第22話 蠟燭は身を減らして人を照らす
俺はとても寒い、クリスマスの、真っ暗な街を走っている。黛と蜜柑の家から、学校へ向かっている。
息を切らしながら走り、目を凝らし、未来を探す。時間的に、遠くには行っていないはずだが、未来も運動部だったので、俺が走って追いつけるか、わからなかった。
学校に着く。さっきまでクリスマスイベントをやっていた高梨高校は、静まり返っている。学校を軽く一周してみたが、未来がいる気配はなかった。学校に入ろうとしたが、校内へ入ることのできる門は、すべて閉まっていた。
俺は、次に駅に向かう。電車に乗れば、家に帰れるから、未来はそこに向かったと考えた。しかし、バッグは家に置いてあったので、もしかすると、お金がなくて、立ち止まっている可能性がある。それなら、まだ未来がいるかもしれない。
俺は駅まで走る。駅までの道のりにある店は、閉まり始めているところもあった。駅に着くと、仕事帰りだったり、バイト帰りであろう人たちがたくさんいた。だが、駅についても未来の姿はなかった。俺は携帯で、弥生に連絡を取る。
「もしもし」
「なにかしら?」
「今どこだ?」
「今はまだ黛の家ね。私たちも車で探そうってことになったわ」
「そうか。じゃあ少し確認してほしいんだが、未来のバッグってあるよな?」
「ええ、そこにあるわ」
「中ちょろっとだけ見られる? 財布があるか確認してほしい」
「いいわよ。少し悪い気がするけどね」
そう言うと、弥生は、がざがざと少し音を立てながら、バッグの中を確認しているようだった。
「ないわね」
「ないか……」
「この様子なら、多分、財布は持ってるようだし、電車とかで移動しているのかもね」
「なら黛と若葉に連絡した方がいいのかもな、ありがと」
「いいえ、頑張って」
そう言うと俺は、弥生との電話を切った。
次に黛と若葉に電話をかけた。この前ゲームで遊んだ時の通話グループがあったので、それを使った。
「もしもし、二人とも未来は見つかったか?」
「若葉は見つかってない」
若葉は、落ち着いた口調で言った。
「ま……黛も……見つかってません……」
黛はすごい息切れをしながら、報告をしてくれた。
「……黛はどうして息切れしてるんだ?」
「いや……足は結構速いんだけどな……出不精だから……体力がなくて……今コンビニの前で座ってる……」
「お前なあ……若葉は今、どのへんだ?」
「えっと……多分多摩川……」
「「多摩川ぁ⁈」」
俺と黛は、同時に大きな声を出して驚いた。未来を探し始めてから、まだ一時間も経っていない。それなのに、多摩川に着いているのは、とんでもない速さだ。速いし、その速度を維持する体力もとんでもない。
「え……うん」
「走りだよな?」
黛は若葉に尋ねた。
「うん」
下手したら原付とかより速いんじゃないか……? いや、驚くべきはその速さを維持できるスタミナなんだけど……。
「……と、とにかく、未来は財布を持って出ていったみたいだ、ということを連絡したかったんだ」
「おっけ。なら、電車乗れるし、土地勘もあるだろうし、今は暗いから、どうしても未来の最寄りにいる可能性が高くなるな。暗いとどうしても心細くなるし」
「そうだね」
でも、未来の最寄りだけじゃ、情報が足りない。もう少し、場所を絞りたい。
「なあ若葉」
「なに進」
「もし若葉が、今の未来の状況になったとしたら、どこに行く?」
「え~っと」
「なんとなくでいいぞ。こういう場所に行きそうとか」
「……場所……私なら……薫との思い出の場所に行くかなあ」
「なるほどな……」
俺は若葉の意見を参考に、考えを巡らせようとした。しかし、考えを巡らせようとした瞬間に、黛が口を開いた。
「夏祭りがあった、あそこの公園はどうだ? 土地勘もあって、思い出の場所だ」
「確かに」
「そうだな、行ってみる価値はある。というか、闇雲に探すより、居そうなところを先に潰した方がいいだろ。二人とも行けるか?」
俺は二人に尋ねる。
「行けるよ」
「行ける」
二人は、間髪入れずに、返事をしてくれた。
「なら行こう。合流は公園で直接って感じで」
「わかった」
「おっけ」
そう言うと俺は電話を切った。そして駅のホームへ向かった。
最寄りにたどり着く。俺はそのまま、改札へ続く階段を、源義経のように駆け下り、貝山公園に向かう。もう人はいなかった。駅の下の居酒屋通りには、ぽろぽろ人は歩いていた。いつも帰っている道を走り、途中から山へ行く道へ切り替える。かなりの坂道なので、さすがに俺も息が上がっていた。
貝山公園に着くと、俺は大きな声を出して未来を呼んだ。
「未来! いるか~!」
この辺りは、周りに家はない。だから、ある程度は大きな声を出して平気なんだ。しかし、返事はなかった。そのまま小走りで未来を探す。公園の東側にある遊具には、未来の姿はなかった。中央にある広場にも、未来の姿はなく、そのまま西にある、弥生と花火を見た公園の裏に来た。奥の奥には、橋もあり、橋の下には、車道がある。俺はそこに向かう。
人影が見えた。橋の上に見えた。橋から遠くのビルを見ているようだった。あの背丈、髪型、間違いない。
「未来」
「……進」
未来だった。
「……辛いだろうけどさ……」
「あんたに何がわかるの?」
未来は食い気味に言った。
「あんたたちがおかしいんだよ。そんなに素直に、薫くんの過去を、私は受け入れられない」
未来の気持ちもわかる。でも、受け入れられなかったとしても、とにかく今は、元気になってほしいんだ。
「受け入れられなくてもさ、元気になってほしいんだ。俺とお前は共同戦線だろ? 助けてやるよ。いくらでも。悲しい気持ちになってるやつ見てると、悲しいからさ」
「そんなこと言われても……あれ?」
未来は、起こりながら話そうとした後、急に頭を抱えた。未来は頭を抱えながら、俺の顔を見た。その俺を見る目は、今までの未来とは、まったく違った目だった。まるで、何か、懐かしいものを見るような、そんな目だった。だが、そんな懐かしいものを見る目は、その直後に真っ黒に暗くなってしまった。
「……あ」
未来は、その場で立ち尽くす。
「……ああ……」
未来はそのまま橋の手すりにもたれかかる。橋の手すりは肘の高さにある。
「……どうした? 未来」
「……思い出しちゃった」
「……え?」
「……なぜか知らないけど、あんたのせいで……私……いやなこと全部思い出しちゃった」
未来はぼろぼろと泣き出した。あまりにも突然の事なので、動揺してしまった。
「……思い出した?」
「中学生の頃の事も……目の前で……本当のお父さんとお母さんがぐちゃぐちゃに……なったこと……」
「おい。どうした?」
「薫くんも……あんな過去があって……もう……私……無理……生きれない」
「未来!」
未来はそのまま、手すりをふらふらと乗り越えて、飛び降りそうになる。助けに行こうとしたが、一瞬体が止まる。咲のことが、頭を過ぎったからだ。目の前で、自暴自棄になっているやつ。そして完璧に助けられないのかもしれないという考え。今回も、このまま未来の手を引っ張ったとして、果たして助けられるのかという考え。助けられたとしても、周りを巻き込まないで助けることができるのかという考え。それらの思考が、体を一瞬だけ止める。
だが、もう、迷いはない。完璧でなくても、俺がめちゃくちゃになったとしても、困っているやつのことは助けるんだ。そう決めたんだ。
「未来!」
俺はぎりぎりのタイミングで、未来の手を掴む。だが、少しだけ遅くなってしまったせいか、未来の全体重が俺の身体を引っ張り、落下しかけていた勢いも合わさって、身体が持っていかれそうになる。橋の手すりから、俺の身体は出ていた。未来の様子は、まったく動じていないようで、身体に力は入っていなかった。視点は下を向き、もう片方の腕で、俺の手を掴む様子はない。
「……っ……くっそ……」
身体を持っていかれそうだったのを、何とかこらえていたが、限界は近い。時間の問題だ。
「進!」
すると、後ろから声がした。目だけを声がする方向に向けると、若葉と黛が走ってくるのが見えた。俺が来た方向とは別の方向から、走ってくる。そのまま二人は、俺のお腹から腰辺りを掴む。
「いい? せーので引っ張るよ!」
「ああ! せーの!」
俺と黛と若葉は、一斉に力を込めて、未来を引き上げた。引き上げられた未来は、目は開いているが、身体全体に力は入っていなかった。そのまま未来は、ぺたんと力なく橋の地面にへたり込む。
「お前……マジで命いくらあっても足りないぞ」
黛は息を切らせながら、俺に言った。
「仕方ないだろ……じゃあ、誰が未来を助けるんだよ」
「そう……だな。よくやった」
黛は橋の上で、大の字で寝っ転がった。
「……よかった……」
若葉も両手を握り、安堵したような表情になっていた。若葉に関しては、まったく息は切れていなかった。
皆が安心したその時。後ろでドサッという音が聞こえた。
「……やっぱり、僕はいない方がいいんだな」
ドサッという音は、薫が崩れ落ちる音だった。いつの間にか、俺たちから少し離れた所に、居たようだった。
「未来が、そんな風になってしまうのなら、僕はいない方がいい。誰かが傷つくなら、僕はいない方がいいんだ」
そう言いながら、薫は立膝を突きながら、微動だにしなくなってしまった。
「なんで薫がここに……」
俺はそうつぶやいた。
「未来ととにかく話をしようって、車で連れて来たんだが……間違いだったな……すまない」
黛は起き上がり、申し訳なさがあるからなのか、目を背ける。
「薫! みんな!」
弥生も、黛と若葉が来た方向からやってきた。
「……」
俺も、みんなも体力の限界だった。薫を元気づけることが出来る人も、未来を元気づける人も、ほとんどいなかった。
「未来ちゃん。ねえ……未来ちゃん!」
辛うじて若葉は、近くにいる未来の肩を揺らしながら、話しかけてくれている。未来は力なく揺れている。俺も、未来が飛び降りかけたり、それを見た薫が立ち尽くしたり……薫の過去のことだったり……脳も身体も、もう限界だ。
「薫……大丈夫?」
弥生が薫に話しかけるが、返事はない。目には、さらに光が無くなっているようだった。
「おい! 君たち!」
少し年老いた男の声が、暗い雰囲気の公園にいる俺たちに届いた。少しラフな格好で、暗いので、よくわからなかったが、小走りで寄ってくるその姿は、黛のおじいさんの徹さんだった。
「とにかく今は帰るんだ。疲れただろうし、親御さんも心配しているだろう。今タクシーを呼んだから、私の車と、タクシーで別れて帰ろう」
徹さんはそう言うと、薫を体で支えた。
「……みんな、あと少しだけ、元気を出して、頑張れるかい?」
優しい声で言う。なんだか安心して、少しだけ、元気が出る。
「未来は俺が支える」
「ああ、頼む」
「お願い」
俺は黛と若葉に言うと、すぐに未来を支えた。そのまま、俺と未来、弥生と薫は、徹さんの指示通り、車に乗り込む。
その後、タクシーが止まっているところに、徹さんは向かっていった。
ドアが開いているタクシーの前に、黛と若葉がいた。
「若葉ちゃん。人数の関係で、送ってやれなくてすまない。黛を頼む」
「……はい。任せてください」
若葉と徹さんが話しているのが聞こえた。
その後、徹さんは戻ってきた。俺は隣の席に、未来を座らせて、シートベルトを付けてやった後、徹さんが運転席に座った。窓の外のタクシーを見ると、黛と若葉が乗っていくのが見えた。
「じゃあ、行くぞ。進くん、未来さんの家はわかるかね?」
「はい」
「頼む。案内してくれ」
そう言うと、徹さんは車を発進させた。車内はとても静かだ。
公園からは、未来の家までは、あまり距離が離れていない。すぐに、未来の家に着くと、徹さんが未来を連れて、未来の家の玄関まで行った。十分ほどしたら、徹さんは帰ってきた。恐らく、未来の事について話していたのだろう。橋で、何があったかに関して、徹さんは知らないはずだが、薫の過去を聞いた未来が、家出して、落ち込んだことぐらいは知っているだろう。
「遅れてすまないね」
「いえ」
運転席に座りながら、徹さんは、俺の後ろの席で座っている弥生と薫を見た。俺も二人を見る。弥生は心配そうに薫を見ていた。薫は窓にもたれかかっている。かなり疲れていそうだった。
「さて、今度は進くんの家だ」
「すみません」
「いいんだ。気にしないでくれ」
そう言うと徹さんは、エンジンをかけ、車を発進させる。
「疲れているだろう。寝ても私が運ぶから寝てもいいぞ」
「いえ、平気です」
「そうか」
俺は、車に揺られながら、考えていた。これからどうすればいいのかを。
元のような関係に、どうやったら戻れるのかを。俺は何をできるのかを、必死に考えていた。
私と黛は、タクシーに乗り込む。黛は徹さんから、二万円をもらっていた。恐らく、タクシー代だろう。
「とりあえず、京王線沿いを進んでいって、千歳烏山までお願いします」
千歳烏山は私の最寄り駅だ。先に、私の家にタクシーを向かわせるつもりだろう。
「黛、別に私がお金払えばいいから、先に仙川に向かおうよ。お金もその方が安いし、戻る手間もないよ」
黛の家がある仙川駅のほうが、ここから近い。千歳烏山から仙川に戻る場合、その戻った分のお金がかかる。
「……そうか、すみません。ならとりあえず、仙川までお願いします」
「はい。わかりました」
タクシーの運転手さんは、穏やかに返事をした。そのままタクシーは走り出した。
「先におじいちゃんから貰ったタクシー代。渡しておくな」
「うん」
そう言うと、黛はさっきもらっていたお金を渡してきた。
「……別に寝てもいいぞ」
「眠いわけないでしょ。あんなに大変なことになっちゃったのに」
「そっか。そうだよな」
そう言いながら、黛はスマホを取り出した。なにか、見ているようだった。
「……蜜柑。一旦中村家のほうにいるみたいだ。ちょっと落ち着きたいらしい」
「そっか。仕方ないね」
「ああ」
薫の話を聞いて、かなり堪えていたみたいだし、しょうがない。
「クリスマス、大変なことになっちゃったね」
「ああ。せっかく作った食事も、無駄になりそうだ」
「もったいないね。明日まで持つなら、私、食べに行こうかな」
「いいね。そのまま、薫や未来のところに行ってあげるか。元気づけてやらないとだし」
「そうだね。寝て起きたら……元通り……なんて多分なさそうだし」
そう言うと、私のスマホの通知が鳴った。確認しようとすると、黛もスマホを確認していた。
「あ……」
「はは。そりゃそうだ。こいつなら絶対動くに決まってるよな」
二人のスマホに届いた連絡は、進からの連絡だった。「明日、とりあえず、集まれる奴だけ、小鳥居家に集まろう。弥生にも連絡してある」とのことだ。
「進なら、動かないわけないよね」
「ああ、明日は忙しくなりそうだな」
黛はそのグループラインに返信した。私も返信する。
「……元々の私たちみたいに戻れるかな」
私は心配だった。薫と未来ちゃんがこのままずっと仲が悪かったら。よいちゃんと未来ちゃんの仲がずっと悪かったら。薫や未来ちゃんが、このまま、落ち込んだままでいたらどうしよう。
「さあな。やれることをやるだけじゃないか」
「そうだね」
黛は、深く背もたれに体を委ねながら答えた。
「ねえ」
「なにかな黛」
黛は、素早く景色が変わる、窓の外を見ながら話しかけて来た。最近、黛の癖について、気が付いたことがある。黛は、結構大事な話や、相談事をするとき、絶対に目を合わせてくれない。多分、そういう相談事とかをするのを、恥ずかしいと思っているのだろう。黛は、人にあんまり頼らないから、慣れていないのだろう。別に、相談事をすることなんて、恥ずかしいことではないと、私は思う。どんどん人は頼っていいし、断られた時は、別の人を頼ればいい。私はそう思うんだ。
「最近、進を見ていて思ったことがあるんだけど、聞いてもらってもいいか? 意見が聞きたい」
「うん。聞くよ」
「……救いの手は、確かに差し伸べるものだけど、それを受け取るかは、受け取り手次第だと思うんだけど、どう思う?」
黛は、変わらず、窓の外を見ながら言った。
確かに、そうかもしれない。例えば、電車内で、明らかに私が席を譲るべき体の不自由な人が、目の前にいたとして、良ければどうぞ、と言いながら席を譲ったとしよう。その人が座るかどうかなんて、わからないだろう。その人次第である。
