7 逸脱と変えられない現実と逃亡者
「うぅぅ……ちくしょうっ……………!!」
去っていった
僕・
溢れ出した自分への憎しみの感情を、思わず拳の形にしてすぐ側の壁――石垣を模した形状の――に叩き付ける。
当たり散らすようなその情けなさを、僕は拳に返って来る痛みで知る事になる……そのはずだった。
「え……?!」
でも、そうはならなかった。
鈍い音が響いた後、拳に走る筈の痛みは――殆どなかった。
感覚がなくなった、とかではない。
拳が壁に触れる感触はあった――でも、衝突した際の痛みがなかったのだ。
まるで発砲スチロールを殴ったような感覚……それよりも少しだけ固い感触が表現としては一番近かった。
そしてそんな拳を叩きつけられた壁はというと――殴った所から大きく罅割れていた。
僕は信じられないものを見るように、自分の拳とそれをぶつけた壁を交互に見つめた。
僕の拳には擦り傷と呼ぶにも烏滸がましい跡があるだけだ。
だが、それはおかしい。異常だ。
石の壁に皹を入れるほどの衝撃に、僕の鍛えていない素手の拳が耐えられるはずはないし、石に皹を入れるような腕力を僕が持っているはずもない。
一体、これは……?!
『まだ"目覚めた"ばかりなのだからな』
困惑する僕の脳裏に、さっきの男の言葉がリフレインされる。
『これは君が俺達の同胞だからこそのアドバイスであり、心遣いだ』
そう言ったあの男は、人間とは思えないほどの跳躍力を見せていた。
同胞って、何なんだ?
僕は一体どうしたんだ? どうしてしまったんだ――?!
『……だから、気をつけてって、言ったのに』
そして切那さんの言葉もまた脳裏に甦る。
僕を――――殺そうとしたかもしれない、彼女の言葉。
瞬間、もしかしたら、と僕の頭蓋に彼女がそうした理由らしきものが思い浮かんだ。
もしかしたら――もしかしたら僕は、化け物になってしまったんじゃないだろうか?
人間を逸脱した化け物に、いつの間にかなってしまっていたのか?
あるいはこれからさらに変化していくのか?
もし、そうなら。
切那さんが僕を殺そうとする正当な理由になり得ないだろうか?
人を殺すような化け物、害獣になり果てる、あるいは既になってしまったというのであれば、殺されて当然なんじゃないのか?
被害を出してしまう――人を手に掛けるよりも、早くに。
「……そん、な……」
呆然と呟いた直後、すぐ側の壁が音を立てて微かに崩れる。
それが、僕の状況をそのまま表している様な、錯覚に陥る。
「そうだ錯覚だ……錯覚なんだ……」
口では、言葉ではそう言える。言い聞かせる事は出来る。
でも……頭は、心は否定しきれない。
「――――――どうして」
思わずそんな言葉が口から零れる。
僕は、ただの、ごく普通の人間だったはずだ。
普通の生活を普通にこなしている、ただの人間だったはずだ。
一体いつの間にそんな化け物の因子を持ってしまったのだろう。
どうして、こんな事になってしまったのだろう。
どんな理由からであれ、いつもとは違う事を望み、選んでしまったからなのか?
