第32話 岡引一心警察に遅れを取る
階下から丘頭警部の「おはよう」という大きな声が聞こえてきた。そして階段をタタタッと軽快な足音を立てて上がってくる。
「いるか~」声まで軽やかに弾んでいる。
一心は事務所のソファでコーヒーを啜りながら新聞に目を通していた。
「どうした、彼氏でもできたか?」珍しい丘頭警部の様子にバカを言う。
「へへっ、それよりもっと素敵なことがあったのさ。聞きたいか?」
ここで聞きたいと言わないとへそを曲げられるので、「おう、是非」と取り敢えず流に乗ってみる。
「椋の幼少期、何処にいたか分かったのよ」
後ろから一心の両肩をポンと叩く、子供がクリスマスに欲しかったゲームソフトを買ってもらった時のように丘頭警部は上機嫌この上ない。
「何? 警部もそっちの捜査してたのか?」一心は聞いてなかったので本当に驚いて振向いた。
「へんっ! そうよ課長に内緒で数名で2か月かかったけど見つけた」丘頭警部は珍しく鼻を高くして胸を張る、それもとても可愛いとは言えないウインク付きでだ。
「俺らも調べたがまだ見つかってなかった。何処にいたんだ?」
「それがさ、さいたま市の児童養護施設に3歳までいて、埼玉県草加市谷塚の東部スカイツリーラインと日光街道に挟まれた住宅街の戸建て住宅で二人暮らしをしていた高屋敷孝悦、すみれ夫妻の養子になってたのさ。姓も名も違うからいくら探したって見つかるはずないのよ」
ソファに対座して訊いてもいない住宅の位置まで説明するが、肝心な名前を言ってない。
「埼玉か、全然調査の範囲外だ」
一心は警察に負けて悔しかった。自宅のドアを開けて家族全員に「すぐ事務所に来い!」と叫んだ。
全員が揃ったところで丘頭警部からの報告を伝えると、これまでに同じ捜査で警察に負けたことはそうは無かったので、皆してやられた感を身体全体で表す。そしてぶつぶつと不満を口にする。
「で、その高屋敷の夫婦に会って来たのか? 名前は椋のままだったのか? 綱紀だったのか?」
美紗が興奮気味に頬を染めて丘頭警部に強い視線を向けて矢継ぎ早に質問を飛ばす。
丘頭警部はどこまでもにこやかに応じる。
「いや、養父母には会ってない。というか、もう会えないのよ。18年前、椋が高校に入学したころ交通事故で一遍に二人とも亡くなっているのよ。で、名前は、さとるって、立心偏にわれ……ん~漢数字の五の下に口って書くやつさ、そういう言う名前だった」
聞いてた一心たちは夫々掌や空中にその字を書いてみる。そして頷く。
「警部、それ本当に事故なんだよな」
一心は二件の殺人事件を思い浮かべるとき、二度あることは三度あるという諺が脳内を過ったのだ。
「そう、事故の調書によれば交差点での事故で、その夫婦の信号無視のようね。目撃者が四人もいたのよ。だから間違いないと思うわよ」
「そうか、それならいいんだが、二度あることは三度あるって言うからよ」
誰かのケータイの着信音楽が流れた。
全員自分のかと思ってケータイを取り出す。
丘頭警部のケータイが鳴っていた。
「はい、……」席を立って部屋の隅っこへ行ってやや暫く話をしている。真剣な眼差しだ。
戻ってきた丘頭警部が「話し中ごめんね。今、椋のいた施設の坂本さんという人からの電話だったの。思い出したことがあるって、で、ちょっとだけ聞いたら、以前に私と同じことを聞きに来た男性がいたと言うのよ、黒スーツで身体の大きな人だったって。椋の養父母の名前を訊かれたけど言わなかったそうよ。でも、警備会社の月例報告を受けた時、『3月23日の深夜1時から30分間警報を切りましたね、正確には24日午前1時なんですが』と確認されたらしいの。その日はその男が訪ねてきた日だったのよ。坂本さんはそんなことはしていません、と答えたら、相手は不思議そうな顔をして、『セキュリティカードや鍵が無いと警報は解除できないのですが、それらを使った解除だったので我々としては問題視しなかったんです』と言ったらしいの。それでその後養父母の名前の入ったファイルが気になって確認したら、高屋敷さんの資料だけ上下さかさまにクリアブックに仕舞われていたみたいなの。つまり誰かが忍び込んで養父母のファイルを見て元に戻して立ち去った、としか考えられないというの。どう、気になるでしょう?」
確かに気になる出来事だ。
「それって、養父母の亡くなる前か?」
「そうなのよ、事故の2か月前の3月の話よ」
「警部、その調書見せてくれ」
「一心、交通事故が偽装だとでもいうの? 目撃者が四人もいるのよ」
「わからん。わからんが、警部、余りに都合が良すぎないか? 実子だと思っていた綱紀を追い出して、実子の椋が施設にいて養子になったことを突き止め、且つ、氷見らがその養父母の名前を知った可能性が高い。そして間も無くその養父母が事故死する。それで椋を舛上家に迎え入れることができた。世の中そんな美味い話は無いって」