もっと極端な例えをすると、車いすに乗っている影響で、階段を登れない人に、手を差し伸べても、拒否されてしまったら、たとえ、その人がその階段を登れないとしても、差し伸べた手を受け取ってもらえないのであれば、その差し伸べた手で、その車いすの人を強引に助けたとしたら、その手は押し付けるものになってしまう。
「そうかも。確かに、救いの手は押し付けるものではなくて、差し伸べるものだからね。受け取り手次第ってもの、わかるなあ」
「だよな。だから進のやっている、自分が傷ついてもいいから、無理やり、誰でも助けるというのは、間違っていると思うんだ。受け取り手次第だし、進が傷つくのを悲しむ人もいるはずだしな」
「そうかもだけどさ……受け取り手次第かもだけどさ、その人の事をどうしても助けたいなら、差し伸べる手を一つじゃなくて、二つ三つって差し伸べてしまうものじゃないかな? これを受け取ってもらえないなら、この手だ! みたいな」
確かに、救いの手を受け取ってもらえるかは、助けられる側次第だ。助けられる側が、申し訳ないなんて思って、助けられることを拒否するかもしれない。進みたいに、誰でも助けるって人は、居てもいいと思うけど、確かに、進が傷ついて悲しむ人はいる。でも、居てもいいし、必要なんだ。進みたいな人は。私の両親を見ていると、私に対してなら、何でもやってくれそうなくらい、お節介な人たちだ。私に対しての両親と、進のお節介加減は、似ている。そういう、傷ついてでもいいから、自分を犠牲にしてでも、誰かを助けられる人っていうのは、必要なんだ。
「……た、確かにな……」
黛は、少しいつもと違う声色で返事をした。そんな気がした。
「私が黛の気を引きたいときも、あの手この手を使ってたし、進も好きな人に対してなら、それくらいするよ」
「でも! でも、進は好きな人だけではなくて、初対面の人にも、自分があと少しで死にかける場面でも、助けようとしてた」
黛は珍しく、少し声を荒げた。
「……それはわからないな。もしかしたら、この世界にいる全員が好きなのかもしれないし、偶然助けようとしたら死にかけたのかもしれないし、もしかすると、何も考えてないのかもしれないし……何か、進を強く突き動かす、何かがあるのかもしれないのかも。進も必死なんじゃないかなあ。こればっかりは、進だけにしかわからないよ」
「……でももし、この先あいつが取り返しのつかないことになったら……そうなる前になんとかしないといけないと思うんだ」
「そうだね。でも、そのために、何をしたら進が何とかなるか、わからないし、今はいいんじゃないかな」
「……」
黛は少しだけムスッとしていた。なんだか納得していないご様子だ。
「ああもう! 難しく考えない! 今は進じゃなくて、薫と未来ちゃんとよいちゃん!」
私は、窓を見ている黛の、背中を軽くパンチする。
黛は、振り向いて私を見た。少し驚いているようだったけど、少ししたら、穏やかな表情になった。
「……そうだな。今はそっちが大事だし、今の話で、ぼくが進の事で、こう思う理由もなんとなく見えたかも」
「理由?」
「もしかすると、進への嫉妬かもなって」
「嫉妬?」
「ああ。ぼくは自分の身が可愛いから、進みたいに誰にでも手を差し伸べて、そのために命をかけるなんてことは出来ない。それが出来る進が羨ましくて、嫉妬してるのかもなって」
こう見ると、蜜柑ちゃんと少し似ているところが、黛にはあるのかもしれない。嬉しいことに、蜜柑ちゃんは私を見て、嫉妬していたのか、わからないけど、とにかく焦って、それを行動に移してくれた。黛も、進を見て、嫉妬しているのかもしれないし、焦っているのかもしれない。
「あと……もしかすると、進みたいに行動できない、自分を正当化しようとしているのかもな」
「そっか」
「だけど、やっぱりまだ、進みたいなやつを見てもまだ、手を差し伸べるためには、自分の犠牲を厭わない、しかも誰に対してもっていう考えはわからないな」
「ま、今はそれでいいんじゃない? 私もわかんないしさ。わかる時がくるはずだよ。難しく考えないでいいよ。きっとね」
私は、目を合わせてくれない黛を見ながら言った。
「さ、明日から多分、薫や未来ちゃんを元気にするために動くんだし、私たちが暗くなってたらダメだよ。明るくいこうよ」
「そうだな」
そう言うと、黛はまたこっちを向いて、微笑んでくれた。難しいことを考えている黛は、ちょっと、背伸びしている子供みたいだけど、微笑んだり、いつも通りの黛は、とっても大人っぽくて、頼りになるんだ。
次の日。クリスマス。疲れ切った身体を叩き起こす。
俺が帰宅したのは、日付が変わるちょうど前ぐらいだった。
徹さんが母さんに、色々説明をしてくれていたのは覚えている。眠かったので、なんとなくでしか、覚えていない。
着替えを持って、洗面台に行く。顔を洗い、その場で着替えて、リビングに向かう。
母さんが、リビングから繋がっているキッチンにいて、何かを作っているようだった。
「おはよう。よく眠れた?」
「ぼちぼちかな。まだ身体が疲れてるよ」
「そ、でも行くんでしょ? 薫くんと弥生さんと、未来ちゃんのとこ」
「まあね。何とかしないといけない。せめて、元の関係とまではいかなくても、行動しないと」
「そう。なら、たくさん食べて、頑張らないとね」
そういう母さんの手には、オムライスが乗った皿があった。
「ありがと」
「いいの。無理だけはしないこと」
「うん」
「私は仕事だから、家にはいないけど、何かあったら連絡してね」
「うん」
俺はそのオムライスを持って、食卓に向かう。絶対に、何とかする。そのためには何をすればいいのか。どんなことを言えば、元気になってくれるのか。そんなことを考えながら、俺はスプーンを進めた。
俺は、黛や若葉と決めた時間に、小鳥居家の前にたどり着くことが出来た。今は昼過ぎと言ったところだ。改めて、小鳥居家を正面から見ると、ほんとに大きい。家族五人と使用人が、何人かいると考えても、十分すぎるくらいには大きいだろう。庭の手入れとか、多分めっちゃ大変だと思う。
「よ、進」
「やあ進。早いね」
ぼーっと小鳥居家を眺めていると、いつの間にか、若葉と黛も到着したようだった。
「よう。時間通りだな」
二人は、いつもより、きりっとしているというか、少し吹っ切れたような雰囲気を感じた。今のこの状況を何とかしなきゃとか、そういうことを考えているような感じはなかった。
「弥生んちにお邪魔する前に、いったん何をするべきか、整理したいんだ。薫や未来を元気にして、助けて、元の関係に戻るには、どうすればいいのかについて」
なんとなく、薫と、未来を元気づける、ということは理解している。でも具体的にどうすればいいのかが、いまいちよくわからない。俺はわからないが、若葉か、黛なら、頭もいいし、何かいい案を出してくれるかもしれない。
「何をするべきか、か」
「そういえば、確かにね。声かけて元気づける……だけだと思ってた。何か他にもあるかもしれないよね」
若葉と黛は、顔を合わせながら言う。
「まあ……弥生の協力は必須だな。薫が落ち込んでいる大きな要因の一つは、弥生を傷つけて、落ち込ませてしまったことだろうし」
「そうだな。弥生……元気になってればいいけど」
弥生は昨日、未来を探しにいく俺を、見送りに来てくれたりなどはしていたが、かなり疲れているように見えた。薫が、落ち込んでしまったり、未来が自暴自棄になったりなど、弥生にもかなり負担があったはずだから、当然だ。
「まあ、薫を助けるためには、よいちゃんを元気にするのがいいのかな? じゃあ、よいちゃんに先に会うでよさそうだね。未来ちゃんはどうするの?」
若葉は、俺と黛を見ていった。
「それなんだよ。未来が意外と問題なんだ。昨日ずっと考えていたんだけどな」
「なんで?」
若葉は俺に尋ねてくる。
「……薫には弥生がいるだろ? でも、未来には今、誰もいないんだ。未来の落ち込んだ原因も、今まで助けてくれていた存在も、薫だろ?」
「確かに……親が助けてくれるかもだけど……未来ちゃんには、パートナー……みたいな存在がいないのかも」
薫に対しては、弥生っていう特効薬があるけど、未来にはないんだ。だからこそ、俺は未来をどう助けたら、一番良いのかわからないんだ。
「黛は何かないの? 未来ちゃんを助けるいい方法」
「……」
若葉は黛に尋ねた。
「……薫にはしてやれることはある。でも……未来に対しては……ぼくは何もしてやれないどころか……何かするのは、逆効果かもしれない」
「なんかしたのか?」
黛は真剣な面持ちで呟くように言った。
俺は、黛に、その真意を尋ねた。
「ぼく……弥生から、薫の事は聞かされてたんだ。いや弥生に話させた、という方が正しい」
「そうなんだ……」
若葉は驚いていた。
「ああ。だから……なんとなく、薫と未来が……今のようになりそうな雰囲気を感じ取っていたんだ。あの二人は、お互いが付き合うために、犠牲にしたり、捨てたり、傷ついていることが、あまりにも多すぎたからな」
「……言われてみれば……そうかもな」
未来が部活でいじめられていたのも、薫と付き合っていることが原因だ。今思うと、薫がぼんやりしたり、ぼーっとし始めたのも、未来と付き合って二、三か月経ってからだった。
本当に、お互いは好き同士ではあったはずだ。でも……相性が悪かったのかもしれない。
負担が大きすぎたんだ。きっと。
「だから……一度だけ……未来にいらないことを言ったんだ……こう……薫とは別れないのか……みたいなことを言ってしまったんだよ、ぼくは」
「……」
「……」
若葉は憐れむような目で、黛を見ていた。俺も、似たような目で黛を見ていたと思う。
「……余計なことをしたと、いらないことを言ったと、自分でも思う。でも、ぼくは……薫と未来がこうなる前に……少しでもなんとかしたかったんだ。えっと、だから、ぼくが未来に何かするのは、逆効果かもしれない。あんなことを言ったのに来たんだ、みたいに思われてしまうかもしれない」
「……大丈夫。黛だけが悪いわけじゃないからさ。きっとね」
若葉はとびきり優しそうな声で、顔で、黛を励ます。
「うん……ありがとう」
黛は、なんだか安心しているようだった。
「そうだ。気にすんな。その分俺が頑張るよ」
「私も頑張る!」
「ありがとう。未来に何もできない分、薫と弥生に対しては、ぼくが頑張るさ」
黛は、嬉しそうな顔で言う。黛は、あまり人を頼ることがないから、その分嬉しいのかもしれない。
「まあ、未来に関しては、どうにかして前を向いてもらうしかない。頑張れば、出来るはずだ。どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる暇はないからな」
俺は頭を掻きながら言った。もう、どうにかするしかないだろう。
「そうだな。とにかく、行動するのが、大事かもしれない」
黛は、右の頬を触りながら言う。
「そうだね」
若葉も同調する。
「というか」
俺は、黛を見て言う。
「お前がこんなに大変そうな人助けに精を出すなんて、珍しいな。何とか出来る範囲を超えてる、出来ないことは出来ないって言って、諦めそうなのに」
修学旅行の時も、蜜柑を探しに行く俺を止めた。見つかるわけないと、黛は思ったからだ。現実的じゃないと思ったからだ。限界だって思ったからだ。でも今回は、黛は行動している。それが少しだけ疑問だった。
「まあな。普段ならそうかも。でも……未来にいらないことを言ってしまった責任もある。しかも、弥生から薫の話を聞いていたのに、何もできなかった罪悪感もある。あとはまあ、自分の身をダメにするかもしれない人助けなんて、バカなことだと思うけど……ここでなにもしないと、さすがにお前らからも嫌われそうだしな。さすがにぼくでも動きますよ」
黛は右の頬を手で触っていたのをやめて、代わりに指で触り始めた。少し照れているのかもしれない。
「そうか。無理はするなよ」
「こっちのセリフだ、バカ」
黛は少し笑いながら言った。
「さ、行くぞ二人とも。みんなを元通りするクエストの始まりだ」
「おう」
「うん!」
俺がそういうと、若葉と黛は返事をした。そして、薫と弥生が待つ、小鳥居家に入った。
まず、俺たちは弥生の部屋に向かった。
弥生の部屋に向かうまでの道のりは、とても静かだった。いつもなら、洗濯機が回っていたり、まゆちゃんがせわしなく動いていたりと、騒がしいはずなのに、とても静かだった。
「弥生、俺たちだ。若葉も黛もいる」
俺は弥生の部屋のドアをノックする。返事はすぐに来た。
「入っていいわよ」
弥生の声は、かなり落ち着いているように感じた。
俺は何となく、若葉に目配せして、若葉に先頭を切らせた。一応、若葉は女の子だし、弥生に気を使ったつもりだ。
「ありがとう。来てくれて。嬉しいわ」
「まあ、動かないわけにはいかないからな」
弥生は、部屋のベッドにちょこんと座っていた。
特に体調が悪い雰囲気もない。いつも通りの弥生だと感じた。
「意外と元気そうでよかったよ、よいちゃん」
「そうね。私が落ち込んでいたら、薫が落ち込んでしまうでしょ? だから、私が元気でいないとね」
そう言いながら、弥生は若葉にウィンクをする。どうやら、本当に元気そうだ。
「なら、気を使わなくても平気か?」
「ええ、気にしないで。薫と未来ちゃんのことに専念しても大丈夫だから」
「そうか。無理はしないでくれよ」
「こっちのセリフよ。進」
弥生は、俺に微笑みながら言った。
座っている弥生の周りに、俺たちは立つ。
「それで、薫は今どんな感じだ?」
黛が部屋に入って、初めて口を開いた。
「……正直、どうしようもない……のよね。私だけじゃ」
弥生は俯きながら言う。
「自傷が止まらないから、部屋に居ますって薫が言っててね、今は部屋からほとんど出てないみたい」
「そうか……」
思ったより、薫は落ち込んでしまっているようだ。
「薫曰く、僕が傷ついているところを見て、お嬢様が傷つくのも嫌だけど、かといって、お嬢様や未来を傷つけた自分が嫌いなせいで、自分を自分で傷つけてしまうから、閉じこもっておきます、らしいわ」
「……」
あんな過去があり、その過去のせいで、未来は傷つき、その未来が傷ついたのをみて、弥生が傷ついた。そして、薫は、その二人を傷つけたせいで、閉じこもって、落ち込んでいるっていうことみたいだ。
「ほんと、まるで、施設からうちに来た頃の薫みたいだわ。元に戻っちゃったみたい」
「……ちなみに、今、家の人は? まゆはどこにいるんだ?」
黛は、弥生に尋ねた。
「まゆは別宅に移ってもらっているわ。昨日、薫にあったことをお父様に話したら、とりあえず、まゆは安全なところに、ってことで移ってもらったの。ほかのお手伝いさんも、徹さんを残して、一旦来ないでもらっているわ。いつ薫が、どうなるのかわからないし、薫に刺激を与えるわけにもいかないから……」
「そうだよな。まゆとあんな状態の薫を会わせるわけにはいかないだろうし」
黛は少し安心した様子だった。なんだかんだ、しっかり気を使うところは気を使っている。
「とにかく、私だけじゃ、どうにもならないの。だから手伝ってほしい……いや、違うわね。悪いけど、巻き込まれて」
弥生は目を見開いて、真剣な顔つきで言った。
「別に、俺は今更感あるしなあ」
「ぼくは正直、巻き込まれることに不服だけど、未来には申し訳ないことをしたし、弥生から薫の過去の話を聞き出しておいて、何もできなかった申し訳なさもあるしな。巻き込まれることにする」
「私は……とにかく薫とも、未来ちゃんとも、また遊びたいから、頑張る!」
弥生の言葉に、俺たち三人は、それぞれ返答する。俺は、誰かを助けるためになら、何だってできる。だから、今更巻き込まれたって、特に何も思わない。
「ありがとう。私も、未来ちゃんを巻き込んだ責任もあるし、罪悪感もあるし、薫も助けたいから、頑張るわ」
弥生はベッドから立ち上がり、言った。
「さ、そろそろ、薫のところに行こう。とにかく行動だ」
黛は、部屋の外に歩みを進めながら言った。
「そうだな」
俺がそう言うと、弥生と若葉と一緒に、俺も黛の後ろに続いて、部屋の外に出た。
俺たちは、薫がいる部屋に向かっている。薫の普段の部屋は、弥生の部屋の隣にあるのだが、今は空き部屋に居るらしい。
「いい? ノックしても」
「ああ」
部屋の前のドアに着くと、弥生が尋ねてきたので、俺は返事をする。黛と若葉も頷いている。
「……」
みんなからの同意が得られたことを確認すると、弥生は薫がいる部屋のドアをノックした。
「私よ。進と、黛と若葉ちゃんが来てくれたわ」
