第18話 岡引一心過去の殺人事件を調査

 翌日、一心は丘頭警部と算部産婦人科医院に算部聡一院長を訪ねる。院長は70間近な爺さんになっていて、診察を娘に引き継いで自分はサポートに回っているようだ。

「お待たせしました。院長の算部です」

応接室に姿を現した院長は怪訝な表情を浮かべどっかと腰を下ろした。

警部が手帳を見せて自己紹介したあと、一心は名刺を差し出した。

「20年ほど前の事になりますが、こちらの医師だった山下啓介さんはいまもいらっしゃいますか?」

一心は早速本題に入る。

「山下ですか? ……あれは腕の良い産科医だったんですがその頃事件を起こしましてなぁ、辞めて貰いました」一瞬残念そうな表情を浮かべたが、昔し話に何故警察が来るんだと言いたげに丘頭警部の方へ視線を走らせる。

「事件と言いますと?」

「奥さんが病院に怒鳴り込んできまして、私が取り敢えず話を訊くと、ここの看護師の飛田寿々というのと不倫していると言うのです」院長は年のせいかのんびりとした口調で思い出しながら語る。

「事実で?」

一心が美紗から貰った資料に目を走らせるとそこに同一の名前が書かれている。

「はい、奥さんが探偵を使って調査したみたいで写真を持参してまして」

「それで、医師を解雇したんですね。で、看護師の方は?」

「勿論、辞めて貰いましたよ。ただ、彼女は病院には迷惑かけてないし、ここからは個人の問題だからと言って、暫くしてから訴訟を起こしたんですよ」

そこまで喋って院長は当時を思い出したのだろう、ため息をつきお茶を啜る。

「ふむ、その訴訟って慰謝料請求ですか?」

一心の問いに院長は頷く。

「そこから先は病院は関係ないので知りませんが、噂では山下医師は飛田看護師に慰謝料を払って妻とも離婚し、北海道のどこかの産院で働いていると聞きました」

「なるほど、警部それじゃぁ脅迫のネタになりませんね」

「そうね」

「はっ、お話の意味が分かりかねますが?」

「いえ、こっちの話です。その話は分かりました。もう一つ、医療事故についてお聞きします」

一心がそう言った途端に算部院長の顔色が変わる。

「20年前こちらの病院に勤めていた鳥井唯さんという看護師さんが起こした医療事故のことです」

はっきりいうと院長は目を丸くして驚きを露わにする。

「どうして、今頃……」

「その鳥井唯さんが被害者となった強盗強姦殺人事件を調べてるんですよ。それで最近どうやらこちらの病院に医療事故があって、それをネタに鳥井さんが誰かを恐喝、そのためにその相手に殺害されたという線が浮かんできたものですから。院長! こちらには医療事故が起きたという確かな証拠もあるんですが、警察が表だった捜査に入る前に院長自らそれを認めてお話頂けませんか?」

一心は可能な限り強い眼差しを送り威圧するような口調で喋ると、院長に逡巡する姿が見えていたが、やがてそれも消え覚悟が滲んできた。

「わかりました。当時、私も随分悩んだんですが、結局有耶無耶にしてしまったんです。忘れもしません、あの患者は子宮癌でした。ですからご主人にも、命の危険を十分に説明していました。それで手術に同意書も頂いて、当病院の医師3名で、3時間ほどの開腹手術を行いました。すべて順調でしたが、出血が多く血圧維持の処置を施しながら、ICUに入った翌日の未明でした、血栓予防の点滴をするところ、血圧の降下剤を投与してしまったんです。血圧が下がっている患者に、そんな投与をするなんて、あり得ない間違いです。点滴の大きさも、形も色も違うんです。他の看護師に訊くと、どうやら鳥井看護師は、連日夜遊びをしていたようだというので、本人に糺したら、ホスト遊びをしていた、と告白したんです。

 当時は、まだバーコードでチェックするなどの、コンピューターシステムを導入していなかったので、すべて目視確認だったんです。この事件のあと直ぐに、そのシステムを導入して、事故が再び起きないような、対策は講じたのですが、申し訳ないことをしてしまった」

院長は話している途中で何度も言葉を切って魚のように大きく口を開けて息をし、喋り終えると大きなため息をついた。

「今となっては忸怩たる思いです」

そう付け加えて院長は眉の端を下げて目を伏せる。

「それで、院長が内密にしたことを鳥井が逆手にとって脅迫してきたということですか?」

院長は丘頭警部の質問にはっと目を見開き顔を上げる。

「どういうことですか?」

「ですから、鳥井唯は、院長が医療事故を内密にしたことを逆手にとって、あなたを脅迫してきたのか? と訊いているのです」

「はっ、脅迫って本人が私を? ……そんなことしたら看護師の資格をはく奪され仕事ができなくなりますよ。私らは道義的責任とか患者への賠償という問題は起きるでしょうが、脅迫されても応じることは考えられませんね」

「そうでしょうか? 40代の女性が恐喝で数千万円を手にできるとしたら、そのくらいの覚悟はできてると思うし、そんな事件や隠ぺいの事実が公表されたら病院に来る患者がいなくなるんじゃない?」丘頭警部はにたりとしてと反駁する。

