6 日常の中に潜む『日常』
音が、響いた。
「……? なんだ……?」
水が叩きつけられるような音と何か、いや、誰かの声……?
よく分からなかったが、そんな印象を受ける”それ”が響いた。
遠くから聞こえているのに、すごく近いような、おかしな音の伝わり方が耳に――いや、僕・
気にはなるが……不思議というか若干怪しいし薄ら怖さもある。
近頃の物騒さを考えると、君子危うきに近寄らずが正解だろうけど。
「どうしたもんかな」
などと呟いてはみたが、実際の所、答は決まっていた――様子を見に行く事に。
正直な所、
せいぜい、残った生徒が何かで遊んでるとか、不注意で備品を壊したとか、そんな所だろう。
だが、万が一、という言葉がある。
もし自分がこの手間を割くことによって、何かの手助けになるのなら行ってみるべきだろう。
何もなければ無駄足だったで済む。それだけの事だ。
僕は自分の事を”いい人”ではないと自己分析していた。
理性とか常識とかで取り繕っているけど、それを剥がせばかなり自己中心的な思考ばかりしている事を僕自身が一番理解している。
でも、本性はそうなのだとしても――いい人になりたいと思っている。正しく生きたいと思っている。
上手く説明は出来ないけれど、そうする事が一番自分らしいと僕は――伏世憂は思っているのだ。
(まぁこういう所が
自分らしくある為にいい人になる……きっとそれは純粋に優しく良い人と比較したら醜いものだろう。
だけど、醜いのだとしてもそうあることで誰かを助けられるのなら、きっとそれはそれで悪くないと思う――そう信じたかった。
そんなどこか言い訳染みた思考をしながら、僕は『音』のした方へと進んでいった。
そうして暫し廊下を歩いた先に、3人の女生徒が笑いながら歩いていた。
「あはは……おもしろかったねぇー」
「うん、こういうのいいね」
「またやろーよ」
見覚えがある……というか、3人ともクラスメートだ。
歩み寄ってくる3人との距離が手を伸ばせば届く程になった時、3人の内の1人……比良瀬さんがこちらに気付く。
彼女は、僕に向かって笑顔で、や、と手を上げて声を掛けてきた。
「伏世くん、まだ校舎にいたんだ」
「……うん、忘れ物。宿題の数学の教科書、忘れる所だったんだ」
「あ、それは危なかったね。あの親父、五月蝿いから」
「っていうより、うざったいかなー」
「うんうん」
比良瀬さんの言葉に、残る2人の女の子……瑞野さんと革平さんは口々に言った。
そんな三人の言葉に僕は思わず吹き出していた。
すごく共感出来るんだけど、先生に少し悪いなと思ってしまうので、微妙な笑いになっているのが自分でもよく分かる。
そんな現状の明るい空気に乗って、僕は尋ねてみた。
「……ところで、さっきなんか水の音、みたいなのが聞こえなかった?