「……そうですか」
薫はとても弱々しい声で返事をした。
「入ってもいいかしら? お話がしたいし、顔も見たいの」
「……」
そう言う弥生に対しての薫の返事は、少しの間、なかった。
「……申し訳ないですが、お嬢様以外なら、入っても大丈夫です。お嬢様は……入らないでほしいですし、僕と進たちが話す内容も、聞かないでいただきたいです」
「……」
弥生は少し、ショックを受けたような表情をした。恐らく、薫の顔を見られないことが、少し残念で、なお且つ、薫から拒否されたような感じがして、悲しかったのだろう。
「……だそうよ。私は自分の部屋に戻っておくから、三人で薫と話して」
「うん……」
若葉は、悲しそうに返事をする。
薫を助けるには、弥生が必須だと思っているけど、その薫が弥生と顔を合わせたくないというのは、状況的にまずい。薫が弥生の救いの手を拾い上げないと、薫は多分、救われない。そんな気がする。
弥生が、自分の部屋に戻っていく背中を見ながら、俺は薫がいる部屋のドアノブに手をかける。
「入るぞ。薫」
俺はそのまま薫の部屋のドアを開けた。
部屋は、ベッド以外、何もない部屋だった。ひどく綺麗で、こんなところにいたら、俺なら暇すぎて耐えられないと思った。
薫はベッドの枕元に座っていた。足を延ばし、体は何もないところの方向に向いている。
「やあ」
薫はゆっくりとこちらを見た。目は真っ黒だった。死んでいる目、というのはこういう目のことを言うのだろう。普段結ばれている髪は、下ろされており、まるで病人のようだった。
「元気……ではなさそうだな」
「ああ、見ればわかるだろ」
俺は薫に話しかけるが、正直何を話せばいいか、わからなかった。
「薫……髪の毛ぼさぼさになってるよ」
若葉は薫に優しく言った。確かに、いつも艶やかで、まっすぐな綺麗な黒い髪は、枝分かれしている木のように、髪と髪の隙間から髪がはねていた。
「ああ。お嬢様に梳かしてもらってもらってないからな。いつもはやってもらっていたんだ。もう、やってもらうことは、ないかもしれないけど」
「……ふざけたことを言っているな。また梳かしてもらえばいいのに」
黛は、部屋を少し歩きながら言う。
「もう……いいんだ。もう十分……真人間のフリはできたから。生きるのはもういいんだ。もう誰も悲しませたくないんだ」
薫は悔しそうにベッドの蒲団を掴む。
「お嬢様も、未来もぼくの責任で落ち込んで……しかもそれは……ぼくの過去のせいで……もう辛いんだ」
「そうかもしれないけど、お前が落ち込んでいるから、弥生も落ち込んでしまっているんだ」
俺は少しずつ薫に歩み寄る。
「みんなお前を待っているんだよ」
「僕が落ち込んでるせいで、お嬢様が落ち込んでいるのは悲しい。でも、またお嬢様と接して、傷つけるのが怖いんだ。お嬢様や未来だけじゃない。お嬢様が話したみたいだけど、ぼくはたくさんの人を傷つけているんだ。それは聞いたはずだ。それに……僕はまともな育ち方をしてないんだ。僕は、もうみんなから忘れ去られたいんだ。もう誰も傷つけたくないから。僕は救われなくてもいい」
「……それでもお前を必要としている人がいる……」
「それ以上近づくな!」
俺が言いかけると、薫が突然こっちを向いて言ってきた。
確かに、俺は薫にどんどん近づいていた。
「もう大事な人たちを傷つけたくない。だから来ないでくれ」
「……」
別にここで無理やり寄ってもいいが、今の薫はさすがに不安定な状態だ。俺は少しだけ後ずさりした。
「わかった。近づかない。でも本当にお前を必要としている人が……」
「本当にいるのか?」
薫はまた俺の話を遮って、言った。
「もし、ぼくが一生施設で暮らしていたら? そのまま一人でひっそり暮らしていたら? 別に、お嬢様は、僕がいなくても不自由なく生きていただろうし、今のお嬢様みたいに、ぼくのせいで落ち込んだり、辛くなったりすることはなかっただろう。未来だってそうだ。僕と出会うことがなかったら……あそこで倒れたり、身を投げかけたりすることはなかっただろう。僕を必要としている人なんていないんだ。むしろ、僕は不要なんだよ」
薫は、一度は上げた顔を下げてしまう。
「それに、未来を傷つけたのも僕のせいだ。彼女を不幸にさせてしまう彼氏なんて、必要ない。こうやってみんなに気を使わせて、迷惑をかけて、クリスマスをめちゃくちゃにしたのも、僕のせいだ」
薫はそのまま蒲団に入り込み、そっぽを向いてしまう。
「自分のどうしようもない過去が、皆に迷惑をかけてしまうなら、僕は死んだ方がいい」
薫は低い声で言った。
気持ちはわからなくはない。簡単に言うと、罪悪感が、今の薫をこうさせているんだろう。俺も、下手したら、薫のように、なっていたかもしれない。咲を助けられなかった罪悪感で、薫のようになっていてもおかしくなかった。
俺は何とか立ち上がったけど、薫は、ここまで積み重なったものが、恐らく大きすぎるんだろう。
俺は薫に対して言えばいいことが、わからなくなり、言葉に詰まってしまった。
しかし、若葉がその沈黙を破ってくれた。
「確かに薫は不要かもね。もしかすると、薫がいなかったら、よいちゃんは何不自由なく、傷つくこともなかったかも」
「……そうだよね。若葉」
「でも、不要でもね。好きだったら、それは必要なんだよ。好きなものは、理由もなく、必要なの。たとえ、それのせいで邪魔になったとしても、好きだったら必要なの」
若葉はそう言った。
これは、若葉だからこそ、言えることだと思った。
現在進行形で、全力で黛に恋している若葉だからこそ「好きだから、必要。好き以外に、理由はない」という言葉が言えたのだろう。
「こうやって、元気になってほしいから、話しかけてるのも、薫のことが好きだから。薫のことが好きだから、みんな気を使ってるんだよ。迷惑なんかじゃないの」
若葉は俺の隣に来る。薫に話しかける若葉は、なんだか、雰囲気が、お姉さんみたいだ。
「……ありがとう。でもそれが辛いんだ。好きになられたら、その分傷つけてしまうだろ? 傷つけてしまったときに、その人のことが好きだと、大切な人だともっと辛いからさ。もう、誰も傷つけないためには、ここから出ないか、死ぬしかないんだ」
薫は若葉をしっかりと見ながら言う。若葉はとても悲しそうな目で薫を見ていた。
「……薫」
「なんだ?」
黛は薫に話しかけた。
「その考えは、今のところ、変わる気配はないんだな?」
「ああ」
「……そうか……なら、ぼくらは一旦帰ることにしよう」
黛はそう言うと、外に出るドアの前に向かう。そして俺たちに手招きをした。
「おい、何で帰るんだ?」
俺はここで帰る理由がわからなかった。もっと話しかけて、励ましたほうがいいと思った。
俺は薫に聞かれないように、黛と、小さな声で話す。
「話が平行線だし、確認したけど、本人も考えが変わる様子がない。これ以上話してもストレスになるだけだ。薫もネガティブことしか言わないし、どんどん悪化する未来が見えるだろ。若葉のお陰で、少しだけ落ち着いた気もしたし、いったん引くべきだ」
「……確かにな、薫の負担を考えていなかった。黛の言う通りかもしれない」
「……そうだね。一旦帰った方がいいかも」
そう言うと、俺と若葉も帰る体制になる。
「そういうことだから、またな薫」
「またね。明日も来るから。元気になったら、またゲームしようね」
俺と若葉は薫に言う。
布団に潜り込んでしまった薫から、返事はない。
そのまま、俺たちは黛の後に続いて部屋を出た。
俺たちは弥生の部屋に戻った。みんなベッドに座っている。
「そう。じゃあ、一旦は何も変わらなかったと」
「ああ」
俺たちは、あまり薫の気持ちを変えることが出来なかった。
「ごめんね、よいちゃん。私たち、何もできなかった」
「いいのよ。仕方ないこと。あそこまで落ち込んで閉じこもってる薫は初めてだから」
若葉は申し訳なさそうに、弥生を見ながら言う。そして弥生は悲しそうに笑いながら、若葉に言った。
「……次はどうするか……とにかく話しかけるしかないのか?」
黛は独り言のように言う。
「私はとりあえず、次来るときはゲームとか持ってきてみるよ」
若葉は胸をドンと叩き、任せとけ、と言っているような雰囲気で言う。
「そうだな。とにかく楽しいことをするしかないかもしれない」
俺も若葉の行動に賛同する。
「未来の事もある。元通りになれなくなる前に、行動しないといけないのかもな」
「そうだね。くよくよしないで、行動しないと!」
若葉と黛は頷き合う。
「じゃあ次は、未来のところに行くか」
俺は二人に言う。
「そうだね。私も行くよ」
若葉はうんうんと頷いてくれる。
「ぼくは行かないぞ。さっき、言った通り、ぼくは未来には会わない方がいい」
「ああ、そうだったな」
黛は、なんとも言えない表情で言った。悲しい気持ちでも、嬉しい気持ちでもない。俺には、黛の表情は読み取れなかった。
「その代わり、小鳥居家でやれることをやる。薫がやっていた分の、家の事をやりながら、薫のために出来ることをやるよ」
「ああ、頼んだ」
俺は立ち上がる。
「黛、無理……はしないか」
「ああ。無理はしないな」
若葉も、黛に何か言おうとしているが、言葉が見つかっていないようだった。
少し間を置いてから、若葉は黛に話す。
「……じゃあ……体には気を付けてね。薫につられて……暗くなったらダメだよ」
「そうだな。それは気を付けないといけない。ありがとう」
黛は、若葉に微笑みかける。
「それじゃあ、行こう。進」
「ああ。じゃあな二人とも。また今度」
俺は二人に挨拶する。
「ええ。頑張って」
「気を付けろよ。二人とも」
弥生と黛は真剣な顔つきで言った。
そして俺と若葉は、未来の家に向かった。
俺と若葉は電車で、未来の家の最寄り……まあ、俺の最寄りでもあるが、そこに向かった。
電車内で、若葉はウトウトしていた。昨日の帰りも遅かったし、あったこともとんでもないことばかりだったから、仕方ない。
そう言う俺も、少しだけ眠い。さすがに昨日の夜更かしが響いているようだ。
最寄りに着くと、俺は未来の家へ若葉を案内する。いつも俺が帰る道である、川沿いには行かず、山の方へ向かった。かなりの坂道だったが、俺も若葉も体力はある方なので、弱音を吐くことはなかった。
「未来ちゃん、大丈夫かな」
「さあ……それを確かめに行くっていうのもあるしな、連絡もないし」
若葉は俺の後ろをちょこちょこ歩きながら、ついてくる。
「別に、不幸の重さを比べるわけじゃないけどさ、未来ちゃんの方がほんの少しだけ、深刻さはなさそうだよね」
「まあ、一応はそうだな」
確かに、薫が落ち込んでいる原因である、過去についての話は、相当に重い。一方未来は薫がそんな過去を持っていて、一度でも、誰かを殺したいと思ってしまったことのある人と、付き合うなんて、無理だからという理由で、落ち込んでいる……と思う。別の理由もあるだろうけど。弥生に騙されていたようなものだったから、みたいな理由もあるだろう。
「それでもさ。薫は、絶対的に味方になってくれる人が近くにいるじゃん?」
「弥生か?」
「そう」
確かに、弥生は薫に何があっても、味方でいるだろう。
「未来ちゃんにはさ、居るのかな。そんな人」
若葉は少しだけ小さい声で言った。
「いなかったらさ、私たちがなってあげたいけどさ、なれるのかな」
「……なるしかないかな」
弥生と薫みたいに、未来とは、とても長い時間一緒に居るというわけではない。
それでも、俺は、人を助けるためなら、何でもするって決めたから、やるんだ。
「そうだよね。とにかくやってみるしかないよね」
「そうだな」
若葉は、俺に追いつき、隣で元気よく言った。
俺たちは未来の家についた。
アポイントメントは取っていなかったので、下手したら出てこないことまで考えられてが、意外と早く、家の人が出てきた。女の人だ。かなり若い。
「えっと……橘進です」
「中野若葉です」
俺たちは出てきた女の人に、挨拶をした。
「……あ、未来のお友達ね。知ってるわ。来てくれてありがとう。未来の……母です」
女の人はそう自己紹介をしてくれた。あまりにも未来の面影がなかったので、母だとは思わなかった。見るのは、多分二度目だけど、やっぱりかなり若い。
「……未来ちゃんの様子はどうですか? 一応、私たち、未来ちゃんとお話に来たんです。元気づけてあげようって」
「そう。ありがとう」
若葉は、未来の母に、俺たちが来た理由を説明してくれた。
「未来は部屋に引きこもって、ほとんど出てきてないです。理由は……二人とも知ってそうだけど……」
「はい、知ってます。薫の事ですよね」
俺は未来の母に、返事をする。
「そう。まあ、それだけじゃないんだけど……。だから出てこないし、ご飯も食べないし……心配なのよね」
「それだけじゃないんですか?」
若葉はまた、尋ねた。
「……そうなの。これは……そうね。話すと長くなりそうだし、信じてくれるかわからないから、中で話したいな。ほら、二人とも入って」
そう言うと、未来の母は、俺たちを家の中に案内してくれた。
席に座る。リビングはかなり生活感があり、台所とリビングを繋ぐ、カウンターにはコップが積まれている。調味料も、机の上に置かれていたり、ソファには洗濯物が置いてあったり、さっきまで家の事をしていたのがわかる。
テレビの横にある棚の上には、未来の母と父だと思われる人の写真が置かれていた。未来の写真もあったが、数は少なかった。
「さ、どうぞ」
未来の母は、ミルクティーを出してくれた。
「ありがとうございます」
「どうも」
俺と若葉は、未来の母に返事をする。
「それで……未来については、話した通り。それで、話すと長くなるっていった話を話しますね」
未来の母は、少し悲しそうな表情をしながら話し出した。
「とりあえずわかりやすいところから話すと、実はね……私、看護師だったんだけど……その時お世話している病人が未来だったの。未来はね、突然車の事故で、両親を失って、精神を病んでしまった女の子なの」
「え……?」
「どうしたの進くん?」
俺はその話だけを聞いて、ひとつ思い当たる節があった。
咲が、事故で両親を失った状況と似ている。似ているが……そんな偶然あるわけがない。
咲は内気な性格。まったく未来とは似ていない。
「いえ……何でもないです……」
「そう」
「えっと……私良いですか?」
「どうぞ」
若葉は手を挙げて、未来の母に質問をした。
「ってことは……未来ちゃんの本当の両親って……」
「そう。亡くなってる。私たちは、義理の両親」
「……そんな……」
若葉は眉を困らせた。とても悲しそうな表情をしている。
「未来がうちの病院に移動してきてから、私は結構、未来の面倒を見ていたの。それでもまったく話さないし、動きもしないし、ご飯も食べないから、点滴したり……でもね、点滴で賄うのにも限界があって、このままじゃ命すら危ない状況だったの」
未来の母は、俯きながら言う。
「それでね、私がいつも通り未来の病室に行くとね……突然よ。私の事をお母さんって呼んだの」
「……突然ですか」
「ええ。本当に突然。驚いたわ。まさか私の事をお母さんなんて、言うとは思わないでしょ。それで……色々精神鑑定してみるとね、どうやら記憶が無くなっていたみたいだったの」
「……」
俺はさらに、未来が咲かもしれない可能性を見出してしまった。記憶が無くなっているなら、性格が変わっていても、何らおかしくはないだろう。
「それで、なくなったと思われる記憶の部分……主に両親について、それを私で補完した……ってことみたいです。私は困った。引き取る余裕はあった。でも……本当にそれでいいのかって思った」
未来の母は、さらに俯きながら言った。
「でも……未来が……私の事をお母さんって思ってくれてからは、とっても明るくて、よく話す活発な子になったから……引き取ることに決めたの。未来には、本当の母ではないということは言わずにね。もし、本当の母ではないってことを伝えたら……もとに戻ってしまうかもしれないから……」
俺と若葉は、未来の母の顔を見ていた。
「それで……そんな記憶を失って、私の事を母だと思っている未来は……何やら昨日……記憶を取り戻しちゃったみたいでね。帰ってきてから……本当のお母さんじゃないんだねって、ボソッと言われたの……」
未来の母は、泣きそうな顔をしていた。
「……すみません、こんなこと話してもらって」
若葉は、未来の母に言った。
