7 憧れと現実と、願い

 彼女、境乃さかいの切那きりなさんこと切那せつなさんは羽代はねしろ守深架すみかさんの近くに歩み寄ると、何処からか取り出した冬用の上着を彼女の肩に掛けた。


 切那さんの表情は変わらないように見える……けれど、その時は、怒っている様に思えた。


「……あ…………ありがと」

「……いえいえ」


 何処か遠慮気味にお礼を言う羽代さんに、切那さんは軽い言葉調子で答える。


 その間、僕・伏世ふくせゆうは何をしていたかというと、先程までの激情めいたものが切那さんの登場で霧散してしまったため、身体はともかく心情的にどうすればいいのか分からなくなり、右往左往していた。


 その末に、まずは切那さんの言葉どおり彼女は身体を拭くべきだろうと結論付け、バックの中から今日使わなかったタオルを鞄から取り出した。


 切那さんが上着を被せてくれたから必要ないかもとか、今日は使ってないとはいえ男子が使っているタオルを女子に渡すのになんとなくの躊躇いを覚えたりもしていたが――だけど、やはりこうしていても仕方がないと、意を決した。


「羽代さん、よかったら……これで身体を拭いて。

 えと、その、使ってないタオルだから汗臭くないはずだから、うん。

 それと、さっきは大きな声を出して、ごめん」


 そうして頭を下げながら、彼女にタオルを差し出す。

 改めて考えると、先程思わず大きな声を出してしまったのは申し訳なかったからだ。

 ――僕なんかより、よっぽど彼女の方が大きな声を出したい、出すべきはずなのに。


 すると、羽代さんは僕の顔を、ほう、とした表情で見上げ……頭を横に振った。


「ううん――怒ってくれて、ありがとう」


 薄く困ったように笑いながら、羽代さんはまだ濡れた手でタオルを受け取ってくれた。

 そして、そのタオルをジッと見た後、それを使って頭や顔、身体、と至る所の水気を拭き取っていく。

 それを終えた後、羽代さんは何故かどこか恥ずかし気に呟いた。


「……タオルも、ありがとう」

「えと、その――変な匂いはしないと思うけど、もししてたらごめん」

「ううん、そんなことなかったよ。大丈夫。

 あの――えと、良いタオルだね、うん。お陰様でちゃんと拭き取れたよ」

「でも……やっぱり、そのままじゃ帰れないんじゃない?」


 切那さんが彼女を注意深く観察して呟いた。

 実際、水気はある程度は取れたけど、根本的に濡れた状態なのは少し見ればすぐに分かる。

 このまま帰路についたら風邪を引いてしまうかもしれないし、家族に見咎められた時の説明も難しいかもしれない。


 ――家族が気付いた方がいい事柄とも思うけれど、実際どうなのかは、羽代さんの事を、クラスメートである以上はよく知らない僕には分かるはずがなかった。


 そうして考え込んでいる間に羽代さんが口を開いた。

 

「あ、えと、ジャージで帰るから、大丈夫――」

「……そうね、それがいい。ふーくん?」

「え? 何?」


 いきなり呼ばれて僕はビクッとなった。

 切那さんはそれを気にした風もなく言った。


「羽代さん連れて更衣室行って来る。

 私が家まで送るから、ふーくんは帰っていいから」

「え?」

「……じゃ、行きましょうか」

「えっ? あ、うん……」


 切那さんは僕の反応などお構いなく、羽代さんは僕と切那さんの表情を交互に窺いながら、この階の奥にある女子更衣室の方へと消えていった。


 そうして、結局僕は廊下に一人取り残されてしまった。 

 切那さんは「帰ってもいい」と言っていたし、実際僕に出来る事はもうないのかもしれない。


 だけど、ここで彼女達を放り出して帰るのは、なんとなく嫌で――僕は更衣室の外で暫し待つ事にした。


「……待っていたの。律儀なのね」


 それから待つ事十分程で、彼女達が揃って出てきた――のだが。


「律義ってほどじゃ、っていや、それはいいんだけど……なんで切那さんもジャージ着てるの?」


 そう。

 何故かは分からないが、切那さんも羽代さんと同じくジャージを着ていたのである。

 

