第9話 言葉要らずな一時
一ノ瀬 涼香は食材がないと買い物に出掛けた。それも猪俣 智司が転寝をしている内に。
時刻はもう昼。普通の人なら昼食の時間だ。
普通に生活出来ない猪俣 智司は昼食なんて取らずにいつも転寝をしていた。日々の過ごし方の一環だった。
一ノ瀬 涼香は風邪を引かないようにソファにあった毛布を猪俣 智司に掛けてあげていた。
そんな昼上がり。
玄関ドアの開く音がした。一ノ瀬 涼香が帰ってきた。
あらゆる物音に気付かない猪俣 智司は起きずに寝息を立てていた。
だが僅かな隙間風に襲われると目を覚まし瞼を開いた。
「さ、寒い」
急に襲われたことで眠気が吹き飛び上半身を起こした。
「あ……起きたんだ。猪俣くん」
猪俣 智司は頭を掻きつつ声のする方を見た。
声からして一ノ瀬 涼香であることに確信を得ていた。
一見すると自前の買い物袋を両手で持っていた。
この時の猪俣 智司は寝惚けており一気に理解することが出来なかった。
ただ分かることは寒いだけだった。
やはりどうして寒いのかも一気に理解出来ずにいた。実に鈍感男だった。
「どうしたんだ? 一ノ瀬さん?」
買い終えたことを察することが出来なかった。
一ノ瀬 涼香は自前の買い物袋を両手で持ったまま笑みを浮かべた。
「やだな。買い物だよ。猪俣くん」
「へ? いつの間に?」
正直な一ノ瀬 涼香を措いて実に鈍感過ぎた言葉を口にした。
いちよう会話に不備はなかった。後は寝惚けが直るのを待つだけだった。
理解力がないのは猪俣 智司の寝惚けのせいだ。
「猪俣くん。私を措いて寝てたでしょ?」
整理整頓の時間がやってきた。確かに猪俣 智司は寝ていた。
一生懸命に理解しようとした。全身に掛けられていた毛布といい状況証拠が物語っていた。
つまり寝ている間に一ノ瀬 涼香は買い物に出掛けていたと。
「ああ!? 俺!?」
ようやく理解した。急に冴えわたるが遅過ぎだった。
「今日はいい天気だもんね! 洗濯物も回し終えたよ?」
「ご、ごめん! 俺……寝てた。ついうっかりしていた」
「フフ。大丈夫。……あ! それよりも――」
小さな笑いで許した。感情は確かなようで一ノ瀬 涼香は自前の買い物袋を床に置いた。
ゆったりとした動きで買った物の中から二袋だけ取り出し猪俣 智司に見せた。
「あ――」
「ね? 食べよ? アイス」
「こんな時間に?」
別に困ったことはないのについ言ってしまった。
こう言われた時の一ノ瀬 涼香は頬に空気を入れ反抗的だった。
でもすぐに頬をしぼませた。全ては一緒に食べたいが為だった。
「たまには……ね?」
「分かった。食べよ。こっちきて」
「うん」
素直になれる仲だけに流れが順調だった。
一ノ瀬 涼香は猪俣 智司の横に座った。
傾けた顔を肩に預けられるほどの距離感だった。
「はい! これ!」
「有難う。一ノ瀬さん」
アイス入りの袋を手にした。
冷たさよりも隣りにいる一ノ瀬 涼香の方が気になった。
「早く食べよ? 猪俣くん!」
「そうだね。一緒に開けようか。一ノ瀬さん」
「うん!」
二人は意気投合しほぼ同時に開けた。
最初に頬張ったのは一ノ瀬 涼香だった。
「美味しい」
「ほんとだ。美味しい」
こんなにも甘い一時に合うアイスがあったなんて二人は感動していた。
二人が出会わなければこんなにも口解けた関係なんてなかった。
言葉は要らないと一ノ瀬 涼香は顔を傾けさせ猪俣 智司の肩に預けた。
「一ノ瀬さん」
もう二人だけの時間がこんなにも愛おしくなるなんて初めてだった。
きっとどんな困難も調子を取り戻せばやり直せると二人は思い合った。
純粋な二人はいつでもこの時間がまたやってきますようにとひた向きに願うのだった。
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