「じゃ、じゃぁ警部さんは私が鳥井唯を殺害したと言うのか?」

院長は険しい顔をして心外だと言わんばかりに警部を睨みつける。

「あなたが殺害したとまでは言ってません。脅迫された可能性は消えていないと言ってるだけです」丘頭警部は平気な顔をして返す。

「ばかな! そ、それじゃ、鳥井唯が殺されたのは何時ですか?」

どこにこんなエネルギーが残っていたのかと思わせるほど院長の声に張りと迫力があって一心は驚いた。

「署に確認します」丘頭警部はケータイを取り出した。

 

 5分程して警部のケータイの受信音が沈黙を破った。そして警部は窓際まで行ってなにやら話をしている。

「20年前の8月29日日曜日午後7時前後1時間が死亡推定時刻です」

院長は丘頭警部の言った日付を繰り返し呟きながら応接テーブルに並べられている医療日誌からその日付を探す。

ややあって「その日付ありました……え~と、その日は午後5時3分に女の子が生まれてます。担当医師は私になっていますから、これをみて下さい」

丘頭警部に医療日誌を差し出す。

「なるほど、確かに5時3分に病院にいたことは間違いないようですね」

一心も日誌を覗き込むと確かにそう書いてある。院長は勝ち誇ったように微笑む。

「ですが、午後8時頃の記載はありませんから、午後7時に病院を後にすれば十分犯行の時間はありますよね」

「あんた! この世に新しいい命を誕生させた後、すぐにこの手で人を殺すなんて考えられない。何年産科医をやっていても都度感動するもんです。家族の喜びの涙をみたら自分ももらい泣きしてしまうほど感動的なもんなんですよ! 出産という命がけの作業は!」丘頭警部の話を聞き終わった途端、激しく言葉を返し、肩で息をしている。とうとう算部院長を怒らせてしまったようだ。

「院長! それだけ産院というお仕事に誇りと責任をお持ちなのに、どうして医療事故を隠したのですか?  今からでも遅くない。亡くなった方のご家族に謝罪しすべてを公表したらどうです? 私は職責上知り得た医療事故について警察としてどうするのか上司の判断を仰ぎたいと思っています。その結果を待っても良いし、先に公表に踏み切ってもよろしいですわよ」

一心は、警部には警部の信念があって無暗に院長を追詰めるようなことを言ってる訳じゃないんだと理解した。

応接室をしじまが襲う。

 院長は冷や汗を流し、頻りにそれを拭っているが、丘頭警部に返す言葉が見つからないようで目が散って顔色も失っている。

そんなしじまを丘頭警部が切り裂いた。

「院長、その患者のカルテなどを見せて下さい。医療事故の捜査の一環としてお願いしていると思って頂いて構いません」

院長は焦点の合わない視線を空中に走らせたまま、何かを呟きながら部屋を出て行った。

 一心は応接室に丘頭警部と二人になったところで「警部、随分厳しいですね」と言うと「一心、患者が死んでるということは、事故じゃ済まないのよ。過失致死、傷害致死、殺人ってこともあり得る訳でしょう。私らが厳しい目で見ることが医療現場の信頼性を高めることに繋がると思わない?」

「そのとおりだ。流石警部だ」

「分かればよろしい」丘頭警部はそう言ってくすりと笑った。

 

 やや長い間を空けて院長が患者のカルテを持ってきた。

一心がそれを受取り目を走らせると、患者氏名欄に長野小百合38歳と書かれていた。死因は心不全とされている。

患者の夫は長野匠38歳で当時の住所は浅草になっていた。

「院長、旦那さんにはどういう説明をしたんだ?」

一心が糺す。丘頭警部もさっと目を通し院長に顔を向ける。強い気概を感じる、とことん調べる気のようだ。

「手術時に出血が多く輸血もして最低血圧を維持した。ICUへ移してからも輸血を継続しつつ血圧を上げる処置をしていたが改善せず、降下し続け心不全に至ってしまった。全力を尽くしたが力及ばず申し訳ない気持ちで一杯です、とお詫びしました」

「それで、旦那さんは何と?」

「そうですか、色々手を尽くしてくれてありがとうございました、と仰いました」

「それじゃぁ、医療ミスとかを疑う素振りは無かったという事ですか?」

「はい、それで私らもホッと胸を撫で下ろしたような訳です」

その言葉を聞いた途端、丘頭警部は一心以上に強い義憤を感じたのだろう表情が変わった。

「貴方には医師の資格は無いようですね! 患者を死なせて、家族が何も言わなければそれで良しとするなんて考えられません! 道徳心もコンプライアンスもあなたの中には無いということですね。ばれなきゃ良いというのは殺人者と何も変わるところが無いじゃないですか!」

丘頭警部が応接テーブルを激しく叩き、厳しく指摘すると院長は肩を落とし小さく「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。

「この件、医療安全機構に通報し第三者による調査委員会を立ち上げることになると思いますよ。私らは上司への報告を粛々と行うだけです。そして殺人の可能性がありますから被害者のご主人に会って色々お話を伺います」

院長はただ黙って丘頭警部の話を聞いて項垂れていた。

「院長! 被害者の旦那さんが警察から話を聞く前に、院長が先に謝罪した方が良いんじゃないか? どうだ院長?」

院長は告白しようと考えているのか、この難局を何とか乗り越えようとしているのか、うん、とは言わずに目を散らせ黙りこくっている。

 一心は丘頭警部に目顔で、次の質問に移ろう、と言い、それまでに院長が出した資料を一心の横に置いて、「これ借ります」と告げる。

 

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