第11話 二人の答え
午後一時以降の一ノ瀬 涼香は忙しかった。外で干せる洗濯物はベランダに干せない物は室内に分けていた。
一方の猪俣 智司は余りの忙しさにただただソファに座るだけだった。こういう時は黙るに限ると思い込んでいた。本当は手伝いたかったが余りの行動の速さについていけなかった。
一ノ瀬 涼香は意外にも的確に動けていた。どうやら不器用なのは性格のようで家事自体は出来る様子だった。少なからず猪俣 智司からすれば器用な方だった。
完璧にならないといけないと言う重圧が一ノ瀬 涼香を可笑しくさせた要因なのかもと猪俣 智司は思い込んだ。だとしたら猪俣 智司が出来ることは愛の受け皿であり決して愛の鞭ではないと感じた。
何度でも思ってしまう、ここはとことん甘えるのが良いのではと。きっときびしい姑みたいな家系なのだろうと思ってしまう。
これから猪俣 智司は自分のことも考えて行かなければならない。今は絶賛ニート中みたいなふざけた状態だ。生計を立てようと思えばいずれ働かないといけない。果たして猪俣 智司に再起の道はあるのだろうか。
余りの集中ぶりに猪俣 智司の表情は頑なになり浮いていた。
「もしもーし」
猪俣 智司の意識がはっきりとした。急に声掛けした一ノ瀬 涼香のお陰だった。
「私も座ってもいいかな? 猪俣くん?」
洗濯物を干し終わり一ノ瀬 涼香はソファに座りたそうにしていた。
「あ!? お疲れ様! 座りなよ! 一ノ瀬さん!」
急な対応に追われた。もう一人分が座れるように猪俣 智司はソファの端に寄った。
「有難う。猪俣くん。座るね、私」
実にきめ細やかな手順だった。この時の猪俣 智司はそこまで気を遣わなくてもいいのにと思っていた。育ちがいいというよりはしつけのきびしい家だったと感じ取った。
余り気を遣わせないようにと猪俣 智司はテレビをつけようとした。ちょっとでも気休めになればいいとソファの端にあるリモコンに手をつけた。
「このままがいいな、私」
途端に一ノ瀬 涼香が言った。耳に入れた猪俣 智司は受け入れることにした。愛の受け皿になれているかは分からなかった。でもそれでもと割れないように慎重に扱っているつもりだった。
「猪俣くん? 私のこと……どう思ってるのかな?」
不意の一言だった。さっきの表情が裏目に出ていた。まさかここで訊かれるとは思わなかった。もう逃げれないなと思い潔く口を動かし始めた。
「どうって」
駄目だと本当のことが言えないと感じそれ以上の言葉が出てこなかった。変に追い詰めたくないと振る舞うのが精一杯だった。
「私ね。時々ね。自分が分からなくなるの」
一ノ瀬 涼香の本音って時に限り猪俣 智司は自身の語彙力のなさを恨んだ。出てくる言葉が余りに酷く口に出してはいけないと感じ取った。
「でもね! たった一つの出会いがこんなにも私を救ってくれた」
今の一ノ瀬 涼香は濡れた灰色の道しか知らなかった自分を想像していた。でもたった一つの出会いが前を向かせた。それが猪俣 智司との初めての出会いだった。
どんどん色付き始めた鮮やかな景色が広がっていたのを昨日のように覚えていた。それだけでも嬉しかったのに虹の架け橋だ! と言った猪俣 智司がいた。
「あの時は感動したんだよ? まさかこんな私が空の在り処を知ることになるなんて。それも虹が架かるなんて思いもしなかったな、私」
言われなければ分からないことだらけだった。あの頃の猪俣 智司は無我夢中に探究する活発な男の子だった。それがまさか一ノ瀬 涼香を救っていたことになるとは。
「だからね! 頑張れるの! 今度は私が貴方を救う番なの! 猪俣くん!」
人知れず生きることへの愚かさに気付いた。ただ瞳から溢れ出る涙を拭うこともせず聴き入っていた。こんなにも愛されたことなんてなかった。むしろ愛が乾いていたのは猪俣 智司の方だった。
「今になって想うの、感動が初恋だったんだなって。気付いた時には立っても座ってもいられなかったの、私。だからね?」
「有難う。一ノ瀬さん。俺……どうしちゃってたんだろう。さりげない口調で有難う。一ノ瀬さん。俺……ようやく気付いたよ。生きた心地のなさの原因が」
「あは! 同じだね?」
「うん! 同じだ」
見失った景色を取り戻した二人がいた。たとえ時が違っても色褪せない記憶が二人を慰めた。これからも二人は記憶の中で出会い続けるのだった。
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