君達のいた方向から聴こえて、気になってきてみたんだけど」
「ああ……トイレでちょっと遊んでたのよ。別に気にするようなことじゃないわ」
「この間あの親父の授業で宿題忘れたから罰掃除だったのよ」
「んで、せっかくだから楽しく掃除やろうかなーと、水遊びをね」
「なるほど、それはそれは」
「……それにしても、よく聞こえたね。結構離れてるのに」
革平さんが不思議そうに首を傾げる。
実際、彼女達がいたと思しき、ここから少し先のトイレと僕が『音』を聞き取った場所は結構な距離があったからだ。
「うん、自分でも驚いてる。
多分何かの拍子で良く響く音になってたんじゃないかな」
「それに放課後のこっちの校舎静かだもんねー」
「そうよねぇ。今度どの位響くのか試してみるのも楽しいかも。
と――結構遅くなったわね」
携帯の時刻表示で時間を確認した比良瀬さんは、僕に向けてひらひらと手を振ってみせた。
「じゃあ、私たち帰るから。また明日ねー」
「ばいばーい」
「じゃね」
彼女達はそれぞれに別れの言葉を言って、僕が来た方向へと歩を進めていき、やがて見えなくなった。
ついつい眺めてしまっていたが……どうやら心配事は杞憂に終わったようだ。
「ま、こんなもんだよな……」
何事もなくて何より。
やれやれと息を吐いて、僕は踵を返し、彼女達と同じ方向に歩き出そうとした……その瞬間。
ピタッ……ピタッ――と、微かな、深夜に耳をすませば聞こえるような、蛇口から零れる水滴めいた音が、周囲の静かさゆえにかろうじて届いた音が、足を踏み出そうとした僕の動きを止めた。
反射的に振り返った僕の目に映ったもの。
それは……水に濡れ、壁にもたれかかるのがやっとのように見える……痛々しい、
「……羽代さん……!?」
「伏世、くん……?」
トイレの入り口から少し離れた壁に寄りかかっていた羽代さんは、こちらを見るや力が抜けたのか、床に座り込んだ。
「っ……どうしたんだ……!?」
言って即座に後悔する……訊くまでもない事だったからだ。
そして、気付くべきだった。
さっき出会った3人。
彼女達は、水の音の話題に対し”遊んだ”と答えた。
にも拘らず、彼女達の衣服は……今ここに至ってはじめて気づいたのだが、何の変化もなかった……濡れていなかったのだ。
羽代さんだけが濡れているという事、そんな彼女を待つ事なく、彼女の存在さえ口にせず、三人が去っていった事が示す事実――それは十中八九、考えるまでもなく、考えたくもないものだ。
……僕の間抜けな問いかけに、羽代さんは笑いながら答えた。
何故か――その笑顔は、あの体育の授業で浮べたものと全く変わらないものだった。
「遊んでた、だけだよ」
……羽代さんの言葉が、僕には信じられなかった。
そう、信じられない。
この目の前の女の子の事もそうだけど。
彼女をこんなふうにして普通に笑っていられる平瀬さん達が。
比良瀬さん達の笑顔も、いつも教室で見かけるものと変わらない表情だった。
陰険な意志を込めているわけではなく、本当に楽しいと思ってやっているのだ。
羽代さんの感情を、無視した上で。
「……本当に、ただ遊んでただけだよ」
もう一度、彼女は言った……まるで、何度もつぶやく事でそう思い込ませるように。
そこで、やっと僕は気付いた。自分の間抜けさが嫌になる。
羽代さんの言葉は、痩せ我慢なのだと――遅ればせながら僕は気付いた。
慌てて彼女との距離を詰める……すると、その痛々しい姿がより鮮明に見える。
身体が冷えて寒そうに肩を抱いている姿も、俯いた顔も、微かに震えている身体も――。
こうして水に濡れた彼女の姿は、ドラマなんかではよくあるものなのかもしれない。
画面越しに見ていたなら、ありきたりなシーンだと、ただぼんやり眺めていたのかもしれない。
でも、これはドラマなんかじゃない。
どうしようもないくらいに、現実だ。
だから、それを目の当たりにした僕の中は、行き場の無い熱い何かで煮え立っていた。
その感情を抱えながら羽代さんの側で中腰になり、彼女の視線に合わせて、僕は言った。半ば叫ぶように。
「そんなわけ、ないだろ……?!」
「……ううん、遊んでたの」
床にぺたりと座り込んでいた彼女はあくまで強情にそう言い張った。
そんな彼女を目の当たりにして、語るべき言葉を見失っていた、そんな時だった。
「……早く、身体を拭くべきね。風邪を引いてしまうわ」
突然、そんな冷静な言葉が背後から聞こえてきた。
驚きながら振り返った先……思いの他近くに立っていた静かで穏やかな声の主は、僕達をジッと見詰めていた。
「……
「境乃さん……」
一体いつの間に、ここにいたのだろうか。
何の気配も足音もなく……恐ろしいまでに存在を微塵も感じさせずに、境乃切那さんが僕達の側に立っていた――。
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