「羽代さんが着てるのを見て、私も着たくなったから。

 まだジャージの着心地を確かめてなかったし」

 

 そんな僕の疑問に、切那さんは淡々と無表情で答えた―――親指を立てながらサムズアップしながら


 ――多分ジャージを着ている実際の理由は、言葉にしたものと少し違っているんじゃないだろうか、と僕はなんとなく思った。

 

 殆どの生徒達が制服姿で帰路につく中、ジャージで帰る羽代さんが恥ずかしくならないように、という心遣いなんじゃないだろうか。

 羽代さんがどことなく身を縮めているのは、彼女も切那さんがそういう思考の元で動いている――そう考えているから申し訳なくて……だと思うんだけど。


 ちょっとドヤ顔っぽくも見える切那さんを見てると若干自信がなくなって来るなぁ。


 ――でも、まぁ、見ず知らずの男子の靴紐を結んでくれるような切那さんなので。


「……なるほど。

 そう言えば、体育の時は体操服だったもんね」


 だから、僕はその事に対し特に触れなかった。

 触れてしまえば羽代さんがますます身を縮めてしまうだろうし、切那さんの気遣いを無駄にするというものだ。

 なので、折角なのでより話に乗ってみることにする。


「で、着心地はどう?」

「うん、私が今まで着てきたジャージの中でも指折りの良さ。

 この学園に来なくなっても普段着として使おうと思ってる位に」

「そこまでなんだ――僕はそうでもないんだけどなぁ……女子と男子で生地が違うのかな」

「そ、そんなことないんじゃないかな。生地は同じだと思うよ、うん」


 そんな僕らのやりとりに、羽代さんが苦笑しながらツッコミを入れてくれた。

 ……どうやら大分落ち着いてきたようでホッとする。


「これは多分、色々な学園のジャージを着てきた私だから分かる事なんだと思う。

 この境地を理解できる人はそうそういないんじゃないかな」

「すごい自信だね――詳しく話を訊きたい所だけど……」


 そこで僕は携帯で時間を確認――結構遅くなっている事に気付く。

 最近この辺りは物騒なので、話をそろそろ切り替えるべきだろう。


「……時間も時間だし、そろそろ帰ろうか。

 あと、この際だから3人で帰るのはどうか、なんて思ってるんだけど、どうかな。

 最近は物騒だからね」


 ついでに、途中までになるにせよ、一緒に帰った方が安全かもと提案しておく。


「私は構わないけど」

「あ……その……いいの、かな」

「いやいや、羽代さんが不安に思う事はないから。

 勿論嫌だったら遠慮なく言ってくれていいというか、むしろ僕が女子二人と一緒に帰っていいのか不安なんだけど。

 僕なんぞが両手に花はちょっと畏れ多いというか」

「嫌だなんて、そんな――私なんかで良かったら、全然大丈夫だよ、うん」

「そっか、安心したよ、うん。……じゃあ、行こうか」

 

