第24話 独立共歩

 正月も過ぎ、新学期が始まった。

 正月に降った雪は、もうすっかり解けている。

 今日は、三学期の初登校日だ。

 登校中、商店街から狭い道を通り、駅から学校まで向かう生徒のほとんどはコートやマフラーなどの防寒着を身に着けていた。

 そういう俺も、さすがにマフラーを付けてきた。それでも寒いけど。

 少し暗い中、校門を通り、昇降口の下駄箱で上履きに履き替える。

「おはよう。早いわね」

 少し右下の方から声がした。

 振り向くとマフラーをした弥生がいた。

「ああ、おはよう。早く目が覚めちゃったんだ。そっちはなんか仕事か?」

「そうよ。全校集会があって、学年集会もあるでしょ。セッティングやらをしないといけないの」

「そりゃ大変だ」

 俺はなんとなく、弥生が上履きを履き替えるのを待つ。

 弥生が履き替え終わると、俺たちは教室へ歩き始める。

「未来とは、一緒に来なかったの?」

「ああ……実は誘うか誘わないか悩んでて……」

「誘わなかったのね」

 弥生はつまらなそうに言った。

「いやあ……」

「あんな漫画みたいなことがあったのよ。別に誘ってもよかったんじゃないの~?」

 実を言うと、昨日寝る前、スマホの前で結構悩んでいた。

 こう、誘う文を書くところまでは、行ったんだけど……送信ボタンは押せない……みたいな。

「まあ……うん」

「冬休み中に、未来とは、結構出かけていたらしいじゃない」

「……なんで知ってんの」

「少し話をしたのよ、未来と」

「あ、そう……」

 俺たちは教室に入り、それぞれの席に座り、荷物を置く。

 弥生の席は真ん中の前から二番目。俺は窓際の一番後ろだ。

「どこ行ったのよ」

「……駅前で買い物……」

「うんうん。それから?」

「都心で初売り探し……」

「はいはいそれから?」

 弥生は荷物を置いてから、俺の席の近くまで寄ってきながら、聞いてくる。

「……ほぼ毎日電話……」

「はい、もうあれじゃないそれじゃない」

 弥生はやれやれと、呆れたような感じで言う。

 おそらく、弥生は、未来とはもう付き合ってるもんじゃんそれは、みたいなことを思っているのだろう。

 そうだ。

 お互いよくわからないが、未来とはなぜか、結構年明けから出かけたり、電話をしたりしている。

 別に俺は今のところ、未来が好きとかそういうのはない。

 でも、なぜがどうしてか、構いたくなるのだ。

 咲が頼りなかった時の頃を、どうしても未来を見ると思い出してしまうのだ。

「いや……そういうつもりはないんだよ」

「え~。でも咲なんでしょ? 好きだったんでしょ?」

「そうだけどさ、未来も言ってたんだけど、別に記憶が戻っただけで、性格は未来のままって言ってたから、俺も少し構いたくなるくらいで、未来も多分、俺の事なんとも思ってねえよ」