「そやねぇ、話ができすぎちゃいますか? 桃子はん」静が身を乗り出して口を挟んできた。子供達も皆頷いている。
「静も皆もそう思うならそうなのかもね……そうすると施設に行った男性は氷見さんね。話を訊きにいきましょう」
一心は頷いて立ち上がった。
「静、お前たちは交通事故の調書を浅草署から借りてきて、目撃者と当事者を調べてくれ」
一心は氷見のケータイを鳴らした。呼び出し音がしばらく続いて本人が出た。
用件を話すと、間も無く役員全員と紅羽夫人との臨時の役員会が始まるので、それが終わって夫人を自宅へ届けるまでは持ち場を離れられないと言う。
それで会議終了後に電話を貰う約束をする。
「警部、そういう事だから後で連絡入れるわ」
「わかった、じゃぁ私一旦署に戻って調書のコピー用意してあげる。できたら電話入れるから取りに来てくれるかしら?」
昼過ぎに丘頭警部から電話が入り数馬が飛び出していった。
数馬が持ち帰った交通事故調書を見ると、相手の運転手徳山玄は相手方の信号無視があったとしても交差点内の安全確認が充分だったとは言えないとして刑務所に2年程入っていた、がすでに出所している。目撃者の4名も事故の当時者には面識はなく、住所もばらばらで直接的な利害関係はないと書かれていた。
午後3時過ぎに丘頭警部が再び事務所に来た。
「そろそろ氷見から連絡がはいると思ってさ」そう言って静が淹れたコーヒーを啜る。
「ついでだけど、海陽殺害に使われた炭酸ガスボンベを販売元から追っかけたら、個人での購入者が11名ほど浮かんできたのよ。で、その購入者を一人ひとり洗ってるから、そっちの線から犯人が浮かんでくるかもしれない」その辺の捜査は警察ならではだ。自慢げな丘頭警部の表情が憎たらしい。
「ほ~、でも犯人なら匿名、偽名で買うんじゃないか?」
「お金が絡んでるから時間はかかるけど本人は突き止められるのよ。重要な証拠になる」
「まあ、そうだが、警察力の見せ所だな」一心がにたりとすると丘頭警部が「あらぁ、警察を信用していないって顔してるわねぇ」と絡んでくる。
「そんなことはないさ、一歩一歩捜査網が狭まっているってことだろう」
「そうよ、絶対に犯人を逮捕する」
一心のケータイが鳴った。氷見だ、今帰宅中だと言う、午後4時に舛上宅の中央の来客用の応接室で会いましょうという事だった。時計を見るともう良い時間になっているので丘頭警部を促して事務所を出た。
4時少し前、二人は舛上宅の応接室でコーヒーを啜っていた。
少し約束の時刻を過ぎてから、氷見が遅くなりましたと言って対座する。
「さいたまの児童養護施設に行ってきました」
氷見は「施設」という丘頭警部の言葉に反応し眉をピクリと動かした。
「その様子だとあなたが椋さんを探してそこへ行ったんですね」正視されて氷見はとうとう発見されてしまったかという半ば諦めの気持からか、ふふと鼻で笑って頷いた。
「坂本施設長はあなたには養父母の名前は教えなかったと言ってましたが、どうやって高屋敷さんの名を知ったのかしら?」
氷見は、今度はふふふと低く声を出して笑う。
「警部さん、言わせないで下さい。もう確認済みなんでしょ」
丘頭警部はそれには答えず、ふふと鼻で笑って見せる。
「あなたは養父母の高屋敷さんと悟さんに会いに行きましたね?」
「私がしたのは、そこにいた『さとる』という子供の毛髪を頂いて社長に差し出し、椋さんを発見したと報告しただけです」
「ほ~、後は海陽さんがDNA鑑定して実子かを確認したんですね?」
「私は、関わっていないのでその後どうしたかは奥様にお聞きください」
氷見は長く沈黙を守ってきた椋の秘密がばれ、しまったと言うより、返って楽になったという気持が強いのだろう、顔の強張りが解れたようだ。
「じゃ、高屋敷ご夫婦の交通事故について知っていることを話してくださる?」
「高屋敷悟さんを舛上椋としてお迎えに行ったときに、位牌があって亡くなったことを知りました」
氷見は庭の桜の木を遠い目で見詰めながら続けた。
「その時椋さんが倒れ、救急搬送したんです。食事を四日間していなかったようで、脱水症状もみられ危なく餓死するところだったと医師が言っていました」
「何故そんな事に?」一心は15歳の子供に氷見らが何かしたのかと思った。
「養父母が亡くなったショックと先々の不安から、死のうと思っていたと後になってお聞きしました」
「ふ~ん、で、それで退院して真っすぐ舛上家に入ったんだ」
「家に帰っても一人ぽっち、食事もままならないし、学校へ行くことも叶わない。それなら、と決心されたようです」
「その位牌や家はどうしたんだ?」
「社長が、遺骨や位牌はさいたま市のお寺に収め、家は売却しました。社長は高屋敷のことを忘れさせたいんだと感じました」
何か舛上海陽にとって都合の良いように話がどんどん進んでいくような気がしてならない。
