――境乃切那・裏――
1 行動変化と夜空とそこにいる彼女
僕・
ただ、毎年のように代わり映えなく――という訳でなかった。
少し前に僕の歌謡学園に転入してきた
その彼女に願われた事もあり『セツナ』さんと呼ぶようになった、何処か不思議な雰囲気の彼女が加わった日常は、ほんの少し色を変えた日々となっている――ような気がする。
近所で起こっている事件も含めて、僕はどこか日常と非日常の境界線をふらついているような感覚があった。
だけど、その感覚も含めて僕は何処か遠くから他人事のように見ているような――そんな気もしていた。
そう感じている自分の淡泊さ、酷薄さは――正直あんまり好きじゃない。
でも、それが僕である事も分かっていたので悶々とする事もある。
つまりは、そういう憂欝な梅雨の日々を過ごしている――そういうことだ。
そんな日々の中の、とある一日の終わり。
「ふわぁ――」
時計の二つの針が両方とも12を指す様な時刻になってくると、ネットニュースを眺めていた瞼も落ちてくる。
明日の準備は万端だし、今日はもう特にやる事もないので眠ってもいい……
「あ」
と、そこでやる事は大いにあった事を、忘れていた事を思い当たって僕は思わず声を上げた。
宿題をすっかり忘れ去っていたのだ。
あんなに帰ってきてから時間があったのに、もったいない事をしてしまった。
明日の準備が万端なんてよくもまぁ言えたもんだな、僕よ。
「……しかしなー」
いい感じで眠くなってきている今、宿題に手を付ける気にはならなかった。
――――――かといって、明日の休み時間を潰すのも馬鹿らしい。
「やれやれ」
何処かの
つまる所、宿題をする事にした、というだけの事なんだけどね、うん。
眠いは眠いけど、それもこれも今の今まで宿題の存在を忘れていた自業自得だ。
それに明日先生に絞られるよりは中途半端でもやっておくべきだろう。
「よし、そうと決まれば」
意を決した僕は階下に降りてインスタントコーヒーを作ることにした。
眠るわけにはいかない夜のお供にコーヒーと言うのは定番だからね。
ちなみに、僕はコーヒーの味というのがいまいち分からない。
缶コーヒーも様々な種類を飲み比べてみたがどう違うかはさっぱりだった。
所謂貧乏舌というものなんだろうなあ、と時々自分の残念さに悲しくなる。
だけど、コーヒーという飲み物そのものはすごく好きだったりする。
コーヒー愛好家に怒られそうな"好き"だというのは重々承知だけど、これでも好きは好きなので勘弁してください。
そうして内心でコーヒー好きの方々に謝りながら準備を進める。
インスタントコーヒーの粉と砂糖とお湯を入れて、少なめにミルク……言い方を変えただけで単なる牛乳なのだが……を入れてハイ出来上がりというお手軽さ。
この辺りがインスタントコーヒーの長所だろう。
レギュラーコーヒーの良さはまだ正直僕には分かりません。
兄さんや父さんにその事を話すと「いずれ分かるさ、いずれな」みたいな事を言われたり。
アンタらは少年漫画の
ともあれ、そうして簡単に出来たコーヒーを片手に、僕は自分の部屋に戻った。
机の上にはすでに教科書と問題集、ノートを広げてある。
先に広げておかなければ、コーヒー片手についくつろいでしまいそうだったからだ。
「よ……と」
コーヒーの中身をこぼさないように机の隅に置いて、僕はペンを取る。
そうして……暫しの間、眠気と格闘しつつ、その度にコーヒーを口にしながら僕は無心に問題に向かっていった。
分からない問題はとりあえず飛ばし、最終的にどうしても理解できなければ当てずっぽうでも式と答えを導いておく……それが僕の宿題のやり方だ。
そうしておけば少なくとも宿題忘れという事にはならないからね、うん。
勿論分からなかった所は答え合わせの時に理解できるように努力しますとも(理解出来るとは言ってない)。
さておき、そんな作業を一時間も続ける事でようやっと終わりが見えた。
今回は特に難しい問題はなかった。
……教科書を参考にすればだけどね。
「テストの時が心配だな、これ……でも、まあ」
とりあえずは、終わり。
ペンを筆入れに入れて、ノートを閉じた。
「ふわぁぁ……おわったぁぁぁ」
もう夜も更けているという事をその瞬間は忘れて、思わず解放の息を吐いた。
直後慌てて口を閉じる――近所迷惑になってませんように。
ともあれ、疲れてはいるがちょっとした充実感がある。
それに浸りつつ、僕はノートと教科書を鞄に突っ込んだ。
……宿題を終えた事に満足して、明日一式を忘れようものなら皆にとっては喜劇で、僕にとっては単なる悲劇だ。
そういうネタになるような事はなるべく避けたいですね、ええ。
一式を鞄に入れた事を何度も確認してから、僕は立ち上がって背伸びした。
身体に漂うほどよい疲労感が睡眠を誘っている。
このまま寝るのもいいけれど――――
「なんか息苦しいしな」
根を詰めていたせいか、スッキリとした呼吸が出来てない気がする。
なので窓を開けて、空気を入れ替えついでに夜空を見てから眠る、というのもたまにはいいかもしれない。