 弥生は少しあごに手を当てて、考え始める。

「う~ん……ま、いいわ。私は行ってくるから、ちょっとは考えなさいよ。あなたの前の席が未来なんだから」

「あいあい……」

 そう言うと、弥生は行ってしまった。

 それから時間が経つにつれて、ぼちぼち、生徒が増えてきた。

 俺はクラスの席が近い奴らと、軽くあけおめ~みたいな感じで挨拶をし、ぼけ~っと深瀬の友達の江口と話していた。

 休み明け。身だしなみの変化というものは、話題になりがちだろう。

「如月。なんかあったのかな」

「……ああ……」

 江口は、未来を見て言う。

 それはそうだ。

 髪の毛はすっかり短くなり、肩までの長さのショートボブに。

 髪も巻いていない。ストンとストレートだ。ギャルっぽい感じ、活発さは消えたと言っていいだろう。

「なんか知ってんの?」

「……ああ」

 未来と薫が別れたことは、これから少しずつばれていくだろうし、言ってもいいだろう。

 でも、あいつの記憶が戻った……ということについては、どうだろうか。

 あのクリスマスの時に、あの場に居た俺や未来、薫や弥生、若葉や蜜柑や黛は、それについて、知るべきだっただろう。

 しかし、同じ教室で友達と未来が話している様子を見ると、まるで記憶を取り戻したことの影響がない。

 何も知らない人から見たら、髪型が変わったことぐらいしか、わからないだろう。

 だから、未来の記憶については、あまり話さなくてもいいだろう。

「……でかい声出すなよ……」

「おう」

 俺は江口に忠告する。

「薫と別れたらしいぞ」

「マジ? お似合いだと思ってたんだけどなあ……」

 江口は、悲しそうな顔をする。

「ま、そっとしとけよ」

「ああ……お、噂をすれば薫くんだ」

 薫が教室に入ってくる。

 相変わらず、スタイルがいいし、一瞬見るだけじゃ、男子か女子かわからない。

 芸能人って言っても、違和感がないくらいに美形だ。

「おはよう」

 薫は真ん中の一番後ろの席だ。荷物を置きながら、話している俺たちに、挨拶してくれる。

「おはよう。薫」

「あけおめ! 薫くん」

「うん。あけおめ!」

 江口が言うと、薫は、綺麗な笑顔で元気に答える。

 江口は少し口を尖らせ、薫を見る。

「……ん? なんだ? 何か僕の顔についてるか?」

「ああ、いや、別に」

「そっか……ちょっと飲み物買ってくる」

「おう。おしるこな」

 俺は薫に言った。

「……お金くれないと買わないぞ」

「くそ~」

 薫は顔を膨らまして、腕を組みながら言った。

 その後、少し笑顔を作ってから廊下へ消えていった。

「……薫くん、なんか明るくなってね?」

「ああ……そうだな」

「如月と別れた……うーん……」

「あ」

 江口は恐らく、未来と別れたことが、薫が元気になった理由だと思っているのだろう。

「そんなわけねえだろ」

 俺はなんとか、違和感なく誤魔化そうとする。

「ま、そうよな」

 江口はガハハと笑う。

 まあ……半分くらい合ってるけど……。

 未来と別れたから明るくなったというよりは、弥生と、また一緒にいる時間が増えたから、明るくなったというか、そんな感じがする。

「お、深瀬が来たぞ~」

「あけおめ~」

「あけおめ!」

 深瀬は、廊下側の一番後ろの席に荷物を置き、こっちに来る。

「いや~朝からとんでもねえぜマジで」

 深瀬は微笑みながら言う。

「なんかあったのか?」

「う~ん。これはサプライズの方が、絶対に良いね。二人とも驚くぞ」

 俺が尋ねると、深瀬は言った。

「へえ」

「ついに谷田先生結婚か⁉」

 江口は、大きな声で言う。

「それはない」

 江口に深瀬は、すかさずツッコむ。

「ま、特に進は驚くかもな」

「俺?」

「ああ」

「うーん、なんだろうな……」

 俺は、腕を組んで考える。

 深瀬が驚くこと……サプライズ……俺が驚く……。

 わからんなあ。

「あ、進、深瀬。そういやさ、元旦のいつものあれ見たか? アップアップの……」

「見た見た」

「今年はバスフェイズが特によかった……」

 雑談が、始まりそうだったので、一旦考えるのはやめた。

 どうせすぐにわかることだ。

 俺は「わかる~今年はバスよかったよな」と会話に参加する。

 そのまま俺たちは、三人で年末から年明けのテレビの話題で盛り上がった。



 全校集会。

 体育館は寒い。足先が特に寒い。

 女子生徒はくっついて温め合ったり、震えながら「さみーさみー」という声が、あちこちから聞こえてくる。

 座ると尻が寒い。

 うちの高校は少し校則が緩いので、こういう場で制服のほかに、節度はあるがパーカーやコートなどを着てきても良いとなっている。助かるぜ。

 全校生徒が集まって、少ししてから深瀬が壇上に上がる。

 すると、自然と静かになった。

「あけましておめでとうございます。 ……年度三学期……全校集会、始業式を始めます」

 とても真面目な顔で、真面目な声で深瀬は言う。

 それから、校長の挨拶があった。

 相変わらず、そんなに長くはないので、ダレる感じはない。

 ただ寒い。

 その後、生徒指導部や、保健室からのお知らせなどがあった。

「……ありがとうございました」

 深瀬は壇上の左下で、進行を続けている。

 いつもとても静かな全校集会だが、大抵、時間が経つにつれて少しだけ、たまーにとても小さな声で、会話をする生徒がぼちぼち増えてくる。

 まあ、先生もちょっと話してるし、気にならないけどな。

「最後に、生徒会からのお知らせです。生徒会を代表して、生徒会長、町田から発表があります」

 深瀬がそう言うと、町田が壇上に上がった。

「町田です。生徒の皆さん、お世話になっています」

 町田は、頭を下げた。

「……やりにくいから、いつも通り行かせてもらう。生徒会は現在、私、深瀬、佐藤、泉の四人でやっている。しかし、ずっと庶務の席が空席だった。そして先日、ついにその席に座る生徒が決定した。今から改めて、自己紹介をしてもらおうと思う」

 そう言うと、町田は一歩引いた。

 そして、壇上に上がってきた生徒に、俺は見覚えがありすぎた。

「今回、生徒会庶務になりました、凪黛です。恐らく、約半期の任期になりますが、よろしくお願いします」

 黛だった。

 ……あんだけ生徒会に入るのを断っていた黛が、ついに生徒会に……。

 どういう気持ちの変化だろう。

 そう言った黛は、一礼をしてから、一歩引いた。

 すると、町田はまた壇上で話し出した。

「というわけで、黛には庶務の席に入ってもらった。私が会長に就いてから、ずっと勧誘し続けていたんだが、断られていたんだ。しかし、年が明けて、連絡があって、本人からの希望で、今回ついに庶務になってもらった。これからは五人体制だ。改めてよろしく頼む」

 そう言うと二人は、軽く礼をして、壇上を降りた。

 薫と未来の件で、何か変化があったんだろうな。

 ……とにかく生徒会に入ったなんて……驚きだ。



「いやあ……驚いたな」

「そうだな~」

 俺と薫は、驚きを共有している。

 俺たちは体育館から教室に戻り、学年集会までの待機時間を過ごしている。

 俺と薫、深瀬と江口は、俺の席の周りで話している。

「どうして驚いたんだ?」

 江口は俺の席までやってきて、尋ねてきた。

「そっか、江口は知らないか。黛くんはずっと生徒会に誘われてたんだけど、ずっと断ってたんだよ。それで急に入ることを決めたって町田から連絡が合ってね」

 深瀬は、江口に説明した。

「へえ~。急にか」

 江口は腕を組みながら言う。

「本当に急だったのか?」

 俺は、深瀬に尋ねる。

「ほんとほんと。町田もちょい驚いてたな」

「あんなに『生徒会には……入らない……』って言ってたのに、何かあったのかな」

 薫は、黛の低い声を真似しながら言う。

「ま、なんかはあっただろうな」

 深瀬は、スマホを見ながら言う。

 そういや、生徒会の佐藤の件があったのに、黛は大丈夫なのだろうか。

 あとで、若葉にでも聞いてみようかな……。



 学年集会が開かれる、視聴覚室に俺たち生徒は向かった。

 三年〇学期などと話をされた。どうやらもう、受験勉強を始めた方がいいらしい。

 うちの高校はゴリゴリの進学校という訳ではないので、周りも勉強しているという雰囲気はない……が、実際は無意識に、それも日常的に、周りは勉強をしているんだろうなと思う。

