2 出会い――境乃切那――

 若干慌てふためきながら教室に入ると、まだクラスメートの皆はそれぞれ自由時間を謳歌していた。


 携帯を眺めたり、近くの席同士で言葉を交わしたり、真面目に一時限目の授業の教科書に目を通していたり――先生はまだ来ていないようだ。


「……ラッキー」


 思わず呟いてから、僕・伏世ふくせゆうはそそくさと自分の席についた。


「遅い到着だな。何かあったのかね?」


 僕の前の席に座る男子生徒が前に向けていた身体の向きを90度回転させて、話し掛けてきた。

 この何処となく変な男子の名前は、道杖どうじょう明日火あすか

 進級してクラス替えが行われた4月から、たまたま互いの席が近く、何気なく話しているうちにそれなりに親しくなっていた……そんな仲だ。


 尊大な口調で話しはするが、不思議とそこから相手を見下しているような感じは受けない。

 それは彼のお得な所だよな、と思いながら答える。


「いや、余裕があったからなんとなーく普段通ってない道を使って遠回りしてきたら――」


 瞬間、少し前に出会った女の子が、出来事が脳裏を過ぎる。

 正確に言えば、先程からずっと頭の片隅にあったものが、改めてメインの思考回路に浮かび上がってきた。


 それだけさっきの事は印象深かった――焼き付いて離れない、という言葉が比喩とは思えないほどに。


 だけど、それを正直に話すのはなんとなく躊躇われて、僕は簡単な事実を口にした。


「――思わぬ時間を食っちゃって」

「ふむ。伏世は、あれだな」

「……なに?」


 何か含む所があるのを感じ取られたのだろうかと、内心ちょっとビクビクしていると――する必要もないのに――彼は言った。


「今の暮らしに少し退屈しているようだな」

「……そうなのかな」


 なんとなく安堵しつつ、僕は首を傾げる。

 ついでのようにクキッと音が出るがそれはご愛嬌。


「そうだろう。

 普通人間というものは日常の枠から外れる事はない。

 例え時間の余裕があろうとも、自分自身でそうする事を選択するのにはそれなりの意思が必要になってくるからな」

「うーん……そうだね。そうかもしれない」


 しみじみと僕はその言葉に頷いていた。


 ……確かに、そうなのだろう。

 僕は今に不満はないが現状には退屈している。


 今朝の行動で何かが変わるというわけではないだろう。

 だが、その事で今の環境にささやかな綻びを作ろうと考えていたのかもしれない。


 ……まあ、そんな事は関係なく、あの女の子と出会ったのは嬉しかったのだけれど。


 一応思春期男子なので、見惚れるような女の子と出会って喜ばない理由はないのです、はい。


 しかし、それも多分あの場限りの遭遇、日常の中のささやかな非日常に過ぎないのだろう。

 その事がほんの少しだけ残念に思えた。


「おら、皆席につけ。HRを始めるぞ」


 いつのまにか教室に入ってきていた担任の先生が声を上げた。

 ちなみに、趣味はパチンコ、競馬、その他賭け事全般だと堂々と言ってのける中々に攻めてる三十代前半程の男性教師である。


 彼の一声でクラスメート達はそれぞれのペースで自分の席に戻っていく。

 それを見届けてから、先生は鷹揚な口調で言った。


「あー、と……今日は報告が一つある。

 こんな時期だが、転入生がうちのクラスに入ってきた。

 まあ、無理に仲良くしろとは言わんが、邪険には扱うなよ。

 ……女子は特にな」


 ポソリと最後に洩らした言葉の意味は一体――実に気になる……と言いたい所だが、僕としてはもっと気にかかる、というか思わず浮かんでしまう思考が一つあった。

 

 正直かなり馬鹿馬鹿しいとは思う。

 そんな事は漫画やアニメ――フィクションでしかありえない事だと思う。

 それでも、僕は……今朝会ったあの女の子が転入生だったらいいのに……そう思ってやまなかった。


「おい、入ってきていいぞ」


 カラ……と軽い音をたてて横にスライドした扉から、一人の少女が姿を現した。


 神様ありがとうございます……!!

