第28話 わたしたちの選択

 二月も終わり三月。

 今は学年末テスト、最後の教科である、数学を受けている。

 テスト終了まで、あと五分。今は、テストの見直しをしていた。

 これが終われば、今年度のテストはすべて終わり。あとは終業式を待つのみである。

 ここまでのテストの手応えは悪くない。

 一年の頃の、すべての教科で赤点すれすれの点数を取っていたときと比べると、今は平均より上の点数を、安定して取れるようになってきた。

 テスト前に焦る事も無くなり、一夜漬けなどもなくなってきた。

 成績も伸びてきているし、気持ちにも余裕が出てきている。

 そんなことを考えながら見直しをしていると、チャイムが鳴る。

「うがああああ!」

「ん~!」

「ほあああああ!」

 学年末テストが終わったということで、達成感からか、体を伸ばし、声を漏らす生徒も多かった。

「はーい、後ろから前に答案用紙送ってくださーい」

 試験監督だった谷田先生が、指示すると後ろから答案用紙が回ってくる。

 それらをすべて受け取った谷田先生は、枚数を数えると「じゃあ、ホームルームまで休み時間です。お疲れさまでした」と言ってから、教室を出ていった。

「よ!」

「お。お疲れ深瀬」

 深瀬が、座って机の上の片づけをしている俺に、声をかけてきた。

「今日練習ないからさ、適当な面子集めてバスケしようぜってなってるんだけど、進も来てくれよ」

「あー。そうだな」

 テストは午前に終わる予定だったため、俺は昼飯を持ってきていない。

 でもまあ、それは購買で買えば済む話だ。

 着替えも一応、ジャージがロッカーに入っているし……これは乗った!

「おっけ。行くわ」

「キタ~! じゃあ一時ぐらいから体育館使えるから、好きなタイミングで来てくれよ」

「おう」

 深瀬はそう言うと、廊下へ出て行ってしまった。

 早速俺も、昼飯を買いに購買に行かないとな。

 その後、俺は、購買がやっている一階の階段下に着くと、林田が買い物を済まして、帰ろうとしているところが目に入った。

「お」

 林田もこちらに気が付いたようで、パンを持っていない方の手で手を振りながら、俺のところまで来た。

「よ。なんか買いに来たのか?」

「まあな。林田は……焼きそばパンか」

 林田は焼きそばパンを持っていた。

「これが一番旨いんだよ」

「わかる」

 俺は腕を組みながら頷く。

「そういや、進は午後なんかあんの? 帰宅部は帰れるはずだけど、何で購買に来たんだ?」

「ああ。午後体育館でバスケするって誘われてさ。飯がいるんだよ」

「なるほどなるほど。球技大会、大盛り上がりだったしな。そりゃ誘われるわ」

「お前も知ってんだ」

「結構いろんなやつが話題にしてたぜ。まあ、もうあんまり聞かなくなったけど、それで進を覚えたって人は多いと思うぞ」

「へえ~」

 いろんな人に覚えられて、嬉しいような恥ずかしいような。

 でも、まあ「非モテの鉄人」って覚えられるよりかは……マシだな。

「そういや、テストどうだった」

 俺は林田に聞く。

「まあまあかな~。とにかく、赤点はないと思う。赤点だけは回避しないといけないし、良かったぜ」

 林田はグットサインを出しながら言う。

「赤点取るとまずいの?」

「同じ部活の川端にみっちりしごかれる」

「ああ。そりゃまずい」

 川端さん、そんな一面もあるんだな。

 やっぱり、表情には出ないし、静かな人だけど、面倒見はいいんだろうな。

「あ。進路希望、進は出したか?」

「あ~。まだ出してない」

「俺はとりあえず、希望大学書いて出したぜ。提出は三月の……十五日ぐらいまでだった気がするから、出し忘れるなよ」

「おう。とりあえず後でスマホのカレンダーに入れとくわ」

 林田はそこまで言うと、あごに手を当てて、何かを考え始めた。

「えっと~何か言いたいことがあったような~」

 林田は必死に考えていた。

「あ、そうそう。来週の土曜に学校で人形劇やるから、見に来てくれよって言おうと思ったんだ」

「人形劇?」

「ああ。手芸部と合同でやるんだ。手芸部が人形作って、俺たちが声で演技するんだ。蜜柑と、なんと今回は俺も主役なんだぜ」

 林田は嬉しそうに言う。

「へえ。林田が主役なのか」

「おう。やっと主役が出来てうれしいぜ。人形劇だけどな」

「それでもいいじゃんか。脚本はやっぱり三島か?」

「ああ。しかも、どうやら蜜柑の要望を受けて、その要望を活かした脚本らしい」

 林田は嬉しそうに言った。

「え~っと、来週の土曜な。行くよ」

 こんなに嬉しそうに言われると、断れない。

「やったぜ! 人形劇だからって甘く見るなよ? 俺ら、超がんばってんだから」

「へへ。期待してる」

 俺がそう言うと、「任せとけ!」と林田は元気よく言った。

「あ、悪いな。飯買いに来たのに引きとめちゃってさ」

「いいや。別にいいよ」

「んじゃあな。来週の土曜、来てくれよ~。友達に声かけてくれてもいいからな~」

 林田はそう言うと、去っていった。

 さて、焼きそばパンでも買おうかな。



 バスケをし終えると、俺は体育館の更衣室で着替えて、そのまま帰ろうと思い、一階の廊下を歩いていた。

 テスト明けに、ここまで素晴らしい気晴らしが出来るとは思わなかった。

 深瀬には感謝だな。

 外はまだ明るい。

 西棟から、昇降口がある校舎に戻ると、ちょうどそこで蜜柑にばったり会った。

「わ、どうも」

「よお蜜柑」

「こんにちは」

 蜜柑は笑顔で言ってくれる。

 蜜柑は何やら、本のようなものを持っていた。

 よく見ると、台本みたいだ。

「蜜柑は部活か?」

「はい! 今度人形劇をやるのでそれの練習です。あ、進さんもぜひ来てください!」

「行くよ。林田にも来いって言われた」

「あ、そうでしたか……へへ」

 蜜柑は、頭を掻きながら笑う。

「そういえば、最近どうだ? お前らの家に行っても、蜜柑は夜遅くまで部活してるみたいじゃないか」

「そうなんですよ。最近、より練習に対してもモチベーションが高くなって、遅くまで頑張ることも増えたんです」

 蜜柑は最近、家に行ってもいないことが多い。

 修学旅行が終わった後ぐらいから、いないことが増えたと思う。

「あ、そうそう。進さんに相談事なんですけど」

「ん? なんだ?」

 蜜柑は明るく尋ねてくる。

 そこまで重要なことじゃなさそうだ。

「進路希望って出しました?」

「いや、出してないけど」

「そうですか。私も出してなくて、何を書こうか悩んでるんです」

 蜜柑は腕を組む。

「何で悩んでるんだ?」

 俺は蜜柑に尋ねた。

「演技の道に行くか、理系大学生になるかで悩んでます」

「あ~。お前別に勉強出来るもんな」

「そうですね……ただ薫さんや若葉ちゃんに比べると、さすがに見劣りしますけどね……頭良すぎです。あの二人」

 蜜柑が言っている通り、薫や若葉には及ばないが、蜜柑も頭がいい。

 学年テストでも、二桁順位は維持している。

「もちろんどっちもやってもいいんです。でも演技の道に行くとなると、目指すはプロになるじゃないですか。学校行きながら出来るのかなって」

「そうだよなあ~」

 確かに、中途半端になるのは良くないからな。

「でもまあ、希望を出しても、三年になってから進路を変えるってことも出来なくはないから、とりあえず、気楽に、今はこっちってほうを書いておくってのも手だぞ」

「そうですね~。気軽に考えてみてもいいのかもしれません」

 蜜柑は手を後ろで組み、ニコニコしながら話す。

「あ」

 俺は、蜜柑に聞きたかったことを思い出した。

「なんですか、急に」

「い、いや……ちょっと蜜柑に聞きたいことを思い出してな。でもちょっと言い出しにくくてさ」

 俺が聞きたいのは、蜜柑の黛への気持ちである。

 修学旅行のあの一件があった後、蜜柑とは、黛のことについて、しっかり話せていない。

 でもまあ、聞きにくいことではある。

 俺が言葉に詰まったのも、それが理由だ。

「じゃあ、その聞きたいこと、当てて見せましょう」

「お、じゃあ当ててみろ」

 蜜柑は胸を張り、当てて見せると宣言した。

「少しだけ、聞きにくいことを聞こうとしてるように見えました。ずばり、今の私の黛さんへの気持ちを聞きたいんでしょう!」

「お~。正解だ」

 俺は小さく拍手をする。

「やった! まあ、修学旅行のあれを知っているのは、ほんの数人ですし、その数人の中の一人である、進さんとは最近、面と向かって話せていなかったので、聞きたいことこれかなって」

「まあ、そうだな」

 俺の知っている限り、俺以外で蜜柑と若葉と黛と……あとまあ俺を含めて起こった、あの修学旅行の出来事は、当事者しか知らないはずだ。

 あれ? でも、川端さんって俺に話しかけてきたよな? 

 しかも、川端さんは発言的に、蜜柑に何が起きたか知っていそうな様子だったし……。

 ま、いいか。俺の知らないところで、蜜柑は助けられていても、おかしくないしな。

 俺に助けられなくても、他に助けてくれる人がいるなら、その方がいいか。

「そんで、どうなのさ。今の気持ち」

「う~ん」

 蜜柑はまた腕を組んだ。

「正直なところ、まだ……恋心は少しだけ残ってます……いや、うーん。難しいですね」

 蜜柑は、顔をしかめながら言う。

「あまりにも一緒に居る時間が長くて、しかも、黛さんに頼ってしまうことが多かったので、そう簡単には離れたくないって言うんですかね。それが恋心なのかはわからないっていうか……とにかく必要としちゃってるような、そんな感じです」

「なるほど。なんだかふわふわしてるな」

「そうですね。ふわふわしてます」

 蜜柑は頬をぽりぽり搔きながら、苦笑いする。

 一緒に居る時間が長くて、それも親の代わりになってしまうくらい、黛に頼っていたから、蜜柑は、黛への気持ちがよくわからなくなってしまっているんだろうな。

 距離近すぎて、友達にしか思えないって言うのはあるけど、これは離れたことがないから、よくわからないって言うのが良いのだろうか。

 それとも、親子なのか、恋人になりたいのか、わからないって感じだろうか。

「でも……ふわふわしてるから、こそなんですかね」

 蜜柑は大事そうに台本を抱えながら、続けて言った。

「あと、ちょっとの一押しで、吹っ切れそうな気がします。黛さんの事が好きなのか。そうでないのか。私からの黛さんへの気持ちがどうなのか。こう、具体的な目標が、やりたいことが見つかれば、吹っ切れそうな気がします」

 蜜柑はしっとり、ゆっくりと言う。

 口調は落ち着いていた。

「だからこそ、今は部活を頑張って、将来の事を一生懸命考えてます。必死に行動してるんです。咲さんを見つけるって目標に向かって、必死に行動したり、薫さんを助けるために、体を張ったあなたみたいに。なんてね」