 話を聞いた後、俺は教室に戻る際に、一人でいる若葉を見つけた。

 聞きたいこともあるし、教室に戻りながら、さっき思ったことを聞こう。

「よ」

「ん? なんだ進かあ」

 若葉は、俺を見上げる。

「黛、生徒会に入ったってな」

「あ、うん。私は前から知ってたけど……」

「あ、そうなの」

「うん。本人から相談はなかったんだけど……佐藤ちゃんから連絡があって……」

「あの書記のか? 黛や俺らと、一悶着あった」

「うん。黛が生徒会に入るって聞いて、自分はどうすればいいかってさ。聞いて来たの」

「そりゃなあ……」

 佐藤は、黛を約半年間盗撮して、手紙を送り続けた……というストーカー行為をしていた。

 もし、黛がしっかりと被害者意識を持っていたら、結構大事になっていただろう。

「というか、いつの間にそんな仲良くなってんだよ」

「実は……オタク趣味が一緒でさ……」

「ああ……」

 若葉は、少し恥ずかしそうに言った。

「で、なんて連絡返したんだよ」

 俺は、階段を下りながら尋ねる。

「えっと……まあ、黛なら気にしないと思うし、佐藤さんも、別に気にしなくていいんじゃない? って返したよ」

「ああ……そっか」

 確かに、黛は気にしないだろうけど……。

 ……もしかすると、佐藤さんは黛が生徒会に入ることを、黛のことが好きな若葉が良く思わないんじゃ……と思い、佐藤さんは、若葉にこのことを尋ねたんじゃ……。

 ま、いいか。若葉も気にしてなさそうだし。

「なら良かった。入っても問題なさそうだな」

「うん。少し驚いたけどね」

 若葉はにこにこしながら言う。

「あ、二組こっちだから」

「おう」

 そういうと若葉は、二組へ入っていった。



 三日後。昼休みに俺は、深瀬と屋上で飯を食べていた。

「……次なんだっけ、授業」

「日本史」

「……ああ、絶対寝るわ」

 俺は、屋上でうとうとと、横になっていた。

 うちの高校は、かなり最近建て替えられたばかりなので、屋上もしっかりと作られているし、解放されている。

 俺も、二年の後半になってからは、クラスの奴らと、ここに来ることが多くなった。

 ただ、屋上まで来るのが面倒だったり、寒かったりと、いろいろな理由が重なっているせいか、来ている人は少ない。

 屋上の一つ下の階には、小さな庭園がある。ベンチや、小さいが、芝生などもある。

 今日は比較的暖かいのもあり、屋上で弁当を食べようって、深瀬が言い出したので、今はこうやって屋上にいる。

「お、お~い」

 深瀬は座っている体制から、少し体をひねり、屋上へ続く階段がある方に手を降る。

 俺もそちらを確認すると、黛と薫がいた。

「進もいるのか」

「おっす」

「やあ進」

 黛は、右手で軽く挨拶してくれる。

 薫は笑顔で手を振ってくれる。

 二人の手には弁当が握られている。二人は俺たちの隣に座る。

「そういや、生徒会になったんだってな。おめでとう」

 俺は、黛に寝っ転がったまま言う。

「どうも」

 黛は弁当箱を開ける。

「あれ? 弁当の中身一緒じゃね?」

 深瀬は、薫と黛の弁当箱の中を見比べる。

「黛が作ってくれたんだ。たまには食べたいって言ったら、作ってくれたんだぞ」

 中を見てみると、和食が詰め込まれていた。

 ぱっと見、冷凍食品が少ないように見える。

 和食が多そうだし、結構手間がかかってそうだ。

「へえ~。弁当って作るの大変だろ?」

 俺は黛に尋ねる。

「そんなことはない。一つ作るのも二つ作るのも変わらん。少し多く作るだけだからな」

「そんなもんなのか……」

 黛は、軽く手を合わせてから食べ始める。薫は「いただきます」としっかり言ってから食べ始める。

「そう言えば、本当に球技大会の生徒会からの代表……黛くんに任せていいの?」

「ああ」

「……最近、勉強も結構やってるみたいだし……俺がやってもいいんだけど」

「いや。ぼくがやるさ。負担なんて気にしなくていい」

「そうか。じゃあ任せた」

「ん」

 黛はそのまま、弁当を食べ始める。

「最近勉強してるの?」

「まあ、前よりはしてるなあ」

 薫は、黛に尋ねると、黛は小さい声で言った。

 姿勢が良くて、女の子座りなので、薫がめちゃくちゃ女の子に見える。

 年明けてから、薫は明るくなったし、なんかこう、無理して凛々しく、男らしくすることが無くなったような気がする。

 話す距離も、なんだか前より近い。

 ……未来の彼氏……という自分が男らしくいなきゃ……という意識が多少あったんだろうな。去年までは。

 その男らしくないといけないという気持ちと、女の子みたいなかわいいものも好き……という気持ちに挟まれる……と考えると、結構つらいかもしれない。

「受験だからか? 三年〇学期とかなんとか言ってたけど」

 俺も黛に尋ねる。

「いや、ちょっと成績の落ち込みがひどくてな。なんとか戻せないかって」

「別に、俺よりは成績いいだろ」

「まあ……そうかもだが……」

 確かに、俺たちの周りには、頭のいい人間がたくさんいる。

 黛のように焦る気持ちもわかる。

 ……俺は……焦ってすらいないけど……。

「そういえば、話は変わるが、自販機にコンソメスープが追加されてたぞ」

 黛は突然思い出したかのように言う。よく見ると、黛が見ている方向にいる女子生徒は、コンソメスープの缶を飲んでいた。

「まじかよ!」

「熱いな」

 俺と深瀬は、ゆったりとしていた姿勢から飛び起きる。

「俺、買いに行くわ」

「俺も」

 俺と深瀬は、自販機に行くために立ち上がった。

「僕は放課後でいいかな。まだ食べているし」

「ぼくも」

 黛と薫は、行かないみたいだ。

「じゃ、黛は放課後な。じゃあな薫くん」

「うん!」

 薫は元気よく返事をする。

 その時、寒い冬の風が吹いた。

「うっ、寒」

「早く行こうぜ。コンソメスープが待ってる」

 俺は深瀬に急かされて、急いで一階の自販機に向かった。



 数日後の放課後。教室は帰りの支度をする生徒で溢れていた。

「だ~疲れた~」

「深瀬はこの後部活? 生徒会か?」

「なんと、部活だぜ~」

 椅子に体重をかけて、後ろに大きく伸びる深瀬。

「じゃあねみんな」

「おう」

「じゃあなあ!」

 薫は自分の席から、俺と深瀬、江口に挨拶をした後、弥生のところに向かっていった。

 弥生は、こっちに小さく手を振っている。

 俺も振り返す。また明日、と言ったところだろう。

 最近は、弥生も元気そうだし、薫と一緒に居ることが多いからか、俺と話す時間は少し減った。

 それでも、こっぴどくいじってくるときもあるけどな。

 それも楽しいんだ。

「今日って、普段は生徒会行ってから、部活だっただろ?」

 江口は深瀬に尋ねた。

「黛くんが『部活あるだろ? ぼくが代わりにやるから、練習してきなよ』って部活ある日の仕事をある程度、代わりにやってくれてんだよな」

「へえ~いいじゃん」

「黛様様だな」

 深瀬の発言に、俺と江口は、返答する。

 早速、黛は生徒会の仕事を張り切ってしているんだな。

「そそそ。じゃあな。練習行ってくるわ」

 そう言うと深瀬は、荷物を持って、廊下へ出ていく。

「頑張れよ~」

「ケガすんなよ~」

 江口と俺は、深瀬を送り出す。

「ん?」

 江口は、チラッと教室の前の方を見る。

 そうしてから、江口は俺を向いて、口を開いた。

「……じゃ、俺も行くわ」

 江口はサッと荷物を持って言った。

「おう。また明日な、あ。漫画……」

「そうだった! 明日持ってくるわ。八月のクロヒョウだよな」

「ああ。助かるわ。じゃあな」

「じゃな!」

 江口は、足早に去っていく。

 俺も帰ろうと思い、荷物を持って立ち上がる。

「進」

「ん? どした?」

 教室の前から、未来がやってきて、俺に話しかけてきた。

「帰ろ~」

「うん。いいぞ」

 俺は、すぐに返事した。

 俺たちはそのまま、一緒に教室を出た。

 


 駅に着く。

 一緒に帰るって言っても、別に必要以上に会話をすることはなく、話さなきゃといった感じはない。

 今はホームで電車を待っている。

「ねえ見て、これ」

「なにこれ」

「みちると取ったプリクラ」

 未来はスマホのケースの裏に入れた、プリクラを見せてくれる。

「……どんな感想を俺に求めてるんだ?」

「いや別に、見せたかっただけ」

「あ、そう」

 こんな適当に、お互いが話したいことを突発的に話す感じなのだ。

「あ、そうそう。この前蜜柑ちゃんと黛くんの家で、蜜柑ちゃんと遊んでた時にさ」

「ん~」

「黛くん、ご飯作ってたの。そこで気が付いたんだけどさ。少し体調悪そうだったんだよね~心配」

「それは心配だな」

 そう言えば、環境の変化に黛は弱いって、黛の祖父の徹さんが、そんなことを言っていた気がする。

 生徒会に入り、勉強量も増やし、深瀬の仕事も変わって、球技大会も……となると、さすがに体調を崩していてもおかしくない。

「結構新学期から忙しいみたいだし、心配だな」

「そ~ね。というか生徒会って、あんな感じで急に入れるんだね」

「町田さんが結構いろいろ考えてそうだしな」

「あの人ね。結構圧あるけど、いい人だよね」

「あ、絡んだことあんだ」

 そう俺が言うと、電車が到着した。

 一旦話をやめ、俺たちは電車に乗り込み、空いていたので並んで座る。

「で、なんだっけか」

「町田さんの話」

「そうだ。絡みあるんだな、未来と」

「うん。一年のとき同じクラス」

「あ、そうなんだ」

「そう。なんかこう、運動とか勉強とかで目立ってたわけじゃないけど、みんなを引っ張るのがうまかったよ。だから生徒会長で、納得してる人多いと思うよ。町田さんと同じクラスだった人は」