たったそれだけで、こんな場所に入り込んでしまうものなのだろうか。
ほんの少し前までは――切那さんと出会う前までは、
自分勝手な言い分だ。
それはよく分かってる。考えている自分自身が一番その恥ずかしさを痛感している。
でも。
そうなのだとしても――――あんまりじゃないか。
いくらなんでも、こんなカタチでの実現なんか、絶対に望んでいなかったのに。
全てが、悪い夢であって欲しかった。
でも――――
地面に残った、切那さんによる断裂の跡が。
僕の拳による、大きく罅割れた壁が。
拳に微かにこびりつく、ほんのささやかな痛みが。
切那さんの言葉を胸に刻んでしまった、この僕自身が。
その全てを、紛れもない現実だと認識してしまっていた――――。
「………っ!………」
叫ぶ事すらもままならない僕は、ただ硬く拳を握りその場に立ち尽くすしか、流れていく現実に抗う術を持たなかった。
ずっとここに立ち尽くしたままでさえいれば何も変わらない――そう思ったから。
そう願う反面、そんなことをずっと続けられるはずもない事を僕は悟っていた。
こうしている間にもますます傾いていく夕日を、僕は目の当たりにしていたから。
「―――――――――――――――――帰ら、ないと」
ようやく僕を動かしたのは、このままでは兄さんに心配をかけるだけだという建前めいた義務感だった。
そうして……いろんなものを失ってしまったらしい僕は、その赤く染まった道に背を向けて、とぼとぼと家路に着こうとした。
そこで、気付く。
「……な、に?」
確かに空は赤く染まり始め、その光を浴びて全ての風景が赤く染まろうとしていた。
だが、あの男が立っていた辺りの向こう側は必要以上に赤く染まりすぎている……
動揺から判断力を失っていたと思しき僕は、止せばいいのにふらふらとゆっくりとあちら側へと歩み寄った。
――そこで、僕は。
「う……うおああああっあああああああああああっおああああああおあおあっ!!」
鮮血で全てが赤く赤く染まった道と、その上にバラバラになって撒き散らされた人間の死体を目の当たりに、した。
「ううう!?……ぐ、うぅぅぅっ」
辺りに漂う受け入れがたい匂いが鼻に届き、僕は吐きそうになる口元をどうにか抑え込んだ。
これが――死臭。そして血の匂い。
むせ返るような、吐き気を催すような――――赤い匂い。
圧倒的なまでの不快感が全身に染み込んでいくような暴力の匂い。
「う、うぅ――――!」
嗅いだことのない匂いにこれ以上ないほどの混乱に陥りながら、考える。
一体誰がこんな事をやったんだ、と。
あの男か?
でも、彼の白い服には何処にも赤い染みなどなかった。
これだけ凄惨な事を行って、返り血一つ浴びないなんて事があり得るだろうか。
であるなら、まさか――――!?
「ない……! そんな事なんかあり得ない!!」
一番あってはならないことをイメージしかけた事を、僕は力の限り頭を振って消してしまおうとした。
……その時だった。
僕の立つ場所から、さらに向こうの曲がり角を曲がって、誰かがこっちへと歩いてきたのが見えた。
化け物になってしまったかもしれない僕の眼は、確かにそれを捉えていた。
「――――うぅっ――――!?」
疑われる行為であると分かっていても僕は慌ててこの場から走り去る事しかできなかった。
自分が疑われるかもしれない――そんな理由で駆け出した自分がどうしようもなく矮小で、どうしようもなく惨めだった。
人が、誰かが殺されている姿を目の当たりにしたのに、自分の事ばかり。
何も出来ず何もしようとせず、ただ逃亡――――人として情けなさすぎる。見下げ果てた行為だ。
でも――それでも、今の僕には、何も出来ない。何をするべきかを考える事さえまともに出来なかった。
そうして。
無様な涙を撒き散らしながらただ走る事しか僕には出来なかった。
全てに背を向けた、そのままで。
……その背から、悲鳴のようなものが上がる事は何故か無く、僕はほうほうの体で家に辿り着いた。
一目散に自分の部屋に駆け込んだ僕は、制服のまま部屋の中に閉じこもり、タオルケットの中に丸まって目を閉じた。目を逸らした。
兄さんの呼ぶ声や、夕食の香り、様々な情報が行き交っていたけれど、今の僕はそれに触れる事ができなかった。
僕に出来ることは、否定しようもない現実を、否定できる限界があるのを知った上でその限界が来るまで否定し続ける、その為にタオルケットの中に隠れて怯える……ただそれだけだった――――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます