ペイル・ブルーの魔女
私情小径
第1話 夜のはじまり
──世界で私だけが夜を捕まえる秘密を知っている。
──だから私は魔女になった。ペイル・ブルーの魔女に。誰よりも無知な魔女に。
▼
ニクスは気怠い身体を起こす。下着を整えて、フロントボタンの付いた黒いニットワンピースをゆっくり着込む。次いで、帳のような夜空色に星々が散りばめられたローブを頭から纏い、緩慢とした足取りで寝室を出た。
ニクスの纏うローブは彼女が魔女を襲名する際に先代から引き継いだもので、本物の夜空を切り取ったマジックアイテムだ。丈が自動調節される優れモノで、身長が平均よりやや低めのニクスが着用しても引きずることはない。ニクスは、このローブを編んだ初代魔女以来の
「アテラ。帰りますよ」
そのまま邸宅を出たニクスは、庭先の沈丁花と戯れていた自身の使い魔を呼び出す。思っていたよりも嗄れた声を出した自分に、ニクスは酷い不快感を覚えた。ぎり、苦虫を噛み潰し、軽い咳払いを一つ。
「アテラ」
「あるじ。てっきり今日は、もう帰らないものかと思っていたよ」
アテラはニクスを見上げる。憎たらしい四足歩行の獣は、隠す気など微塵もない悪意をニクスに放った。
「莫迦を言わないでください。朝になったのですから、私の仕事も終わりに決まっているでしょう」
「そ。常夜の魔女が時間に縛られるだなんて滑稽だね。いや、誠実と言い直そうか。自分は安売りするクセに、ね」
「……口が過ぎます。領分を弁えなさい」
「はいはい。悪かったよ」
重みのない謝罪だった。無論、ニクスは心からの謝罪などハナから期待していなかったし、アテラもまた、するつもりはなかった。
一般的な主と使い魔の関係と比べ、ニクスとアテラは異常だ。
なぜなら、通常の魔主従における特殊契約とは、普通は信頼と親愛をベースに行うものだからだ。使い魔契約は、互いが互いを認め合うことで初めて成立するのである。
しかし、ニクスとアテラの間にそんなものはなかった。
ニクスは魔女という社会的地位の体裁のため。
アテラは寝床のため。
共に、自身の利ゆえの腐れ縁を続けているに過ぎなかった。
ニクスが邸宅の庭を出ると、辺りはすっかり白んだ陽光で満たされていた。鳥が笑い、花が謡っていた。世界は朝に染まっていた。たった一つ、ニクスの背後の邸宅を除いて。
ニクスは振り返る。邸宅は陽光をも飲み込む漆黒のドームに包まれて、未だに夜の体裁を保っていた。まるでそこだけ世界から取り残されたかのように、不気味なほどに心地よい静けさがあった。
これが、ニクスの仕事だった。
夜を捕まえ、切り取り、形を紡ぎ、欲する人へと売る。
日の出と共に終わる夜を、次の日の出まで延長する。
もしくは眠気を誘う睡眠薬にもなったし、麻薬のように心の闇を取り去ってしまうことも可能だった。あるいは、夜の世界を自由に治めることも、夜闇のように忘れてしまうことも。
きっと、夜に関することならなんでも。
──私は、何一つ満足に修められてなんていないけれど。
▼
遠い昔、初代魔女が『
当然のことだ、とニクスは考える。
不安だったのだ。夜が消えてしまうことが。
夜という絶対的な安息があるからこそ、人は生きていけるのに。
もしそれがなくなってしまったら、と気が気でなかったのだろう。
まあ結局のところ、それは全くの杞憂だったわけだが。
最初の夜解がなされた後、人々が思い知ったのは、夜の儚さではなく、闇の揺るぎなさだった。
魔女が夜を解くと、あらわれたのは雲一つない青空だった。
人々の心もまた、糸のように解けた。
刹那の後、空の切れ目は再び夜に編まれた。
人々の心もまた、夜と共に編まれた。
魔女が繰り返した。
人々の心は繰り返さなかった。
夜は変わらなかった。
しかして魔女は『夜解魔法』を禁忌と定めた。
『夜紡魔法』だけが遺った。
──どうして?
この伝承を思い浮かべる度、ニクスの思考は疑問に包まれる。詩のようにまとまっている訳ではなく、歌のようなリズムもない。筋は確立されず、意は不明瞭だ。そもそも本質的に誤っている。
ゆえにこの伝承は、一族の中では欠陥扱いされている。一部が欠損したか、誰かが伝え間違えたか。あるいは意図的に改竄したのか。
悩めども、ニクスは未だ答えに辿り着かない。
ニクスは半円の夜に向かって深く礼をする。たっぷり四秒、じっと頭を下げた。どのような客であっても、誰も見ていなくとも、ニクスは絶対にこれを忘れなかった。
たとえ不出来な魔女でも、夜紡の矜持あるゆえに。
「おいおいあるじ。やめておけよ。まさか本当に箒で飛んで帰るつもりかい? 今のあるじなら、相当に不格好な座り方をしないと箒に跨がることなんてできないだろう? 大人しく歩いて帰った方が笑いものにならなくて済むぜ」
「問題ありません。万一の時は私の周りに夜を紡げばいいだけです。幸い夜のストックはまだあります」
「あるじ、それマジで言っているのい。あんな稚拙な夜紡で編んだ気になってるとか、控えめに言ってどうかしてるぜ。いくら本物の夜だからといって、恥ずかしいったらありゃしない」
実際これはアテラの言う通りなのだろう、とニクスは思った。ニクスは一族で誰よりも劣っていたからだ。長い歴史の中で体系化された『夜紡魔法』を、唯一まともに扱えなかったのはニクスだけだ。
それにもかかわらずニクスは、ただ夜を捕まえることができるという、それだけの理由で今代の魔女となった。初代魔女以来誰も紡ぐことのできなかった本物の夜を紡ぐことができるがゆえに。
一族が数百年間してきたような暗闇の代用ではなく、真に夜を捕らえることができるゆえに。
「なああるじ。せめて改名でもしたらどうだい。あるじは夜紡より夜解の方が性に合ってるだろ。皮肉なしにね」
「……私はペイル・ブルーの魔女です。初代がそうあれかしとしたように、今までも、これからも」
「だろうと思ったさ。聞いただけなんだからそんなにムキになるなよ。まったく、いつの時代も魔女は強情だね」
夜は無限に満ちるというのに、魔女はなぜ夜解を禁忌としたのか。
その理由を、ニクスは知らない。
なぜならニクスは、世界で唯一、本物の夜を知るがゆえに。
ゆえにこそ、とニクスは思う。あの程度の理由が禁忌になるなんてあり得ないのだ、と。
「『魔女の』命令です、アテラ。あなたが私を家まで運びなさい」
「……対価は」
「高級猫缶、一ヶ月」
ふわり、二十センチの小獣が、音もなく巨獣へと転身した。背にニクスを乗せたアテラが、朝の風を駆けた。
文字通りのひとっとび。とはいえアテラのそれは、もちろんニクスの身体を慮ってのことなどではない。猫缶に気が急いたわけでもない。ただ、箒の操縦と速度をひそかな自慢にしているニクスの心の拠り所を消し飛ばしてやろう、という思い付きだった。アテラはニクスの顔が劣等感で歪む瞬間が大好きなのだ。
「はい、着いたよあるじ。とっとと降りろよ。いやあそれにしても、我ながら快適な空の旅だったねえ。だよねえあるじ?」
「……ふん」
その顔が、アテラにとって何よりの報酬だった。身体を大きく震わせて、アテラは小獣へ戻る。
「寝ます」
「お風呂は?」
「いちいち確認しなくいい」
アテラの顔を見ることなく、ニクスは浴場へ急いだ。
魔女を襲名した唯一の利点は、専用の風呂場持てることだとニクスは考える。ニクスにとって、共用の大浴場はイヤな思い出しかなかった。わざわざ思い出したくもないほどに、不吉な思い出でいっぱいだった。
ローブを脱ぎ捨てる。浴場に足を踏み入れて、先ずはシャワーだ。熱湯が身体を撫でる。汚れも、いらない感情も、掻き出すように流れていった。髪を洗った後は左脚から時計回りに四肢を泡立て、小さな手のひらで目いっぱいに擦る。次に肩から降りて、胸、腹、鼠径部の隅に至るまで、熱く、激しく、壊れてしまうくらいに。
「──あ」
夜に取り残された身であるとはいえ、風呂はなんとも代えがたいものだと、ニクスは改めて実感する。
「うぁ」
顔も洗って、ニクスはようやく湯船に浸かる。
思わず漏れた声が反響する。子猫の鳴き声のようなそれが消えていくのをじっと聴きながら、ニクスは目を閉じる。
「あー」
「んー」
意味のない音が木霊して、消える。無為に繰り返して、心も体もほぐれていった。
そうしてどれくらい経っただろうか、出来る限りの時間を使って身体を労わった後、ニクスは風呂を出た。
ニクスが自身の屋敷ですることといえば、風呂を除けば寝るか魔法の鍛錬しかない。昨夜の重労働を鑑みれば、ニクスが選ぶ選択肢は明らかだった。
横になって、意識が遠くなる。人目を気にする必要もなく、ニクスは身体を投げ出した。日の巡る間、ニクスはただ眠っていた。
小猫の煩わしい気配も今だけは気にならないほどに、ニクスは眠り続けた。
▼
ニクスが再び目を覚ました時、時刻は二十三時五十分を過ぎていた。ニクスの仕事は日付を超えてから日の出まで。このままでは遅刻もいいところだと、同じく横で寝ていたアテラを起こす。
姉のエリスが訪れたのはちょうどその時だ。
「姉さま。こんな時間にどうしました」