「へえ~」

 電車内は暖かく、空いているため、結構落ち着く。

「そういえば、薫くんは最近どう? ちょろっとしか話せてないんだけどさ」

「ああ、とっても元気だし、明るいな」

「ふふ。良かった」

「……ほんと、ひとつも未練はないんだな」

「うん」

 少しは歯切れの悪い感じが、あってもおかしくないと思うけどな。

 まあ、今頷いた未来の顔を見れば、本当に歯切れがないというのが、わかるけど。

「あんだけ弥生さんと殴り合って、薫くんと面と向かって話したんだし、未練あるわけないでしょ」

「そっか」

「そういうアンタは、弥生さんとはもう何もないの」

「ない」

 あんだけ言い合ったし、傷つけあって、未練があるわけないだろ。

 今ではいい親友だ。

「そ。ならいいんだけど」

「……」

 俺はスマホを見る。

 未来もスマホを見始めた。

「数学の課題いつまでだっけ」

「来週」

「おっけ~」

 俺は未来の言ったとおりに、スマホのカレンダーに、予定を追加する。

「……アンタ暇すぎない?」

 未来がスマホを覗いてくる。

「へ? こんなもんだろ」

 確かに、今月の土日はすべて空いている。

 まあ、空いていると言っても、若葉や薫、弥生や黛とゲームをすることもあるし、黛の家に、急に泊りに行くこともある。

「……遊びさそってもいい? 暇なとき」

「いいけど」

 俺は、未来をチラッと見る。

 ……スマホから目線が動かないせいで、表情が読み取りにくい。

「未来も暇なのか?」

「部活もないしね。まあ適当に声かけて、蜜柑ちゃんと買い物とか、みちると遊んだりすることもあるけど」

 みちる……ああ、柏木さんか。

 さっき、プリクラに写ってたな。

「そっか。ま、そっち釣れなかったら、誘ってくれてもいいぞ」

「アンタも、別に暇だったら、声かけてくれてもいいのに」

「暇だったら声かけるよ」

 未来は、外を見始めた。

「日が暮れるのが早いね~」

 未来はそうボソッと言った。

 確かに、帰りが遅くなったわけじゃないのに、日が暮れかかっている。

 未来の横顔は、少し大人っぽく、色っぽく感じた。



 俺は家に帰り、少し課題をやった。しかし、まあいつも通り集中できることはなく、ほんの少しだけ進んだ課題を見て、俺は満足した。

 夕飯を食べて、お風呂に入り、歯を磨くと、もう寝るのにちょうどいい時間になった。

 寝る前にスマホを見ていると、若葉から電話がかかってきた。

「もしもし」

「もしもし、まだ起きてる?」

「うん。起きてるけど」

「よかった~。ちょっと話があってさ」

 若葉はいつもの調子で話す。

「話ってなんだ?」

「黛の事なんだけど……」

「ああ」

「実は最近、また黛が体調を崩してるみたいで……」

「ああ……未来も似たようなこと言ってたな」

「あ、そうなの」

「うん。体調あんまりよくなさそうだって」

 未来も若葉も言っているあたり、本当に黛は、調子が悪いんだろうな。

「それでね、体調を崩してる理由を少し、考えてみたんだけどさ、多分結構、黛無理してる気がするんだ」

「無理って……生徒会に入ったこととか?」

「それもだけど、最近、学校の仕事とか、人のお願いとかを聞いてるみたいで……それに勉強も頑張り始めて……」

 そう言えば、薫の弁当も作ってきたりもしてたな。

「それで、そうやって無理をしてるせいで、体調が悪くなってるのなら、止めた方がいいのかなって思ったんだけど……」

「思ったんだけど……どうしたんだ?」

 若葉は少し小さな声で、話を続けた。

「でも別に黛がしてることは、無理してるかもしれないけど、悪いことじゃないじゃん? 人のために、いいことをしているわけであって……だから止めるのもどうなのかなって」

「ああ……確かにな」

 確かに、無理をしているのかもしれないけど、それがいいことなら、止めなくてもいいのかもしれない。でも、俺は黛の頑固なところを知っている。だから、もしかすると、早く止めないと、後戻りできないところまで行ってしまうかもしれない。黛が色々抱え過ぎて、ダメになる前に、止めないといけないかもしれない。

「止めた方が、いい気がするな」

「そう思うの?」

「うん。だって、あいつ頑固じゃん? 早めに止めないと、後戻りできないところまで行きそうっていうか……」

「あ~確かに……それにもし無理してるのが原因で、体調悪くなってるなら、やっぱり止めないと……とにかく、本人に聞かないとダメかな」

「そうだな」

「じゃあ、なんとか面と向かって話すタイミング作ってみるよ」

「若葉は別に、いつでも黛と話せるんじゃあ……」

「だって最近休み時間も、放課後もずっと忙しそうなんだもん」

「ああ……そうなのか」

 なら、本当に無理してるのかもしれない。

 そんなに忙しいなら、体調も崩してもおかしくない。

 それに、生徒会っていう新しい環境にも身を置いているわけで、黛は環境の変化に弱いってこともあって、そろそろ体調崩してしまうかもしれないな。

「じゃあ、そういうことだから。ありがと、相談乗ってくれて」

「いいんだ。じゃあな。おやすみ」

「おやすみ~」

 そう言うと、若葉は電話を切った。



 次の日の昼休み、いつも通りクラスの奴らと、どうでもいい話をしていると、若葉が俺のクラスの後ろのドアから、手招きをしているのが見えた。「ちょっと悪い」と一言断りを入れてから、若葉の元へ俺は向かった。

「どうも」

「おう。どした?」

「昨日の黛の話なんだけどさ、今日の朝、佐藤ちゃんとバッタリ会ったときに、黛の体調について相談されて……」

「やっぱり、生徒会の奴から見ても、体調悪そうなんだな」

 若葉は、一生懸命俺を見上げながら話す。

「うん。やっぱり佐藤ちゃんから見ても、顔色が良くないし、仕事の効率も落ちてるみたいだから、心配だって言ってて。それで私が昨日、進と話したことを話したらね、なんとかして放課後、黛と仕事を佐藤ちゃんが変わるから、そこで暇になった黛と話して、無理していろいろ仕事をするのをやめさせてほしいですって言ってた。で、相談相手だった進にも、一応話しておこうって思ってさ」

「そっか……」

「どうやら、他の生徒会メンバーも心配しているみたいでさ。でも黛頑固だから、一度引き受けた仕事を、他のメンバーが手伝おうとすると、断るんだって。正直、他のメンバーから見ても、ありえない仕事量らしいよ」

