしてるのに」
「なあにが頑張ってだ。俺をこんな目に遭わせやがって」
「だからその責任を感じてあなたの村に行こうとしてるでしょ。だけど信じてもらえないんじゃ仕方ないな。バンベルガーさんのとこへは私一人で行くから、あなたは先に自分の家に向かえば?」
「場所がわかればとっくに行ってんよ!」
「でも私のこと、信用出来ないんでしょ? お父さんのこと優先するのが許せないんでしょ? それでも私と一緒に行く気になるの?」
「そういう問題じゃねえよ!」
「それじゃ、何?」
リッツォは歯を食い縛ると、視線を落とし、絞り出すように言う。
「俺は、このまま死んだら自分がどうなんのか、怖えんだよ。お前には怒りしかねえけど、でも、今はお前しか頼るやつがいねえんだ……」
胸中を吐露したリッツォにリズは微笑むと、かがんで灰色の頭に手を伸ばした。
「本当にごめんなさい。こんな不安にさせて……。だけどわかって。私も不安なの。早くしないとお父さんが、死んじゃうんじゃないかって。たった一人の家族だから……」
その言葉にはっとして、リッツォはリズを見上げた。そこには不安を押し隠した笑みがあった。自分は被害者だと怒り、怒鳴り散らすばかりで、相手のことをまるで考えようとしていなかった。この状況は自分も辛いが、リズも同じように辛いのだ。父親の意識を取り戻す方法を探ろうとして失敗し、降りてきた魂には非難され、助けろと急かされる。リズの立場になれば、確かにこれは時間の無駄なのだ。失敗を反省し、怒鳴り声に対応する暇があるのなら、一刻も早く助ける行動を取るべきなのだ。リズは不安も見せず、気丈に助けると言ってくれているのに、一方の自分は被害者だからと怒鳴り放題。大事な命が懸かっているのはどちらも同じことだ。長く意識がない父親を優先するのも、命の危険度を考えれば当然のことだとわかる。それなのに自分はどれだけ横柄でわがままな思考だったか――優しく頭を撫でられながら、リッツォは自分の言動をかえりみた。
「……こっちも、好き勝手言って、悪かったよ。自分さえよければって考えは捨てる。だから、いざって時は父親を優先してくれていい」
「本当に? その時になって文句言わないでよ?」
「言うかよ。……でも、この頭撫でんのには言っていいか?」
「え? 何で?」
「猫の姿でも、俺はお前より年上の人間だ! 不愉快なんだよ!」
「だって、私にはベーラにしか見えないから、つい……」
さらに撫でようとする手からリッツォは素早く逃げた。
「ああ、残念……」
「残念じゃねえ! 次やったらこの爪出すぞ。いいな」
睨み付けながら、リッツォは床に爪を立てて見せた。
「むう、わかったよ……じゃ、おしゃべりは終わり。早くバンベルガーさんのとこに行くよ」
立ち上がり、リズは自分の部屋を出る。
「ゾルタン、私達出かけるから。長くはならないと思うけど、お父さんのことお願いね」
「わかりました。行ってらっしゃいませ」
手を止め、リズにそう答えたゾルタンは、すぐに掃除を再開する。
「あいつ、留守番出来んのか?」
「少なくとも猫よりは出来るから大丈夫」
次にリズはファルカスの部屋をのぞく。
「お父さん、ちょっと出かけてくるね」
静まり返った部屋に当然父親の声は響かないが、リズはにこりと笑いかけ、玄関へと向かった。
「森を抜けるまで迷いやすいから、離れないで付いて来てよ」
「迷子になんてなるかよ。魔術もおぼつかないお前のほうが心配だ」
「あのねえ、お父さんに教わってる魔術は全部完璧だから。出来そこないみたいに言わないで。それと気になってたんだけど、お前って呼ばないでくれる? 首根っこつかまれてるみたいで何か嫌なんだけど」
「なら何て呼べばいいんだよ。半人前か? それとも見習い?」
「名前で呼ぶって気はないの? リズって呼んで」
「ああ、そんな名前だったな」
「私はあなたのこと、ベーラって呼ぶから」
「はあ? 名前で呼ぶってのはどこ行ったんだよ。俺はリッツォだ! そう呼べ!」
「でもあなた、ベーラなんだもん」
「中身は人間だ! 猫じゃねえ!」
「ベーラって呼び慣れた相手を違う名前で呼ぶって、何か変な感じがするんだけど」
「そんなの知るか! 違う名前で呼ばれる俺のほうが変な感じだ! リッツォだぞ。呼ぶ時は絶対にそう呼べよ!」
「しょうがないなあ……見た目はベーラなのに」
「うだうだうるせえ。さっさと扉開けろ!」
「いちいち怒鳴らないでよ。……それじゃ、出発!」
リズは玄関の扉を開く。まだ昼間の時間帯、正面に広がる森には暖かな光が差し込んでいるが、流れ込んできた空気はひんやりとしている。濃い緑の新鮮な香りを確かめるように吸い込むと、リズは枯れ葉に覆われた森へと踏み出した。
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