二 怪異

 いつも通っている校舎とは違う顔をした、夕暮れ刻の小学校……自分以外、動くものの何もない薄暗い廊下は、異様なほどにシン…と静まり返っています。


「うん……パっと行って、すぐに取って戻れば大丈夫だよ……」


 そんな言葉で自分を奮い立たせながら、A子さんは早足で、非常灯と火災報知器の赤い光だけが点る廊下を、自分の教室に向けて急ぎます。


 五年生のA子さんの教室は三階にあったので、階段も全速力で駆け上がり、なんとか教室へとたどり着きました。


 ガラガラ…と、いつもよりも響く音を立てて入口の戸を開き、夕闇の満ちた教室の中へと入ります。


 無論、そこにも人影はなく、自分の息遣い意外は何一つ音がありません。


 その上、薄暗いというよりは、最早、夜に近い闇に覆われており、なんだか普段使っている自分達の教室とは違うような……どこか、他の教室に間違えて来てしまったのではないかという錯覚にすら捉われます。


「…あった! ハァ〜……」


 それでも、間違いなく自分の机はそこにあり、お目当てのリコーダーを引き出しの中から取り出すと、A子さんは安堵の溜息を吐きました。


「さ、早く帰ろう……」


 そして、目的を果たしたのだから長居は無用と、すぐに教室を出ようと顔を机から上げたのですが、その時、なにやら背後に人の気配を感じました。


「…!?」


 驚いて、思わずA子さんが反射的に振り返ると、そこには──教室後方の壁際には、いつの間にやら女の子が一人立っていました。


 歳は自分と同じくらいだと思うんですが、クラスメイトではないですし、見かけたこともないような子です。


 ……いや、見かけたことがないばかりか、現代の小学生にしてはどうにも違和感があるんです。


 前髪をパッツンにしたオカッパ頭……昭和の子供が主人公の某国民的アニメに出てくるような、白いブラウスと肩紐のある赤いスカートのファッション……恰好が古めかしいというか、朝ドラなどでしか見たことのない、昔の小学生を思わせる姿なのです。


 でも、それだけはっきりと服装はわかるのに、顔だけは暗がりのせいかよく見えません。


「……わたしのノート、どこにあるか知らない? ……わたしが忘れ物したノート、どこにあるか知らない……?」


 その顔の見えない古めかしい女の子が、そんなことをブツブツ呟きながら、ゆっくりとA子さんの方へ近づいて来ます……いや、近づいて来るのですが、まるで床の上を滑るかのように足音がまるでしません。


「……ノートがないの……わたしが忘れたノート、どこを探してもないの……」


 背筋に冷たいものを感じ、身体が硬直して動けずにいるA子さんに、徐々に徐々に近づきながら、女の子はそう尋ねます。


「……ねえ、わたしの忘れ物のノート……どこにあるのか教えて……」


 そして、目と鼻の先にまで近寄った女の子の顔がようやく見えたのですが……。


「ひっ……!」


 A子さんは全身の血の気がうせ、凝り固まった表情筋を大きく引き攣らせました。


 なぜなら、その死体のように蒼白い肌をした彼女の顔には、二つの眼のあるはずの部分にぽっかりと、真っ黒い穴だけが空いていたからです。


 明らかに生きてる人間ではないその存在……〝忘れ物のノート〟というその言葉に、彼女が〝ナグサちゃん〟であることに思い至るのは、そう難しいものではありませんでした。


「キャアアアァァァーっ…!」


 それを理解した瞬間、A子さんは悲鳴をあげると、金縛りの如く固まっていた身体を弾けるようにして翻し、全速力でその場から逃げ出します。


「…ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……」


 教室を飛び出したA子さんは、薄暗い廊下を無我夢中でとにかく走りました。


 ですが、あまりのことにうっかりして、昇降口のある方向とは逆の方へ走ってしまっています。


「……ま、間違えた……こっちじゃない……」


 その過ちに気づいたA子さんは、慌てて方向転換しようと振り返ります。


「……ひぃっ…!」


 ですが、振り向いた彼女の目は廊下の向こう側に、暗闇の中でぼんやりと白く光って立つ、あの女の子の姿をまたしても捉えてしまいます。


「い、イヤあぁぁぁぁーっ…!」


 A子さんは戻ることを諦め、今、自分のいる廊下の奥からならすぐ近い、もう一つある階段を使って一階へ下りることにしました。


「…ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……」


 A子さんは一段抜かしに、まさに転がり落ちるようにして階段を駆け下ります……。


「…ハァ……ハァ……あ、あれ? ……おかしい……なんで一階じゃないの……?」


 ですが、そうして階段を駆け下りる内に、その異様な事態にA子さんは気づきました。


 さっきから何度も……どう考えても三階分以上の踊り場を通り過ぎているのに、なぜかぜんぜん一階にたどりつかないんです。


 もう六階か七階くらいは階段を下っています……これではまるで、永遠にこの階段が地下へ地下へと続いているかのような感じです。


「……キャっ…!」


 これではダメだと足を止めようとした矢先、次の踊り場に立つ女の子の姿が見えて、強制的にA子さんはその場で踏み止まることになります。


「……ノートがないの……わたしが忘れたノート、どこにあるか知らない……?」


「ひ、ひぃぃぃ…!」


 先程同様、そう呟きながらゆっくり迫って来る〝ナグサちゃん〟に、A子さんはくるりと反転すると、今度は階段を駆け上がり始めました。


「…ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……」


 下りるのとは違い、駆け登るのはすぐに脚がだるくなってきて、激しく息が上がってしまいます。


 もう、今、何階にいるかもわからないですし、登り続けるのが辛くなったA子さんは、途中で横に折れると、その階の廊下を昇降口方向へと進みました。


「…ハァ……ハァ……ハァ……ひっ…!?」


「……ノートがないの……わたしの忘れたノート……」


 しかし、またも進む廊下のその先には〝ナグサちゃん〟が待ち構えていて、忘れ物のノートの在処ありかを相変わらず尋ねてきます。


「…ハァ……ハァ……うくっ……ハァ……ハァ……」


 踵を返し、再び逆方向へと逃げるA子さんでしたが、そんなことの繰り返しばかりで、いつまで経っても昇降口はもちろんのこと、他の出口にもたどり着くことができません。廊下の突き当たりにあるはずの非常口にもです。


 閉じ込められた……。


 そんな言葉が、A子さんの脳裏に浮かびました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る