第10話 丘頭桃子警部の捜査(その3)

 舛上紅羽は夫を亡くした時点で58歳、旧姓は五条といって平安時代の公家にその祖先を持つ由緒ある家柄のようだ。大正時代に私立の庶民向けの銀行を設立し、現在では日本民衆銀行として国内外に支店を持つ都市銀行として知られている。

 紅羽は幼稚園から大学まで一貫したお嬢様学校を卒業している。

そんな紅羽と被害者との関係を聴取するため丘頭警部は田川刑事を連れ家政婦の戸林恵子のアパートを訪ねた。

「こんにちわ~お電話した丘頭です」声を掛けると明るい返事が聞こえドアが開いた。

「すみません。お休みのところ、お話いいですか?」

警察手帳を開いて見せると戸林はそれを一瞥してちょっと緊張気味に「はい、どうぞ」と言って二人を室内に案内した。

 居間と台所が一緒になっていて他に2部屋あるようだ。自動車修理工の主人と中学生の娘との三人暮らしだと言う。

勧められた食卓椅子に並んで座る。台所も部屋も綺麗に片付けられていて、出窓のスペースには可憐な小さな花弁をつけた名前の知らない花が鉢に植えられている。戸林は休日とあって上下スウェットを身に纏い化粧気無しでショートヘアには寝癖の痕が残っている。

「あのう、舛上さんご夫婦のことについてお訊きしたいのですが?」

「奥様は優しいかたで、私たちにも良くしてくれますが、旦那様は私たちに道具か機械のような正確無比を求め、ちょっとでも仕事が遅かったり間違ったりしたら、ひどく怒鳴られるんでいつもびくびくしてるんです」淡い緑色の銀杏の絵柄の入った透明なグラスに氷を浮かせた麦茶を食卓テーブルにすっと並べながら対座する。そして紅羽の話をする時には顔の強張りが解れ笑みを浮かべるが、海陽の話を始めると眉根を寄せる。その表情の変化だけでも舛上夫婦の性格が良くわかる。

「なるほど、ご夫婦の仲はどうでしたか?」

「奥様は以前旦那様とは親同士が決めた政略結婚だったと仰っていて、椋坊ちゃんが生まれてからは子供の為と割り切ったご様子で、ご主人の不倫にも苦言を呈したことは一度もないんですよ」ちょっと言いにくそうにしていたが奥様には内緒でと言って手で口元を隠しながら話してくれた。

「へ~ご主人は良く不倫を?」

「え~、時々というか長く付き合っている方や、その場限りみたいな方や色々です」

「それを奥さんが気付いても何も言わないのですか?」

「はい、ワイシャツについた口紅や彼女からのプレゼント、ラブホテルのマッチなどを旦那様は全く気にせずリビングのテーブルの上にぽんと置くんです。私たちは急いで隠すんですけど、奥様はそれらを見つけても顔色一つ変えず私らに処分してと笑って言うんですよねぇ」

戸林は両の手をテーブルに投げ出して呆れた風な表情をする。

「じゃあ、喧嘩したことなんかないのかなぁ?」

「ん~、昔、椋坊ちゃんが高校に入学したころ三人で大声で怒鳴りあったことがあると聞いています。私はそのことがあってから2年ほどして家政婦として舛上家に入ったので、詳細は分からないんですけど」

「高校入学といったらもう17年ほども前の話ですもね、事件とは結び付かないなぁ」

聞いた限りでは妻に夫を殺害するような動機は見当たらないが、まだ隠れた動機が有るかも知れない、簡単には判断できない。そんなことを考えていたらそれが表情に出てしまったのか「刑事さんは奥さんを疑ってるんですか?」心配そうな表情を浮かべ訊いてきた。

