3 名前、そしてあだ名

 食堂に着くと、そこはいつも通りの盛況ぶりを見せていた。

 どんなにクールな優等生でも、ここに立てば一匹の獣に過ぎない。

 そう確信させるほどに、ここは騒がしかった。

 アニメや漫画での学食はいつも騒がしい、みたいな描写を派手な誇張だと思っていたんだけど――すみません、この学園では現実リアルでございました。


「……いつもこうなの?」


 それを見た境乃さかいの切那きりなさんの感想は何処となく呆れた……というより、感心するような口ぶりだった。

 その声音がなんとなく可笑しくて僕・伏世ふくせゆうは苦笑した。


「そうだね、おおむねこうかな」

「……私、騒がしいのは……」

「嫌いなの?」


 彼女の物腰から察すると、そんな感じだが……。

 どうなんだろうと視線を送ると、境乃さんはふと虚空を見上げていた。

 そして、ぽー……とそこを見続けていた。


 ……どうやらまたしても思考時間に入ったらしい。

 そうして、暫し経ってからおもむろに口を開く。


「……苦手だけど……嫌いではないと思う」


 意外な答えに少し僕は驚いた。

 どうして、と聞きたい衝動に駆られるが、そこは我慢しよう。

 女の子レディに対しては紳士ジェントルマンであれ、というのが父さんからの教えなので。

 ジェントルマンとしては質問ばかりは良くないと思うからね、うん。


 それに、境乃さんの言っている事はなんとなく分かる。

 近くにあったらうるさくて騒がしいのに、遠く離れていると寂しくなる――そういうものはあるから。

 多分、そういう事なんだろう。


「そっか。じゃあ、問題はない、かな」

「……ええ」

「それなら、僕は注文とってくるから。なにがいい?」

「ミートソーススパゲティ」


 おおぅ、即答ですよ。

 尋ねてから答えるまで0,5秒もかかってない気がする。

 彼女の好物、なのだろうか。

 ……いや、今は詮索するまい。

 食事の時の話題になるかもだしね。


「分かった。

 あと、あそこの席を取っておいてくれる?」

「……了解」


 その台詞が妙に似合っていた――様になっていたので、僕は思わず笑いを洩らした。

 彼女はそれに微かに首を傾げつつも席の確保に向かった。


 さて。

 僕は目の前の行列にどう対処するか……ぬぅ。

 ここは男らしく正面突破と行こう。

 まあ、正面突破と言っても素直に並ぶだけなのだが。


 というわけで、僕は列の最後尾についた。


 ……とは言うものの列がまともにできているのは僕が並んでいる場所ぐらいしかない。

 あとは熱気……と言うか殺気を撒き散らしながらの押し合い圧し合いが展開されている。

 時々列の方にまでそれが流れてくる事もあるが、列を形成している人たちはきっちりと秩序を死守していた。


 この向こうのカウンターには食堂のオバさんたちがいて、それぞれで対応しているのだが、それが”それぞれ”であるがゆえにこの混乱が起こってしまうのだ。


 改善しろよ、との意見もあるが、食堂の事について職員会議や生徒会を開くはずもなく、この無法はこの学校の歴史が止まるまで続く事だろう。


 と、そんな思考をしている間に列は順当に進み、僕は無事目的の品を買う事が出来た。


 ……今日は運が良かった。

 いつもなら、この列にさえまともに入れないこともあるのだから。


 安堵しつつ人ごみを掻き分け、僕は境乃さんが取っていてくれた窓際の席に辿り着いた。


「お待たせ、境乃さん」


 そう言って、トレイに乗せたミートソーススパゲティを境乃さんの前に置く。

 僕も自分の昼飯を乗せたままのトレイを境乃さんの向かいに置いて、席に座った。


「……お疲れ様」


 ジッとこちらを見据えての御礼――それだけで思わず顔に熱を、なんとなくの気恥ずかしさを感じてしまう。

 それを小さく笑う事で気を逸らしながら、僕は言った。


「いや、その。大した事じゃないし。じゃ、どうぞ」

「その前に、一つ聞きたい事があるんだけど」

「なに?」

「……どうしてあなた私の名前を知ってるの?」


 ガシャンッ!!と音が響く。

 彼女の発言に、僕が古典的、あるいは伝統的なリアクションでテーブルに突っ伏したからである。