「いいの。今の未来が落ち込んでいる理由がわからないと、元気づけようがないでしょ?」
「そうですね。ありがとうございます」
若葉は、未来の母に頭を下げる。
「私から話すことはおしまいだけど……未来のとこに行くんだよね?」
未来の母は、俺たちに尋ねてくる。
「はい」
俺は答えた。
「そう。なら、今の私たち……義理の両親の私たちの事をどう思ってるか、聞いてほしいです」
「わかりました、色々ありがとうございます」
「わ、ありがとうございます。未来のお母さん」
「いいえ」
俺と若葉は、未来の母に返事をする。
「じゃあ、行こうか、進」
「ああ……いや……」
俺は悩んだ。未来の母なら、未来の前の名前を知っているだろう。
これでもし……早川咲だったら……ついに……会えることに……。
思わず顔が少しにやける。
あまりにも自分に都合の良い流れになりそうな時に、出てしまう表情になっている気がする。
「どうしたの進?」
「……」
いや、ダメだ。聞いてはダメだ。
もし、今、未来が咲だということがわかったら……必要以上に気持ちが入って、空回りしてしまうだろう。
未来が両親の記憶を取り戻しているからといって、俺を思い出しているかはわからない。その場合……未来に覚えてもいない、俺の気持ちが押し付けられて……って言ったらいいのか、わからないけど、とにかく、嫌な思いをされるかもしれない。俺の性格ならきっと、そうなるだろう。
それに浮かれている場合ではない。薫の事もあるんだ。
「いや、なんでもない、行こうか」
「うん」
ましてや、高校一年間を棒に振ってまで、探し求めた相手だ。今は、聞かない方がいいだろう。空回りするに決まっている。
俺たちは、そのまま未来の部屋に向かった。
未来の部屋に行くまでの、足並みは、さっきよりも重かった。未来の母からの話を聞いて、いろいろいらない考えを巡らせてしまったから、少し、未来と会うのが怖かった。もし、俺の事を思い出していたら、どんな顔をすればいいんだろう。こんな大変な状況で会っても、どんな顔をすればいいのか、わからない。
そんな俺は、未来の部屋の前で、少しの間、立ち尽くしていたようだった。
「どうしたの進」
「え?」
「行かないの?」
「あ、ああ」
俺は若葉にそそのかされて、未来の部屋をノックする。
「はい」
「あ、俺だ。若葉もいる」
「そ。ま、知ってたけどね、聞こえてたし」
そう返事をする未来の声は、意外と元気そうだ。
「もしかして……意外と元気……?」
若葉は恐る恐る、未来に尋ねた。
「そうだね……一晩寝て……いろいろ落ち着いたっていうか……薫くんに起こってたことは……私にはどうしようもないし……それよりも……事故の瞬間だったり、本当の両親じゃなかったってのがショックが強くて……」
未来は扉越しの壁によりかかったのか、声が少し近くに聞こえてきた。
「……思い出したのはね。それだけじゃなくて……本当のお父さんとお母さんが……目の前で車にぐちゃぐちゃにされるのを……思い出しちゃって……寝たり、ぼーっとしてると思い出しちゃうんだ。頭の中で、事故のときになった爆音が、響くの。それが一番つらい」
未来は、特に力なくいう訳ではなく、普通ぐらいのトーンで話している。
どこか、あきらめているような、そんな雰囲気だ。
「なにか、俺たちに出来ることはないか?」
俺は未来に尋ねる。この調子なら、何かしてほしいことを、尋ねた方がいいだろう。
「なにもない……あ……ちょっと話してほしいな。なんでもいいから。その方が……事故の事思い出さないで済むし」
「そうか……なにから話そうか……」
「私からでいい?」
若葉が扉越しの未来に尋ねた。
「いいよ」
「えっと……今のお母さんとお父さんの事はどう思ってるの……って、お母さんが気にしてたよ」
「ああ……」
未来は少し間を置いた。
「昨日は……結構お母さんにひどいこと言っちゃったけど……でも……本当の親じゃないとしても……本当の親のようによくしてくれたし……ちょっと口うるさかったり、価値観も少し違うけど……なんだかんだ好きなんだ」
未来は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「だから……落ち着いたら……謝るつもり。って伝え……なくてもいいや」
「そっか。良かった」
若葉は、優しく微笑みながら言う。
「というか……今思うと……学校の勉強にほとんどついていけなかったのも、中学の記憶がなんとなく怪しいのも……多分、両親の記憶を失ったついでに、なくなったんだろうなあ……」
確かに、未来がそういう話をしていたのを、なんとなく覚えている。
「今ないのは、なくなったのは……中学の記憶だけなのか?」
俺は未来に尋ねた。
これを思い出しているのなら、俺の事を思い出しているのか、わかるからな。
「うん。多分そう。中学より前の記憶はある。でも特に、中学の頃の記憶が薄いんだよね」
「そうか……戻るといいな、中学の時の記憶」
「そうだね。今なら、何思い出しても、相当なことじゃないと驚かないだろうし」
未来は少し笑いながら言う。
……たぶん、俺の事は思い出していないか……咲じゃないか……のどっちかだな。
「どうだ? 明日までに、とは言わないけど……また元のように戻れそうか?」
「まあ……そうだね。戻れると思う……。正直、まだ弥生さんにはむかむかしてるし、薫くんにも合わせる顔がないから……その二人に対しては……前のように、ってわけにはいかなそうだけど」
「そうか……」
仕方ない。あんなことがあったのは事実。
確かに、弥生が未来を騙していたという言い分はわかる。でも、弥生が、薫の過去を隠す理由もわかる。
どっちの言い分もわかるからこそ、仕方ないんだ。
「未来がいいなら、俺、明日も顔出しに来るけど……」
「いいよ、来てほしい」
「おっけ。任せとけ。若葉は?」
「私は……」
若葉は俺の顔をよく見た後、未来がいるであろう、部屋の扉を見た。
「未来ちゃんは元気になれそうだし……薫の方に行こうかな」
「そうか。未来もそれでいいか?」
「うん。私も、あっちの方が心配。だって子供の時からまとわりついてる記憶……のせいであんなんなっちゃってるんでしょ? 若葉ちゃん、お願い薫くんを助けてあげて」
「うん!」
若葉は、元気そうに返事をする。
こんな状況でも、未来は薫の事を気遣っている。未来もすごい奴だ。
「じゃあ、俺たちは……そろそろ行こうか」
「そうだね。少しは元気になったかな?」
「なったよ。落ち着いた。二人ともありがと」
未来は扉越しから返事をする。
「じゃあね。未来ちゃん!」
「また明日な。何かあったら何でも連絡しろよ。俺ならすぐ駆けつける」
「うん……ありがと。本当に」
未来は、少し涙ぐんだ声で返事をしていた。
俺は、泣くところを聞かれるのは、嫌だろうと思い、少し速足で、未来の部屋の前を後にした。
帰り際に、未来の母に未来の話をした。とても安心していたようだった。
俺は家に帰ると、昨日の疲れもあり、かなり眠気が強かった。飯を食べ、風呂に入ると、さらに眠気が強くなったので、歯を磨いてベッドに入った。
布団に入ると、意外とありがちなことだが、急に眠気が無くなることがある。
俺はなぜか眠気が無くなり、未来が咲であるかもしれない、という仮説が脳を支配する。
思い返してみても、未来が咲だという証拠はほとんどない。確かに、咲と共通点があったり、未来は、都合のいい経歴ではある。中学の頃の記憶が、なんとなく怪しいことや、両親が事故で亡くなった、という点は、確かに証拠だと言えるかもしれない。しかし、あまりにも、未来と咲じゃ性格が違いすぎる。未来は、普段は派手めで、活発な少し生意気な女子だ。一方咲は、引っ込み思案で、仲良くなれば明るく振る舞ってくれるけど、仲良くなるまではとても大変な大人しい女子だった。今で言うと、若葉に一番近い性格かもしれない。あそこまで、頼りになる感じではないけど。
だから、未来が咲であるとは言い切ることは出来ない。そして、この考えが、未来を助ける上で、邪魔になるような気がしてならない。だとしても、この仮説が浮かんだ以上、きれいさっぱり忘れることなんてできない。だから、いつも通りに接しよう。俺は、手先は多少器用かもしれないけど、行動は不器用だ。いつも通りと意識する気持ちで、未来が咲であるかもしれないという仮説を相殺して、普段と同じように未来と接しよう。
……眠くなってきた気がする。体制を変えて、目をつぶろう。
次の日。薫と未来が仲違いして、落ち込み始めてから、二日が経つ。
長期休みに入ると、黛と、蜜柑の家に集まって、みんなで宿題をするそうだ。俺も夏休みには、一緒にやった。しかし、あの日から、一度も集まってはない。
夏休みの初めの頃。ふらっと黛と蜜柑の家に行ったら、黛や蜜柑はもちろん、薫や弥生、若葉に未来がいて、仲良く宿題やゲーム、ダラダラして遊んでいたことが、昔の事のように感じた。
蜜柑が出迎えてくれて、飲み物を出してくれた。
黛は、大抵料理を作っているか、キッチン寄りのテーブルで、頬杖を突きながら、みんなが騒がしく何かをしているのを見ながら、スマホをいじったりしていた。上の部屋で、一人でゲームをしていることもあったっけな。
若葉は、ゲームを一緒にやろうと誘ってくれたり、宿題を教えたりしてくれた。あの頃は、まだ、少し距離があったような気がする。懐かしい。
弥生は、俺をからかったり、薫をからかったり、黛と同じテーブルでみんなを見ていたり、一生懸命宿題や、勉強をしていた。
薫は弥生と一緒に居ることが多かった……気がする。そして、弥生を通して、未来と話したり、勉強をしたり、テレビを見たりしていた。
未来は、薫に夢中。弥生のアシストもあり、薫とあれやこれやと絡みに行っていた。
みんなが楽しそうにしていた、あの頃。
今は、壊れてしまっているけど、楽しそうにしていたあの頃を、取り戻すために、みんなを助けるために、俺は今、行動をしているんだ。
心から、生きているって感じる。誰かのために、何かをすることこそが、俺の生きがいなのだと、改めて感じる。
俺は、家が近いことや、未来に会うのが、俺だけという理由と、昼にとある用事があったので、午前中に、未来の家に再び向かった。
家に着くと、未来の母がとてもうれしそうな声で、迎え入れてくれた。
話によると、未来は、部屋からほとんど出ていないけれど、会話はしてくれたそうだ。
どうやら、未来は母に謝ったらしく、許してくれるなら、これからもお母さんで居てほしいと言っていたようだった。
未来は、かなり回復しているようで、とりあえず俺は安心した。
俺は未来の母と話した後、未来の部屋へ向かった。
俺は、未来の部屋をノックしようとした時、未来が咲である事が、また頭を過った。
ここに来るまでは、うまく考えないようにすることが出来ていたが、未来に会えると思った瞬間に、脳の思考が未来について考え始めた。ノックする手が止まる。
一度落ち着いて、呼吸を整えて、未来の部屋をノックする。
「はーい」
未来の声は、思ったより気が抜けているような、例えるなら、教室で友達に呼ばれた時の返事のような声だった。本当に元気になっているようだ。
「橘です」
「……おはよう」
「おはよう」
少し間が空く、そういえば話すことを考えていなかった。しまったなあ。
「……入っていいよ」
「え? いいのか?」
「……とにかく、友達の顔を見たいの。化粧も軽くしてるし、服もジャージだから、大丈夫」
「……そうか。じゃあ、入るぞ」
俺は、未来の部屋のドアを開ける。
勉強机や、クローゼットが置いてある部屋の端にあるベッドに、未来はちょこんと座っていた。
「はあ……向こうの方が大変そうだから、若葉ちゃんに薫くんのとこ行っておいでって言ったの……失敗だったかなあ……」
未来は、そっぽを向きながら頬を掻く。
「おい、なんでだよ」
「いや、若葉ちゃんと進だと……癒しパワーに凄い差があるというか……」
「……ああ……それなら別に否定しねえよ……」
「しないんだ」
「自分の事はある程度わかってるつもりです」
確かに若葉のほうが、癒しの観点から見ると、絶対に上だ。
だって、かわいい小さな女の子だからな。
「まあいいや、ほら、適当に座っていいよ、あ、ベッドに座るのはダメね」
「はいはい」
俺は部屋の適当なところに座る。
未来は、いつもより化粧は薄く、いつも巻かれている髪は、まっすぐになっていた。
表情もいつもよりかは暗いが、明るくなっているようだった。
それでも、十分に美人だ。というか、こんなに容姿端麗だったんだな、こいつ。
「そんで? 体調とか、大丈夫か?」
「うん。メンタルも身体も、もう本調子かな。ただ、ちょっと寂しかったぐらい。薫くんはどうなの?」
「……ちょっと難しいかもな。ひどく落ち込んでる。下手したら……」
俺は言葉を止めた。今の未来の前で、下手したら、薫が死ぬかもというのは、未来に責任を感じさせてしまうかもしれない。
「……死んじゃうかもしれないの?」
「……なんでわかったんだ」
俺は驚いた。なぜ未来が、俺の考えていることがわかったのか、わからなかったからだ。
「……あんな過去があって、あんな考えや、意識があるなら、死にたくなるのもわかるよ」
「そっか……お前はもう平気なのか、薫の過去については」
俺は未来を見ながら言う。
「薫くんの過去は……うん。まだちょっと整理がついてないけど、一応平気かな」
未来は少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「薫くんの過去を、受け入れられているかって言われたら、ちょっと自信ないし……元通りになれるかはわからないけど……今までは仲良くできてたし、また仲良しぐらいにはなれるかな……とにかく、このままは嫌だね」
「そうか。俺もこのままは嫌だからな。頑張るさ」
「がんばってね」
未来は、また俺を見て微笑む。
未来も、このままは嫌だって思ってくれている。俺が頑張る理由が増えたな。
「……あ~あ。でも、お付き合いはおしまいになっちゃうかな~」
「未来は、もう薫の事を好きじゃないのか?」
「好きだよ。でも、そうじゃないの。付き合ってたら、いけない理由があると思うの」
「理由?」
「うん。お互い好きでも、お互いが幸せにならないなら、付き合っちゃいけないとは思わない?」
「そうなのか? お互い不幸になっても、好きでいようねってならないのか?」
「……うーん、人によってはなるけど、私たちの場合だと……お互いがお互いに……なんていうんだろう……頼りにならないから……ダメっていうか……片方が頼りになるような人じゃないと成立しないと思うんだ。進が言ってるそれって。片方が、進みたいな人なら、不幸でも好きでいようねでもいいかも……それに……例えば……」
未来は、うーんと頭を悩ませる。
「ロミオとジュリエットって、基本的にはお互いのすれ違いで、不幸になってお互いに死んじゃうでしょ? だから、好きだけど、お互いが不幸になるのはダメだと思うの。悲しいから」
「そうだな。確かにそうだ」
つまり、薫と未来がこのまま付き合っていると、不幸になるから、付き合っているのはダメということだ。
確かに、未来は薫と付き合っているという理由で、部活をやめるまでに至っている。未来は弥生とも、薫の関係を巡って、少しいざこざが、あったようだし、未来も不幸になっていると言えるだろう。
薫が落ち込んだ理由も、薫の過去も影響してるが、未来が薫の過去を知ったせいで落ち込み、弥生がそれを見て責任を感じたからだ。その弥生や未来への責任感や、もともと持っていた、薫の過去が、薫に罪悪感として、重くのしかかっている。
確かにお互いが不幸になっているし、このまま付き合い続けたら……もっと不幸になるかもしれない。
「まあ、今はお前が元気になる方が先だ。薫との関係は、それから考えればいい」
「そうだね」
「俺が、薫の代わりになるかわかんないけどさ。お前が困ってたり、元気なかったりしたら、絶対助けるから。いつでも言えよな。チア部のあの時みたいにさ」
「ありがとう。頼るよ。進を」
「というか、俺らさ、そういえば共同戦線じゃん」
「うわ! 懐かし! そういえばそうじゃん」
「まあ、共同戦線になった理由は、もう全然関係ないけどさ、そういうことだから、遠慮せずに頼ってくれよ、助けるからさ」
「うん! あり……ん……助けるからさ……」
未来は、徐々に声が小さくなっていった。
突然、閉じ切った部屋に風が吹いたような気がした。