「……いつからそんな無理をするようになったんだ、あいつは……」

 他のメンバーから気を使われても、黛の性格なら、多分、気を使われるのを良しとしないだろう。黛は、あんまり人を頼らないからな。

 ただ気になるのは、黛は、無理をしない、限界があるから。そういう考えで行動するはずだ。

 本当に、いつ黛は変わったのだろうか。

「……」

 若葉は少し黙った。

 そして俺の顔を見ると、少し腕を組み、何かを考え始めた。

「……進」

「なんだ?」

「進も今日の放課後、私が黛を止めるのに、ついてきてほしい」

「え! なんでさ! 俺が必要なのか?」

「別に、手伝ってもらいたいわけじゃない。とにかく、何も言わずについてきてほしいの」

「……それはなんで……」

「もし必要なさそうだったら、途中で帰ってもいいよ。お願い、とにかくついてきてほしいの」

 若葉は真剣な顔で言う。

 よくわからないけど、まあ……頭の切れる若葉が言っているんだ。

 何かしらの考えがあるはずだ。

「わかった。放課後な」

「うん。多分、黛を剣道部の部室に呼ぶから、進も来て」

「ああ。ほかに誰かいるのか?」

「いや、今日は空いてるから部室ってだけ」

「そっか」

「じゃあ放課後ね」

「うん。また」

 そう言うと、若葉は自分の教室の方向へ、離れていった。

 その後、昼休みが終わると、五限目の授業が始まった。現代文だったので、いろいろ考える余裕があったので、黛がなぜ無理をし始めたのかを考えていた。

 でも、その結論が出ることはなかった。

 確かに年末、壮絶なことがあった。でも、黛に無理をさせ始める要因というものが、見つからない。

「お~い。ほれ」

 前の席の未来が、俺の採点が済んだ、漢字の小テストを渡してきた。

「ああ、悪い」

 ニ十点満点中、一五点。ぼちぼちと言ったところだ。

「……ぼーっとしないの」

 未来は、少しやれやれとした表情で言ってきた。

「ああ。悪い」

 その後、授業が終わると、未来がすぐに話しかけてきた。

「ちょっと、話があるんだけど、廊下来てくんない?」

「え?」

「いいから」

 未来は俺を強引に立ち上がらせ、腕を引っ張り、俺を廊下に連れていく。

 そのまま、廊下のT字になっているトイレの前の通路まで来た。

「ほら、話して」

 未来は、何もないような顔で言っていた。

「だから、何を」

「考え事。あるんでしょ?」

 未来は、真顔で言ってきた。

「話してよ。たまにはさ、頼ってよ」

 未来は少し微笑む。

 今まで、咲の面影を未来から感じることはあった。咲の面影を感じない、まったくの別人だと思うこともあった。

 しかし、今の未来の微笑みは、咲と未来、どちらとも取れる表情だった。

 少し頼りになるような、優しいような、強引なような、そんな感じ。

「実は……」

 俺は、黛が体調を崩していて、それは無理をしているからだ、ということを話した。そして、黛が急に無理をし始めた理由がわからないということを話した。

「ってことなんだ」

「そっか」

「うん、どう思う?」

 未来は少し腕を組み、考え始めた。

「なんていうかな。年末あんなことがあったわけじゃん」

「ああ」

「そんな中で、黛くんは途中で倒れて、最後の方は、体調不良で寝てたんでしょ?」

 未来は首を傾げて尋ねてくる。

「うん」

「しかも、結構最近まで体調を崩してた」

「……で、どうなんだよ」

「えっとね~あんだけ進や弥生、若葉ちゃんが最後まで頑張ってて、そんな中で黛くんだけ途中で離脱して、寝込んで何もできない状態で、起きたら全部解決してたら……悔しい気持ちになったり、自分が情けなくなったりしないかな?」

「あ~する。絶対する」

 俺の場合は、悔しいってよりは、情けないって感じの方が大きいかな。

 何もできなくて、申し訳ない、みたいな。

「そうしたらさ、頭のいい黛くんだったら、周りを見て、どうすればいいか考えると思うんだ。あの時、力不足だったからこそ、何が自分にはできるのか。どれが正しいのか。どこをどうすればよかったのか」

「……確かに」

「少なくとも、私が黛くんなら、力不足だったな~とは、思うな。黛くんは結構難しいこと考えてるイメージだし、いろいろ考えた結果、今の行動をしてるのかも……って結局、何も解決してないじゃんこれ」

「いや、参考になったよ」

「あ、よかった」

「少しな」

「はあ? 蹴るよ?」

「ははは」

 未来は少し笑っていた。また、やれやれとした表情をしながら。

 俺は未来を少しいじってやった。結構、真面目な雰囲気になってたしな。

 ちょっとは、ほぐさないと。

「ありがとな」

 俺は改めて、未来に言った。

「はいはい」

 チャイムが鳴る。

 俺たちは、授業に遅れないように、急いで教室に走った。



 放課後。俺は、剣道部の部室に向かった。

 竹刀や道着などの道具が置いてあり、少し竹の匂いと、鼻にくる匂いが混じったような匂いがした。

 少し待つと、すぐに若葉と黛が来た。

 黛は平然を装っていたけど、顔色は明らかに悪い。目の下に隈があるようにも見える。

「やあ進、先に来てたんだね」

「ああ」

 若葉は、俺の隣に並ぶ。

 黛は、俺と若葉の正面に立つ。

「それで、話ってなんだ?」

 黛は、俺たちに尋ねた。

 俺は、若葉を見ると「私が話すね」と一言言ってから、話し始めた。

「黛、最近無理してるんじゃないかなって」

「……別に無理してないよ」

 黛は笑いながら言う。しかし、その笑いには明らかに力が入っていなかった。

「嘘ついてるでしょ、黛」

 若葉は冷たい口調で言った。表情も真剣だ。ちょっとだけ、若葉は怒ってるのかもしれない。

「……」

 黛は少し腕を組んで、何かを考え始めた。

 視線は、若葉に向き、俺に向き、その後、目を閉じてから開き、黛は話しだした。

「無理してるとしてもだ、今は無理してでもやらせてほしい。生徒会に入った責任もあるしな」

 黛はそう言った。

 確かに、生徒会に入ったからには、しっかり活動しないといけないという責任が黛にはあるのだろう。

「……だってさ。いいんじゃないか? やらせておけば」

 しっかりした無理をしている理由があると、俺は思った。それに、本当に大変なことになる前に、俺が助けてやればいいと思った。

 若葉は相変わらず、黛をずっと見ている。

「まだ、嘘ついてるでしょ。無理しないといけない理由が、生徒会に入った責任なのは、おかしいよ」

「……おい、黛がほんとのことを言ってたらどうすんだ……」

「いや、絶対に嘘」

 俺が、若葉に黛を問い詰めるのをやめさせようとしても、若葉は毅然とした態度で話を続けた。

「だって、黛が生徒会に入らなかった理由は、責任を負いたくないから、面倒だからだもん。だから、じゃあ今さら、責任とかいろいろ面倒だから、入るのを断ってた生徒会に、入った理由は何だって話。ほかにもっと、黛を動かした本質的な理由があるはず」

「……た、確かにな」

 責任を負うのが面倒なら、確かに生徒会に入らなければいいだけの事だ。あと、生徒会に入るのを断ってた理由も、責任が面倒だったから、だからな。理由にならないような気もする。

「でしょ? 黛」

 若葉は黛に尋ねる。

 黛は若葉を見る。

「まったく、若葉には嘘をつけないな」

 黛はやれやれとした感じで、部室の開かない方のドアに寄りかかった。そして俺を見る。

「進が理由だよ」

「俺?」

「ああ。お前が薫を、未来を、いろいろな人を助けてきた。お前が、自分の身を犠牲にしても、どうにかしようと行動していたのを、ぼくは見てきた。それがいいなと思ったから、生徒会にも入ったし、仕事もいっぱい引き受けたし、いろいろお節介を、ぼくも無理やりしてるってわけ」

 黛は寄りかかるのをやめて、少しだけこっちに寄ってくる。

「だってこいつにできるんだ。ぼくにだって、出来るはずだろう」

 黛は、俺を指さして言った。

「だから、無理をしてたとしても、今は無理してでもやるべきなんだ」

 黛は若葉に言った。

「……」

 若葉と黛は見つめ合う。

「黛、とりあえずさ。オセロしよっか。久々に」

「はい?」

 若葉が、急にタブレットを取り出しながら言った。それを見て俺は、何が何だか分からなくなってしまった。

「そうだな。いいぞ」

 黛は二つ返事で部室の長椅子に、タブレットを若葉と挟むように座った。

「なんでそうなるんだよ……」

 頭のいい人の考えてることは、よくわからない。

 オセロは、途中までテンポよく進んだ。

 しかし、途中から黛の手が止まり始めた。

 体調が悪いのもあるのだろう。状況はどんどん若葉に有利になっていった。

 そして、若葉が大勝してしまった。

「……」

 黛は、タブレットを見ながら黙っている。

 若葉は立ち上がってから、口を開いた。

「今の体調の黛なら、私でも勝てるよ」

 若葉はこの部室に入って、初めて心配そうな表情をした。

「いつもの余裕はどこに行ったの? 無理してるでしょ? 別に、黛は進になろうとしなくていいんだよ」

 そう若葉が言うと、俺はハッとした。

 そうだ。こいつは身体がそんなに強くない。

 それに、黛は俺になる必要なんてないんだ。だって、今まで通りの黛に、俺は何度も救われてきた。

 無理して、俺みたいに、黛は自分の身を削って、行動しなくてもいいだろう。

「若葉の言うとおりだ。無理をするのはやめるか……せめて少しぐらい仕事ほかの奴に頼めよ」

 俺は黛に言った。

 すると、黛はゆっくり立ち上がった。

「お前に……」

 黛は静かに呟いた。

「お前にだけは、無理するのをやめろと、言われたくない!」

 黛は、静かに呟いたあとに、そう叫びながら、俺の胸ぐらを掴んだ。

 ただ、俺と黛の身長差は約二十センチ。体格差があるため、俺はびくともしなかった。

 それに驚きもしなかった。若葉も、驚いていなかった。

 なんとなく、こうなるって、二人とも心のどこかで思っていたからかもしれない。

「お前がやっていることを、ぼくはしているだけなのに、どうしてお前に止められなきゃいけないんだ! ぼくは自分が間違っているって、お前を見ていて思ったから、自分を否定して、お前みたいにこうやって無理して人のため動いているのに、なんでお前がぼくを止めるんだよ!」

 黛は今までに見たことのないくらい、焦っているような、必死になっているような顔で言った。余裕がなさそうに言った。

「どうして無理をし始めたんだ?」

「ぼくは怖かったんだ」

 俺が尋ねると、黛はそう言いながら、少し俺から離れた。

「人が離れていくのが。人の時間を奪って嫌われるのが怖かった。誰かが傷ついて、そのせいで失うのが怖かった。とにかく、ぼくから人が離れていくのが怖かったんだ! だからぼくは嫌われないように、人に頼らず、時間を奪わないようにして、みんなにある程度、手を差し伸べるようにしてきた。無理せず、みんなに心配をかけないように」

 黛は身振り手振りを一生懸命して、話している。

「それに誰かに助けてもらっても、その見返りができる自信もなかった! だから、ぼくは誰の手も借りなかった! 借りたくなかったんだ! 何かを返せる自信もないのに、頼るのが申し訳なかったんだ! それに、何も返せないと、嫌われるかもしれないだろ!」

 見返りなんて、気にしなくてもいいのにと、俺は思った。

 返せるのなら、返せばいい。返せるようになったら、返してくれればいいし、返さなくても、俺はいいと思っている。

 でも黛は両親がいないせいで、無償の愛を受け取ったことがないから、助けられたら、絶対に返さないといけないと、思っているのかもしれないけど。

 黛は少し咳をした。その後、話を続けた。

「それも全部自分のために! 嫌われないために! 好かれるために! ぼくから人から離れていかないように!」

 黛の声が少し枯れてきたような気がする。

 結構無理して声を出しているのかな。

 大きい声も、出し慣れていないような気がする。

「それでいて自己犠牲をしないように。自己犠牲をすると、助けた相手に罪悪感が残ってしまうかもしれないから。一緒に居て、辛いと思われたくないし、罪悪感から、一緒に居ると気まずいって思われたくないから。それも、ぼくから人が離れないようにするためだ」

 黛は、俺を改めて見た。

「だからぼくは進を、お前をやんわりと否定してきた。お前の自分が傷つくことを辞さない考えは、行動は、いつかお前をよく思ってる人たちを、傷つけてしまうと思ったから! 進を失うのが、傷つくのが、怖い人間を無視していると思ったから! 進のことが好きな人に、罪悪感を作ってしまうと思ったから!」

 黛は、俺を指差して言った。

 相変わらず、必死に、余裕がなさそうに言っている。

 でも、初めてこんな黛を見た。

 こいつも昔の弥生と同じで、あんまり本音を話してくれないやつだった。

 もしかすると、こいつは今、本音で話してくれているのかもしれない。

「でもぼくのその考えじゃ、自己犠牲をしない考えじゃ、薫を救えなかった! 結局お前みたいに、自分の身を犠牲にして、人を救う度胸がぼくにはなかった! それを見て、薫を救うお前を見て、お前が正しいと思った! ぼくの考えを、お前がお前の行動で否定したんだ!」

 嫌われたりするのも怖かった。とにかく、人が離れていくのが怖かった黛。

 助けた相手に罪悪感が残ってしまうかもしれないから、自己犠牲はしない。

 それは、助けた相手の罪悪感のせいで、人が離れていくことが怖いから。

 急に両親を失った黛だからこそ、離れていくのが怖かったんだろう。

 とにかく、人が離れてしまうかもしれない要因を、黛は消すように生きてきたのだろう。

「それでぼくは行動した! 自分の身を犠牲にすれば、無理をすれば、進の真似をすれば、正解に近づけるって思った! そうすれば、人が離れていくことはないと思った! でもぼくは、お前ほど強くなかった! 実際、今ぼくは無理をして体にガタが来ている! でもお前の行動が正解だと思ったから、今こうやって無理してでも頑張ってるんだろ!」

 黛は、今にも倒れそうなくらいに必死だった。

 ……こいつは、俺を見て無理をし始めたんだな。

 これがしてることは、俺にとっては普通だけど、黛にとっては普通の事じゃなかったんだ。

 若葉にここに連れてこられた理由が、わかった気がした。

 俺がいないと、黛はこの本音を若葉にぶつけることになる。

 だが……恐らく、黛は、若葉にこの本音をぶつけることはないだろう。

 だからこそ、黛にこの本音を吐き出させるために、若葉は俺を連れて来たんだろう。

「ぼくは進みたいに、無心で、自分の身を気にしないで、人を助けたいって気持ちで行動は出来ない! ぼくは自分のために、自分が、もう一人にならないためにお節介してたんだ! 自分の身を犠牲にしない程度に。嫌われたくないから、離れてほしくないから! 大切な人を失いたくないから! 一人になるのが怖いから! そんな自分勝手なぼくに、弱いから、なにも返すことができない、わがままなぼくに、気を使わないでくれよ!」

 黛は、胸に拳を当てながら言った。

「自分を犠牲にして、周りに好かれていく、周りを救っていく、お前みたいになりたかったから、こうやって無理をしているんだ! お前が理想だと思ったからこうしてるんだ! だから無理をし始めたんだよ! ぼくは、お前を見て、自分を否定したんだ!」

 黛はそう言うと、沈黙した。

 言いたいことは、言い切ったのだろう。

 俺にとって、俺は別に無理はしていない。俺はこれが普通なんだ。

 でも、黛は俺の真似をして、無理をしている。

 無理をするのはいけない。だから止めないといけない。

 それに、黛は黛でいいと思う。

 俺も黛も、どちらも間違ってないと思うんだ。

 だって、黛は黛らしくいるだけで、たくさんの人に好かれているじゃないか。

「別に、俺はお前にかけてる時間で、嫌ったりしないぞ」

 俺は、穏やかに黛に言った。

「それに、黛は黛らしくいれば、いいだろ。別に今までも、黛はたくさんの人に好かれてるし、嫌われてもないし、離れてもないし、好きだからさ。お前はお前でいいんだよ」

 黛は、きょとんとした顔で俺を見ている。

「黛」

 若葉は、黛の名前を呼んだ。

 それはもう、とても優しい声で。

「無理しなくていいんだよ。頑張るのはいいけどね。それに、私たちだって、黛に頼ってもらいたいの。それにそれに、黛は黛でいいんだよ」

 若葉は、ニコニコしながら言う。

 黛はそんな若葉を、泣きそうな顔で見ていた。

「黛は今、頑張りすぎなんだよ。今まで通りいれば、いいんだよ? だって、黛が今まで自分のためにと思って、やってきた人助けで、救われた人が、黛の事を好きになった人が、何人いると思ってるの?」

 そうだ。若葉の言う通りだ。

 ……というか、俺はもう口を出さなくていいだろ。

 若葉の方が、黛の事をよく理解しているだろうしな。

「それにね、これは私個人の勝手な意見なんだけどさ……」

 若葉はちょっと恥ずかしがりながら、黛を見た。

 そして、頬を赤くしたまま、若葉は明るい声で言った。

「私が好きになった黛を、黛自身に否定されると……私が困っちゃうな!」

 ……これはとびっきりの言葉だろう。

 黛にとって、これ以上の特効薬は、ないんじゃないか?