 その姿を見て、僕は内心で十字をきって神様に感謝を示した。

 脳内では天使が鐘の音とともに舞い踊っている――でも、我が家は無宗教派でございます。

 その辺は気にしない方向でお願いします。


 さておき……先生の横に立つその人物は、他でもない、僕が今朝会ったあの女の子だった。


 基本的に人の顔を覚えるのが少しだけ苦手な僕だが、彼女の事はしっかりと頭に刻み込まれている。

 その証拠と言うわけではないが、彼女が着るウチの学校の制服にはまだ先刻の雨が染み込んでいる様だ。

 朝からの雨に傘を持っていなかったというのは印象深く、それゆえに彼女が彼女である事を僕は改めて確信した。


 まあ、考えてみれば服が乾いていないのも、彼女の顔を覚えていることも当たり前と言えば当たり前ではある。

 さっきからまだ10分と経っていないのだから。


 ……しかし、改めて彼女を見て思う。

 先生が『女子は特に』と言っていた事は決してオーバーな表現ではない。


 なんというか……全てが、綺麗なのだ。

……上手い表現ができなくて情けなくなるが、ただただ綺麗だというのがシンプルイズベストだと思う。


 艶やかな、長く伸ばした黒髪。

 その先は、三つ編み状になって一つに結わえられている。

 穏やかでありながらも、何処か細く鋭い眼。

 それは彼女のどことなくシャープな体型にとても合っているように思える。

 そして、それら一つ一つが完全な調和を取って、彼女という存在の完成度を主張していた。


 これだけ綺麗な人は、そうはいない。

 ――ただ、この学園には奇跡的に違うベクトルながらも、凄まじく綺麗な人がもう一人いたりするのだが。


 さておき。

 そうして動揺と興奮の坩堝にある僕を含むクラス中の視線を浴びつつも、彼女は緊張らしい様子を微塵も見せず、静かにスッ……と動き、チョークで黒板に字を書いた。


『境乃切那』


 ……何処か硬いが、丁寧な文字で、そこにはそう書かれていた。


「……”さかいのきりな”と言います。よろしくお願いします」


 そう言うと彼女は丁寧に頭を下げた。

 その所作もまたすごく美しくて、大半の男子は思わず小さく歓声を上げていた。

 女子の表情は……微妙だ。

 見惚れているらしく笑顔の人もいれば、あからさまに眉を歪めている人もいる。

 ……分かりやすいなぁ、うちのクラスは。


「……これほど反応がはっきりしているクラスも今時は珍しかろうな」


 ポソリと洩らした道杖くんもどうやら同じ事を思ったらしい。


「境乃の席は……窓際の列の一番後ろだ。

 分からない事があれば、隣の羽代はねしろに訊くといい」


 先生の指示に従って、少女……境乃さかいのさんは、スッ……と音もなく歩いていき、席についた。


「えと。は、はじめまして、羽代です。宜しくお願いします」

「よろしく」


 そんな会話が交わされるのが耳に入る。

 フィクション的なお約束としては、境乃さんの席は、僕の隣か後ろ……というものなのだろうが、そこまで望むのは調子に乗りすぎだろう。

 

 彼女が、このクラスにいる。

 今はそれだけで十分、いや十二分だった。


 僕は振り返って少し斜め後ろにいるはずの境乃さんの顔を見たかったが、あまりにも露骨なのが嫌で、その衝動をこらえた。

 でも、ともすれば振り返りそうになっている自分がそこにいた。


 今彼女は、境乃さんはどんな顔をしているのだろうか?