 蜜柑は舌をちょっと出して、恥ずかしそうに言う。

「なんだ急に! 恥ずかしいな!」

「へへへ」

 俺だって恥ずかしいわ。

 でも、俺を参考に動き始めてくれたって考えると、なんだかうれしい。

「さ、私もそろそろ部室に行かないと」

「そうか。じゃあな。頑張れよ」

「はい! それでは」

 蜜柑は、元気よく西棟へ歩いて行った。



 夜。

 俺は、自分の部屋のベッドの上で、電話をしている。

 もはや、ほとんど日課になっている電話。相手はもちろん未来だ。

「うえ~。どうしよ~マジで解答ずれてたら~」

「いやもうどうしようもねえよ……」

 未来は何やら、解答を一つずらして、書いていたような気がしているそうだ。

 なに、テストを前の人に渡すときに、明らかに解答がずれていたような気がしていたらしい。

 ただ、確証がないせいで、余計に心にキテるみたいだ。

 いっそのこと、殺してくれ! みたいな感じだな。

 ずれてるって確信したなら、逆に吹っ切れるだろう。

「留年したらどうしよ……」

「ねえよ。まず、俺よりは成績いいし、評定で一を二つ取らなければいいし、平気だよ」

「あああああああああ!」

 未来は電話越しで、おかしくなっている。

 ここはそうだな。話を変えてやらないと可哀そうだ。

「そうだ! 来週の土曜、演劇部と手芸部が合同で人形劇やるらしいんだ。俺、林田に誘われていくことになったんだけどさ、一緒に見に行こうぜ。蜜柑と林田が主役らしいぞ」

「あ、そうなの? 行く行く!」

「おわ、急に明るいな。お前情緒どうなってんだよ……」

 未来は、さっきまでめそめそしていたのなんて、なかったかのように明るい声で言った。

 確かに話を変えて、雰囲気をよくしようと思って言ったけど、ここまで変わるとびっくりする。

「……あ、もう日付変わる」

 未来は言った。

「寝るか」

 俺は寝ることを提案する。

「うん」

 未来は、電話越しで、頷いたようだ。

「じゃあ、おやすみ。明日は?」

 俺は未来に尋ねた。

「うん。いつも通り」

「じゃあ、いつものところで」

「はーい。じゃね。進」

「また明日な、未来」

 俺はそう言うと、少し経ってから、電話を切った。

 さて、早く寝ないと。

 明日も学校だ。

 寝坊して、未来を待たせるわけにはいかないからな。

 俺は電気を消して、ベッドに入ると、ちょうどそのタイミングで電話がかかってきた。

 未来からだった。

「なんだよ」

「進、進。明日さ、休みじゃない? テスト休み」

「あ、そうじゃん」

「もうちょい話そうよ。明日休みだし」

「え、もう話すことねえよ。こっちはバスケしてから帰ってきたから、眠いんですけど」

「やだ。寝落ちするまででいいからさ、別に話さなくてもいいから」

「はあ~。ま、いいけどさ」

「やった~……そういえば、今日見てた動画がさ……」

 ……。




 次の週の土曜日。

 俺と未来は、演劇部の人形劇を見るために学校に来た。

 視聴覚室でやるそうで、視聴覚室に入ると、かなりの人がいた。

 先ほど、視聴覚室に入るときに、しおりを渡された。

 恐らく、劇のあらすじなどが書かれているしおりだろう。

 視聴覚室に、隙間なく置かれた席の内、七割くらいの席が埋まっている。

 部屋の明るさは、少し暗い。

「けっこう早めに来たけど、意外と人いるな」

「そうだね」

 視聴覚室の前には、人形劇をやるであろう、小さな舞台があった。

 教室の後ろには、照明もある。

 周りを見回すと、黛と若葉と久米さんと菊池くんの姿が見えた。

 蜜柑の演技を見に来たのだろう。四人で仲良く並んで座っている。

「結構見知った顔もいるな」

「そうだね。あ、みちるたちだ」

 未来は、みちるたち……柏木さんと赤城さんと森田さんに手を振る。

 向こうの三人も、手を振り返しているのが見えた。

「お」

 俺はドアの方を見ていると、薫と弥生が入ってくるところが見えた。

「薫たちだ」

「ほんとだ」

 未来は、二人を目で追う。

 黛と蜜柑の家によく来る奴らは、これで全員集まったな。

 こうやって全員揃うのは、久々かもしれない。

 俺は視聴覚室に入る時にもらった、しおりを見てみることにした。

 どうやら、主な登場人物は三人で、正次郎とアデリナ、そして崇の三人。

 正次郎が林田、アデリナを蜜柑が演じるようだ。

 その後、しおりを見ながら、少し未来と話していると、男子生徒が前に立ち、マイクを持って話し始めた。

「こんにちは。本日は寒い中、演劇部、手芸部合同人形劇にお越しくださり、ありがとうございます」

 そこまで言うと、男子生徒は頭を下げる。

「本日の劇の題目は、『選択』です。脚本担当曰く、『人形劇にしては、真面目なものになってしまったかもしれませんが、楽しんでくださると幸いです』だそうです。それでは、お楽しみください」

 そう言うと、男子生徒は静かに視聴覚室の端に下がっていった。

 真面目なものか。でも、蜜柑の要望を受けたものらしいし、三島なりに考えがあるのだろう。

 部屋がさらに暗くなり、舞台にスポットライトが当てられる。

 こうして、劇「選択」が始まった。

 まずは、女子生徒の語りが始まった。

「ドイツに留学する、正次郎という男がいました」

 舞台から、正次郎の人形が出てくる。

 髪はあげていて、若い好青年という印象だった。

 背景は船の上。正次郎は甲板に立っているようだ。

「若く、大学のエリートだった正次郎は、ドイツで様々な新しい、レベルの高い学問を学ぶつもりでした。留学には崇という、正次郎と仲の良い同級生が、同行していました」

 舞台から、ひょっこり崇の人形が姿を現す。

 坊主頭の青年と言ったところだ。

「彼もまた、学問を学び始めたエリートでした。二人は船に乗り外国の地に期待をしながら、地中海の潮風を感じつつ、長い船旅を経て、ドイツにたどり着きました」

 場面がドイツの町に切り替わる。

「ドイツに着くと、あまりの文化の違いに、二人は目を回してしまいました」

 語り手である女子生徒がそう言うと、続けて正次郎と崇は話した。

「日本とは何もかも違うな」

「ああ、家の形状も、使っている言語も、文化も、何もかも違う」

 がやがやとした、街中の音が、視聴覚室に響いていた。

 次に、語り手が、またゆっくりと語り始めた。

 俺は、劇に飲まれ、息をするのも忘れ始めた。



 しかし、正次郎も崇も、真面目でした。

 特に正次郎は、母にとあることを言われていました。

「勉強は、真面目にして、人の上に立って、偉くなりなさい」

 正次郎は、そう言われていました。

 その言いつけを、正次郎はしっかり守り、ドイツの雰囲気に流されることなく、さまざまな学問を、真面目に学んでいきました。

 その生活も三年続き、正次郎も崇もドイツの地で、素晴らしい役職に就きました。

 出世して、偉い人になることも難しくない職業です。

 ただ、正次郎は三年間の時間の中で、少しずつドイツの雰囲気に誘惑され、遊びが増えていきました。

 崇は、そんな正次郎を心配していました。

「いつか悪い女に惑わされて、ダメにならないようにな」

「そんなことは、起こるはずはないだろう」

 よく二人はそんな会話を、職場でしていました。

 ある冬の寒い夜。正次郎はお酒を酒場で飲んだ後、雪の中、暗い夜道を帰っていました。

 街灯があるものの、雪に反射するその光は弱く、とても暗い夜道でした。

 正次郎は、とぼとぼ歩いていると、暗闇の中に、誰かが倒れているのが見えました。

 あたりには誰もいないため、正次郎は駆け足で、その倒れている人影に向かって行きました。

 倒れているのは、女性でした。

 ひどく汚れていて、髪も乱れていて、寒さからか、鼻も赤くなっていました。

「大丈夫か!」

 正次郎は、少し彼女の身体を揺らしながら、言いました。

 女性は、少しだけ目を開き、正次郎の姿を確認しました。

「助けてください……もう一つも動けなくて……」

 女性は消え入りそうな、美しい声でそう言いました。

「わかった。俺に任せてくれ」

 正次郎はそう言うと、彼女を抱きかかえ、自分の家まで運びました。

 正次郎は家に着くと、彼女をソファに寝かせて、暖かい毛布を掛けてやりました。

 正次郎は彼女に、暖かいスープを飲ませてやると、彼女は少し元気になったので、暖炉の前にいるように、正次郎は彼女に言いました。

「すみません。ここまでよくしてもらって」

 女性は、正次郎に言いました。

「いいんだ。あたりに誰もいなかった。俺が助けるしかなかったはずだ」

「あの、お名前を……」

「正次郎だ。君は?」

「アデリナです」

 アデリナは、笑顔で言いました。

 正次郎は、アデリナに体を拭くものを渡して、隣の部屋で身支度をさせました。

 アデリナが部屋から出てくると、それを見た正次郎は、自分の目を疑いました。

「なんと、綺麗な女性なんだ。今まで髪も乱れて、寒さに震えていたから、気が付かなかったが、ここまで綺麗だなんて」

 正次郎は、そう思いました。

「ありがとうございます。もう体調はだいぶ良くなりました」

 アデリナは、丁寧に正次郎に言いました。

 正次郎はというと、彼女に興味が湧いたので、何かしらの理由をつけて、彼女と話をしようとしました。

「外はまだ暗い。朝までここで休んでいくと良い」

「はい」

「その間、俺と話をしてくれないか? 君の事が気になるんだ」

「はい。いいですよ」

 ソファに並んで座り、二人は話し始めました。

 正次郎はアデリナに、アデリナ自身の事を尋ね続けました。

「年は? どれくらいだい?」

「十九歳です」

「そうかい。家族はどうしたんだい?」

「……数年前に他界しました」

「ああ、すまない」

「いいんです。助けてくれたんですから、それくらい」

「そうか。じゃあ、今はどうしてるんだい? 生活や仕事は?」

「カフェで働いています。ただ、給料も低くて、他に頼れる人もいないので、ギリギリなんです。家も、出来る限り家賃の低いところに住んでいます」

 正次郎は話しているうちに、一生懸命話す、初々しい彼女に、少しずつ惚れ始めていました。

 アデリナは、少し正次郎に身を近づけました。

「あなたのことも、聞かせてください。私みたいな貧乏で、何の取り柄もない女性を助けてくれるような、あなたの事を聞きたいです」

 アデリナがそう言うと、正次郎は自分の身分を話しました。

 アデリナはそれを聞くと、申し訳なさそうに話し始めました。

「すみません。そんな素晴らしい身分なのに、私なんかにあなたの時間を使わせてしまって。忙しいはずなのに」

「いいんだ。それより、君みたいな綺麗な女性を助けることが出来て、俺は嬉しい」

 正次郎は、アデリナを見ながら言いました。

 アデリナも、自然と正次郎を見つめていました。

 正次郎は、アデリナのソファに置かれていた手に触れました。

「あ……」

「ダメかな?」

「ふふ。ダメなわけ、ないじゃないですか」

 二人は手を繋ぎながら、朝までゆっくりと過ごしていきました。

 それから、アデリナと正次郎は、親密な中になっていきました。

 アデリナは、よく正次郎の家に来るようになって、ご飯やそのほかのお世話、遊びにも行くようになりました。

 二人で夜を明かすことも増えてきて、お互いに、好きと言う気持ちが、高まっていきました。

「私、嬉しいです。こうやって、好きな人と過ごすことが出来て」

「俺もだよ、アデリナ」

 二人は、お互いにとって、必要不可欠な存在になっていきました。

 それから、正次郎は、アデリナと一緒に暮らしたいと思い、それをアデリナに伝えようと思い、家で寝る前に、アデリナにその旨を伝えようと、アデリナに話しかけました。

「アデリナ」

「なんですか? 正次郎さん」

「良ければ、一緒に暮らしたい。うちで過ごさないか?」

「嬉しいのですが、それはできません」

「……それはどうしてだ」

「……私、借金があるんです。親がしていた借金が、まだあるんです。だから、一緒に暮らすことはできません」

「それなら、俺が借金を返そう。そうすれば、君の問題なく一緒に暮らせるはずだ」

「それはダメです! そこまでしてもらうなんて、そんな……」

 アデリナがそう言うと、正次郎はアデリナの手を取りました。

「君と一緒に居たい。だから、君に苦しい思いをさせたくない。だから、俺の提案を受け入れてくれないか?」

「……」

 正次郎にそう言われたアデリナは、正次郎に抱き着きました。

「ありがとうございます。これから、もっとあなたに尽くします」

「ああ」

 二人は抱き合い、お互いの暖かさを感じ合いました。

 その後、二人は仲良く暮らし始めました。

 ある日、正次郎はアデリナに夢を尋ねようと思いました。

「アデリナ、夢はあるかい?」

 正次郎は、アデリナは若いから、何か夢があるに違いない。そう思ったからこそ、アデリナに尋ねました。

「ありますよ。いつか、大きな舞台で、劇の主役をやりたいです」

 アデリナは、とても純粋な笑顔で言いました。

「なら、働くのはやめて、夢を追ったらどうかな。俺が支えるし、俺も君が舞台で輝いている姿を見たい」

「……いいんですか?」

「ああ。君がもっと好きなことをしているところを、俺は見たいよ」

「……ありがとうございます」

 アデリナはそれから、カフェで働くのをやめ、お手伝いをする代わりに、演技の指導をしてくれる劇団に入り、演技の練習をし始めました。

 アデリナは、夢を追い始めたのです。

 演技の練習をし始めたアデリナは、とても生き生きし始めました。

 そんなアデリナを見て、正次郎は彼女の夢を叶えたいと強く思うようになりました。

 ただ、アデリナと暮らすようになってから、アデリナと遊ぶようにもなった正次郎は、勤務態度が悪くなってしまいました。

 ある日、そんな正次郎は上司に呼ばれ、職場で話をしました。

「正次郎。お前はアデリナという女と遊んでいるから、最近は仕事の効率が悪くなっているだろう」

「そんなことはありません。そんなことより、どこでアデリナの事を聞いたんですか」

「崇に聞いたんだ。とにかく、そんなお前の足を引っ張る女と暮らしているうちは、出世はない。しかも、遅刻も増えているじゃないか。アデリナと遊んでいるからだろう」

「それは……」

「言い訳はいい。これ以上悪化するようなら、首を切る。アデリナと別れない限り、首を切る。お前の能力はすごい。だから失望させるな」

「……」

 正次郎は、上司の言葉を受けて、いろいろなことを考え始めました。

「アデリナと離れ離れになるわけにはいかない。だからこそ、頑張って仕事で成果を出さないといけない。それより、なぜ上司に崇はアデリナの事を伝えたんだ? 気になるな」

 そう思った正次郎は、すぐに崇に話を聞きに行きました。

「崇。なぜあいつにアデリナの事を伝えたんだ?」

「ああ。君のためだよ。このままお前が落ちぶれていくのは、見ていられない。あの女と暮らしているせいだろう。君が遅刻をしたり、仕事のミスが増えているのは」

「もしそうだとして、隠してくれていてもよかったのに」

「そう言うことを言うのか君は。俺は君の事を思って言ったのに、とにかく、一旦落ち着いて、恋で浮かれている心の整理をした方がいい。さ、仕事の邪魔をしないでくれ」

 崇はそう言うと、正次郎を追い払いました。

 正次郎は、崇に言われたことを考えて、アデリナとの関係についても、考えているうちに、母親に言われたことも思い出しました。

「母さんは、勉強は、真面目にして、人の上に立って、偉くなりなさいって言っていた。少し、アデリナとの関係も、考えないといけないのかもしれない」

 正次郎はそう考えながら、家に帰りました。

 家に帰ると、一通の手紙が届いていました。

 その手紙は、母が亡くなったという連絡でした。

「母さん……母さん!」

 正次郎はショックを受けました。

 しかし、心のどこかで、正次郎はあることを思ってしまいました。

「もう、出世を期待してくれる母はいない。出世をする意味なんて、ないんじゃないか? でも、なくなった母さんのために頑張らないといけないんじゃないか? 俺は、どうすればいいんだ……」

 その二つの考えで、正次郎は揺れ動き、苦しみました。

 寝込むことも増えて、体調を崩しました。

 そんなベッドで横たわる正次郎を、懸命に支えたのはアデリナでした。

「正次郎さん。今度は私が支える番です。私に、甘えてもいいですから」

「アデリナ……」

「ふふ。だって、一緒に居るあなたが、ぐったりしているところは、見ていられませんから」

 アデリナはそう言って、正次郎の隣で、一生懸命正次郎のために、動きました。

 そんなアデリナを見て、正次郎は思いました。

「もう亡くなった母さんには申し訳ないが、アデリナのために尽くしたい。一緒に居たい。一生懸命アデリナのために頑張れば、母さんもよろこんでくれるだろう」

 そう思った正次郎は、アデリナと別れるという気持ちは無くなりました。

「アデリナとは別れない。出世は出来ないかもしれない。クビになるかもしれない。だけど、アデリナと暮らしていく。アデリナを支えるんだ」

 しかし、上司に反抗してしまった正次郎は、上司にクビを宣告されてしまいました。

「正次郎。お前は俺の忠告を無視して、アデリナと付き合い続けているな」

「はい」

「……別れる気はないんだな」

「はい。あなたの指示には従いません」

「……それなら、お前はクビだ……」

 上司がそこまで言うと、崇が口をはさみに来ました。

「すみません。そう言うのはわかりますが、正次郎は能力が高いです。ここは一度、考え直してはくれませんか」

「……そうだな。焦りすぎたかもしれない。正次郎。そう言うことだ。崇に免じて、一旦は首を切らない。だけど、よく考えるんだな」

「はい。ありがとうございます」

 正次郎は、崇のおかげでなんとかクビにならずに済みました。

 正次郎は、あとで崇に感謝を伝えました。

「ありがとう正次郎」

「いいんだ。ただ、俺の行動を見て、考え直してくれ。上司や職場の仲間、俺もお前を高く評価している。お前がこのまま出世じゃなくてアデリナを選んだら、お前に期待していた多くの人がお前に失望し、お前を嫌うだろう」

「そう……だな」

「親もいない、叶わない夢を追い続ける女に入れ込む必要なんてないはずだ。期待しているからな。正次郎」

 崇にそう言われた正次郎。

 しかし、正次郎の気持ちは変わりませんでした。

「悩むことはない。アデリナと暮らす。俺はそう決めたんだ。アデリナの綺麗で、一生懸命頑張る姿を、俺は見ていたい。アデリナの熱を感じていたい。だから、俺はアデリナと暮らすんだ」

 そう思った正次郎。しかし、アデリナは、崇と出会ってしまいました。

 とても寒く、雪の中、正次郎とアデリナの家の前で待っていた崇は、アデリナに声をかけました。

「こんにちは」

「こんにちは。どなたでしょうか?」

「崇と言います」

「ああ。崇さんですね。正次郎さんから、お話をよく伺いますよ」

「それはどうも。今日は一言、あなたに言っておきたいことがありまして」

「はあ」

「それはですね、あなたが正次郎と付き合っているせいで、正次郎は首を切られてしまうかもしれないのです」

「え……」

「そんな顔をするってことは、正次郎から聞いていなかったのですね。正次郎は、あなたと付き合い始めてから、恋仲になってから、仕事でミスや遅刻が増えてね。上司がそれに怒って、あなたと別れないのであれば、正次郎の首を切ると言っているんです」

「そんな……」

「言いたいことはそれだけです。彼はたくさんの人に期待されています。あなた一人のために、多くの人を正次郎が裏切ることになるかもしれません。よく、自分のこれからの行動を、考えてくださいね」

「……」

 崇はそう言うと、一礼して、ドイツの町に消えていきました。

 アデリナは、ひどく自分を責めました。

「どうして気が付かなかったんだろう。いや、気がついてはいたの。私が足かせになっていることに。正次郎さんを追いつめていることに。本人は全くつらそうにしていない。けれど、私のために自分を押し殺しているのかもしれない。私は、正次郎さんと一緒に居るべきではない。正次郎さんのために……私は一人になるべきです」

 そう言うとアデリナは、手紙を一通書いて、家を出ていきました。

 正次郎は、家に帰ると、机の上に置いてある手紙に気が付きました。

 正次郎はその手紙を読みました。

 ……その手紙の内容は、綺麗なアデリナの声で、正次郎の頭に問いかけてきているようでした。

「私がいるせいで、あなたを追いつめてしまっています。私は足かせです。だから、行きます。さようなら。愛しています」

 それを呼んだ正次郎は、持っていたバッグを落としました。

「アデリナ……アデリナ!」

 正次郎は、そう叫びながら、冬の暗く、寒い雪の中、夜のドイツの町を走り回り、アデリナを探し始めました。

「アデリナ!」

 必死に正次郎は、アデリナを探します。

「……足かせなんて、そんなことはないんだ! 追い詰められてもいないんだ! もし、そうだとしても、俺はアデリナと一緒に居たいんだ! どこにいるんだ! アデリナ!」

 正次郎は、夜から、朝になっても、昼になっても、また夜になっても、なにも食べず、飲まず、アデリナの事だけを考えて、ドイツを歩き回りました。

「アデ……リナ……どこにいるんだ……」

 正次郎は、もう限界でした。

 どこにいるか、ひとつも検討が付かないのに、探すということは、難しいです。

「そうだ……」

 正次郎はふと、アデリナと初めて出会ったときの事を思い出しました。

「アデリナとあった時も、こういう、寒くて暗くて、冬の雪の日だったな。あの時のアデリナが動けなくなっていたように、俺も……あそこにいれば……アデリナが助けに来てくれるかも……しれない」

 正次郎は、アデリナと出会ったところに向かいました。

 正次郎は、暗闇の中に、誰かが座り込んで、泣いているのが見えました。

「正次郎さん?」

「アデ……リナ?」

 暗闇の中、小さく聞こえたのは、泣いているアデリナの声でした。

「アデリナ!」

「正次郎さん!」

 二人は座り込み、抱き合いました。

「どうしたんだ!」

「すみません。手紙の通りです」

「それはわかってる! 俺は別にアデリナに追いつめられてもいないし、アデリナが足かせだと思ってない! 支えて見せると、一緒に暮らそうと俺は言っただろう!」

「……ありがとうございます」

「どうして、ここにいたんだ?」

「……私、一人で暮らすために、仕事と家を探そうって思って……でも、仕事なんて、家なんてなくて……体がもたなくて、倒れそうになったんです。倒れそうって思ったら……正次郎さんの顔が思い浮かんで……切なくて……どうしても頼りに出来る人は、正次郎さんしかいないって思ってしまって……もしかすると、初めて出会ったここに来れば……正次郎さんが助けてくれるんじゃないかって……」

「アデリナ……」

「ふふ。そんな顔をしないでください。また、出会えたじゃないですか。家を出ていった私を探しに来てくれて、嬉しいです」

 アデリナは支えてくれている、正次郎の顔の涙を指で拭きました。

 正次郎は、もう、どうしようもないくらいに、アデリナが愛おしくなりました。

「アデリナ! いくら貧乏でも、苦しくても、俺が支えるから。俺は絶対に見捨てない。恋に理論も効率的な考えもいらない。保身もいらない。俺を出世させようとして動いてくれていた人から嫌われるかもしれない。でも俺はお前を選ぶ。必要なのは、恋心と君のために身を削れる覚悟だけだ。君のためなら、俺は嫌われてもいい! アデリナ、好きだ。もうどうしようもなく好きだ! 君を支えて見せる! 君の夢を、叶えたい! 一生、一緒に暮らそう!」

 正次郎は、誰もいない雪の町の中で、叫びました。

「はい……」

 アデリナは嬉しそうに頷きました。

 二人は、周りの雪が融けるほど、熱い抱擁を交わしました。

 そして、雪を濡らして、溶かしてしまうほどに、暖かい涙を二人は流しました。

 二人は、一生一緒に居ることを約束したのです。



「次の日、正次郎はクビになりました。しかし、正次郎は新たな仕事をすぐに見つけました。その仕事は、圧倒的に前の仕事に比べて、稼ぎは減りました。しかし、正次郎はアデリナを支えるために一生懸命働きました」

 女子生徒が語る。

 席には、いくつか泣いている女子生徒がいた。

 舞台では、正次郎とアデリナの人形がくっついて、抱き合って、並んでいる。

「アデリナは、一生懸命働く正次郎を見て、自分も働こうとしたものの、正次郎に、やっぱり夢をかなえてほしいと押し切られ、演技の練習を、一生懸命頑張ったそうです。二人は、ずっと、一緒に暮らしました。そして、そんな一生懸命なアデリナが、夢を叶えた話に関しては、それはまた別のお話です。おしまい」

 女子生徒が言い切ると、視聴覚室にいるすべての人が、大きな拍手をした。

 徐々に観客は立ち始め「ブラボー!」「ありがとー!」と、演劇部と手芸部に伝え始めた。

 俺や未来も立ち上がり、いわゆるスタンディングオベーションが起こった。

 その後、ほとんどの生徒は余韻からか、もう一度席に座り、少し話を始めた。

「マジでよかったわ。来て」

 俺は未来に言う。

「それな。呼んでくれてありがと進」

「いやマジで感謝してほしい俺に」

「あとで飲み物でも奢ったげる」

「よっしゃ」

 未来はにこにこしながら、約束してくれた。

 その後、少しの間、未来と話していると、舞台の後ろから演技部と手芸部の人たちが出てきた。

 観客のいくつかの生徒は席を立ち、舞台の後ろから出てくる人たちと会話をし始めた。

 どうやら、感想を言い合っているようだった。

 林田と蜜柑も出てきた。しかし、その二人はたくさんの人に囲われてしまった。

 さすがに主役の二人だしな。囲まれるだろう。

「いいな~私も蜜柑ちゃんと話したいな~」

「俺も林田と話したいし、ちょっと人が減ってから話しかけに行こうぜ」

「うん」

 俺と未来は、林田と蜜柑の二人の周りから人が減るのを待った。

 二人は、いろいろな生徒に「マジで涙止まらなかった!」「面白かったし、演技上手!」「キュンキュンした~」などなど、絶賛されているようだった。

 二人の前から人が少なくなったので、俺と未来は立ち上がり、二人に話しかけに行った。

「やあ蜜柑ちゃん……と林田くん」

「よ、お疲れ様二人とも」

 未来と俺は、林田と蜜柑に声をかける。

 未来は林田とは、ほとんど初対面だからか、少し気まずそうに話しかけていた。

「ありがとうございます」

 蜜柑は会釈をしながら、言ってくれる。

「いや、見に来てくれてありがとうな二人とも!」

 林田も元気よく親指を立てた。

「普通~にうるっと来ちゃった。人形劇なのに、ここまで感動するなんて思わなかったよ」

「俺もここまで感情移入出来るなんて思わなかった。お前らの演技がうまいからだな」

 未来と俺は、二人を続けざまに褒める。

「いや~そう言ってもらえると嬉しいですね」

「ああ。俺なんて、こうやってしっかり感想言われるのとか、初めてだからな。蜜柑と違って。照れくさくて照れくさくて……」

 二人は仲よさそうに話している。

「すみませんね。私があなたのやる予定だった男役を全部貰っちゃって」

「ホントだよ。なんでお前が男役も女役も出来て、どっちも俺より舞台映えするんだよ! そのおかげで、俺の出番、ここまでなかったんだからな!」

 林田は、笑顔でやれやれと言った雰囲気で話している。

 というか、おかげって言ってる辺り、林田も蜜柑の演技力は認めているんだな。

「あ~あ、蜜柑が二人いれば、男役も女役も出来るし、便利そうなんだけどな~」

「ああ。私にそっくりな姉がいるので、もしするんだったらお姉ちゃん連れてきますよ」

「うわ! そうじゃん! というかそれなら、次の演目、双子があーだこーだする演目にしようぜ!」

 二人はその調子で、仲よさそうに話し続ける。

 なんだか、仲が良すぎて、なんだかこっちが恥ずかしくなってきた。

 ちょっと未来の方を見ると、未来と目が合った。

 未来は少し、首を少し横に傾けた。

 未来も二人の仲の良さを見て、恥ずかしくなっているか、呆れているのだろう。

 いい意味で。

「中村先輩!」

 俺たちの後ろから、女子生徒の声がした。

 その蜜柑を呼んだ女子生徒の横には、スーツを着た大人の男の人がいた。

 見た目的には、五十歳ぐらいの、清潔感のある人だった。

「小山さん? どうかしましたか?」

 蜜柑はきょとんとした顔で言う。

 俺と未来は、その女子生徒とスーツを着た人が蜜柑と話したがっていたので、道を開けた。

「実は、お父さんが中村先輩に話があるそうで」

「はあ」

 そのスーツを着た、小山さんのお父さんは、蜜柑に自己紹介をする。

「こんにちは。小山の父です。いつも娘が部活ではお世話になっているようで。ありがとうございます」

「いえいえ」

「それで、話なんだが……実は私、こういうもので……」

 小山さんのお父さんは、胸元から、名刺をサッと両手で、蜜柑に渡す。

 蜜柑はそれを両手で丁寧に受け取り、名刺に書いてある情報に目を通していた。

「声優事務所の社長さん? なんですね」

「ああ。それで、まあ……中村さんの声がとても逸材だと思ってね。素晴らしい演技力と声だったよ。特に震えるような、最後の泣いている直前というのかな! あの時の消え入る声が良くて! ああ、ごめんね。あまりにも良くてさ」

 興奮して、声が大きくなっていた小山さんのお父さんは、恥ずかしそうに頭を掻く。

「とにかく、今日の中村さんの姿を見て、中村さんは、演技が好きなんだなと思ったんだ。それで、アニメは好きかい?」

「はい! 大好きです! フィギュアとか、ポスターとか壁が見えなくなるくらい持ってます!」

 蜜柑は、笑顔で言う。

 俺が初めて蜜柑の部屋に入ったのは、こいつと初めて出会った日だったな。

 あの時以来、蜜柑の部屋には入っていないけど、今でもポスターやフィギュアが部屋にはあるのだろう。

「そうか。なら、うちで声優をやってみないか? という提案を中村さんにしたい。いわゆるスカウトってやつだ」

 小山さんのお父さんは、笑顔で言う。

 すごい! じゃあ、もしかすると、蜜柑の声がアニメとかで放送されるかもしれないってことか?

「え! すごいじゃん蜜柑ちゃん!」

「わ!」

 未来は、蜜柑の右腕辺りに飛びつく。

「これって、蜜柑ちゃんの才能が認められたってことでしょ?」

「そう……なんですかね?」

 蜜柑は、まだ少しきょとんとしているようだった。

「まあ、そう言うことになるな」

 小山さんのお父さんは頷いた。

「とにかく、これから中村さんは進路を決めていくだろうから、もし興味があったらいつでも連絡してほしいんだ。待遇の良さは絶対に保証するからね。あ、家族にはもちろん相談してね」

「はい!」

 蜜柑は、小山さんのお父さんに元気よく返事をする。

「じゃあ、そういうことだから、いい返事してもらえると嬉しいな」

 そう言うと、小山さんのお父さんは、小山さんを連れて、視聴覚室から廊下に出る扉に向かって歩いて行った。

「すごいな蜜柑。将来の選択肢、また増えたな」

 俺は蜜柑に言う。

「そうですね。えへへ……」

 蜜柑は、未来にくっつかれたまま言う。

「柚はなんかないの?」

 蜜柑は、林田の方を見て言った。

「別に」

 林田は、穏やかな笑顔だった。

「俺は別に、蜜柑ならいつかこうなるってわかってたぜ」

 林田は蜜柑に言う。

「……そうですか!」

 蜜柑も笑った。

 蜜柑は、もしかすると、最後の一押しというものを見つけたのかもしれない。

 蜜柑が吹っ切れる、前に進むきっかけが見つかったんじゃないかと、俺は思った。

 舞台の方を見ると、演劇部と手芸部で片付けが始まっていた。

「さ、そろそろ帰ろうか、未来」

 俺は片付けの邪魔にならないように、帰ろうと未来に提案する。

「うん。帰ろう」

 未来は蜜柑から離れ、俺の隣に来る。

「じゃあな二人とも」

「バイバイ二人とも」

 俺と未来は、蜜柑と林田に別れの挨拶をする。

「はい! またこういう機会があったら、見に来てくださいね」

「じゃあな。俺もまた主役やれるように頑張るわ」

 蜜柑と林田は、しっかり俺たちの目を見て言ってくれる。

「ああ。期待してるからな」

 俺はそう言うと、未来と視聴覚室の外に出た。

 そのまま、昇降口まで向かった。

 未来と適当な話をしながら。

「あ」

 未来は、昇降口で、靴を履き替えながら言った。

「なんだ?」

 俺は靴を履きながら、未来に聞いた。

「飲み物!」

「ああ。忘れてた」

 そういえば、未来に飲み物をおごってもらう約束をしたっけ。

 今日、ここに一緒に来るように誘ったお礼に。

「ほら、自販行くよ」

「うん」

 俺は靴を履いてから、すぐ近くにある昇降口の端にある自販機に向かう未来を、追いかけた。

「何がいい?」

「うーん」

 俺は、自販機の間で少しばかり悩む。

「やっぱり、あったかいものかな~」

 未来は、あったかい表記がされている場所を、指でなぞっていく。

 俺はふと外を見た。

 ……綺麗に晴れていて、昇降口に入ってくる風は、ほんの少しだけ、春の匂いがした。

「いや、やめた」

「え? いいの買わなくて」

「いや、奢らなくていいからさ、商店街のカフェでコーヒーでも買って、少し散歩してから帰ろうよ。どうかな」

 俺は、未来に提案する。

 ちょっと寒いけど、たまにはこういう楽しみをしてもいいだろう。

「お! 珍しいね。そんなおしゃれなことを進が言うなんてさ」

「ああ、珍しいだろ」

 未来は俺を見て、楽しそうにしているようだった。

「じゃあ乗った! じゃあ商店街へレッツゴー!」

「よっしゃ!」

 未来は自販機の前から、昇降口の外へ駆け出す。

 俺は、すぐに未来を追いかける。

「ほら! はやく!」

 未来は少し先を走りながら、こっちに体を向けながら言う。

「おい! 道は狭いから走るなよ!」

 俺は校門の外の道が狭いから、未来に走らないように忠告する。

 未来は校門の外で立ち止まって、俺を待ってくれた。

「テンション高いなあ」

 俺は、未来に言った。

「えへへ。ほら、行くよ。なに飲もうかな~」

「俺はブラックだな」

「それ、飲んで美味しいって言ったことないじゃん」

「今度は美味しいって思うかもしれないだろ~……」

 俺たちはカフェで何を飲むかを話しながら、商店街へ向かった。

 俺たちを包み込むような風は、やっぱり春の匂いがした。



 劇が終わってから、数日後。

「だ~! おわった~!」

 俺は、大きく教室の自分の席で伸びをする。

「進、今日はみちると遊びに行くから」

 今は放課後。俺の前の席にいる未来は、振り向いて話しかけてきた。

 どうやら、柏木さんと遊びに行くらしい。

「おう」

「じゃね」

 未来は、柏木さんのところへ向かった。

 授業では、テストが帰ってきている。

 点数はすべて、平均点を超えていた。

 英語に関しては、学年でも上位に入っていた。

 受験に向けて、このまま成績が上がり続けてくれるといいんだけど。

 クラスを見回すと、なんだかみんな脱力していた。

 もう何もイベントもなくて、終業式終わったら休みだからな。

 そりゃ、脱力しますわ。

 俺もなんだか、うまい飯でも食って、家に帰ってダラダラしたい気分だ。

「薫~」

 俺は、薫に声をかける。

「ん? どうした?」

 薫は、教室の真ん中の一番後ろの席にいる。

 俺は窓際の一番後ろだ。

 薫は俺を見て、聞き返してくれる。

「今日暇? ラーメンでも食べて帰ろうかなって思うんだけど、一緒に来ないか?」

「ああ、ごめん。今日はよいちゃんとの先約があって……」

「あ~そうか~」

 薫、釣れず。

 俺は席を立ち、廊下側に向かっていく。

「お~い」

 俺は、一番廊下に近い、一番後ろの席で話している、深瀬と江口に声をかける。

「ラーメン食べに行くんだけどさ、暇だったら一緒に行かない?」

「行きてえけどな~。俺、生徒会で終業式のあーだこーだがあるんだ」

 深瀬は頭を掻きながら言う。

「俺、部活~」

 江口は部活で使うであろう、バッグをちょっと持ち上げながら言った。

「そっか……」

 深瀬、江口、釣れず。

「また今度誘うわ」

 俺は二人に告げる。

「おう。じゃあな」

「じゃあな~」

 二人は、廊下に出ていく俺を、送り出してくれた。

 少し廊下を歩いていると、すぐに呼び止められた。

「進さん」

 振り向くと、そこには蜜柑と若葉がいた。

「おお……どうしたんだよ二人とも」

 二人は、いつもの穏やかでニコニコしている表情とは違い、少しだけ真剣な表情をしていた。

「ちょっと話があるの。また剣道部の部室まで一緒に来てくれないかな」

 若葉はいつもより凛としている。

「あ、ああ。いいけど……」

 いいけど、こいつら二人と俺の三人で話すことなんて、何も思い当たる節がない。

 俺は疑問を持ちながら、二人について行った。



 剣道部の部室についた。

 相変わらず、剣道の道具が置いてある。

 少し狭い部室だ。

「それで、話ってなんだよ」

 俺は結局、この二人が何を話し出すのかの検討はつかなかった。

「ほら、若葉ちゃんから話してください」

 蜜柑は、若葉の肩をちょんちょんと突く。

「うん。えっと……」

 若葉はちょっと腕を組んで、考えてから、また口を開いた。

「そろそろ、進路だけじゃなくて、恋路についても決めなきゃって思ってさ」

 若葉は少し照れながら言う。

「じゃあ、黛に告白するのか?」

 俺は若葉に尋ねる。

「いや、告白っていうか、黛に決めてもらおうって話だったでしょ? 私か蜜柑ちゃんのどっちを選ぶのか。じゃないと蜜柑ちゃんもここにいるの、意味わからないでしょ」

「ああ。そうだな」

 確かに若葉は、文化祭が終わった時期ぐらいに、そういったことを言っていた。

 蜜柑の黛への気持ちがわからないからこそ、もし蜜柑が黛の事が好きだったら、正々堂々、黛にどっちを選ぶかを決めてもらう……みたいな話をしていたような気がする。

「蜜柑もそれでいいのか?」

「はい。むしろ、ここまで気を使ってもらって、若葉ちゃんに申し訳ないぐらいです」

 蜜柑は笑顔で言う。

「そうか……で、何で俺を呼んだんだよ」

「そうそう。それで進にはね、してもらいたいことがあるんだ」

 若葉は、話を続ける。

「私たち、黛に話して、明日の放課後、私を選ぶならここの剣道部部室、蜜柑ちゃんを選ぶなら視聴覚室に来てって言ったんだ。それで、進には……その……黛が選ばなかった方に、選ばれませんでしたって言いに、来てもらいたいんだけど……」

「はあ⁉」

 いやいや、そんな残酷な役回り、俺が?

「なんで俺がやる必要が……いや、そもそもスマホで連絡すればいいだろ!」

「まあ……そうなんだけどさ……」

 若葉は頬を掻く。

「そうなんですけど、その……黛さんに選ばれなかった方に連絡する人が、黛さんに選ばれた人か、黛さんになってしまうじゃないですか。さすがに、それは気まずいって言うか……」

 蜜柑はもじもじしながら言う。

「じゃあ、俺がスマホで連絡すればいいだろ?」

「いや、そうなんですけど……なんだか寂しいって言うか……」

「そうなんだけど! その、一応一世一代の大イベントなんだよ! 黛の彼女が決まるんだよ! スマホで連絡ぽちーフラれました……って、なんだかちょっとって思わない?」

 蜜柑と若葉は、二人そろって説得してくる。

「まあ……確かになあ」

 確かにシンプルな告白とは違うけど、主人公が、ヒロインをどちらか選ぶ場面って考えると、二人の意見もわかる。

 確かに、盛り上がりが必要だろう。

「お願い進! 私と蜜柑ちゃんと仲が良くて、黛とも仲良くて、こういうことを頼める人、進しかいないんだよ! ほら、この通り!」

「お願いします!」

 若葉と蜜柑は、頭を下げてお願いしてくる。

「あ~。わかったよ。やるやる。フラれた方に行ってやるよ」

 押し負けた……。

「ありがとう!」

「ありがとうございます! 進さん!」

 二人は嬉しそうに言う。

「というか、本当に覚悟はできてるんだろうな? どっちかが黛にフラれるんだぞ?」

 俺は二人に聞く。

「もちろん!」

「当然です」

 二人そろって、胸を張って言った。

「そうか。ならいいけどさ……」

 この二人より、何なら黛の方が覚悟できてないかもしれないな。

 あいつ、「選ぶ」ことに慣れてなさそうだし。

「選ぶ」ってことは、ちょっと捉え方を変えると、どちらかを「捨てる」ってことになる。

 黛は、そういうことがあまり得意じゃない。

 黛も、よく若葉と蜜柑の、この提案をOKしたよな。

「じゃあ明日の放課後、黛さんは地学室から、私たちのどちらかがいる部屋に行くらしいので、進さんもそこから黛さんが選ばなかった方に行ってください」

「ああ」

 蜜柑は、明日の俺の動きを説明してくれる。

「そういえば、黛も若葉と蜜柑のどちらかを選ぶってことでいいって言ったのか? 二人以外に好きな人がいるかもしれないだろ?」

 俺は二人に尋ねる。

 そもそも、この話は、黛に二人のほかに好きな人がいたら成立しない。

「それは私が聞いたよ。いないってさ。それで、私たちどっちかを選ぶってことに対しても『問題ない。そろそろ決めないといけないしな』って言ってた」

「そっか。なら良かった」

 それなら、あいつもある程度、心は決まっているのかもな。

 若葉と蜜柑、どちらかを選ぶのか。

「じゃあ、また明日な。心の準備、しておけよ二人とも」

「はい」

「うん」

 俺はそう言うと、剣道部の部室を出た。

「はあ~」

 俺は、廊下を歩く。

 とんでもないことに巻き込まれたような気がする。

 でも、俺を頼ってくれたんだ。

 困ってるなら助けないとな。

 さて、ラーメンでも食べて帰ろう。



 次の日の放課後。

 俺は廊下を歩き、四階の端にある地学室に向かっている。

 ほとんど使われないこの教室は、軽音楽部が練習でたまに使っているようで、アンプが置いてあったりしている。

 正直、ちょっと汚いんだよな。いや、汚れているっていうよりかは、散らかっている。

 机は適当においてあったり、なんかよくわからない冷蔵庫があったり、とにかく散らかっている。

 今日は黛が、若葉か蜜柑の、どちらを選ぶのかを決める日だ。

 俺は、黛に選ばれなかったほうの人がいる部屋に向かう。

 この役回りを請け負ったときは、そこそこ気楽だったが、昨日家に帰ってから、いろいろ考えているうちに、少しだけ気持ちが重くなってしまっていた。

 俺は望まれていないんだ。その教室を訪れることを。

 黛が来るのが一番うれしいはずだ。だって、好きな人に選ばれたわけだから。

 でも、選ばれなかったほうは、俺が訪れる。

 俺を見て、がっかりするだろう。

 だから、気が重い。

 でも、待っているほうも怖いだろう。

 好きな人に選ばれないかもしれないから。

 俺は、そんな黛に選ばれなかったほうを、元気づけないといけない。

 そんなことを考えながら、俺は地学室のドアを開ける。

「よお」

 黛は、俺を見て言う。

 黛は地学室の端っこの壁で、窓にもたれかかっていた。

 俺は地学室に入り、一番手前の机に荷物を置いてから、黛に言った。

「よお主人公。どっちのヒロインにするかは決めたか?」



 俺と黛は、地学室を出た。

「じゃあ、頑張ってな」

 俺は黛に言う。

「ああ。そっちこそ、頑張れ」

 黛は俺にそう言うと、ゆっくり廊下を歩いて行った。

 俺も目的の教室まで行くために、廊下を歩き始めた。

 足取りは重い。

 だって、フラれるんだもんな。

 好きな人に。

 そんでもって、凪黛ではなく、橘進が来るわけだ。

 期待してない人が来るんだ。

 期待されてないのに、その人のところに行くなんて、心が痛い。

 でも、若葉も、蜜柑も、黛も。

 覚悟を決めたんだ。

 選ぶことを決めたんだ。

 選ばれることを決めたんだ。

 俺もその手伝いを、してあげないとな。

 まだ目的地には着かない。

 こんなに遠かったっけ、と思ってしまうくらい、歩いている時間は長く感じた。

 道、間違えたっけな? そんなことも思った。

 それでも、目的地のドアは見えてくる。

 ゆっくり、俺は歩みを進める。

 窓からは、若い夕陽が差し込んでくる。

 校庭には、誰もいない。

 もう一度、目的地のドアを見る。

 まだ少し遠い。

 ほかの教室を覗いてみても、誰もいない。

 まるで、この校舎に、俺と黛と蜜柑と若葉以外、誰もいないように感じた。

 また、目的地のドアを見る。

 あと、十歩。

 突然、俺の歩みを進める足音が、よく聞こえるようになった。

 集中しているのか、それとも、俺の足音が大きくなったのか。

 それはわからない。

 もうドアは目の前だ。

 少し深呼吸をしてから、ドアに手を掛ける。

 そして、俺はドアを開けた。

 俺は、彼女の背中を見る。

 彼女は、俺と同じぐらいの背丈で、窓から外を見ていた。

 そして彼女は、ゆっくり振り向いて、俺を見た。

「ま、わかっていましたけどね。黛さんは来ないって」

 蜜柑は視聴覚室に一人、黛を待っていた。

 しかし、来たのは俺だ。

 蜜柑は、特に落ち込む様子も、泣き出す様子もなかった。

「意外と、落ち着いているな」

「へへ。そうでしょう? なんなら、あなたや黛さんの方が落ち着いてないと思ってました」

「ま……その通りだな」

 俺は少し気まずくて、蜜柑から目を逸らそうとしたが、蜜柑はいつもと変わらない様子で、俺を見ていたので、俺も落ち着いて蜜柑を見て話を続ける。

「さて、こっからどうする? 蜜柑は黛に選ばれなかったわけだけど」

「そうですね……」

 蜜柑は少し窓の外を見て、それから窓際に向かって行った。

 俺も、蜜柑の近くに寄っていく。

「少し話してから帰りましょうか。若葉ちゃんと黛さんが帰るまで、少し時間を潰しましょう。すぐに帰って、一緒になるのはさすがに気まずいですから」

 蜜柑は、窓の外を見ながら言った。

「そうだな。もし会っちゃったら、あいつらもどんな顔をすればいいか、わかんないだろうしな」

 俺も窓の外を見る。

 正直、景色は一つも良くない。

 ただ単に、住宅街があるだけだ。

 俺たちが見てる方角は、校庭も見えないしな。

「蜜柑は……いつから黛の事が好きだった? いや、好きだって気が付いた?」

 俺は、蜜柑に話を振る。

「う~ん……いつだろうなあ~」

 蜜柑は窓を開け、窓の下に両腕を置いて、もたれかかる。

「ずっと好きだったような気もします。でも、若葉ちゃんをおうちに連れてきて、若葉ちゃんが黛さんと話したり、いろんなことをしているのを見たりしているうちに、ちょっとずつ、自覚し始めた感じはありますね」

「ちょっとずつな。はっと気が付いたわけじゃないんだな?」

「そうですね。その少しずつの気づきが積み重なって……修学旅行で爆発したんじゃないかな……って思います」

 少しずつの気づきが、修学旅行で爆発した。

 多分、蜜柑の中で「若葉を黛とくっつける」気持ちと、「黛の事が好き」という気持ちがぐちゃぐちゃになって、「黛の事が好き」という気持ちが爆発して、「若葉を黛とくっつける」という気持ちが潰されたんだろう。

 蜜柑も蜜柑で、苦しんでいたんだろうな。

「なんか、ごめんな。俺が少しでも気が付いていたら、もっとよくできたかもしれない」

「いえ。進さんにも、助けられましたし、それに、私思うんですけど、若葉ちゃんはたぶん、なんとなく私が黛さんの事が本当は好きで、それを今更言い出せないっていうことに、気が付いていたと思うんですよ」

 蜜柑が言っていることは当たっている。

 だからこそ、若葉は俺に何度も相談をしてきた。

 本当に蜜柑を差し置いて、私が黛と一緒になっていいのか。

 若葉は、蜜柑の本当の気持ちを確かめるために、確かめることが出来るようになるまで、待っていた。

 そして、若葉は蜜柑の気持ちを確かめてから、こうやって黛に選ばれた。

 若葉は、蜜柑を出来る限り傷つけないように。

 そして、自分自身が罪悪を感じないように。

 黛が、罪悪を感じないように。

 すべての人が一番いいと思えるように、若葉は行動したんだ。

 俺はそう思う。

「だから、若葉ちゃんはこんな回りくどいことをしてくれた。私を出し抜くことなく、正々堂々こうやって行動してくれた。私のために。ふふ。あんなに明るく振る舞って、単純そうな感じなのに、いろいろ考えているから、こんなこと提案したんでしょうね。ほんと若葉ちゃんはすごいです」

「そうだな」

「最初はあんなに声も小さいし、自信なさそうな感じだったのに、いつの間にか私が若葉ちゃんに追い抜かされちゃいました」

 蜜柑は、俺を見て笑った。

 蜜柑の顔は、夕陽に照らされていた。

「黛はどうなんだろうな。蜜柑の事、好きだったのかな」

 俺は蜜柑の顔ではなく、窓の外の、空を見ていった。

「さあ……帰ったら聞いてみましょうかね。少し気になりますね。私が最初から負けヒロインだったのかどうか」

 蜜柑はそう言いながら、くすくすと笑った。

「そうそう、最近、未来ちゃんとはどうなんですか?」

「はい? それ今聞くことか?」

 蜜柑は突然、未来と俺の事を聞いて来たので、びっくりした。

「えへへ。最近うちに遊びに来るたびに、あなたの話をしているので」

「あ、そうなの。な、なんか言ってたか? 悪口みたいなの……」

「ないない!」

 蜜柑は笑顔で笑いながら言った。

「いっつも進さんとの惚気話ばっかりですよ~」

「あいつ……そんな惚気られることとかしてないだろ……」

「女の子は些細なことでも、いろいろ考えちゃうんです~思っちゃうんです~」

「そういうもんか」

「そういうもんです」

 蜜柑は、微笑みながら、少し黙った。

 外を見ながら、何かを考えているようだった。

「そういえば」

 蜜柑は、俺をまた見た。

「黛さんは、ここに来る前、どんな様子でした?」

「あ、やっぱり気になるよな」

「はい。私、気になります」

 蜜柑は両手を胸の前で握り、少し前かがみになって言った。

「そうだな~。黛は……」

 俺はここに来る前の、黛の様子を蜜柑に話してやることにした。



「なんだそのセリフ……」

 黛は呆れたような顔で言う。

 散らかった地学室にいる俺と黛は、お互いに教室の端にいる。

 俺は出入り口、黛は地学室の端っこの壁に寄りかかっている。

「いや、お前の事だから、ちょっと悩んでるか苦しんでるだろうなって思ってさ、和ませてやろうかと」

 俺は地学室の扉を閉める。

「あっそ……」

「んで、決まってるのか? どっちにするのか」

「ま、決まってるよ」

 黛は腕を組んだ。

「なんとなくお前も感じてるだろ。これは正直出来レースだって。最近のぼくを見てるなら、尚更な」

「まあな、若葉だろ? 最近の黛見てたらわかるよ」

 正直、黛が選ぶのは若葉だろう。

 見てればわかる。

 若葉は相変わらず、黛にグイグイ行っているし、黛もそれにデレデレしているところをよく見るようになった。

 一方蜜柑は、偶然か、本人の意思かわからないが、黛とくっついているところは見なくなった。

 正直、蜜柑は、もう黛の事は諦めているように見える。

 その代わりに、蜜柑は演劇に力を入れ始めているように見えた。

「でも……やっぱり怖いよ。選ぶのは」

 黛は力なく組んでいた腕をほどき、それを重力に任せた。

「若葉は選ぶ時間をくれたんだ。こうやって、ぼくに、若葉か蜜柑を選ばせるからって、大体半年前に、若葉はぼくに言ったんだ。若葉は、ぼくがこうやって選ぶことが苦手ってことや、ぼくが選ばなかった方に、嫌われるのが怖いって知ってるのか、わからないけど、とにかく、こうやってぼくに猶予をくれたんだ。少なくとも、ぼくはそう思ってる」

 黛は、地学室に雑に置かれている、机に座る。

「それでもまだ怖いよ。悩んでいるよ。何度も自分に聞いてるよ。本当にこれでいいのかって。合ってるのかって。正解なのかって。情けないよな。こんなに時間があったのに、何も動けないなんてさ」

 話している黛の身体は、いつもより、より小さく見えた。

 ……今思うと、俺は黛と友達になってから、こいつは頼れる奴だって思ってた。

 でも、こんな小さい体に、つらい過去とか、考えが回るからこそ、深く考えて辛くなってしまうこととかを、いっぱい抱えてたと考えると、同情してしまう。

 そんな黛の背中を、俺は押してやらないといけない。

「お前はいいよな」

「なにが?」

「あんなにかわいい女の子二人から、どっちかを選んでって言われてるんだから」

 俺はわざとらしく言う。

「全く……静かにしてくれよ。だからこそ選ぶのが怖いんだから。どっちかが進だったら、間違いなく進じゃない方選んでるぞ。ぼくは」

「ははは」

 黛は、少しニヤつきながら言う。

 俺はその様子を見て、なんだかおもしろくて笑ってしまった。

 黛が参っていたり、たじたじしてるところを見ると、珍しくて、にやにやしてしまう。

「どーんといけよ。向こうが選んでくれって言ってんだ。お前が怖がる必要なんてねえよ。胸張って、ぼくはこっちに決めたって方に行けよ」

 俺はそう言うと、黛は目を閉じた。

 すると黛は、うんうんと目を閉じたまま頷き、それから目を開いた。

 黛は、目を大きく開いている表情になった。

「覚悟は決まったようだな」

 俺は黛に尋ねた。

「ああ。お前は蜜柑の方に行ってくれ」

 黛は地学室の出入り口……つまりは、俺の方にゆっくりと歩みを進めてくる。

「わかった」

 俺は、黛に返事をした。

「残酷だよな」

 黛がゆっくり歩きながら言う。

 まっすぐ、俺のところに来る気はなさそうだ。

「人生は選択。でも、それは選択しなかった方を捨てることになる。捨てた方からは嫌われるかもしれない」

 黛は、前の方にあるアンプを少し眺めに行った。

「でも若葉は、選択による被害を出来る限り小さくした。お互いが納得するような形に、できるだけなるようにしたんだ。誰の心も傷つかないように、若葉は行動したんだ」

 黛は俺を見た。

「それが若葉に決めた理由か?」

 俺は腰に手を当てる。

「そうだけど、理由はもっとある」

 黛は俺の前まで、歩いて来ようとしている。

「若葉はぼくを叱ってくれた。親が家に居ないし、早めに死んだからさ。叱られたことなんてなかったんだよ。だから、ぼくがもし間違った道に行ったら、叱ってくれそうだし、いい方向に導いてくれそうだからさ」

 黛は俺の前で、笑顔で話す。

「あと……あれだな……よくわかんないけど、見てるとドキドキするし……若葉が近くにいるだけで意識しっぱなしなような気もする」

 黛は頬を掻きながら、少し顔を赤くした。

「ははは! もうそれは好きじゃん」

「……はは。若葉に攻略されたのかもな。凪黛ルート」

 黛は、ゲームに例えてくれる。

 確かに、若葉は黛を攻略したのかもしれないな。

 というか……黛の攻略難易度……高すぎだろ。

 こんなめんどくさい男、なかなかいない。

 俺のルートと比べると、黛のルートは百倍難しいだろう。

「さ、行って来いよ。若葉に攻略されましたって、言ってこい」

「へへ。そうだな」

 俺は、黛に廊下への道を開ける。

 俺たちは、地学室を出た。

 そして、俺は蜜柑の元へ。

 そして、黛は若葉の元へ。

 それぞれの目的地へ向かった。



「へえ……なんだか、あの人らしいです。変わりませんね。あの人は」

 蜜柑はにこにこしながら言う。

「黛さんは、自分にも、他人にも優しいので、やっぱり黛さん自身が主体となって行動するってなると……弱いところがあるみたいですね」

「そうだな」

 夕陽が、蜜柑の顔を、オレンジ色に照らす。

 ……フラれたのに……なんて清々しい顔をしているんだろう。

 俺が弥生にフラれた時は、ひどい顔してたって自覚ある。

 どんなひどい顔してたんだろうな、俺。

 ただ、この蜜柑の表情は、本当なんだろうか。

 俺は蜜柑と仲がいい。

 でも、俺には蜜柑の本当の表情は見せてくれない気がする。

「さ、そろそろ行きましょう。さすがにこれだけ時間を潰せば、あの二人とバッタリ会うことはないでしょうし」

 蜜柑は、窓に寄りかかるのをやめた。

 そして、窓を閉めた。

「そうだな。帰ろう」

 俺は、視聴覚室から出ていこうとする蜜柑の後を追う。

「ほら、早くしてください! カギ閉めますよ~」

 蜜柑は鍵を高い位置で持ち、見せびらかした。

「はいはい」

 俺は少し速足で視聴覚室から、廊下に出た。

 蜜柑はカチャカチャと鍵を閉める。

 俺たちは荷物を取りに、一緒に二年の教室がある階に向かった。



 俺たちは、それぞれの教室で荷物を取り、そのまま一緒に校門の前まで向かった。

「視聴覚室からも見てましたけど、やっぱり結構明るいですね。こんな時間なのに」

「そうだな」

 蜜柑は、空を見て言う。

 俺も空を見る。

 今は夕方の四時過ぎ。

 少し前まで、この時間だと、だいぶ暗かったような気がするが、やはり春が近づいているのだろうか。

「あれ?」

 俺は空を見るのをやめ、校門の方向を見ると、人が三人いるのが見えた。

 あれは……林田と川端さんと三島か?

「おい蜜柑。あれ。待ち合わせでもしてたのか?」

「あ……いや……ちょっとおかしいですね」

 蜜柑は、三人いることを念入りに確認すると、首を傾げた。

「ま、とりあえず行ってみましょうか。柚……林田さんが手を振ってますし」

「そうだな」

 三人は、俺たちに気が付いたようで、林田はこちらに手を振っていた。

 俺たちは、そのまま校門まで向かう。

「よ!」

 林田は元気よく挨拶してくれる。

「よお。どうしたんだ? 演劇部が揃いにそろって」

「いや、ちょっとな。人を待ってたんだよ」

 林田は、笑顔で言う。

「なんで三島くんと川端さんもいるんですか? ……人を待ってたんですか?」

 蜜柑は、いつもよりは控えめな笑顔で言う。

「なんだか第六感が働いてですね。林田先輩が怪しい動きをしていたので、ついて来たんです」

 三島は真顔で言う。

 川端さんは一言も話さない。

 そんな川端さんを見ていると、俺と目が合った。

 何かを訴えたい。そんな目をしているような気がした。

 とりあえず、何を訴えたいのかを考えるために、周りの状況と、みんなの発言を思い出しながら考える。

 いろいろ考えながら、林田と目が合った。

 軽くウインクをされた。

 ……なるほど。恐らく、林田と川端さんはグルだな。

 三島は、なんとなくついて来ただけだ。

 発言を思い返そう。

 林田は、人を待っていると言っていた。

 ……もしや、蜜柑は、林田と校門で会う約束をしていた?

 そう考えると、川端さんが何かを訴えたいような目で見てるのは……林田を何とかしたいんじゃなくて、三島を何とかしたいのか?

 三島は第六感とかよくわからないことを言っているし、この場に明確な目的をもっていない人物は三島だけになるから、俺の考えは合ってるかもしれない。

 俺は川端さんをチラッと見る。

 川端さんと目が合う。

 俺は、三島を軽く指差す。

 すると、川端さんは軽く頷いた。

 やっぱり三島だ。

 林田と蜜柑と川端さんは、恐らく三島を何とかしたいんだろう。

「さ、そろそろ帰るよ」

 川端さんは、楽しそうに話している蜜柑と林田と三島の間に割って入った。

 そして三島の服の袖を掴む。

 なるほどな。

 あんな劇が出来るんだ。

 この二人は、信頼し合っているに違いない。

 弥生や若葉……今の未来に比べたら、蜜柑は、俺に何かを相談したりすることは、少なかった。

 それは相談することがないということかもしれないが、俺以外に頼れる人がいたからということかもしれない。

 少し前まで、蜜柑にとっての頼れる人は、黛だった。

 でも、黛は若葉の元へ行った。

 黛も、頼れる若葉の元へ行ったんだ。

 今、蜜柑が頼れる人は、恐らく林田なんだろう。

 つまるところ、こういう時に頼れる人と二人きりになりたいから、こうやって正次郎は、アデリナを待っていたんだろう。

 アデリナは、正次郎に待っててほしいって言ったんだろう。

 だから、川端さんは三島を帰らそうとしてるんだ。

 林田と蜜柑を二人にするために。

「え? いや、林田先輩と蜜柑先輩は? 一緒に帰らないんですか?」

 三島は二人に聞く。

「俺ら、用事あんだよ」

 林田は笑顔で言う。

「え、何の用事なんですか?」

 三島はしつこく聞く。

 川端さんは相変わらず、三島の服を引っ張っている。

 三島は、蜜柑の事が好きだからな。

 蜜柑と林田と二人きりなのが気になるのだろう。

「ほら、帰るぞ三島。タピオカでも飲んで帰ろうぜ。奢るよ」

「え? 橘先輩まで。ちょっと、引っ張らないでくださいよ」

 俺は、三島の腕をぐいっと腕を組むような形で引っ張る。

「じゃあね」

「じゃあな~二人とも~」

 川端さんと俺は、蜜柑と林田の二人に別れを告げる。

 三島を引っ張りながら。

「いや、待ってください! 私は林田先輩に出し抜かれるわけには……いやちょっと! いえ、負けません……って力強くないですか二人とも……」

 三島は、俺と川端さんに引っ張られながら、無理やり駅に向かわせられている。

 引っ張っている間、三島はわーわー言いながら抵抗していたが、商店街と学校の間にあるバス停あたりで、三島は諦めて、おとなしく俺たちと同じ進行方向に向いた。

「タピオカ。奢ってくれるんでしょうね」

 三島は、不機嫌を隠そうとしながら言う。

 だけど、明らかに少し早口だし、不機嫌だ。

「ああ。奢る奢る」

「一番でかいの頼みますから」

「おう。頼め頼め」

 三島は、なんだか子供っぽく言った。

 こいつ、見た目は大人っぽいけど、ちゃんと年下っぽいところあるじゃん。

 川端さんは、俺たちを見て微笑んでいた。

 俺は三島に話を振る。

「味は? 何にすんの?」

「う~ん。どうしましょうかね」

「私はちなみに、黒糖」

 川端さんは、黒糖にするらしい。

 三島は悩んでいるようだ。

「俺は抹茶ラテかな~」

「抹茶……いやここはフルーツ系……」

 俺たちは、タピオカの味を考えながら、タピオカ屋に向かって歩みを進めていった。



 


 私は三島くんを引っ張っていく進さんと川端さんが見えなくなるまで、柚の袖を無意識のうちに摘んでいたようだった。

 そして、彼らの姿が見えなくなるまで、私は柚の袖を摘んでいた。

 彼らの姿が見えなくなった途端、私はよく伸ばしたゴムを、離した時のように、素早く柚に抱きついた。

「……」

 少しの間、柚も私も一言も話さなかった。

 柚は少ししたら、口を開いた。

「おいおい、困るって。進たちに見られてないかもしれないけどさ、他の誰かに見られてたらどうすんだよ」

「そんなこと言いながら、私に抱きつかれて少しの間、何も言わなかったくせに」

 私は、私の声を聞いた瞬間に、自分が泣いていることに気がついた。

 泣いている時の、鼻声が自分の口から聞こえたのだ。

「俺にとっては、都合の良い展開だけどね」

「だろうね」

 私たちは抱き合いながら、お互いの顔を見ないで話す。

「フラれて悲しいの?」

「違う。そうじゃないの」

 フラれて悲しいんじゃない。

「柚も、三島くんも、川端さんも、私のことをすごいって、尊敬してるって言ってくれてて、ついてきてくれてるのに、そんなに褒められてるのに、期待されてるのに、若葉ちゃんに負けたのが悔しいの! だから泣いてるの!」