「……」

 黛は少し俯いた。そして少し経ってから、「ははは」と笑い出した。

「そうだね。そうか。若葉が困っちゃうか……へへ……」

「ちょっと! あんまり連呼しないで! 恥ずかしいから!」

 若葉両手で頬を包み、恥ずかしがっている。

「……わかったよ。無理をするのはもうやめだ。今まで通り、無理のない範囲で生活することにするさ。ぼくらしくね」

「黛!」

「いや~よかった」

 俺と若葉は見つめあって、喜びを分かち合った。

「よし!」

 黛はそう言うと、部室の長椅子に腰かけた。

 しっかりと、腰を据えている。

「若葉」

「うん?」

「頼みがある」

「いいよ! なになに?」

 若葉は、黛に頼られて、嬉しそうな顔をした。

 黛は、しっかりと長椅子に腰掛け直してから、言った。

「目を覚ましたい」

「うん」

「ビンタしてくれ」

「うん! は?」

「はい?」

 黛があまりにも真剣な顔で言うので、俺も若葉もきょとんとしてしまった。

 何言ってんだこいつ。

「だから、ビンタ。思いっきり」

「え、えっと……」

 若葉は戸惑っていた。

「頼む」

「う、うーん」

 若葉は、あわあわしている。

「進じゃダメなの?」

 若葉は、俺を指さす。

「進じゃやりすぎるだろうし、若葉がいいな」

「……」

 黛は言う。

 若葉は俺を見る。

「だってよ。してやれよビンタ」

「う~」

 若葉は、まだ渋っている。

「嫌いにならない?」

「ならない」

 若葉は黛に、ビンタしても嫌いにならないかを尋ねた。

「わかった。じゃあ、口は閉じること」

「ああ」

 若葉は黛の正面に立ち、平手を構える。

「じゃあ、いくよ」

「うん」

 若葉は大きく振りかぶった。

「とりゃあああああああああ!」

 若葉は叫びながら、黛にビンタをかます。

 ばっっちーん! と大きな音が、部室に鳴り響いた。



「とりあえず、今のぼくの仕事を、いくつか生徒会のほかの面子に引き受けてもらうことになったよ」

「あ、そうなの。よかった~」

 ビンタの後、今は下駄箱にいる。俺と若葉と黛は、外履きに履き替えているところだ。

「……うーん」

 先に靴を履き替えた黛は、首を傾げながら、唸っていた。

 頬は少し、ビンタの跡で赤い。

「どした?」

 俺は、黛に声をかける。

「いや、なんでもないさ」

 黛は、下駄箱から外に出ようとした。

 俺と若葉もついていく。

 そのまま、校門から、外に出る。

「じゃあ、ぼくはこっちだから」

 黛は自分の家がある方へ、少しだけ歩みを進める。

「ああ」

「じゃあね黛」

 黛は、俺たちに手を振る。

「あ、黛。最後に一つだけいいか?」

「ん? ああ、いいけど」

 黛は腰に手を当てて、聞く体制になった。

「真面目で優しくて正義感があると、逃げられないことだってあるだろ? だから、いつでも俺たちを頼ってくれて……逃げ場にしてくれていいんだからな?」

 俺は、黛に伝えた。

「そうそう! いつでも頼ってね! 難しく考えたらだめだよ!」

 若葉も笑顔で言った。

「……ああ、いつでも逃げ場にさせてもらうからな。二人とも」

 黛は笑顔で言った。

「じゃ、また」

 そういうと、黛はのんびり、余裕をもって帰り道を歩いて行った。

「さ、私たちも帰るよ~」

「ああ、なんか食ってく?」

「ラーメン!」

 若葉は元気よく言った。

「じゃあ、ラーメン食べて帰ろうか」

 俺がそう言うと、俺たちは駅に向かって、ラーメン屋に向かって歩き出した。



 次の日の昼。俺は自販機に行こうと教室を出て、歩いていた。

 すると廊下に、若葉と首に何かを巻いた黛がいたので、俺は声をかけた。

「よお、何してんだよ」

「ああ、進」

 若葉は黛の前に立ち、コンソメスープの缶を飲んでいる黛を守るように立っている。

 黛の首には、包帯が巻かれていた。

「……実は昨日、黛にビンタしたんだけど……その……」

 若葉は両方の人差し指をツンツンしながら、言いにくそうに話している。

「首……痛めちゃったみたいで……付き人してる……」

「……」

 黛は首を動かさないように、一生懸命コンソメスープを飲んでいる。

「なあ、黛」

「なんだ」

「もしかして俺がビンタした方が良かったか?」

「……いや……自分で頬をパンパンするくらいがちょうどよかったかな……」

 黛は、左の口角をあげて、苦笑いしながら言う。

「ごめん! 本当にごめん黛!」

 若葉は、黛に何度も頭を下げていた。

「うえ~ん!」

 若葉の声は、学校中に響いていた。



 

 夕方。寒さがいっそう深まる時間帯。

 ぼくは、生徒会室で自分の仕事をこなしていた。

 今日は、この資料の文字校正をしたら終わりってところだ。

 仕事が終わると、ちょうど町田が入ってきた。

「黛、そっちは終わったか?」

 町田は持っているファイルを机に置いて、自分の席である、会長の椅子に座る。

「ああ。もう終わったよ」

 ぼくは答える。

「……黛……その首はどうした?」

「ああ、ちょっとな」

「ふむ」

 町田はあごに指を当てて、何かを考え始めた。

「まあ、趣味は人それぞれだからな」

「お前、何かとても失礼なことを考えてないか?」

「いや? 別に首絞めが好きだとか、そんなことは一切考えていない」

「言ってるじゃねえか」

 町田は、真面目な顔をして言う。

「別にいいと思うぞ。ドM。それとも、キスマークか? プレイボーイだな」

「黙りやがれください会長。というか、上向けないから、この書類、棚の上のファイルにしまってくれないか」

 ぼくは、自分でまとめた資料を、町田に渡す。

「ふむ。そこは私じゃ届かん。佐藤か深瀬か、首治ったお前じゃないと届かないな」

 町田は意外と背が小さい。

 若葉より少し大きいぐらいの身長だ。

 深瀬は言わずもがな、身長は大きく、佐藤はぼくと同じくらいか、少し高いくらいの身長だ。

「はあ……とりあえず深瀬のとこに置いておくか……」

 ぼくは資料を深瀬の机に置く。

「そうだ。そういえば、どうして急に仕事を引き受けてもらいたいだなんて、言い始めたんだ?」

 町田は席で荷物を纏めながら、尋ねてきた。

「まあ……気持ちの変化って言うか……」

「そうか。ならいい変化だな」

「……」

 町田は窓の外を見ていた。

「町田」

「なんだ黛」

「お前は、ぼくをずっと生徒会に誘ってくれていたよな」

「ああ、そうだな」

 町田は窓の外から視線を外さない。

「なぜ誘った?」

「簡単だ。前から言っているだろ。お前は無理をしないから誘った」

 町田は前からずっと、この理由でぼくを誘い続けている。

 実際、ぼくは無理をしない。無理できないって言った方が、正しいかもしれない。

「もし、ぼくが無理をする人間だったら、生徒会に誘ってたか?」

「……誘っていないな。恐らく」

 町田は相変わらず、窓の外を見ている。

「無理をしないということは、ケアがいらないということだ。そんな自己完結しているお前だからこそ、生徒会に誘い続けた」

 町田は振り向いて、ぼくを見た。

「他のメンバーを見てみろ。確かに何かしらの才能はある。ただ、ケアが必要な、手間が必要な奴らがそろっていると思わないか?」

「まあ、確かにな」

 佐藤は言わずもがな、泉は優しいけどおっちょこちょいな一面がある。

 深瀬は人当たりがいいけど、だまされやすく、下手に出やすいという一面がある。

「そんな中でも、お前は完成しているんだ。昔、お前が生徒会に入るのを断った時に、伸びしろがないから、あとは抜かされるだけだし、満足に生徒会の役割をこなせるかわからないからと言って、断っていたことを覚えているか?」