「いえ、まだ誰かを疑うとかいう所まで捜査は進んでいないんです、情報収集といったところなんですよ」

そう言うと戸林の心配が少し和らいだのか眉を伸べる。

「奥さんの就寝時刻と起床時刻わかりますか?」

「毎日夕食の後、8時頃に飲み物と多少のお夜食をお部屋にお持ちするのですが、事件の日も普段と変わらず寛いでおいででした」

「その時の様子は?」

「普段通りでした。お持ちした紅茶をお飲みになりながらテレビをご覧でした」

「翌朝は?」

「朝は、8時少し前に連絡が入りお食事をダイニングにお持ちしました。その時には既に奥様はお席についておいででした」

「その時の様子は?」

「普段と変わりませんでした。……そうそう、庭の草花や木々が濡れているのに気が付かれて、夕べ雨でも降ったのかしらねぇ全然雨音しなかったのに、恵子さんは気付いてました? とにこやかにお話をされました」

「朝食のメニューは?」

「特に言われない限りは、トースト1枚にサラダとヨーグルトにコーヒーをお召しになります」

「その時も完食しました?」

「はい、奥様は、残すのは作った方に申し訳ないので、と仰って必ず完食されます」

「ご主人とは一緒に食事をしないのかな?」

「はい、偶々時間が重なることはありますが、ご注文も別々ですし」

「ご主人の食事時間は?」

「区々です。ゴルフで早いときは前の日からサンドイッチとかおにぎりを作り置きして、それを持って出かけますし、平日会社へ行かれるときは8時から9時の間くらいですねぇ。休日は朝食を取らないこともあります」

「なるほど、それじゃ、8時に食事をしていた奥さんが、ご主人の姿が見えないことに特段異変を感じることは無いということですね」

「はい、そう思います。私らもあの時まさかご主人が亡くなっていたなんて想像もしてませんでした」

「そのほか、奥さんの得意とすることや苦手なものなんかありますか?」

「はい、以前から奥様は科学や物理といった理科系の科目は苦手でと仰っていて、今回の件でも刑事さんによって二酸化炭素中毒と言ったりCO2中毒と言ったりするので、私に主人は二酸化炭素中毒なの?CO2中毒なの?どっちなのと訊かれたので、CO2って二酸化炭素のことです、と教えて差し上げたくらいです。それと、奥様はペットボトルのキャップが開けられないほど力が弱く、私もキャップを開けてと呼びつけられたことが何回もあるんですよ」

彼女はクククと笑って教えてくれた。

奥さんは身長149センチ体重45キロほどだと家政婦がいうとおり、見るからに華奢な感じでとても15キロもあるボンベを持つことはできないだろう。

 ただ、誰かに命じて殺害することは可能だろうが、その場合実行者は秘書らだろうというのが捜査会議での結論だが、第三者の場合もあり得るので紅羽から大金がどこかに流れていないかも捜査し続けることにしている。

 6名の秘書のうち当日宿泊したのは2名で、聞き取りによれば海陽から特別の指示は無く夫々自室で休んでいたという。ここ数年を調べたが今のところ秘書6名の口座に大金が振り込まれた形跡はない。

「戸林さん、秘書の氷見さんがたはどうして舛上宅に泊まり込みまでしているんでしょうね?」

「私にはよくわかりませんが、会社にはきちんとした秘書さんがいるらしいですよ。ここにいる秘書さんはボディーガードの役割も果たしていると噂してます。それに、ちょっと言いずらいんですが……」

そこまで言って戸林は黙り込んでしまった。丘頭警部を見る目が散っている。言って良いものか迷っているようだ。

「口外は絶対しませんし、きちんと裏をとりますから間違っていても大丈夫ですよ」

戸林は丘頭警部を数拍の間見詰めて、一旦視線を落し考えている風だったが、やがて話す決心をしたようで視線を戻し丘頭警部を正視した。

「彼らは、陰で色々あくどいことをしていると聞きます」

「例えば?」

「噂ですけど、競合する会社の社長さんの女性関係とかの弱みを掴んで、匿名で社内や奥さんに証拠の写真をばら撒いたり、飲食店街でわざと喧嘩をして怪我をさせて入院させたり、官僚に競業会社の社員の振りをして賄賂を贈ってその写真をばら撒いたり……そういうことです」

「なるほど、そうやって他社を蹴落として成長を続けてきたってことですね。酷いですね」

想像以上の悪事を働いてるってことになる。そんな陰の仕事絡みで恨みを買った可能性も出てきた。捜査の必要性を感じる。

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