 それから僕達は足早に下駄箱に向かい、朝とはうって変わった茜色の空の下へと繰り出していった。




 何処にでもある住宅街の通りを、3人で歩きながら様々な事を話していた。


 ……さっきの事は話題には上らなかった。


 僕としては気にかかる。

 だが、この場の穏やかな空気がそれを阻んでいた。


 羽代さんの言葉は、そんな空気の中から自然に零れ出てきた。


「境乃さんは、いいね」

「……何が?」


 よく分からないといった感じで、彼女は言った。

 女の子としては長身の切那さんと女の子の平均身長からは少し低い羽代さんが並ぶとまるで姉妹のように見える。


 僕はそんな彼女達から少し後ろを歩いている。

 ……女の子2人と横に並ぶなんて大それた真似が出来なかったからです、はい。


「スポーツすごく上手で、美人で……羨ましいなぁって」

「……だったら、そうなればいいわ。

 容姿の事は各人の価値基準によるものと思うけど、運動神経なら磨く事は出来るでしょう?」

「え? 無理だよ、そんな……」


 ははは、と力なく笑って羽代さんはパタパタと手を振った。

 それを見て、切那さんの表情が少し硬化した――ように僕には見えた。


「授業の範疇であれば、プロの中というわけでもないのだから、身体を動かす事に慣れさえすれば、誰だってそれなりには出来るようになるはず。

 それに、スポーツが出来ないからって卑下する必要もないわ。

 人には向き不向きがあり、各人で磨きたいもの磨きたくないものがあるのだから。

 ……貴女にとって負けたくない何かで努力して、そこだけは譲らなければ、それでいいんじゃない?」

「……そうできたら、いいよね。努力して、それが叶うのなら……ちゃんと、ずっと、がんばれるけど……」


 羽代さんの言う事は、なんとなく分かる。

 僕も切那さんのような秀でた所がないからこそ、理解出来ていると思う。


 人の顔立ちは生まれつきだ。

 運動神経の有無も、割と生まれつき。


 人は子供であるうちはその生まれつきの能力でしかモノが見れない。

 子供同士……あるいは同じ群れの中で遊んでいると、否が応でも自分と人をそれで比較してしまうものだから。

 その中で、いつからか自分がその中においては並程度とか、割と運動神経いいとか、全然駄目だとかを悟る……いや、事になる。

 一緒に遊んでいるうちに、それは回りも周知の事実となるから自然にその中での役割が決まってしまう。


 そして、そうして成長していく中で押された烙印は割と根深く人に残る。


 経験込みの勝手な推論から言わせてもらえば……羽代さんは、子供の頃からの積み重ねの結果、自分を低く見立てる事が多くなっている人なんじゃないだろうか。


 今のように一歩引く――自分を下げてしまうがゆえに、周囲の人間関係によっては軽視されるような事も起こりやすくなってしまう。


 それが、今日の体育の時間での出来事であり、ひいてはさっきの出来事だったんじゃないかと僕は考えた。


 その烙印のために、羽代さんは努力しても駄目なものは駄目だし、自分は低い位置にしか立てないという観念が埋め込まれてしまっている。


 だから、羽代さんは頑張れないと思い込んでしまっているし、自分に出来ない事をやってのける切那さんが眩しく見えるのだろう。


 それに対する切那さんの先程の言葉はを覆して見せろ、という事だ。


 それは羽代さんからすればとてつもない難題だ。

 生まれてきて十数年で形作られたものを根本的に変えろ、と言っているに等しい訳なのだから。


 ……だけど。


「ねえ、羽代さん」


 僕は歩調を緩めないままに出来うるかぎり柔らかな口調で呼びかけてみた。

 羽代さんは首半分だけこっちを振り向いて「なに?」と問う。

 切那さんは自分が呼ばれたわけではないからなのか、特に反応せず歩き続けている。


 ――正直緊張している。


 僕は、僕自身が偉そうなことを言えるような人間じゃないのは重々承知している。

 このまま羽代さんに何も言えずにいられるほど、ってだけだと分かっている。

 何も言わずにいる事でもやもやとした気持ちを残したくないだけの、エゴイストなんだろうと思う。


 でも、そうだとしても――言葉にせずにはいられなかった。


「羽代さん、今日言ってたじゃない。”頑張ったら報われるような気がする”って。

 あの言葉は――本音とは違うのかな」

「あ、あれは――っ ほ、本音だよ……本音、だけど――」

「うん、それならいいんだ」

「え?」


 困惑する彼女に、僕はどう言えばいいのか必死に頭を回転させながら、言葉を紡いだ。


「実際に今、羽代さんはがんばってる。

 少なくとも今日練習してたのを、僕はちゃんと見てた。

 だったら――いつか、きっと報われるよ。

 あの時の言葉が本音なら、きっとね」


 我ながら薄っぺらい言葉だとは思う。

 羽代さんの事をよく知りもしないで言えたものだとも思う。

 