「……何かのぎゃぐ?」

「……違うよ……」


 起き上がり額をさすりつつ、僕は答えた。


「同じクラスだったんだ。だから、知ってる」

「なるほど。納得したわ」


 ……その言葉はネタとかそういうものでなく、心底からの納得の頷きだった。絶対そうだ。

 恐るべし、境乃切那嬢……。


「……じゃあ、疑問解決したので、ありがたくいただきます」


 律儀に手をあわせてから、彼女はフォークを取った。

 それにつられて――ではなく、いつもやっているように、僕も手を合わせてから箸を取った。

 ……ちなみに僕の昼飯はカツ丼(大盛り)である。


 彼女の食べる様は実に静かだった。

 元来スパゲティは音を立てずに食べるのがマナーなのだが、それをここまでこなしている人はいないのではないだろうか?


 殆ど無音であっさりとそれを平らげた彼女は、無表情に窓から外の風景を眺めていた。

 頬杖をついたその姿は、一流絵画のモデル……というか一流絵画そのものの高貴さを漂わせていた。


 そして、その眼は……今朝と同じ様に雨を見ているような気がした。


「……雨、好きなの?」


 気付いたら、僕は箸を休め、そんな事を尋ねていた。


「……どうして?」


 どうしてそんな事を聞くのだろう……そういう問なのだろう。


「いや、今朝も雨を見てた様な気がしたから……」

「……そう」


 彼女は、外から……いや雨から視線を離さないままに、言った。


「……雨は……嫌い」


 またしても、自分の予期していた答とは違う答。

 でも、それは当たり前だ。

 僕は、彼女の事を何も知らないのだから。


 ……そこから後は、会話を交わす事もなく、ただ雨音と他のみんなの喧騒だけが響いていた。


 僕がカツ丼を食べ終わると、そこにはもう用事はない。

 僕らは、申し合わせたように同時に席を立って、食堂を後にした。


「……そういえば」


 教室に着いたその時、彼女が立ち止まった。

 彼女が、くるり、と軽やかに振り返る。


「……あなたの、名前……聞いてなかった」


 そんな事にさえ、今まで気付かなかった事に僕は笑った。


「……伏世憂。伏世憂。そういう名前。

 苗字でも名前でも好きな方で呼んでいいよ」

「……あだ名は?」


 ……思いも寄らぬ質問だった。

 少し考えてから、答える。


「あだ名は無くて、苗字呼びが殆どかな。

 そうでないなら基本的に憂で通ってるよ。呼びやすいからね」

「そう……」


 残念そうに少しトーンを落とす境乃さん。

 それを見て、僕は思わず思いつくままに声を上げていた。


「でもあだ名……つけたければ、つけていいよ」

「……いいの?」

「もちろん」

「なら――ふーくんって呼ぶわ」

 

 瞑目してから彼女が口にしたその名。

 少しかわいくて、自分には合わないのではと思ったけど――何故かそう言えずにいた。

 多分戸惑いや否定の感情より、遥かに嬉しさが勝っていたからだろう。

 どうして嬉しいかもよく分からなかったのに。


「うん、それでいいよ。境乃さん」


 そう呼ぶと、彼女はふと虚空を見つめて、一瞬何かを考えた後に言った。


「……。

 私のことは……”せつな”って呼んでくれるといい」

「……? ”きりな”じゃないの?」


 自己紹介では”さかいのきりな”――そう名乗っていたはずだ。

 素直に尋ねると、彼女は淡々と答えた。


「私は”せつな”で呼んで欲しい。

 読み替えただけで文字の意味は同じだから、問題ないよ」


 ……何故だろうか。

 なんとなく、そのお願いが――とても大切なものに、彼女の祈りのように思えたから。


「わかったよ。セツナさん」


 僕は、彼女をそう呼ぶことにした。

 会ったばかりの女の子をあだ名呼びすることなんてなかったから、ほんの少しだけ照れ臭かったけど……やっぱり、それ以上に嬉しかったから。


「うん、ふーくん」


 そんな僕に、彼女は……セツナさんはそう答え、頷いた。

 彼女が何を思って『ふーくん』としたのか、今度聴けたらいいな。

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