春の暖かい風のようだった気がする。
未来は、俺を見つめている。俺を見つめている雰囲気が、明らかに違ったので、俺は少しだけ身構えた。その目は、なんだか汗臭いような、懐かしいような、そんな感じがした。
少しの間、時が止まった。いや、戻ったような気すらした。
未来は動かない。俺を見つめたまま。
俺は未来に見つめられたまま、動けない。
未来は、ベッドの上で、少しくらくらしていた。
そして、未来の目から、涙が一つ。風が未来に吸い込まれた。
「ど、どうした? 未来」
「……」
未来はゆっくりとうなずいた。
「ちょっと、待ってて。進」
未来は顔を隠しながら、鼻声で言った。涙のせいだろう。
未来は急いで立ち上がり、部屋を出ようとする。
「ああ……」
俺が返事をすると、部屋を出る直前で、未来は立ち止まった。
「あ……ちょっとじゃないかも……結構待ってて」
「あ、ああ……いいけど」
そういうと、未来は涙を拭きながら下へ降りて行った。
……その後……かなりの時間待った。
それでも一時間弱ぐらいだ。
まあ、俺の頭に過ぎるのは、あれだ。
部屋にノックの音が響き渡る。
未来の部屋のはずなのに、変な感じだ。
「……」
「……どうした」
未来は何やら、大きな紺色の本のようなものを抱えていた。
「……!」
未来は、俺の顔を見た途端、その本を落とした。とても重かったのだろう。ドン、という低い音が鳴る。未来は、そのままドアの前に、へたり込む。
「……私は……」
俺は、未来が落とした本に目をやる。
「……進に……謝らないといけない」
その本の表紙には、よく知っている名の学校名が書かれていた。
「……謝っても、謝りきれるか……わかんないけど……」
貝山中学校。俺が通っていた中学校だ。
「……お前……」
未来は、俺の顔をしっかりと見る。顔は涙でくしゃくしゃになっているが、表情は凛としている。
「……わかるんだ。じゃあ、そのページ、開いて」
「……」
今は、アルバムをめくることしか、考えられない。
俺は、未来が落とした本を拾い、必死にその本……アルバムのページをめくる。
何度も見たアルバムだ。
だって、俺も同じものを持っている。
「……開いたね」
「ああ……」
俺は、該当するページを開く。
橘進。確かに俺の写真がそこにはあった。
そして。
「……私は、如月未来。だけどね」
早川咲。
「……私は、早川咲でもある。両親を失った後、記憶を失った」
その名前がしっかり同じページに書いており、咲の写真がある。
「そして、今、すべての記憶を、取り戻した。進のことを、思い出した」
「……」
俺は、目の前で起きている出来事を、その瞬間に受け入れることは出来なかった。
俺が、一度しかない高校の一年間をかけても、見つからなかった人。
叶わなかった夢。
それが見つかったのだ。叶ったのだ。
「……二年間、本当にごめんなさい。あなたが探していた、早川咲は、目の前に居ます」
それから、どれくらい、時間が経っただろうか。
一分かもしれない。十分かもしれない。一時間かもしれない。
今、目の前にある、アルバムは、俺の母校の貝山中学のもの。
俺の写真もあり、早川咲の写真もある。
未来は、自身が早川咲であると主張している。
「一旦、質問がある」
俺は冷静を装う。
「いいよ」
「それは、本当ってことでいいんだな」
「うん。もし心配なら、お母さん……今のお母さんに聞くといいよ。全部知ってる」
ああ……。
「……っ」
俺は次の瞬間、未来を、咲を、抱きしめていた。
薫の彼氏だってことすらも、忘れて、抱きしめてしまった。
「……ん」
咲は驚いたようで、少し声を上げる。
高校一年を棒に振ってまで、探した人。
この世界で、一人しかいない人を探すという行為。
あまりに果てしなくて、虚無。
寝込んだり、ものに当たったり、自傷しかけたことまであった。
それでも罪悪感は、俺を支配していた。
一度は諦めた。
でも、高校二年生になって、罪悪感を隠すために、身を捨ててまで、人を助け、お節介を焼いて、ここにたどり着いた。
ついに見つけた。俺が探していたもの。
「咲っ! 咲!」
俺はとても大きい声で、咲を抱きしめながら言った。
「本当にごめん! 俺! あの時、お前を助けられなくて! お前の両親を巻き込んで! 本当にごめん!」
目から、涙がこぼれた。
自分でもわかるくらい、顔がくしゃくしゃだ。鼻だって少し垂れそうになる。
「ちょ! うっさ! きたな!」
俺は、咲に突き飛ばされる。
「うお!」
「ずっと探してた人見つけて、うれしいのはわかるけど、いきなり抱き着くのはちょっと……」
「……ご、ごめん」
「た、確かに私は咲。でもね、性格は元には戻らない。咲の記憶だけ取り戻した、未来ってこと」
「……そ、そうなのか……」
俺は、少しだけショックを受けた。こういうのは、前の性格に戻るもんじゃないのか……。
「でも……いま抱きしめられて、嫌な気はしなかったから……ちょっとは咲の性格とか……戻ったのかも、よくわかんない」
「……と、とにかく……」
俺は、ぐしゃぐしゃになった顔を袖で整えて、一呼吸置いてから、絶対に噛まないように気を付けながら言った。
「おかえり、咲。元気で良かった」
元気で良かった。
本当に。
「うん」
未来は、微笑む。
その微笑みは、咲にそっくりだった。
「そういえばさ」
「ああ、なんだ」
俺は、未来の母に話に聞いた。
早川咲であることは知っていたようだが、俺との関係が、このような関係であるということは知らなかったようだ。
未来の母は、泣きながらよかったね、よかったねと言っていた。
そして今は、未来の部屋で、少しお茶を飲んで、落ち着いているところだ。
「私が、チア部の件でさ、体育館でツーメンしたじゃん」
「ああ」
「あの時倒れたじゃん私、泣いた後」
「そういえば」
あの時未来は、ツーメンをした後、よくわからないまま泣いて、よくわからないまま頭が痛くなり、倒れたのを覚えている。
「いま考えると、進とバスケをしている、しかも、進に頼っている状態でバスケしてたせいで、中学の時の記憶が戻ろうとしてたのかなってさ」
「確かにな……ありえる。中学の頃の俺たちみたいだったしな。あの時」
今思うと、未来が咲であるという証拠みたいな点はたくさんあった。
大体、似ているって理由で俺んちに呼んでるし、なんなら、初対面の時、会ったことあるかって俺は聞いている。どこか、似ているところはあったのだろう。未来には。
「うわ~……なんでまじで俺ずっと気が付かなかったんだろうマジで絶対何とか出来る場面あったじゃん、だってどこか似てたり言動とかももしかしたら似てるとことかあったかもしれないしうわあああああああああああ!」
俺は頭を抱えながら、ごろごろ転げまわる。
「ああ! うるさい! こっちだって責任あるでしょ!」
「ない!」
「なんで!」
「だって、記憶なくなってたんならしょうがないだろ! 何を忘れてるのかを忘れてるんだし、そもそも記憶無くしてるなんて思わないだろ!」
「確かに」
未来は急にスンとする。
「……はあ」
俺は、未来の顔を見る。
……こいつが咲なんだよな。
表情の自信感……みたいなものが、咲に比べてあるのと、髪が伸びているせいでぱっと見はわからないが、顔のパーツは、やっぱり咲だ。
「なにか顔についてる?」
「ああ……いや、よく見ると顔のパーツが咲だなって」
「そりゃそうでしょ」
「そうかあ……」
俺は、だいぶ落ち着いてきた。
徐々に、本来やるべきことを思い出す。
薫のところへ行かないといけない。
「……俺、行かなきゃ」
「落ち着いたんだね。そう思うなら」
「ああ」
未来は助けることが出来た……と思う。
次は、薫だ。
「また、落ち着いたら……改めて話をしよう」
「うん。積もる話もあるだろうし」
「じゃあ、またな……えーっと……」
俺はどっちの名で呼ぶか、悩んでしまう。
「……私的には、未来が助かるかも。一旦、今はね。またゆっくり決めようよ。私も悩んでるしさ」
「そっか。じゃあ、未来。またな」
「うん。またね」
俺は、未来の部屋を出る。
「あ!」
未来はドアが閉まる直前、俺に大きな声で言った。
「今度、ごたごたが片付いたらさ、線香花火しようね」
そう言った。
俺は、ドアの前で立ち止まった。
未来をまた抱きしめたいと思った。
本当によく、よく思い出してくれた。
約束していたよな。線香花火するってさ。
しかし、抱きしめたい気持ちを抑えて、歩みを進める。
俺の中の、大きな目標は達成された。
だから、それを原動力に、薫のために、何でもできるような気がする。
俺が、高校一年を棒に振って、咲を探した時のように。
何かを犠牲にして。
薫のところに行く前に、俺は一つ、用事を作っていた。
俺自身、薫と大体半年とちょっとの付き合いになる。しかし、もしかすると俺は薫を助けるための、材料が足りないんじゃないかと思うことがあった。
つまるところ、薫を知らないんじゃないか、ということだ。
そこで俺は、俺が知る人物の中で、一番薫との付き合いが長い人物に話を聞くことにした。
弥生よりも、薫との付き合いが長い人物。それは、三島有機である。
俺は一旦、途中の駅で降り、三島と待ち合わせをしていたファミレスへ入る。
「こちらです」
ファミレスに入ると、一際背の高い男が、俺を落ち着いた声で呼ぶ。それは三島だった。
「ごめん。少し遅れた」
「いえ、ちょうど本を読み終えたところでした」
「そうか。飯は頼んだか?」
「いいえ。まだです。一緒に頼みましょうか」
「そうだな」
そう言うと俺と三島は、それぞれカルボナーラとピザを頼んだ。
「さて、薫の事は聞いているか?」
注文を終えると、俺は話を切り出した。
「ええ。やっぱりというか、まあ、そうなる気はしていました」
「そうか」
三島は、真っ黒なコーヒーを口にする。少しだけ苦笑いをしていた。
「凪先輩も予想はしていたみたいですけどね。こうなることを」
「黛が?」
「ええ。凪先輩は、薫さんに起こったこと知っていたみたいですし、あの人なりにこうならないように、努力していたみたいですけどね」
黛は未来に「いらないこと」を言ったと言っていた。多分、そのことを言っているのだろう。
「それで、何で私は呼ばれたんですかね」
「ああ、悪い。と言っても結構漠然としててな……ざっくり言うと、とにかく薫の事が知りたいんだ」
「それはなぜ」
「薫を助けようと、俺と弥生、若葉や黛も動いてくれている。でも俺は、何というか、薫を助けるための材料が足りないんじゃないかって」
腕に自然と力が入る。
「なるほど」
「だからとにかく……そうだな、薫の事を知りたい。お前が施設にいた時の薫の話を聞きたいんだ」
「なるほど……そうですね。話すのはもちろん、いいですよ。ですが、どこから話したものか……」
三島は机に肘を立てて、天井を見て考え始めた。
「じゃあ、まず初対面は? どうだった?」
「えーと。そうですね。初めて見た時は、とてもかわいそうな人だなと思いながら、見ていたことを覚えています」
「え、それはなんで」
「……大人たちが噂しているのを聞いていたんですよ。何やら、薫さん以外の家族はお互いを殺し合ってしまって、薫さんのみが生き残っただとか、薬物中毒者の息子だとかなんとか、噂していたのを聞いていたので。その状況で、いざ薫さんを初めて見た時に……こう、ほとんど生きていないように見えたので、かわいそうだなと。まるで、死にたいのに死ねなかったみたいに見えたので」
「なるほどな。弥生から聞いた話をほとんど同じだな」
「恐らくですけど、薫さんは、小鳥居先輩に、自分の過去の事を手紙にして渡しているはずです」
「え? そうなのか」
「ええ。私が小鳥居先輩と薫さんの話をしているときに、なんとなく、そう感じる発言があったので。それに、やたら詳細に話していたりしませんでしたか? 薫さんの過去の事を」
「……言われてみれば」
確かに、やたら詳しかったような。
こう、薫の気持ちを、細部までわかっているような話しぶりだったような気もする。
「それで、薫さんと、初めて話したのは薫さんが来てから……まあ大体一か月くらいしてからですかね」
「結構時間かかったんだな」
「ええ、最初は薫さん、大人気だったので、こう話しかける機会がなくて。それで、落ち着いて、話しかけることが出来るようになったのが、そのぐらいでした」
俺はここで出されていた水を口にする。俺が水を飲んでいるときも、三島は話を続けていた。
「話してみると……何というか興味を惹かれるというか、あこがれてしまうような人でした」
「へえ。どういうところを見てそう思ったんだ?」
「少し恥ずかしい話なのですが、私は当時、一人で生きていくために、強くなりたいって思っていたのですよ。まあ、一人で生きていくなんて、不可能なんですがね」
三島は一旦、コーヒーを口にした。
「それで、施設に入って、すぐに一人ぼっちになってしまった薫さんを見ていると、一人でいるのにも関わらず、平然としているように見えたのです。それが私にとっては理想というか、強い人に見えたので、あこがれていたんです」
俺は、初めて三島と薫が話しているときのことを思い出した。強かったあなたはどこへ、みたいな話をしていたような覚えがある。三島は、小鳥居家に引き取られた薫が、弱くなったと考えて、それがあんまり気に入っていなかったんだな。
「とりあえず、初対面についてはこれくらいですかね」
「そうか……じゃあ……今の薫の状況を見て、どうすればいいと思う。本当に自分の意見でいいし、何でもいいんだ。なにかないか」
「……そうですね」
三島はコーヒーをついに飲み干した。そして、一呼吸置いてから、答えた。
「……無償で優しくしてくれる人がいる、すべてを受け入れてくれる人がいる、ということを薫さんに理解させることですかね。たとえ、薫さんからその人を傷つけることがあったとしても、それでも優しくしてくれる人がいるってことを、好きになってくれる人がいるってことを、わからせるしかないと思います」
「……それは……どうしてだ?」
「……私が、両親に会ったことがないからこそ、わかる事なのかもしれませんが、本当の両親がいないと、気が付かないものなんですよ。無償で優しくしてくれる人がいるっていうことを。気が付いたとしても、薫さんは優しくて、頭がいいせいでいろいろ考えてしまうので、『自分なんかに優しくしてもらうのが、申し訳ない』と考えて、その優しさを突っぱねてしまうはずです。だから、嫌なこともすべて受け入れてくれる、それでも薫さんを必要としている人がいることを、薫さんに理解してもらうしかないと……思います。すみません。少し言い方が難しくて」
「いいや、わかるよ。なんとなく」
確かに、俺の両親も、俺のためになら、何でもしてくれるような人たちだ。
でも、親がいないとそういった存在に気が付かないのかもしれない。
「とにかく、今の薫さんは、自分がいるだけで、周りを傷つけてしまうという状況が嫌なはずなんです。でも、薫さんに傷つけられてもいいから、薫さんに生きていてほしいと思う人はたくさんいることを、理解させてあげればいいと思います」
「そうだな。薫が必要じゃないと、俺だって弥生だって、若葉だって、黛だって、今こうやって行動していないはずだ。おっけ、参考にするわ」
「参考になればうれしいです。私も力を貸したいんですが……私が行くと、私をトリガーに、昔の記憶がまた色濃く引き出されてしまうかもしれないので……」
「ああ、確かにそうかもな」
未来の記憶を思い出した時も、俺が咲を助けた時のように、未来を助けたという理由が、おそらくトリガーだった。そう考えると、確かに三島は薫に会わない方がいいのかもしれない。
「……お願いします」
三島は頭を下げた。
「あんなに才能があって、容姿も優れていて、あんなに人に好かれている人が、過去に囚われて、自らを傷つけているという状況が、私は許せません。あんなに才能のある人が、環境のせいで輝けないのは、いけないことだと思います。なので、本当に、薫さんを助けてください。お願いします」
頭を下げている三島の肩は、震えていた。
なんだろう。背も高く、声も男らしい三島が、こうやって肩を震わせて頭を下げているのを見るのは、なんだかとても、かっこいいと思ってしまう。
「いいんだ。俺だって、薫が幸せになって、みんなが元通りに仲良くしているところが見たいからさ」
「……ありがとうございます」