そう考えて、僕はカーテンをさっと横に追いやり、窓を開けた。
四角い枠の向こう側には、蒼であり黒である世界と、そこに瞬く光点の群れが存在している。
今日は梅雨時には珍しく雨も降っていなかったために、雲もなく、夜空を見る事が出来た。
文句のつけようもない、綺麗な星空。
――なんだけど。
「…………? なんだ……?」
何か、違和感があった。
視界にノイズが走るような、おかしな感覚。
なんとなく視線を下ろすと、そこにある紛れもなくいつもの風景だ。
暗くなり、静かになった事以外昼間と何一つ変わる事がない。
なのに、何かが引っかかった。
見慣れたものが何処かピンポイントな部分だけ違っているような――分かりそうで分からなくて、分からなさそうで分かりそう……そんな微妙さが少し苛立たしかった。
「……ふう」
僕は気持ちを落ち着けるべく一息吐いた。
……別に何も変わりはないのだから苛立つ事はないはずだ。
そうして気持ちを切り替えた上で、僕は改めて空を見上げた。
空に浮かび瞬く星々――本当に綺麗だ。
それを眺めているいると、苛立ちは消えて穏やかな気分が戻ってくる。
この街の空はそこそこ澄んでいるのか、雲もない今日のような夜はそこそこ星を見る事が出来る。
所謂都会では星を見る事も叶わないほどに空気が汚れているとか街が明る過ぎるという話だけど……本当なのだろうか?
ここで生まれ育ち、ここから出た事があまりない僕にはよく分からなかった。
でも、もし、それが事実だとすれば……都会の人は少し不幸だなと思う。
そんな事だけで不幸だと決め付けられる方はたまったものじゃないだろうけど――
でも、空を見て心を和ませるというのはきっと人間にしかできない事だから。
それが出来ないのは、きっと哀しい事じゃないか、そう思ってしまうのだ。
そんな事を考えながら、暫しの間、僕はそこにある黒い世界を眺めていた。
夜空を、街並みを、視線をふらふらと彷徨わせて、ぼんやりと。
僕は、夜が好きだ。
青空や太陽が嫌いってわけじゃない。
でも、燦々と光り続ける太陽よりも、その光を受けて淡く輝く月の光の方が好きだった。
昼間は見えないけれど、そこに確かに存在している星々をしっかりと見る事ができる、夜空の方が好きだった。
眩し過ぎるとそういうものを見過ごしてしまいそうで……それが僕は何とはなしに嫌だった。
太陽あっての月で、青空あっての夜空だという事はわかっているつもりなんだけど――
「……ん?」
そんな思考に囚われていた時、ふと何かが視界の隅を横切っていった。
そこは
今はか細い光を零す街灯があるだけの何処にでもある風景。
その光が照らす領域の端を誰かが通り過ぎていくのがかろうじて見えたのである。
暗がりの中、黒い服――ライダースーツっぽいけれど、それよりも若干厳つく見える――に身を固めたその人物を、ギリギリ捉える事が出来た。
――――そこで、その"誰か"がクルッと振り向いた。
振り向いた、と言っても僕の方ではない。
自分の背後や周辺をキョトキョトと観察しているようだった。
僕の視線に気付いたとか? いやいやまさか、と頭を軽く横に振る。
そんなものを気配か何かで感じ取れる人がいるのなら御目にかかりたい――というかその方法を是非教えてほしいです。
と、そんな事を思っていた時だった。
件の人物が、人口の光の下に一歩だけ足を踏み入れたのは。
露になったその姿に、僕は少し驚き――思わず目を見開いていた。
「……あれは……切那さん……?」
先日知り合ったばかりの転入生、境乃切那さん。
そこにいたのは、彼女か、もしくはよく似た風貌の人だった。
そう遠くない距離だけど、はっきりと彼女かそうじゃないかを判別できるほどの距離でもない。
「うーむ……やっぱ見えないか……あ」
つい気になって、思わず窓から少し身を乗り出して目を凝らしていたのがまずかったのか。
思い切り目立っていたらしいその姿は、しっかりと彼女の視界に入っていたようで。
大きな空間の隔たりはあったものの、彼女と僕の視線が……重なった。
まるでパズルのピースがはまったようにピタリと。
「……」
「……」
不思議な感覚が、そこには生まれていた。
距離は離れているはずなのに、"誰か"の息遣いまで聞こえてくるような気さえした。
そして、分かった事が一つ。
彼女は――――――――――切那さんだ。
今、この場に流れている空気の感じ。
それはあの日――雨の中で初めて出会った時と、よく似ていたから。
理屈じゃない。ちゃんと説明出来る要素は何処にも存在していない。
でも――――何故だろうか。
間違いなく彼女だと確信できた。
そうして視線が交錯した、一瞬のような、数分のような時間の後。
「……」
彼女はこちらを見上げていた顔をぷいと背け、灯の届く所から去って行った。
あたかも、闇に融け消えるように。
僕は彼女の黒い三つ編みが揺れて消えていく様をただ見ている事しか出来なかった――――。
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