 だけど、それでもあえて言い切りたかった。

 きっとそうなるんだと、羽代さんに信じてほしかった。

 こそが羽代さんに今必要なものだと、僕には思えたから。


 羽代さんに、僕の言葉がどう伝わるのか、僕には想像も出来ない。

 ただ、ほんの少し、ささやかにでも、彼女の気持ちを上向きに出来ていたらいい、と僕はそう強く願ってやまなかった。


「――。……そう、なのかな」


 何か、呑み込み難いものをゆっくりと咀嚼するように、羽代さんは呟く。

 その呟きの意味をより強めたくて、僕は相槌を打った。


「だと僕は思うよ――――」

「―――」

「―――」

「―――」

「―――た、多分」


 でも問い掛けてくるようにジッと見つめてくる羽代さんに根負けして、つい不安になってしまいました。 


「……そこで不安にならないでほしいなぁ」

 

 でも、むしろそれでよかったのかもしれない。

 いつの間にか、羽代さんはフフッと小さく、それでも楽しそうに笑みを零していた。


「……でも……うん、分かった。もっと頑張ってみるよ。

 やっぱり私も、報われるって信じたいから。

 それに、お話を聞いてくれた2人に悪いもの」

「私には悪いと思わなくてもいいけど――そうするべきだと思う」


 羽代さんが明るく告げた瞬間、それまで黙っていた切那さんが呟くように――けれどもハッキリと頷いた。

 その顔は後ろを歩く僕からはよく見えなかったけれど……彼女の顔を見た羽代さんの表情から察するに――きっと、素敵な顔だったのだろう。

 少なくとも、思わず羽代さんが目を輝かせ、小さな息を零すほどに。



 それからややあって、僕達は二つに分かれた道で羽代さんと別れた。


 彼女は笑顔でこちらに手を振ってから駆け去っていった。

 今日の彼女に起こった出来事からは考えられない表情で――それだけに、僕は羽代さんに、感銘というべきか、敬意と言うべきか――そういう思いを抱いた。


 そして、それから特に会話を交わす間もないままに、今度は切那さんとの別れがやってきた。


「……私は、こっちだから」

「そっか。

 えと――なんて言うのが正確なのか分からないんだけど――その、さっきは、ありがとう」

「なんのこと?」

「羽代さんのこと」

「――――こちらこそ」

「いやいやいや、僕は特に何もしてないと思うよ、うん、マジで。

 えと、その、じゃ、じゃあね」


 感情いろのない表情でこちらをジッと見据えながら切那さんの言葉。

 やはりというかなんというか、すごく綺麗なのでその視線を、表情を向けられる事が嬉しくはあるんだけど、同時にそれを僕なんかが受け取っていいものか自信がなくて、僕が若干慌て気味に背を向けた……その時。


「……ふーくん」


 切那さんが静かに呼びかけたので、その声音があんまりに素敵だったので、僕は慌てていたのも忘れて振り返った。


 赤く染まった切那さんは虚空を睨んで暫し何かを考えていたが……やがて、ふう、と小さく息を吐いて言葉を紡いだ。


「その。……また、明日」


 何故か躊躇いがちのその言葉に、僕は笑顔で応えた。

 そうか、また明日も会えるのかと嬉しくなって。


「うん、また明日ね、切那さん」


 そんな僕にコクコクと頷いてから彼女は去って行った。


 何故だろう。

 女性としては長身であるはずのその後ろ姿が、何故か僕にはどことなく小さく、かわいらしいものに見えていた――。

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