三島は、頭をあげた。目を見ると、少し赤くなっていた。
「あ、あれ、多分俺らのだ」
こっちにやってくる店員が見えた。カルボナーラとピザを持っている。
「そうですね」
そう言うと、店員さんがやってきて、俺の前にはカルボナーラ、三島の前にはピザを出してくれた。
店から出た後、俺と三島は、駅まで一緒に歩いた。俺は薫がいる小鳥居家に向かうため、三島とは逆方向の電車だった。
「それじゃあ」
俺は三島に挨拶をする。
「はい。あ、最後に忠告です。決して無理はしてほしくないので、忠告させてください」
「ああ、いいぞ」
「精神病院に勤めている方は、精神病になりやすいそうです。どうやら、守秘義務というものがあるらしく、患者さんの話をほかの人にあまりできないそうで、そのせいで患者さんを見ていると、その気持ちを自分に置き換えてしまったりなどして、またそのことを人に話せないせいで、自分も精神病になってしまうことが多いそうです」
三島は、俺に背を向け始める。
「橘先輩も、薫さんに飲み込まれて、気持ちを病まないように、気を付けてください。それでは、薫さんをよろしくお願いします」
三島は背を向け切る前に、少し礼をして、ホームへ降りて行った。
「ああ。気を付けるさ」
俺は、三島と話したことを思い出しながら、寒空の下、ホームへ向かう。
今日も、小鳥居家へに向かわないと。
薫のところへ向かわないと。
俺はそのまま小鳥居家へ向かった。
道中、未来の件があったため、かなりテンションが上がっており、もしかすると今の薫や、弥生の神経を逆なでしてしまう可能性があるなと思い、電車の中で、外の景色とかを無心で見て、出来る限りクールになるように自分を制御しようと努力した。なんとなく、冬の寒さもそうやって俺をクールにさせることに、一役買っているように感じた。
もちろん、未来の記憶が蘇り、未来が咲であったことは、今は誰にも話さないつもりだ。だって「今言われましても、こっちも大変なんです」って思われることは、目に見えている。
俺は小鳥居家に着くと、黛に連絡を取った。小鳥居家は広いので、探すより連絡を取った方が早い。
「……どうした?」
俺が電話をかけた相手の黛の第一声には、あまり明るい雰囲気を感じなかった。元気がなさそうで、かなり疲れてそうだ。
「ああ、俺今着いたんだけど、どこいる?」
「弥生の部屋だ。ちょうど軽く飯食いながら話してる。弥生も若葉もいるぞ」
「おっけ。じゃあ俺も行くわ」
「じゃあまた後でな」
黛は終始元気なさそうな声で話すと、電話は切れた。
俺がそのまま、まっすぐ弥生の部屋に行くと、言っていた通り、三人がサンドイッチを食べながら話していた。
「よお」
「こんにちは進」
黛と弥生が、俺を見ると挨拶をしてくれた。
「……どうだ? 薫は」
俺は三人に尋ねた。
「……進歩ゼロ。でも、悪くはなってないと……思う。多分ね」
弥生は笑顔を見せた。しかし、一目で空元気とわかるぐらいには、作り笑いということが分かった。
「そうか。一旦は、まあよかった」
「進はどうだったの? 未来ちゃんに会ってきたんでしょ?」
「ああ……」
若葉は、俺に尋ねてきた。
嘘はつかないように、未来にあったことは話さないといけないな……。
「未来はもう大丈夫だ。もう元通りだよ」
「ほんと! よかった~」
若葉は、弥生と手を握り合って喜ぶ。
「なら……あとは本当に薫だけね」
「ああ……」
俺は、薫がいるであろう部屋の方向を見る。思ったより、未来の復帰が早かったおかげで、薫を助けることに専念できるのはうれしい。しかし、思ったより今回……いや今までの積み重ねと今回の件は、薫の心を固く閉ざしてしまっている。
「というか、進が来たし、黛はそろそろ休んだ方がいいんじゃない? 昨日からずっと起きてるでしょ?」
そう弥生は、黛に言った。
「いや……まだ大丈夫だ。さすがに今日は早めに寝るけど、まだ大丈夫」
黛は淡々と言った。いつもよりは元気がなさそうだが、限界……ということではなさそうだ。
「とりあえず、また薫のところに行こうよ。行動しないと始まらないからさ」
「そうだな」
そう若葉が言うと、黛と若葉は立ち上がった。
「俺も行くとして……弥生はどうする? まだ拒否られてるのか?」
俺は弥生に尋ねた。
「……ええ。まだ顔も合わせてくれないわ。薫を刺激するわけにもいかないし、またここに居させてもらうわ。でも、少しでもコミュニケーションを取りたいから、みんなが行っている間、手紙でも書くことにするわ。携帯はどうやら見ていない……というか電源が切れていそうだし」
「そうか……」
弥生は、心底悲しそうな顔で言った。
……弥生としても、薫と会えないことは、かなり負担なんだろう。薫と会っていないという、普段と違う状況や、大切な人に、顔も合わせてもらえないというのは、やはりつらいはずだ。
「任せてよいちゃん。私達で何とかするからさ」
「うん。頼りにしてる。ありがとう」
若葉は、弥生に胸を張って明るく言う。こんな状況でも明るいのは若葉だけだ。
ほんと、最初は目を合わせて話すこともままならなかったのに、どんどん強くなっていく。
感心するよ。
「よし、じゃあ行くぞ」
「ああ」
「うん」
黛が言うと、俺と若葉はそれに従い、三人で薫の部屋に向かった。
普段は何人かお手伝いさんが歩いていて、移動するときに一人ぐらいすれ違うのだが、さすがに今はいないようで、すれ違うことはなかった。
「ノックは……誰がする?」
「私がする……進がしたい?」
「いや、若葉がしてくれ」
「わかった」
黛が、俺たちにノックをする人を尋ねてきたが、結局ノックをするのは若葉だった。
若葉の手の甲が、ドアと軽くぶつかり合い、鈍い音を立てる。
「……」
返事はなかった。それを確認した若葉は、ゆっくりとして口調で部屋に居るはずの薫に、扉越しで話しかける。
「薫、大丈夫? 調子はどう? 今日もお話ししに来たよ」
「……」
それでも薫からの返事はなかった。
どうしよう。開けていいものなのか?
「どうする?」
俺は二人に尋ねる。
「どうしよう……」
若葉は、俺からのパスを黛に投げる。
「……少しだけぼくが開ける。起きていたらバレるだろうが、それはそれで問題ないだろう。薫と会話をしに来たのが目的だからな。寝ていた時はまあ、そっとしておいて、また出直そう」
「……黛」
「なんだ」
若葉は、黛に向けていた視線を、扉に向けてから黛に尋ねた。
俺たちの話している声は、徐々に小さくなっていった。
「……いなかった時は?」
「……弥生に気が付かれないように探す。これ以上、弥生の心労を増やすわけにはいかない」
「わかった」
「進もいいな。いなかった時は弥生に気が付かれないように」
「了解」
俺が返事をしたことを確認した黛は、音を立てないようにそーっと扉を開ける。
黛は部屋の中を、少しの隙間から確認したようで、徐々に扉を開け切った。
「……」
俺たちにも、黛が見た部屋の状況が見えてくる。
「素直に寝ててくれたらよかったんだけどな……」
黛は片手で頭を押さえた。
「……おいおい」
「……」
部屋に薫の姿はなかった。
なぜかベッドは綺麗に整えられており、まるでチェックインしたばかりのホテルの一室のように、整然としていた。
「いいか、ぼくが言った通りにするんだぞ」
「ああ」
「うん」
そう言うと、俺は少しだけ速足で、今来た廊下の方へ向かい、薫を探しに行く。
若葉と黛も、それぞれの方向へ、薫を探しに行ったようだった。
……なぜ薫がいなくなったのか、明確な理由はわからない。
でも、もしかすると、もしかするかもしれないと、最悪な予想が頭を過る。
急いで見つけないと、本当にまずいかもしれない。
本当にまずい、早く見つけないと、と思っているのはいいものの、そういう時に限って見つけたいものは見つからないものだ。案の定、薫は見つからなかった。
俺は、外に出て探している最中に黛と、屋上を探しに行ったときに若葉と合流し、今は一緒に一階の玄関前にいる。相変わらず、かなり大きな玄関で、少しくらくらする。
「もう探せるところは、ほとんど探したよな」
「ああ、若葉もそうだよな」
「うん。黛と逆の方向に行ったはずだから……探せるところは全部……あ、ねえ地下は探した? 黛が結構前に掃除した時に、いろいろ面白い絵とか彫刻あったって言ってたよね?」
若葉が、そう黛に言う。
「……すぅ……」
黛は息を吸いながら目を瞑る。多分考え事をしているのだろう。
地下室なんてあったんだな。確かに、ここまで家が大きいと作ってそうなものだが……。
「……すまん。失念してた。探してない……」
そう言うと、黛の顔が青ざめる。そして頭をまた片手で抱えた。
「おい。もしそうなら早く行かねえと」
「そう……だな」
「行こう!」
俺たちは少し駆け足で玄関から、黛の誘導で地下室へ向かった。
「ああ……絶対にいる……なんで忘れてたんだクソ!」
先導する黛はそう言った。地下室へ向かう扉が二つほどあったが、どちらも開いており、しかも少し積もったほこりの跡を見ると、それは最近開けられていたものということが分かった。珍しく黛は自分へ怒りを露わにする。
恐らく地下倉庫と思われる部屋への扉の前に着いた。しかし、扉は半開きになっていた。
「……っ」
地下倉庫の前で、急に黛は静止した。
半開きになった扉の前を塞ぐように、黛は静止した。そのままゆっくりと、黛は右手を横に広げ、扉を塞ぐようにする。
少しした後、とても小さい声で黛は言った。
「若葉」
「うん?」
黛につられ、若葉はとても小さい声で返事をする。
「今すぐ引き返してくれ。お願いだ」
「え……?」
「頼む。本当に頼む。お願いだ考えている暇はない、時間がないんだ」
黛は地下倉庫に向いた視線を外さず、かなり早口で若葉に頼んだ。背中からでも伝わってくる。黛は本当に、心から若葉に頼んでいるということが。
「わかった。何かあったら呼んでね」
そう言うと若葉は、足早に戻っていった。
「すまん。進。説明している暇はない。入ったら、やることはわかる。準備はいいか?」
「ああ」
そう言うと、黛は素早く地下倉庫へ入っていった。
俺も後に続く。すると、目の前に入ってきた状況を見た俺は、すぐさまやるべきことはわかった。
「薫!」
黛は叫んだ。
「薫! 今すぐそのナイフを握るのをやめるんだ!」
俺も叫んだ。
薫は地下倉庫にいた。
地下倉庫にあったものだろうか、わからないがどこからか持ってきたナイフを首に突き立てようとしている。手首には新しい傷があり、ナイフで何回か傷つけた痕から、赤く血を垂らしていた。見た目もかなり乱れていた。髪もくしゃくしゃだった。
薫からの返事はなく、ナイフを突き立てようとしている状態から動く気配はない。
黛は薫に慎重に近づき、しゃがみ、薫の腕を掴み、ナイフを離すように促す。しかし、黛の力のだけでは、ナイフを離すに至らなかった。
俺も薫に近づき、薫の手を掴み、何とかナイフを首元から離そうとする。少しだけ首とナイフの距離は離れたが、薫がナイフを離すことはなかった。
薫を見た時、少しだけ咲が自傷している様子が頭を過った。しかし、それが俺の行動を妨げることはなかった。もう、咲は帰って来たんだ。恐れることは、何もない。
「薫! やめろ! こんなことをしても、誰も喜ばない!」
「……! そんなことはない! これから先、僕が死んだら喜ぶ人がいっぱいいるんだ!」
薫は俺の声に気が付いたようで、暴れようとしながら、俺たちに大きな声で言った。
「もういいんだ! 嫌なんだ生きるのが! それに……それに……」
薫の腕の力は抜けることはなく、俺と黛でやっと抑えられるくらいの力だった。
「こうしているとみんなに優しくしてもらえるだろ? 死のうとしたり、女の子っぽく振る舞っていれば、みんな優しくしてくれるんだ! 今だってそうだろ? でも優しくしてもらうほど、僕が生きていること自体が、人に迷惑をかけると実感する」
薫は、俺の顔をしっかりと目を見開きながら、見つめてくる。吸い込まれそうなくらい、黒い目をしている。
「僕は余所者だ。なんで自分が生きているのか、自分だけが生き残ったのか。それがわからないんだ。黛なら、わかってくれるよな?」
「……っ」
薫は、急に黛に視線をやった。黛は少しその勢いにひるんだようで、少しだけナイフを持っている俺の手が、薫の力で引っ張られた。
「まあいいんだ。みんなみたいないい人には、わからないだろうけど、自分が生きていることが迷惑をかける。余所者だという意識が、どれだけ辛いか! みんなにわかるはずがない! 周りを傷つけてしまうぐらいなら、最初から一人でいればよかったんだ! ……もし、もし僕の顔がもっと醜かったら、誰からも見向きされないで、楽に生きることが出来ただろうに。この顔が! この目が! この髪が! この白い細い腕が! すべての元凶だろう! 母に抱かれることも、必要以上に人が寄ってくることも、兄が僕のために死ぬことも、君たちが僕のためにここまで必死になることもなかったはずだ! なぜ僕は、人を引き付けてしまうほどに綺麗なんだ! 僕は周りを傷つけたくないでいたいのに! 何故綺麗なんだ!」
薫はぶんぶんと顔を振り、泣きながら、小鳥居家全体に響くくらい、心から叫んでいるように見えた。
「顔の皮を剥ぎたい。腕を切り落としたい。目を繰り抜いてしまいたい。髪も抜け落ちてしまえばいい。なぜ見た目だけは綺麗なんだ? そのほか以外は醜いのに。なぜ見た目も醜くならなかった? こんなどうしようもない日々を送る僕を、誰が受け止めてくれるんだ! 受け止めてもらえたとしても、僕が耐えられないんだ。受け止めてもらうと、受け止めてくれた人が、ひどく傷ついてしまう! 僕が持っている罪は、重すぎるんだよ!」
薫はそこまで言い切ると、はあはあと、呼吸を乱していた。
「……薫がここで死ぬと、不幸になってしまう人が、いっぱいいるんだ」
黛は、聞いたことがないほど、弱々しい声で言った。
「その不幸の大きさより、僕が生きている方が、君たちに与える不幸は大きいに決まっている」
それに対して、薫はとても強い口調で言い返す。
「そんなことはない……」
黛は、悲しそうな顔をしながら言う。
「現に、今がそうじゃないか。これが続くのなら、僕は死んだ方がいいだろ。僕の事なんか忘れてしまった方がいいだろ。これは立派な自己犠牲なんだ黛。僕が死ねば、助かる人がたくさんいるんだ。黛に僕を止める権利はあるの?」
黛は薫が言い切った後、少しずつ薫を抑えていた腕から力が抜けはじめ、尻餅をつき、後ずさりをした。ハッとしたような表情のまま、黛は遠ざかっていく。一気に俺への負担が増え、薫に引っ張られる。
……黛は……どうしたんだ。
もしかして、薫に言われたことが、黛に突き刺さってしまったのか? わからない。こんなに弱いところを見せている黛は初めてだ。
……今は、俺が頑張るしかない。
「お前が生きていれば助かる人だってもっといるはずだ。お前は生き続けて、幸せになってもいいんだ! 周りを傷つけたっていい!」
「周りを傷つけていいはずがない! そんなこといいはずがないだろう!」
「……」
俺は考える。
こいつに、周りを傷つけてもいいってことを。俺なら傷ついていいってことを教えたい。
そうだ。無償。無償で助けてくれる人が、いることを証明すればいい。
簡単じゃないか。そんなこと。
ちょっと勇気を出せばいいだけだ。
なに、少し痛いだけだ。死にはしない。頑張れ俺。
「じゃあ、これでどうだ?」
「……な、何をしてるんだ!」
俺はナイフの刃先を掴む。右手から血が流れる。
痛みは特になかった。
むしろ、もっと、もっと力を込めて握れてしまうほど、余裕があった。
「俺は! 別にお前が助かるんなら、別に傷ついたっていい!」
「な、僕が幸せになって、進が不幸になってもいいのか! その傷だって、僕のせいで……」
「別にいい! こうやって誰かを幸せにする。俺が傷ついてでも幸せにする。それが俺の幸せなんだ!」
ふと黛の方向を見ると、まだハッとした表情で、俺たちを見ているようだった。
何か、こう、ありえないものというか、理解できないものを見ているようにも見えた。
薫は、俺が話した後、少し俺を見つめたあと、俺を見つめながら、ナイフにかけていた力を抜いた。
からんと音が鳴り、血が付いたナイフが落ちる。床を見ると、俺の血が流れていた。
少しだけ、ふわふわしたような、そんな気分になった。
多分、体の酸素がなくなっているんだろう。