 ささやかな、そんな事が気にかかって仕方がなかった……。






 時期外れの転入生という、突然の非日常があっても時間は変わらず、いつもどおりに流れていき、同じくいつもどおりの音でチャイムが鳴り渡る。


 つまり、4時限目の授業が終わったという事で。

 この授業の終わりが何を示すのか……その答は自分の中にある。


 ぐー、と間の抜けた音が僕の身体の奥から響いてきた。


 ……まあ、つまりお腹が空いてお昼だという事である。


 我が伏世家の基本原則はお昼は自分で考え自分で確保。

 要するに小遣いで何とかするのも自分で作るのも自由という事で。


 今日は――そもそも作る余裕がなかったので、選択肢が存在しない。

 そんなわけで、僕は学食に向かう事にした。


 そうして席を立った僕の視線の先に、境乃さんの姿があった。

 どうもこれから何処かに(多分昼食だろうけど)行くらしく、静か、かつ少し速足で自分の席を離れていく。


 少し悩んだ末――彼女に声を掛ける事にした。

 そうなるとまあ、必然的に彼女の後を追う事になるだろう。

 なんだか、ストーカー染みてる気がするが――彼女にはちゃんとしたお礼を言わなければならないのだ。


 そう、わざわざ靴紐を結んでくれた事へのお礼をだ。

 朝にも伝えはしたが、あれだけでは納得いかない。

 きっちりしっかり感謝の気持ちを伝えつつ、学園に不慣れな彼女の手助けが出来れば、よりちゃんと御礼になるだろう。


 ――わざわざ改めて御礼を言うまでもないだろとか、ただの口実だろとか突っ込まれると、正直ぐうの音も出ませんが。

 

 緊張を解す為にそんな様々な思考を絡めつつ、僕は彼女の背中を追った。

 ……クラスの皆は彼女の姿、行動に気付いていないのか自分達の食事やお喋りに夢中である。


 今朝の皆の反応からすれば意外だが、好都合と言えば好都合なので問題はない。

 僕は少し早歩きして彼女の背に追いつくと、緊張しつつも思いきって声をかけた。


「……境乃さん」


 やや緊張して声がうわずってしまった。うう、予想外で恥ずかしい。


 ともあれ声は届いたようで、彼女はピタリと立ち止まると、ゆっくりと振り返った。

 その表情は……何故だろうか、少し硬かった。


「……なんで……?」


 彼女の小さな口からそんな言葉が漏れた。

 まるでありえない事が起こっているかのような――は言い過ぎにしても、それに近いニュアンスの反応である気がした。


 声を掛けられて嫌がってる……のだろうか?

そうなら早くこの場から立ち去るべきだと思った――けれど。


「……あ、その、覚えてるかな?

 今朝、靴紐を結んでもらったんだけど……」


 気付いた時には、僕は第一声として予定していた言葉を口にしていた。


 ……自分の行動なのに、僕は驚いていた。

 言葉自体は考えていたけれど、声を掛けるかどうかは未だ思案していた……でも、最終的には、言葉が我先にと飛び出す形で声を掛けてしまっていた。


 僕がそうして戸惑っている中、境乃さんは一瞬だけ目を少しだけ見開いてから、ああ、と洩らした。

 

「……それで、か……。

 ……ええ、覚えてるけど……何か用?」


 それで、という言葉に含んでいるものが気になったが、今は二の次だった。


 あんな事でも覚えていてくれた……。

 それが嬉しかった。

 今朝の事だから覚えているのは当然だと分かっていても、嬉しかった。


 その嬉しさの勢いに乗って、先程同様、口が先走って言葉を紡いでいく。

 

「お昼……なんだけど……場所分かる?」

「……ええ。この学校の構造なら、理解しているわ。

 食堂は東館1階の奥にある」

「うん。それで……なんだけど、良かったら今朝の御礼と転入祝いということで学食一品奢りたいなぁ、って思って」

「私に?」

「うん」


 頷くと、彼女は、ほう……と虚空を見詰めて……どうやら思考時間らしい……しばししてから口を開いた。


「……私、所謂なんぱをされてるのかしら」

 

 ナンパ――女の子に声を掛ける行為、だっただろうか?

 フィクションではたまに聞くけれど、使ってる人を見た事がない、そんな言葉。

 彼女の口から洩れたその言葉を理解した瞬間、僕は狼狽した。


「あ、その……そうともとれなくないこともないけど。

 いや、その気がないって言ったら嘘になるかもしれなくて……でも、それより感謝したいって気持ちが先だし――!?」


 つい動揺してしまった僕は”わたわた”と擬音がつきそうな動きで弁明のような言葉を並べ立ててしまう。

 うう、変な奴だと思われてるだろうな――恥ずかしい。

 

 境乃さんはそんな僕の様子を無表情に眺めてから、静かに言った。


「……ひとまず、行きましょうか食堂に」


 冷静で簡潔な答え。

 今はそれがすごくありがたかった。

 僕はコクコクと首を縦に振って、堂々と歩き出した彼女の後ろを追った。


(……どっちが転入生なんだか……)


 そう思うと、僕の口から重い息が零れた。

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