ニクスはエリスに問うた。表面上は取り繕ったものの、ニクスは酷く動揺していた。まさか姉が自身を訪ねてくるだなんて思ってもいなかったし、この姉以上に気まずい相手もいなかったからだ。
なぜなら、ニクスが生まれることさえなければ、このエリスが今代の魔女を襲名していたに違いなかったからだ。それほどにエリスは優秀だった。夜を捕らえるしか能のないニクス自身とは違って、姉は一族の中で最も夜紡に長けていた。
「ニクス……こんな時間にごめんなさい」
エリスは慎重に言葉を選んだ。
「その、アタシ、今朝、あなたが帰ってくるところを見たの、偶然」
ああ、とニクスは納得した。敏い姉だ、と顔をしかめた。
ニクスは若干残る気怠さを滲ませてエリスに向き合った。
一方、隣でアテラはにやにや笑っていた。アテラはニクス以外の人物がいるところでは普通の猫のふりをするから、笑うだけで何も喋ろうとはしなかった。ただただ、面白いことになったと笑っていた。
「あなた、またあの男の家に行っていたのでしょう? もしニクスがそれでいいなら、その、アタシが関わるべきではないのかもしれないけれど、でも、そうじゃないなら、今からでもアタシ、大叔母様の所へ行くわ」
「姉さま」
ニクスは姉の言葉を遮った。そして、ニクスはもまた、言葉を選んだ。大叔母に言いつけられても痛くもかゆくもないことだが、面倒の種は摘んでおこうと、ニクスは考えた。
「私も魔女とはいえども、またヒトです。そういうことも、あるでしょう。どうかお察しください。それにほら、私は腐っても魔女ですから。火の始末を身内にさせたなんて根も葉もないうわさが広まってしまうのは名折れですもの」
強引に話を切り上げようとするニクスに、エリスも食い下がった。
「アタシには、そうは見えなかった」
この言葉が単なる憐みだったならどれだけよかっただろう、とニクスは思った。
「ところで、姉さまは初代魔女がなぜ死んだかご存知ですか」
ニクスは、急な話題転換に戸惑うエリスに、なおも続けた。
「初代魔女は不死でした。『夜解魔法』を収得したその時から、彼女の身体は夜に固定されました。たとえどんな傷を負おうと、死んでいようと、日付が変わるその瞬間になれば、瞬く間に回復してしまうのです。そう、例えば、こんな風に」
刹那、夜が解れた。空から降りてきた夜空色と星々の煌めく糸が、ニクスの身体囲み、輪郭を包み込んだ。
時計は、零時丁度を指している。
ニクスは続ける。
「ですから、ええ、確かに私の行為は、一種の自傷なのでしょう。でも、それがどうしたというのですか?」
糸が像を結ぶ。現れたのは、いつもと同じニクスだった。
いつもと変わらず、傷ひとつない、一片の疲労すら感じさせないニクスがそこにはいた。
「ご存知の通り、私はまともな夜紡ひとつ上手くできません。ですから、きっとコレは呪いのようなものなのでしょう。本当の夜を知るがゆえの、代償なのです」
ニクスは続ける。押し黙るエリスに、なおも続ける。
「どうかご自愛なさってください姉さま。こんな魔女なんかに気を回す必要はありません」
ニクスの身体に疲れはない。痛みはない。傷は残らない。夜に取り残されたニクスは事実上の不老不死だ。老いは蓄積されず、日を跨げば死んでいても蘇る。
そのことを知った時、ニクスはこの世の殆ど全てがどうでもよくなってしまった。いや、あるいは叫んだのかもしれない。実のところ、ニクスはよく憶えていなかった。
気づいた時には真綿のような諦観が身を締め付けていて、アテラはそれを見て笑っていた。
「ああでも、だとしたら、初代魔女はどうやって死んだのでしょうね……なんてまあ、今はどうでもいいですけど」
ニクスは続ける。
「でも、ひとつだけ、まだ気になることがありまして。彼にはそれの解明を手伝って貰っているんです。私が彼に夜を売るのは、その正当な対価です」
「……気になる、こと」
「ええ、それはほら──あ、姉さま。前髪に埃が付いていらっしゃいますよ」
「え──」
「『
ニクスがエリスの額をそっと手で覆う。そして小さく呪文を唱えれば、エリスの意識は途端に夜の世界へと旅立った。
ぐらりと傾くエリスを横たえて、ニクスはため息をつく。エリスは妹思いの良い姉だが、過干渉なところが玉に瑕だ。
「はあ。行きますよアテラ。やるべきことが盛りだくさんです」
「はいはい。今日もあの家に行くのかい?」
「行きませんよ。昨日今日で進展もあるはずないでしょう。彼には引き続き『
「うへえ。それは大変だ。単語一つにここまでさせられるなんて可哀相でならないね」
「大儀ですよ。
結局、ニクスが気になっているのはその一点だけだ。夜を紡ぐはずの魔女がペイル・ブルーと称される理由。くだらない興味で、しかしそれこそが、全ての謎の根源である気がしていた。
夜は周る。夜は続く。地を蹴って、魔女は音もなく闇を翔る。
いつものように、いつもと変わらず、置いてけぼりの魔女は夜を紡ぐ。
「さあ、仕事です」
ペイル・ブルーの魔女 私情小径 @komichishijo
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