「……ありがとう。進。少しだけ、わかった気がする。今の僕が、周りを傷つけてでも生きていい理由が」
「そうか?」
「ああ。それに、やっぱり進は兄さんに似ているよ。叱ってくれるところは違うけど」
「叱ってる……つもりはないんだけどな。まあ似たようなもんか」
「でも、進だけじゃ、まだわからない。一番大事な人の意見を聞かないと、僕はまだ生きていていいという実感が湧かない。ほんとにこんな過去を持っていて、僕はこんななのに、生きていていいか、まだわからない」
そう言う薫は、少しだけいつもの薫に、ほんの少しだけ戻ったように見えた。
「生きていていいんだよ。薫」
黛が後ずさりした、地下倉庫の扉側から、とても穏やかな声がした。
「過去なんて、昔なんて関係ない。少なくとも私が見てるのは、今の薫だよ」
黛の後ろには、若葉が微笑みながら立っていた。
「だから、またいつも通りになっていいと思うな。私はまた遊びたいし。いいんだよ生きていて」
若葉は言いながら、ゆっくりと黛に歩み寄り、尻餅をついた黛を支える。
その後、黛の様子を確認した後、薫に歩み寄り、薫の肩を手でポンポンと優しく叩いた。
「……ありがとう。でも……ごめん。一番大事な人の意見を聞きたいんだ。お嬢様が、傷ついてもいいって言うなら、僕は生きてもいいと思うかもしれない」
「そっか……じゃあ……落ち着いたら、聞きに行こうね」
「ああ……今は……無理だけど……」
若葉と薫は、まるでお姉ちゃんと弟のように、穏やかに話している。
とりあえずは何とかなったかな……。
「ありえない。どうかしている」
そう黛の声で聞こえた。
次の瞬間、地下倉庫の扉の方から物音がした。ドサッという音だった。
音がした方向を向くと、黛が倒れていた。
「黛!」
誰よりも、一番早く駆け寄ったのは若葉だった。
黛の背中に手をまわし、少し起き上がらせて、若葉が何度も声をかける。
「黛! 黛!」
若葉は、とても必死そうな表情で、黛の名前を呼んでいた。
俺も様子を見に行きたいが、薫から目を離すわけにはいかない……少しだけ落ち着いたけれど、黛が倒れたのを見て、また暴れだすかもしれない。
「……なんてことだ……」
少し、また扉の方から走ってくる音がしたと俺が思うと、ほぼ同時に、徹さんが入ってきた。
全体を見渡してから、黛のもとへ寄る。
「……多分大丈夫だ。少し気を失っているだけだろう。熱もあるし、無理をしすぎただけだ」
「そうなんですか?」
若葉は、徹さんに尋ねる。
「ああ。まあ、ここで何が起こったか、大体わかるが、黛はこう、他人のケガとか、痛そうなところを見たりとか、血が苦手でな。それに元から体がそんなに強くないから、寝る環境とか、生活する環境が合わないと、喘息が出ることがあるんだ。だからまあ、薬を飲んで、寝かしておけば、多分大丈夫だ」
「よかった……」
若葉は泣きそうな表情で、震えた声で言った。
「ちょっと、支えておいてもらえるかな」
「あ、はい」
徹さんは、若葉に黛を任せると、俺たちの方に寄ってきた。
「……薫くん。大丈夫かい?」
「……はい……」
「よし、じゃあ進くん。手を見せなさい」
「あ、はい」
俺は握っていた手を開く。すると、傷口がさらに開き、血がさらに垂れ、激痛が走る。
「……いっ」
「ああ……開かなくていい! 楽にしていなさい」
「は、はい……」
「……よく頑張ったね……としか言えない。すまないな、もっと早く気が付いていれば」
「いえ……徹さんには伝えておくべきでした……」
……というかよく、いまの今まで痛みを忘れられていたよな。今、めっちゃ痛いし。
「……武が病院にいるはずだから、今呼ぶよ。多分救急車より、あいつに直接治療してもらった方が早い。多分縫うことになりそうだけど、大丈夫かい?」
「はい。大丈夫です」
「……よく落ち着いているな。体調は平気か?」
「はい」
「なら良し。ちょっと失礼」
徹さんは携帯を取り出し、電話をかける。
「……私だ。どこにいる? 病院か……わかった。それならすぐに帰ってきてくれ。進くんを治療してもらいたい。かなり深い切り傷だ。内容は後で話す。とにかく早くだ。よろしく」
徹さんは電話を切った。
「とりあえず、応急処置をするために救急箱を持ってくる」
「はい……えっと薫はどうすれば」
俺は、徹さんに尋ねた。
薫はすごい申し訳なさそうな、そして心配そうな顔をしていた。
「進くんは、一旦ここで待機だ。私は、薫くんと黛を部屋に連れていく」
「わかりました。すみません。手伝えなくて」
「謝らないでくれ。そんな傷で謝られてもこっちが困る」
「……はは……痛っって!」
「こらこら、じっとしてなさい。さ、薫くん立てるかい?」
「……はい……」
徹さんは薫に手を差し伸べた。それを薫は素直に受け取って、立ち上がる。
「あの、私、黛を運びたいんですけど……」
「……運べるのかい?」
「はい、抱きかかえるくらいなら余裕です」
そう言うと若葉は、ゆっくりと黛を抱きかかえ、膝と首を、下から支えて持つ形で持ち上げた。いわゆる、お姫様抱っこだ。
この前、俺を投げ飛ばしてたし、体の小さい黛ぐらいなら、若葉は余裕で抱えられるだろう。
「……頼りになるね。二階……いや、一階の私の部屋でいい。外から玄関に入った状態を正面として、右端の部屋が私の部屋だ。私の名前が書いてあるはずだから、そこに寝かしておいてほしい。わかるかな」
「右端……はい、多分平気です」
「よし、じゃあお願いするよ。若葉くんもそこで待機だ。いいね」
「はい。じゃあ、行ってきます」
そう言うと、若葉は黛を抱えて一階へ向かっていった。
「じゃあ、少しの辛抱だ。進くん、頑張れ」
「はい」
そう言うと徹さんは、薫の肩を抱えて、一階へ向かっていった。
少しすると徹さんは大急ぎで戻ってきて、まずはペットボトルに入った水で傷口を洗い流した。めっちゃ痛かった。そして、救急箱から消毒液やらガーゼを出して、傷口を抑えてくれた。そして、心臓より高い位置で維持するように言ってきた。
その後、徹さんに見守られていると武さんがやってきて、すぐに一回に向かい、俺と玄関から外に出て、車に乗り込んだ。家から車まで移動しながら、徹さんは武さんに事の経緯を説明していた。
「本当にすまない。私も家に居られればいいんだが……」
「いいんです。仕事なんでしょう?」
「ああ。子供がこんな事態になっているんだから、休むべきなんだが……どうしても休めなくて……」
武さんは申し訳なさそうな顔をしている……わけではなかった。
まあ、この人の事だ。多分感情がうまく表に出ていないだけだろう。
「それより、傷は平気か?」
「はい。意外と平気です」
「そうか、なら良かった」
相変わらず、武さんの表情は変わらない。
俺はというと、改めて薫を引き取った理由について聞きたいと思っていた。
弥生からの話は聞いているが、本人がどう思っているかを俺は知りたかった。
「あと、どれくらいで着きますか?」
「ん? あと二十分ぐらいだ」
「なら、少し聞きたいことがあるんですけど、いいですかね」
「ああ、いいぞ」
「えっと、なぜ薫を引き取ったかについて聞きたくて……」
「……そうか。そうだな……結論から言うと、頭のいい子を探していたんだ」
「頭のいい子?」
俺は武さんに目線をやる。
「弥生の……学校の成績に関しては、知っているかい?」
「……まあ大体は」
「そうか。まあ、中くらいだと私は認識している。良くも悪くもない、そう言った感じだ」
「そうですね。俺もそんな感じで認識してます」
「なら……医学部に入るとしたら、厳しいということはわかるかな?」
「そう……ですね。俺も同じくらいだし、わかります」
高梨高校は、学力トップの高校よりかは、少し下くらいの学力の高校だ。だからそこの中くらいの成績となると、医学部や偏差値の高い大学も厳しい……というイメージだ。
「……弥生はな、私を見て、医学部に行きたいと小さいころから言ってくれているんだ」
「へえ……」
「だけどまあ、最近は……どうなのかということはわからない。弥生が小さいころ、そう思ってしまったのも、私がなんとなく、そういう願望を押し付けてしまったからなのかもしれない。それでだ、私は、弥生が小学校高学年辺りになった時に、まあ気が付いてしまったのだ。弥生は私と同じで、勉強ができないということに」
「私と同じって……武さんも勉強が出来なかったんですか?」
「ああ。ちょうど私と、黛の父と蜜柑ちゃんの父は、高梨高校と同じくらいの偏差値だったんだが……蜜柑の父は校内トップ、黛の父はその少し一歩手前、私は平均的な成績だった。ただ私は……自分で言うのは少しあれかもしれないが、相当な努力をして、それくらいだった」
……というか、黛の父は話でしか聞いたことないが、蜜柑のお父さん……あれでめっちゃ勉強できたんだな……。
「弥生がよく勉強しているのは知っていた。しかし……成績が下がるたびに習い事をやめて、その時間を勉強に当てはじめても、そこまで成績が伸びることはなくて……それを見て、私に似て、弥生は勉強はできないんだと気が付いたんだ」
徹さんは信号待ちをしている間、外を見ていた。
「でだ。薫を引き取った理由に繋がる。そんな勉強ができない私は、二浪して医学部に入っている。そんな苦労を、弥生にはしてほしくない。心から、本当に医学以外の事をする気がないのであれば、別にいい。だが、弥生には別の才能もある。やりたいことも……多分あるような気がする。だから、弥生の代わりに……」
「医学部に入ってもらえそうな頭のいい子を引き取った。それが薫だったと」
「ああ。まあ、今となっては、薫にも自由にやってもらいたいと思っている。幼いころに、何も自由がなかったんだ。これからは自由にやらせたいんだ」
車はまた走り出した。武さんは、少し慣れない手つきで車を走らせる。
「薫の過去については知っていたんですか?」
「知ってたさ。でも、私は……当時……天狗になってたんだ」
「それはどうして?」
「簡単な話だ。黛が中村家に引き取られて、秀一が一人で、それも平気な顔で、黛と蜜柑、林檎を育てているのを見て、自分もできる、私だって負けない、そう思ってしまった。なんとも幼稚な理由だろう。でも思ってしまったんだ」
「……」
確かに、その状況なら、自分にでもできるという理由で、薫を引き取ってもおかしくない。しかも、両親を失ったという点においては、黛と薫は共通している。
「別に育てるのが無理というわけではなかった。でも、薫を幸せに……できた自信はない。実際幸せなら、こんなことは起こっていないからな。自分が不器用だってことを、もっと早く思い出せていれば……薫はもっといいところに引き取られていたんじゃないかって……そんなことすら思う」
「そんなことはないです。少なくとも、弥生や、俺たちと一緒に居る時の薫は、幸せそう……でした。多分ですけど……」
「そうなのか?」
「そうじゃないと……みんなの前に出て、出し物とかしなかったと思いますよ」
「……それもそうだ」
薫は、絶対に楽しんでいたと思う。俺たちやクラスメイトになんとなく揉まれて……どんどん人らしくなっていっていたように、俺は思う。
「まとめると、弥生に負担をかけないように、頭のいい子を引き取りたかった、そして秀一、蜜柑の父への対抗心。この二つが主な理由だ……しかし……」
また信号に引っ掛かる。車が止まる。
「今思うと、軽率な判断だったよ。もう私一人の手には負えなくなっている。しかし、弥生は薫のために動いてくれる友達を連れてきてくれた。君だって自分の身を削って動いてくれている」
武さんは俺の手を見た。
「父として本当に情けないが、助かる……どころの話じゃない。感謝してもしきれない」
「いいんです。俺は好きでやってますから」
俺は、武さんの目をしっかりと見て話す。
「そうか」
武さんは、少し、複雑そうな表情で、俺を見ていた。なんというか、感謝を伝えたい気持ちと、心配をしているときの、その二つの中間のような表情のように感じた。
「親ガチャというものがあるだろ? 薫を引き取っておいて、親に、私に、何も変えてもらえなくて、過去の事を背負い続けても、私に文句を言ったことはない。本当にできた子だ。だからこそ、自分が情けない……情けなくて許せない……」
「情けないとか言わないでください」
俺は元気づけるつもりで、少し大きい声で言った。
「俺らはもうすぐ高校三年生になるんですよ? 友達の事は、俺たちで解決して見せますよ。それで、薫が元気になったら、なんか話やら、旨い飯やら食わせてやってください」
「……そうか。そうか……」
武さんはハッとした表情で俺を見た。
「ありがとう。そのためにも、私にもできることをする。君の手当てをすることだ」
そう言うと、武さんの車はまた走り出した。
「そうですね。それが出来るのは武さんだけです……あ、あとせっかくなので手短でもいいので、もう一つ聞いてもいいですか?」
「ああ」
「なんで黛が嫌いなのかを、黛本人がいない前で聞いていないなって。本人がいないから、言えないこともあったと思って」
これは今思いついたことだ。黛の話題が少し出てきて、ふと浮かんできた。
「そうだな。一言で言うなら、大人に気を遣う子供だから嫌いだ」
「え? そんな、別に気を使ってもいいんじゃ……」
「高校生を大人とするならまあ、君の疑問も不思議じゃない。でもあいつは、小学生の頃から、両親にわがままの一つも言ったことがないと聞いた。実際、習い事も恐らく一つもしたことがないはずだ。ただ、あいつは器用だから、いろいろできるけどな」
「黛、そんな奴だったんですね」
「ああ。親はもちろん、他人の大人にも気を遣うんだ。だがな、余談かもしれないが、それを助けても、自分にメリットがないと思うと、あっさり見捨ててしまう時があるということを、本人から聞いたことがある」
「……」
「それが自分でも許せないような、人間なんてそんなもんだから、諦めてしまいたいような、そんな気がするとも言っていた。そんな複雑に難しく考えなくても、生きていけるのにと私は思う」
「そうですね。俺もわかんないですよ。そんなこと。考えたこともないです」
「話が逸れたな。まあ、そんな無駄に慧眼で、無駄に気を使える子供だから嫌いなんだ。もっと素直でいろ、これだから思春期は、考えすぎなんだ、と私は言いたい」
武さんは、はあ、とため息をついた。
「大体、今回の薫のことだって、身体が弱いくせに無理しすぎなんだ。黛は」
「そうですね。無理するのは、俺だけで十分です」
俺がそう言うと、武さんは少しだけ俺を見た。
表情は読み取れなかった。
「……そろそろ病院だ。降りる準備をしておいてくれ」
「ああ、はい」
そう武さんが言うと、近くに病院が見えた。
病院に入ると、すぐに武さんの部屋に通された。年末ということもあり、人は少なかった。
武さんの部屋に入ると、患者が座るであろう席に座らされて、応急措置をしてもらった手を武さんに見せた。
武さんはまじまじとその手を見て、少し経った後に小さい声で話し出した。
「……君は……なんなんだね」
「はい?」
武さんは、俺の右手の傷口から目を離さずに言った。
「この傷の様子だと、君は一度食い込んだ刃物を、あろうことか、もう一度強く握りしめた……と思うのだが」
「……そういえば……そうしたような……」
「はあ……よく平然としてられるな」
「だって、薫をどうしても助けたかったから……それに薫を助ければ、弥生だってきっと元気になる。それに未来とも仲直りしてもらいたいんだ。それにこうすれば……薫のためになら傷ついてもいい、それでも一緒に居たいって思ってくれるかなって、ただそれだけです」
本当に、ただそれだけなんだ。
それ以外の理由なんてない。
俺はこれしかできない。
「……いいから治療だ。動くなよ。縫わなくて済みそうだから、傷口が接着するようにする」
そう言うと武さんは、一旦部屋から出ていった。
武さんはすぐに戻ってきて、俺の手に治療を施した。ほとんどもう痛みはない。動かせるかと言われたら、動かせないけどな。多分動かさない方がいいだろうし。
「よし……はあ……動かさないように……そして、無理はしないようにな。言っても無駄かもしれないが」
「……はい。ありがとうございました」
俺は、武さんに頭を下げる。
「……弥生が言っていたんだが、進くんは意外とやばい奴だって言っていたのが、なんとなくわかってきたよ」
「え? そんなこと言ってたんですか?」
「ああ」
……弥生に何か、やばいことしたっけ?