「……そんなことを言ったような気もする」

「……伸びしろがないんじゃなくて、それを完成していると私は捉えた。完成しているからこそ、変化しない。変化しないからこそ、悩んだりしないだろう。悩んだときにケアがいらないだろう。お前の良いところはそこなんだ」

 町田はカバンを持った。

「お前はそれでいい。誰かの真似をする必要なんてない。確かに、伸びしろはあんまりないかもしれないが、無理をしない、完成されている人間を必要としている人間もいる。私みたいにな」

「そうか。なら、遅くなったけど、生徒会に入ってよかったかもな」

「……そう言ってくれるか。嬉しい」

 町田は少し微笑む。

「さ、帰るぞ」

「ああ」

 ぼくも荷物も持つ。

 そのままぼくたちは、生徒会室を出て、町田は鍵を閉めた。



「さむさむ……」

 ぼくは、一階の自販機の横の床に座っている。

 自販機の横に、ちょうど人が二人か、三人入れるスペースがあるのだ。

 この自販機は、昇降口の近くにある自販機ではなく、昇降口から一番遠い階段の近くにある自販機だ。

 ぼくは、今おしるこを飲んでいる。

 ……最近、コンソメスープやらおしるこやらを飲んでいるから、健康に悪い気がする。

 でも最近寒いし、仕方ないか。

「あ、どーも」

「あ、ども」

 通りすがり、突然挨拶してきたのは未来だった。

 最近髪を切り、派手な感じは無くなった。

 未来はおしるこか、お茶かで少し悩んでから、おしるこを買っていた。

「隣失礼」

「あい」

 未来は、ぼくの隣の壁に寄りかかる。

「首、どしたの。サイボーグみたいになってるね」

「あ~。若葉にやられた」

「え?」

「あ、いや。なんていうのかな。やってくれって頼んだっていうか」

「ああ、趣味か」

「違います」

「もうそんな関係になったんだね」

「違います」

「どうやって若葉ちゃん調教したの?」

「違います」

 未来はあれやこれやと口を回し、からかってくる。

 ……最近になって、薫と絡むことが無くなった未来は、よく蜜柑と遊びにうちに来るようになった。

 だからよくしゃべるようになったんだけど……咲の記憶を取り戻してから、性格が変わったのか、少し話しやすくなった。

 まあ、見た目の変化か、性格の変化のせいか、わからないけど。

「最近進とはどうよ」

「なんもない。若葉ちゃんとはどうなの?」

「なにが」

「とぼけないで」

「まあ、仲良くしてるよ」

「ふーん」

 未来は立ち上がるのをやめて、座る。

「若葉ちゃんかわいいよね」

「……」

 こういう時って、素直にかわいいって言えばいいのか、なんて言えばいいのかわからない。

「まあ、かわいいよ」

「まあ?」

 未来は、凄いにらんできた。

「はいすげえかわいいです」

「……はあ、これだから陰キャは……」

「すみませんでした」

「ふふ」

 未来は少し笑う。

「黛くん、今幸せ?」

「なんだ急に、まあ、そこそこ幸せだよ」

「そ」

 未来は正直、薫と付き合ってた時よりは、付き合い始めた時よりは、幸せではないと思う。

 でも今、未来に辛そうな様子はない。

 未来は、自分から幸せを掴み取りにいける、そんな積極性がある人間だ。

 薫という幸せを、自ら掴み取りに行っていたのは、事実だからだ。

 ぼくとは違って、積極的な未来に、聞いてみたいことがあった。

「なあ」

「なにかな」

「幸せになるのって大変かな」

「う~ん。ど~だろ」

 未来は天井を見る。

「まあ、ある程度は大変なんじゃね」

 未来は、そのまま天井を見ている。

「でもさ、最近ちょっと思ったんだけど。なんていうか、簡単に幸福になれる方法はあるような気がしてる」

「どんな方法?」

「幸福だって思うラインを下げる」

 未来は、視線をまっすぐにした。

「薫くんといてわかったんだ~。多分、この子と幸せになるのは、すっげ~大変だって。なんていうのかな、薫くんと幸せになるのは、歩きでここから北海道まで行くぐらい大変だったけど、別に飛行機で行けば楽だし、なんというか、他にも幸せになる方法はあったっていうか……別にここで満足ってラインもあったな~みたいなそんな感じ」

「あれか、千円もらって満足できる人もいれば、百万円もらわないと満足できない人もいるみたいな」

「それだ」

 未来は、そう言いながら「よく言った!」みたいな雰囲気で、ぼくに指を差してきた。

 積極的だから、ぼくとは未来は違うとは言ったが、根っこの部分は、似ているのかもしれない。

 幸福のラインを一度上げてしまうと、なかなかその幸福のラインを下げるのは難しい、とぼくは思っている。

 ……失うのが怖いから、何も手に入れたくない、とも思っていたし、もしかすると、ぼくは変わりたくなかっただけなのかもしれない。

 現状より、不幸になるのが怖かっただけなのかもしれない。

「ふふ……」

「うわ、何いきなり笑って」

「いや、初めて未来から何かを学んだような気がしてな。嬉しくて」

「バカにしてる?」

「してないよ~」

 ぼくはわざとらしく笑顔を作り、ひどく棒読みで言った。

「うわ! わざとらしい笑顔すんな! ま、いっか。参考になったなら」

 そう言うと、未来は立ち上がり、空になった缶をゴミ箱に捨てる。

「最後にアドバイス」

 未来は、ぼくに背を向けて、上半身だけを少しだけ、ぼくに向けた。

「もし、幸せになるために幸せのハードルを下げるなら、周りと比べちゃだめだよ。そうしないと、周りと比べて、自分が不幸に見えちゃうかもしれないし、自分はどうしてこんなに不幸なのって、なっちゃうかもしれないからね」

 なるほど。

 薫の過去を一回受け入れることが出来なかった未来だからこそ、言えるのかもしれないな。

「アドバイスどうも」

「いいえ。じゃね。授業、遅れないように」

 未来は、そう言うと去っていった。

「ん~」

 ぼくは伸びをしようとした。

 ……。

 

 ふと思う。両親の死と同時に、ぼくの心と体の成長は止まってしまったのかもしれないと。

 

 そもそも、幸福について考えているときは、幸福ではないのかもしれないな。

「いって!」

 伸びをすると、首が痛んだ。

 クソ! という気持ちを、缶を捨てる動作で発散させる。

 ゴミ箱に缶は、カラ~ンと音を立てて、ゴミ箱に吸い込まれていった。

 さて、授業だ。

 難しく考えないように、いきますかね。

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