「海陽さんは高屋敷さんに会ったんだろうか?」丘頭警部は質問を一心に任せ手帳のページをめくり頻りにボールペンを走らせている。
「えぇ、私が何回もお送りしましたので会っているはずです」
「だろうな、で、どういう話があったんだろう?」
「話の内容は分かりませんが、玄関から出てきた社長はいつも肩を落して寂しそうでした」
「その内例の交通事故が発生した、ということだね」
氷見は、その通りだと頷いた。
「あんたはその事故に関わっていないと言い切れるか?」
「あれは事故だと聞いています」氷見はむっとした表情をし一心を睨みつける。
一心はそんな氷見を横目で見ながら丘頭警部に目顔で「もう質問は良いな」と確認をし、氷見に礼を言い、続けて奥さんは居るかと訊いた。
氷見はいきなりの面会要求にまたむっとした表情を浮かべ、「訊いて来ますのでお待ちを」と言って部屋を出て行った。
「こっから電話で訊けばいいのにねぇ」丘頭警部はあっけらかんとして窓の外に目をやる。
ややあって姿を現した紅羽夫人は、相変わらずお洒落で気品のあるワンピースをまとっている。
「いらっしゃい、丘頭さん、岡引さん」
「突然、済みません。ちょっとお訊きしたいことができまして」丘頭警部は思わせぶりな笑みを浮かべて視線を夫人に向ける。
「どんなことでしょう」夫人は冷静さを保とうとしているようだが頻りに瞬きをしていて心が揺らいでいるようだ。
「椋さんの中学生までの所在が判明したんです。『高屋敷悟』と言ったら良いでしょうか? それとも『坂本悟』でしょうか?」
夫人はその名前を聞いて、ふーっと大きくため息をついた。
「そうですか、流石に警察ですね。いつか分かるとは思っていましたわ。でも外部にはくれぐれも漏らさないで下さいね。特に舛上家の親戚筋には、ね」
夫人は頭を深く下げてその秘密が舛上家にとっていかに重要な事なのかを示そうとしているように見えた。
「はい、それは心得ていますので、ご心配なく」
丘頭警部は相変わらずさらっと受け流す。
「それが分かって、さらに私に何を訊こうというのですか?」
夫人はもう隠しごとは無いとでも言いたげな雰囲気を醸し出し、身を乗り出して警部を凝視する。
「奥さん、高屋敷さんの家に行った事はあります?」
「いえ、ありません。住まいの場所も知りませんもの」
「椋さんに始めてあったのは何処で?」
「病院です。主人に本当の椋を見つけたと言われて、連れて行って貰ったのが病院だったんです。可愛そうに頬がこけて点滴をされていて眠っていました」
「言葉は交わされたんですか?」
「いえ、話をしたのは椋がこの家に来てからですわ」
「椋さんの養父母の交通事故のことはご存知ですか?」
「それを知ったのは椋がここに住むようになって、少しずつ話をするようになり椋から聞きました。可哀そうだと思って一緒に埼玉のお寺までお参りに行きましたわ」
「椋さんと話してどんな感じでした?」
「全体的な容姿の印象は、それまでに聞いていた主人の子供の頃の話と似ているなって思いましたね。私には唇の格好が似てるなと思いました。性格はまさに主人の子供のころそのままのようでした。もっと一緒に長く暮らしていたら明るく快活な子に育だったはずなのにと思いましたわ」
「すぐに愛情とか湧いてきました?」
「それは無理ですわ」夫人は小さく笑った。
「知らない子が突然家に来てあなたの産んだ子よって言われてもねぇ、時間は掛かると思ったし実際そうでした。どうして主人があんなに目の色を変えて椋を探したのかわかりません。私は佐音綱紀と15年も一緒に暮らしたんだから、そのままで良かったんじゃないかと今でも思ってます。
中学校に入るまでが親子で一緒にいる時間も長いし、手が掛かるほど情も熱く強くなるし、色んな出来事を通して太い絆も生まれると思うのよねぇ」
「そうですね、乳児から幼児へ、そして児童から少年への育ち盛りの時期だから思い出も一杯で来ますもんね」
「え~、人参嫌いの綱紀に何とか食べさせようと、すりおろしてカレーに入れてみたり、ピーマン嫌いだから小さく切って炒め物にいれたら、綱紀が何度も摘んでは落してまた摘んでを繰返しながら必死になってお皿の端によける姿見てたら可愛そうになっちゃって、一緒になって私もお箸でよけてあげちゃったりして……ふふっ、バカみたいよねぇ」
一心は、夫人は椋の捜索や高屋敷夫妻のことについて関わっていないという印象をもった。帰りがけに警部に感想を訊くとやはり同じだった。綱紀に対しては何処にでもいる普通の親ばかな母親の姿だと丘頭警部は言う。だから、椋が自分の産んだ本当の子供だと知っても、策を弄してまで自分のモノにしようとは考えないだろうと言うのだ。
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