 私は、抱き合うのをやめて、柚に顔を見せながら言う。

 酷い顔をしてるだろう。

 でも、こんな顔を見せられるのは、柚だけだ。

「そか。それでも、俺たちは蜜柑に失望することなんてないよ」

 柚は、心底優しそうな顔で言う。

「こんだけ酷い顔で泣いてんだ。誰も蜜柑を悪くなんて言わないよ」

「……ん」

「それに俺は、俺らは、蜜柑のことが好きなんだよ。お前が何しても、嫌な顔なんてするわけない」

「……」

 柚は、緩い笑顔を見せてくれる。

 危ない危ない……うっかりキスでもしちゃいそうになっちゃった……。

 ほんと、馬鹿みたいな男の子。

 ほんとはモテモテなの、知ってるんだから。

 何度も告白されてるくせに、全部断って。

 それでも私だけには、こうやって優しく好きだって伝えてくれるんだ。

 そういえば、黛さんは一言も好きって言ってくれなかったっけ。

 子供の頃から一緒にいて、私は黛さんに好きって言った覚えはある。

 いつだろう? 小学生の頃かな? もっと前かも。

 でも、黛さんは一度も好きって言ってくれたことはなかった。

 いつも大人っぽくって、家で静かに一人で遊んでる。

 誰にも、迷惑をかけないように。

 黛さんは、小さい頃からそうだ。

 まるで親みたいに、包み込むように、同級生と接して、私と話してくれる。

 親みたいに……か。

 黛さんから見たら、私なんて、ただの子供みたいなものだったのかなぁ。

 だから、一度も「女の子」として好きって言ってくれなかったのかな。

 こんなに好きだったのに、何が駄目だったんだろうなあ。

 そんなことを考えていると、また涙が溢れてきた。

 すると、柚は突然、私を強く抱きしめた。

「なに」

「他の人たちにさ、そんな顔、見られたくないしさ。こうすれば見えないでしょ」

「もう……」

 私は柚に抱きしめられながら、柚の胸をぽこぽこ殴る。

「ばか」

「はいはいバカですよ」

 柚は暖かい。

 心が落ち着いていく。

 涙が蒸発していく。

 私は柚の体を押して、放してもらう。

「もういいの?」

「うん。もう大丈夫」

「そっか」

 柚は嬉しそうだった。

「そういえば、なんで三島くんと川端さんがいたの?」

 私が呼んだのは、柚だけだった。

 柚にはまあ……保険として、もし心がぐちゃぐちゃになった時に、なんとかしてもらいたいから、ここに居てもらった。

 三島くんと川端さんは、いないはずだったんだ。

「なんか三島が変なカン働かせてさ。三島が怪しい怪しいってついてきたわけ」

「そっか。あれ? 川端さんは?」

「川端さんはわかんない。でも、今日の蜜柑のことは知ってたっぽい」

「う〜ん」

 多分……川端さんは、黛さんが寄越したんだろう。二人は、趣味が合うし、仲がいいから。

 でも、川端さんは、柚と私のこういう関係を知ってるから……柚に任せようとしたんだけど、三島くんがカンを働かせてついてきちゃったから、三島くんを帰らせることに尽力してくれた……ってところかな。

「ま、いいです。細かいことは」

 私はグッと伸びをする。

「帰ろっか!」

「そうだな。帰ろう」

 柚は頷く。

「家まで送ろうか?」

「いや、大丈夫。ちょっと家に帰ってから、黛さんと話すと思うから、その内容を一人で帰りながら考えたい」

「そ。じゃあな」

 柚は、荷物を持って去っていく。

「あ」

 柚は、背中を向けながら、大きな独り言を言った。

 そして、柚は振り向いた。

「今度は俺の番だから! 覚悟しておいてな!」

 柚は恥ずかしそうに私に叫ぶと、駆け足で行ってしまった。

「ふふ」

 なんだかおかしくって、笑ってしまった。

 ありがとう。柚。

 ありがとう、みんな。

 私はたくさんの人に支えられてます。

 これからも、たくさんの人に支えられるべき、そんな価値のある人を目指していこうと思います。

 それが最大限、私にできることです。

「さて」

 私は、スマホのカメラで自分の顔を確認する。

 酷い顔はしていない。

 これなら黛さんに見られても、黛さんを傷つけないで済みます。

 あの人は、少しでもそういうところを見せると、いろいろ思案して、色々心労をかけてしまいますからね。

 もう、できる限り、黛さんには頼らない。心配をかけない。

 だから、できるだけ、強い私を見せないと。

 新たな気持ちを胸に、私は自分の帰るべき家に向かって、足を踏み出した。




 家に帰ると、黛さんがリビングのソファで座っていた。

「おかえり」

「ただいまです」

 黛さんは低くて優しいいつもの声で、私を迎え入れてくれる。

「そっちはどうでしたか?」

 私は、荷物をリビングのキッチン側にあるテーブルに置いて、黛さんに尋ねた。

「まあ、若葉にしたよって言ったよ」

 黛さんは、目を合わせてくれない。

 こういう時は、照れてる時だ。

「好きって言ってあげましたか?」

「……言った」

「ほほ〜う! いいですねえ!」

 私が大袈裟に喜ぶと、黛さんは顔を赤くした。

 ほんと、素直じゃない人。

 私はテーブルの席に着く。

「そういえば、川端さんって……その……もしかして黛さんが声かけてくれましたか?」

 私は、さっき考えていたことを黛さんに聞く。

「そうだ。杞憂だったか?」

 黛さんは、私を見てくれる。

「まあ、半分くらいは」

 川端さんがいなかったら、三島くんがもっとめんどくさいことになってたかもしれないし、半分くらいは杞憂だろう。

「そうか。ま、お前には王子様いるもんな」

「へへへ……」

 黛さんはソファで伸びをしながら、ちょっとわざとらしく言った。

「その王子様とぼくはあんまり関わりないからな。川端に頼んだよ。蜜柑が傷ついて帰りそうだから、蜜柑のことは頼むってさ。蜜柑のためだからって言えば、川端はすぐに動くから」

「そういうことだと思いました。ありがとうございます。気を使ってもらっちゃって」

「いいんだ。大泣きで帰ってこられても困るし、帰ってこないってのも困るからな」

 よかった。

 ちゃんと涙は拭いてきて。

「……」

 少しの間、私たちは会話がなくなった。

 そして少ししてから、また私は、黛さんに話しかけた。

「聞きたいことがあるんですけど」

「ああ。なんだ?」

 別に、黛さんと両思いであったことがあるかを聞きたいわけじゃない。

 単純に興味があるんだ。

「私のこと、少しでも、同い年の女の子として好きだったことありますか?」

 私はゆっくり黛さんに伝えた。

 黛さんも、ゆっくり少し上を向き、少し考えてから、話し出した。

「ない。これは一度も。本当に一回もない」

 黛さんは、私の目を真っ直ぐ見て言った。

「嘘だと思うか?」

「いえ。どっちでもいいです」

 そう。

 どっちでもいいんだ。

 興味があるだけだったんだから。

 黛さんが私といる時、いつも私のことを心配してるような言動をしてることが多かった。

 だからやっぱり、「好き」ではあるんだろうけど、それは親が子供に思うような「好き」なんだろう。

「そうか」

 黛さんは、息を多く吐きながら言った。

 聞きたいことは全部聞いた。

 あとは私に、あれをしてもらえたら、私はもっと先に行ける気がする。

 覚悟が決まる気がする。

「黛さん」

「なんだ?」

「若葉ちゃんのこと、好きですか?」

「……」

 黛さんは顔をひきつらせた。

 少し顔を赤らめながら。

「……す、好きだよ」

 ほとんど聞こえないくらいに小さな声で言った。

「そんなもんですか? 若葉ちゃんへの好きは」

「……」

「もっと言え! 若葉ちゃんが好きって! もっと言ってください!」

 私は、黛さんに強気に言った。

「ん〜……」

 黛さんの顔はどんどん赤くなる。

「言え! 私に伝えろ! 若葉ちゃんがどれくらい好きなんだ! 凪黛!」

 黛さんに、こんなに強気に言うのは、初めてのような気がする。

「ああああ! わかった! お前に伝えてやる!」

 黛さんは立ち上がった。

「若葉が好きだよ! もうどうしようもないくらい好きだ! 自然と目で追っちゃうし、グイグイ来るし、距離近いし! 近くで若葉を見るだけですげードキドキする! かわいいし、明るいし、一緒にゲームもしてくれるし、甘やかしてくれるし、だけどちゃんと叱ってくれるんだ! 絶対幸せにするなんて無責任なことは言えないけど、できる限り若葉のために良くしてやりたい! とにかく、若葉のことがちょおおおおおおお好きだ!」

 黛さんは、見たことないくらい大きな声で、若葉ちゃんへの愛を叫んだ。

 ただ、叫び慣れてないせいか、ちょっとぎこちなかったけど。

 ふふ。

 それでいいんです。

「これで満足かよ?」

 黛さんは、呼吸を荒くしながら言う。

「はい。大満足です。これで、あなたから離れる覚悟は出来ました」

「そうか」

 黛さんは、またソファに座った。

「私、あなたがいると、頼っちゃって、弱くなっちゃうみたいなんです。だから、好きな人としての黛さんとは、さよならです」

 私は静かに、黛さんに伝えた。

「そうだな。お前はもっと、ぼくの先に行ってくれよ。いろんな才能があんだから、自分のやりたいことしてこいよ。ついてきてくれるんだろ? お前のことが大好きな人たちが」

 黛さんは、一呼吸置いてから、また話を続けた。

「ぼくなんて、超えていけ。蜜柑、お前はもっと広い世界を見なければいけない。いいな?」

「はい」

 そうだ。

 黛さんを追うのは、もうやめだ。

 私が、いろんな人に背中を任せる。

 それで、私が引っ張って行くんだ。

 みんなの期待に応えるんだ。

「黛さんは? 何かしたいことはあるんですか?」

「んまぁ、今はないかも。でもまあ、爺さんのために何かできたらって思うよ。唯一生きてる家族だから。あと、もちろん若葉にも良くしてあげたいな。あの子がしたいって言ったことは、全部してあげたい」

 黛さんは、すごく穏やかな顔で言う。

「えっちなこともですか?」

 私は笑顔で黛さんに言った。

「うるさいなぁ。ま、まあ……若葉がしたいって言うなら……するけど……」

「へへへ。ちょっと意地悪しちゃいました。ほんと、幸せにしてあげてくださいね。あの子も、黛さんを幸せにしたいって思ってるはずですから」

「ああ」

 黛さんは、深く頷いた。

「さ、夕飯にしよう。今日は肉じゃがでも作ろうかな」

「わーい! じゃあ私はお風呂掃除してきます!」

「うん。よろしく」

 黛さんは立ち上がり、キッチンに向かう。

 私は荷物を持って、一旦自分の部屋へ向かう。

 いつも通りの日常が、また始まった。

 だけど、気持ちは、今までと違っていた。

 もう、迷いはない。

 私は私の道をいきます。

 今まで、ありがとうございました。黛さん。

 でも、これからも、よろしくお願いします。


 

 






 

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