19 自覚と兄と変わらない価値観

 あの後、我ながらどうにも頼りない足取りで家に辿り着いた頃には、月が高い位置に昇っていた。

 日が落ち、月が昇っていったスピードと反比例するように、雨は少しずつ小降りになっていたが、明日晴れるかどうかは微妙だろう。


「……ただいま」


 心に掛かる雲が、言葉の切れを悪くしている。

 その自覚もそこそこに、答を返してくれるか存在がいるかどうかも分からないまま呟きながら玄関に入ると、そこには兄さんが立っていた。

 手に何かを乗せたお盆を抱えている様子から、僕を――伏世ふくせゆうを待っていたというわけではなく、たまたま通りかかったんだろう。


 兄さんは僕の姿に気付くと、うむ、と頷いた。


 ちなみに、これを言葉に変換すると"お帰り"となる。

 普段ならこれで終わる所なのだが、今日に限って兄さんは口を開いた。


「……今朝はどうしてた?」

「え?」


 今朝というと、ずっと寝ていた……というより不貞寝していたはずだ。


「昨日、何があったかはともかく、朝から姿を見かけなかった。

 部屋にもいなかったし」

「え……と、それは……」


 どういうことなのかさっぱり分からない……と、そうか。

 部屋にもいなかった、という兄さんの言葉でなんとなくその時の事態が理解できた。


 その時、僕が部屋にいたのは確か。

 でも部屋にいなかった、と兄さんは言う。


 あるはずのものがそこになく、ないはずのものがそこにある。

 この現象は今日一日で散々見慣れている。


 すなわち、鏡界だ。

 今朝の僕は誰とも会いたくないと考えていた。

 その思考が第四世代としての能力を無意識の内に発現させていたんだろう。

 今の僕には、そうとしか思えなかった。


「それは、その、学園に用事があって、早めに出てたから」


 馬鹿正直に事情を説明するのは滅茶苦茶に難しいので、思いついた適当な理由を口にした。

 嘘を吐くのは心苦しかったけど、今回ばかりは致し方ない。

 

 兄さんは瞬間、怪訝な表情を浮かべたが、それ以上追求する理由がないと判断したのか、僕に背を向けて居間の方へと歩いていった。


「……」


 そんな兄さんの後ろ姿を見て、ふと試してみたい事ができた。


「おーい、兄さん」


 僕の声に兄貴が振り向きかけた瞬間、僕はイメージする。


 開く。

 鏡の領域を。


 それは触れる事叶わず。

 見る事は我が意思に沿う時のみ。

 すなわち、それ鏡界なり。


 ――顔を上げると、そこには辺りを見回す兄さんの姿があった。

 どうやら、鏡界は割と簡単にコントロールできるらしい。


 ……………解除。


「……?……お前、今……?」


 おそらく兄さんには、僕がパッと目の前に現れたように見えたはずだ。

 だが、言い訳はすでに考えてある。

 またしてもすごく心苦しかったけど、今の内に出来る事出来ない事を把握しておきたかったので勘弁してください。


「どうかした?

 僕の姿が消えたようにでも見えたのか?」

「……ああ」

「ゲームのやりすぎだよ、きっと。

 今日は早めに寝た方がいいと思う」

「……」


 そんなはずは、と言わんばかりの表情だったが、自分の不規則の生活は兄貴自身が一番自覚しているはずなので、これ以上の言葉はないだろう。

 案の定、渋々と納得する形で兄さんは再び居間に向かって歩き出した。




「ねえ、兄さん」


 食事を取りながら僕は呟いてみた。

 ちなみに、この食事は僕が調理したものではない。

 というか弁当だった。


 兄さん曰く、今日の仕事は時間的に微妙だったが僕が調理を開始する前には間に合うはずだろうと買って来たらしい。

 お陰で今日僕が買って来た晩御飯用食材の出番はまた後日と相成った。


 まあ、それはさておき。


 兄さんはバラエティ番組を見ていた顔をギィッとこちらの方に向けた。

 何も言わないが、その目が"なんだ?"と言ってくれているので、僕は遠慮なしに尋ねる事にした。


「仮に、の話なんだけど。

 僕の知り合い……いや、友達が人殺しだったとする」

「……」

「その理由は、自分を含めた、多くの人の命を守るため、だと思う。

 でも、そのために」


 そこで一度言葉を区切った。

 それは単純に迷いなのか、それとも別の理由があるのか……僕自身判然としないままに、言葉を繋ぐ。


「人を殺すのは、正しい事なのかな……?」


 問われた兄さんは暫し黙考していたが、ちらりと僕の方を見てから口を開いた。


「……いやに具体的なのはともかく。

 俺個人の意見として言わせてもらえれば、人殺しは人殺しだ。

 行動により命が失われた――その事実、結果が全てだ」


 そう言うと、兄さんは再び動物癒し動画を映すテレビ画面に意識を向けた。


 兄さんの言葉はとても淡白だった。

 そして、それゆえに真実に思えた。


「そう、なんだよな……」


 その真実を、口に出して肯定してみた。


 兄さんはそう言うだろうとは思っていた。

 いや、多分、その答が聞きたかったんだと思う。


 今日一日で、僕はあまりにも価値観の違うヒトに触れすぎた。



 第三世代の殺人事件にさしたる興味を持たず、関わろうとしなかった、鈴歌すずか迂月うつき


 第三世代を薄汚いといい、それを殺すことに執着を覚えているらしい、あの白い仮面の男。


 そして、その白い男と僕を、第四世代だからという理由で殺そうとしている、境乃切那。



 彼らの価値観は強烈で、僕が日常的に抱えていた倫理観を大いに揺らした。


 でも、それは揺らしただけ。

 僕自身、色々変わりはしてしまったけど、僕の中身は崩れてはいない。


 だから、兄さんの言葉も心から同意できる。


「……ごちそうさま。兄さん、あろいがとう。参考になった」


 兄さんは箸を置いて立つ僕を見る事はせず、ただ軽く手を上げて答えた。


 ……いつのまにか。

 心に掛かっていた雲は、少なからず薄くなっていた。

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