第8話 亀の契り
朝の食事を終え暇な時間が出来た。いつもならスマホで遊んでいる時間だ。
むしろ猪俣 智司は一ノ瀬 涼香がきてから逆に普段の自分を出せていなかった。
なんでもしてくれる。それだけで感謝している。でもなにかが違った。心のどこかにしこりが出来た感じがした。
この時の猪俣 智司は余り深刻に考えず軽く見逃していた。
たとえ将来にわたって尾を引く形になったとしても乗り越えられる気でいた。
それに今の猪俣 智司は現在進行形でしか生きられなかった。
ただいてくれるだけで幸せなはずだとなにも考えようとはしなかった。
優しくされた時の嬉しさが勝っていた。女性の嬉しそうな笑顔ほど輝かしい物はなかった。猪俣 智司のポリシーにそう言った文字の羅列が見て取れた。
一ノ瀬 涼香を見れば見るほどにいかに自分自身が救われたのかが分かった。
だからこそに猪俣 智司はしこりを覚えても考えようとはしなかった。
いくら見ても一ノ瀬 涼香は天使のようで今も懸命に洗い物をしていた。
余りに暇で手伝おうかと問い掛けても首を左右に振ってきた。
この時の猪俣 智司はきっとこの生き方こそが一ノ瀬 涼香の天職なのだろうと腑に落ちていた。
なにもすることがない。いや。慣れていないだけかと思い始めた。
カーペットの上で胡座を掻くだけでもうなにもすることがない。テレビは後ろだし仕方がないのでここは思いきって一ノ瀬 涼香に質問を投げ掛けることにした。
「一ノ瀬さん! あの! 話し掛けてもいいかな?」
「いいけど……どうかしたのかな?」
洗い物をしながらの返答に猪俣 智司は良かったと思った。
「あのさ。一ノ瀬さんはどうしてそんなに天使なの?」
「天使……か。尊い表現だね。でもね。そんなんじゃないんだ。私ね。片思いの底力に目覚めただけなんだよ。こんなにもしてあげたいって思えるのは変かな?」
一ノ瀬 涼香の片思いは許嫁として解決していた。まさに許嫁になれたことに嬉しさ倍増だったのだろう。原動力は得たのだから後はフル稼働するだけだった。それが今の一ノ瀬 涼香であり自分を保っていられた。
「恋の暴走……か。有難う。一ノ瀬さん。答えてくれて。変じゃないからね」
この時に猪俣 智司はやはり真剣に愛で受け止めないと一ノ瀬 涼香が起こした恋の暴走は止められないと思い始めた。
今までの独り善がりな生活に終止符を打ち猪俣 智司は一ノ瀬 涼香を愛しようと思い込んだ。ただ一つしかない愛をクッションのように使おうとした。
ただのニートでいたくないと頑なに猪俣 智司は心の底から誓った。自分の許嫁である以上は心構えが必要だった。
「恋はいつだって盲目だよ? だからね? 道標になってほしいの。私を導いてほしいな。猪俣くんになら委ねてもいいって思えたんだ。行き着く先までよろしくね? 猪俣くん」
「一ノ瀬さん」
凄まじい発言に猪俣 智司のやる気は底上げされた。こんなにも自分のことを想ってきてくれたんだと心の底からやる気が溢れ出てきているのが分かった。
溢れ出るやる気がもったいないと猪俣 智司はひたすらに考えることにした。天使に依存している自分を最低と思わずむしろ邁進することにした。
そんな気持ちを猪俣 智司は一ノ瀬 涼香に伝えたかった。こんなにもふて腐れた自分に奇跡の光が差し込むなんて夢ですらなかった。紛れもなくここは現実だった。
「俺。頑張るよ、更生して。今はまだ頼りないだろうけどいつか――。いつかきっと一ノ瀬 涼香を幸せにしてみせるよ」
「うん! 約束だね。亀の契りだね。フフ」
「ああ! 俺達には俺達なりのペースがある! どんな兎が現れても! 俺達なら乗り越えられるよ! 絶対に! だから! 勝つよりも負けないを目指そうよ! 一ノ瀬さん!」
「兎が勝つなら亀は負けない……か。猪俣くん! 面白いね! それ! 私達にピッタリだよ! 絶対に!」
「有難う! 一ノ瀬さん! 俺……頑張れる気がしてきたよ!」
「フフ。どういたしまして。同じ亀ですから」
一昔前の猪俣 智司は果てしない空の広さに圧し潰されそうだった。だが今はどうだろうか。すっかり自分を亀だと思い込むようになり負けない思考を得た。
だけどまだまだ二人の物語は始まったばかりだ。もしかしたら亀ならではの不可能に直面する場合だってあった。
果たして今を乗り越えるだけで精一杯の二人に将来はどう転ぶのだろうか。それは邁進しないと分からないことだった。
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