「最初は、黛と似た、ある程度のお人よしだと思ってたよ。君の事はね。でも、今日の出来事で気が付いたよ。君は意外とやばい奴だ」
「どのあたりがですか?」
「人を助けるのに、見返りを求めず、自らの犠牲も気にしないところかな」
「……別に、俺だけじゃないですよ。そういう人は」
そうだ。きっと俺だけじゃないはずなんだ。
「そうかもしれない。しかし、黛と似ていると言ったが、黛は自分に見返りが見込めないときや、自分に不利益になりそうなときは、行動しない。こっちの方が正常だと思わないか?」
「……俺は、俺自身も黛も正常だと思います」
「……じゃあ、私の職業で考えよう。私は医者だ。治療をしてお金をもらう。それが医者というものだ。今回は、進くんが薫のために傷ついてくれたから、治療費なんて取らないけどな。どうだ? 進くんしていることは、医者で例えると、治療して、お金ももらわない……ってことになる。そう思うと、なんだかおかしい気はしてこないか?」
「……してきません。俺は、別に見返りなんて必要ないです。助けるという行動をすること自体が、見返りみたいなものです」
「……そうか」
咲を助けられなかったときから、俺にはずっと罪悪感というものが残っていた。
その罪悪感を何とかするには、見返りを求めずに、人助けをして、隠す、一時的に忘れるしかなかったんだ。
「まあ、進くんみたいな存在は必要だ。実際、薫を助けるためには、君が必要だっただろう。しかし、忠告しておく」
武さんは、俺を心配そうな目で見た。
「その見返りを求めない、自分の身の犠牲を厭わないその在り方は、君の周りの人を不幸にすることにも、関係を断つことにも繋がるはずだ。だから、今、その在り方をやめなさいとは言わない。しかし、いつか気が付いてほしい。そんな在り方はできないということに」
「……」
俺は少し不満だった。なんだか説教させているような気がしたからだ。
「私は医者だ。人を医術で救って、お金をもらう。それが普通なんだ。だから……その自分の身体を、命を大切にしなさい。若いうちから、そんなことをする必要はないんだ」
「……はい」
若いうちから、そんなことする必要がない、と言われた時、少しだけ武さんの言っていることに、納得することが出来た気がした。
「……話が逸れたな。気分を害してしまっていたら、すまない。今はとにかく……君の望むこと……薫を助けることに協力してほしい。恐らく、君なら大丈夫だ」
武さんは明るい声で言った。まあ、表情は相変わらずカチコチだけど。
「私は、人を見る目だけはあるからな。きっと大丈夫だ」
……これって、弥生も似たようなことを言っていたような……。
「……今の、人を見る目だけはあるって……弥生にそっくりでしたよ」
「……そうか? なんだか照れるな」
武さんは、少しそっぽを向いた。
「へへ。じゃあ、失礼します」
「ああ、待て。家まで送ろう。薫の事は一旦私たちに任せて、今日は休みなさい。黛みたいになられたら困る」
「……わかりました。じゃあお願いします」
武さんと俺は、そのまま部屋を後にして、また車に乗り込んだ。
車は冷え切っていたが、なんだかその寒さが心地よかった。
黛は倒れた後、武さんが帰ってくるのと入れ替わりで、そのまま黛の自宅……今、蜜柑ちゃんはいないけど、二人の家に徹さんの車で運ばれた。徹さん曰く、「黛にとって一番に良い環境は、自分の部屋だから」という理由らしい。
徹さんはというと、黛を運んだあと「さすがに薫を見ていないといけないから、若葉ちゃんに任してもいいかな?」と言ってきたので、私はすぐさま了承した。
自分の着替えや日用品は、徹さんにいただいた。たぶん、よいちゃんのおさがりだ。さすがに下着はない……から、コンビニで買ってきたけど。
黛は、あれから起きる様子はない。かなりの間寝ていないことと、喘息が出てしまっていることを考えると、半日は起きていなくてもおかしくないから、大丈夫だとは思うけど、心配だ。
ご飯……何作ればいいんだろうなあ……冷蔵庫ぐらい見てもいいよね……。
黛から、一旦目を離して、一階のキッチンの冷蔵庫へ向かう。
「……何もないし……」
黛……ものを無駄にしないように、買いだめとかしない人だからなあ……。
とりあえず、近くの棚を開ける。いくつかカップ麺やお米、調味料があった。
カップ麺じゃ健康に悪いよね……でも、意外とこういう体調の悪い時に食べるカップ麵、美味しいけど……。
……また……コンビニ行こうかな。ゼリーとか、色々買おう。
私は、コンビニでゼリーやスポーツ飲料とか、水とかを買った。あと……これは私の経験なんだけど、湿布も。私も身体が強い方じゃなかったから、わかるんだけど、咳がひどすぎると、腰が辛いんだよね。ほんとに。
帰ってきて、買ってきたものを冷蔵庫にしまい、すぐ使いそうなものを持って、黛の部屋に向かう。
「あ……」
「……おはよう若葉」
黛は起きていた。結構つらそうな表情をしている。
暗い部屋の中でも、ベッドの横のミニテーブルの明かりがついているから、表情はわかる。部屋に何があるか、なんとなくわかるくらいには、明るい。
「はいはい、寝てて」
「……運ばれたのか? ぼく」
黛は、私が布団をかけ直している間に、聞いて来た。
「うん。徹さんが運んでくれたよ。苦手なんだってね。血液とか」
「……ああ。グロテスクなものというか、痛そうなものを見るのが駄目だ」
「そっか」
あんまり話しかけない方がいいのかな?
でも、話さないで! っていうのもあれだし……。
「水、あるか?」
「あ、うん」
私は、黛に水を渡す。黛は少し起き上がって、ベッドの上で水を飲む。
「ありがとう」
黛は、ベッドの隣にあるミニテーブルに水を置く。
「……」
「……」
少し沈黙が続いた。
「あ、そう言えば、今日は付きっきりだから。いくら嫌って言ったって、付きっきりだからね。徹さんに頼まれたから」
「……そうか。ごめんな」
「別にいいの。今やれることは、これだから」
そう。進だってよいちゃんだって、黛だって、私だって、やれることをやるだけ。
今の私の、やるべきことはこれなんだ。
「……ぼくじゃ、薫を助けられないのかな」
「……どうだろうね」
黛は、天井を見ながら言う。
「また、進にだけ、先に行かせて、ぼくは立ち止まっている。こんなんじゃだめだよな」
「……いや?」
そんなことはないよ。多分ね。
「え?」
「私は立ち止まった人に、頑張れなんて言えないよ」
「どうして?」
「だって、何かしら立ち止まっている理由があるでしょ? 今は、黛は無理しすぎて立ち止まってる。なら、そこまで頑張ったことを、私は褒めてあげたいな。もっと、頑張れって言うんじゃなくてね」
「……」
黛は天井を見て、見つめて、口を開かない。部屋は少しだけひんやりとしている。
「何なら、やめてもいいんじゃない? って思うんだ。黛なんてすごいじゃん。大事な人を、両親を失っても、こうやって薫を助けたいって思うんでしょ?」
「……」
黛は相変わらず、口を開かない。
「私なら、もし黛が無理しているんなら、もういいんだよ、やめていいんだよって言いたくなっちゃうな」
「……」
黛は口をさらに噤んだ。何かを我慢しているようにも見える。
「……そうか。それなら……今はこのまま、寝たいな」
「……そっか」
私は、口をさらに噤んだ理由がなんとなく分かった。
多分、泣くことを我慢しているんだ。
声、聞いたらわかるよ。わかっちゃうよ。
……泣いていいよなんて、言わないけどね。気に障るかもしれないから。
「じゃあ、おやすみ黛。私はここにいるから。たまには、黛のために、頑張らせてよ」
「……わかった。じゃあ、おやすみ、暇だったら、部屋にある本、読んでもいいから」
そう言うと、黛は目を閉じた。
私は、黛が寝ている姿を見ながら、黛の部屋にある本を手に取り、しっかり読むのではなく、さらさらと読んでいった。
三時間後、黛は目覚めた。急に喘息がひどくなった。起きた黛に言われた通り、部屋の机の棚を開けると、薬が入っていたのでそれを渡す。
結構つらそうにしていたので、つい背中を抑えて、肩を持ち、身体を支えてしまう。
「……よしよし」
「……ゴホッゴホッ……」
少しすると、喘息は収まった。
「……若葉、下の階のリビングの棚の中段に、湿布があるはずなんだけど……それを……」
「ん」
そう言うと思ってました。私だって、昔は身体が弱かったんです。そう思いながら誇らしげに、黛に湿布を差し出す。
「……やるな」
「へへ。張ってあげる……あ……」
張るってことは……黛の背中に触れるってことだよね?
「……張ってくれると助かるな」
「……うん」
黛はとても穏やかな顔でお願いしてきた。平常心で何とかやれそうだ。
湿布を黛の腰と背中の境目辺りで張る。背中の服を少し捲り、丁寧に張る。
「……ありがとう」
「いえいえ」
「……ぼく、臭くないか?」
「え? 全然。臭くないよ?」
黛は心配そうな顔で言う。
「そうか……風呂に入ってないから心配だ……」
「ああもう。平気だって」
「と、とりあえず、トイレには行かせてくれ」
「あ、うん。補助はいる?」
「いや、いらない」
「おっけ」
そう言うと、黛は部屋の外にゆっくりと出ていった。
……別に臭わないけどなあ……。
帰ってくると、すぐに布団に黛は入った。
「……まだ眠たいな。こんなに眠たいのは久々だ」
「そっか。じゃあまたおやすみ」
「若葉も無理はしないように」
「うん」
そう言うと、黛は目を閉じた。
少しすると、黛は話しだした。目は閉じていた。
「独り言を言ってもいいか?」
「うん、いいよ」
黛は私がいる方向ではない方に、寝返りをしてから、話し出した。
「もう大切な人を失いたくないから、大切な人なんて作りたくない。でも寂しいんだ。一人ぼっちは嫌なんだ。これはとんでもないわがままだ。だからぼくにとって、大切な友達の薫に死んでほしくない。弥生や未来が、落ち込んだままは嫌だ。進が自分を傷つけてでも、人を助けているというのをやめさせたい。進以外はいい。ぼくが助けようとすれば、嫌われることはないはずだから。でも進は違う。進を助けるために、ぼくは、あいつがやってることを、否定しようとしているんだ。進に傷ついてほしくないから。でも、そんなことをしたら、進に嫌われてしまう。でも、大切な人が一人でもいなくなるのは、嫌なんだ。進がこのまま、自分を犠牲にし続けるのも、それを否定して、進がぼくを嫌うのも、嫌なんだ。これはぼくのエゴだ。わがままだ。どうすればいいと思う? 誰かぼくのためだけに、生きてくれる人に頼ればいい? それは嫌だ。こんなわがままな、自分勝手なぼくのために、そんな素晴らしい人を頼るなんてしたくないんだ」
そこまで、ゆっくり話すと、黛は静かになった。
……そっか。なら私は、こういう独り言を言いたい。
「じゃあ、私も独り言。それなら、私は、黛の素晴らしい人になりたい。頼るなんてしたくないだなんて、思わないでいいよ。ずっと一緒に居て、何でもしてあげたい。これは私のエゴ。わがまま」
私は、黛の寝ている背中に独り言を言った。
えへへ。どんな顔しているか見てみたいけど。それはやめとく。
黛が独り言を言い終えてから、大体一時間。黛は寝返りを繰り返し、私の方を向いていた。
穏やかな寝顔が、なんとも愛らしい。
私はまた独り言を言った。もしかすると起きていて、聞いていてほしい気持ちもあるけど、黛が寝ているからこそ、なんとなく、言いたくなった。こんな状況、初めてだからね。
「黛は、お父さんもお母さんも、今はいないから、わからないかもだけど、好きで好きでたまらない人には、何でもしたくなっちゃうの」
黛の乱れた前髪を払い、そのまま頭を少し撫でる。
「見返りとか、自分の事とか、そんなのどうでもいいの。お節介がしたくなっちゃうの。私のお父さんもお母さんもそうなんだ。私がしたいって言ったことは、何でもさせてくれそうな人たち。だからね、黛は、私にいつでも甘えていいんだよ」
そう言いながら、私はまだ頭を撫でている。
「私、思うんだ。薫にも、こういう人が必要なのかなって。私はね、普通の家で幸せに暮らしてきた。親が死んだり、特殊な環境で育ってきたわけじゃない。だからこそ、私の普通の幸せを、みんなに分けてあげたい。そう思うんだ」
そこまで言うと、寝ていた黛が寝たまま、私の腕を掴んできた。
撫でるのをやめてほしいとか、そう言った意図は感じなかった。
まるで、母に甘える赤子のように、黛は腕を優しく引っ張る。
「ふふ……」
そうだよ。甘えちゃダメなんて、そんなわけはないんだよ。黛。
そのまま、私は黛に腕を掴まれたまま、私はいつの間にか、寝てしまったようだった。
—「夾竹桃と毒痛み」—
次の日。俺は黛から、早朝に連絡が来ていたことに気が付いた。
俺は自分の部屋の窓を開けて、空気の入れ替えをする。さみぃ。
その後、洗顔と歯磨きをしてから、黛に電話をかける。右手は使えないので、左手でかけないといけない。かなり不便だ。
「もしもし」
「はいもしもし」
「連絡どうも」
黛の声は、少し元気がなさそうだった。
「なんで連絡して来いって?」
早朝、黛から「起きたら、電話をしてほしい」と、連絡があったのだ。
「ああ、少し話しておきたくてな。ぼく、あと二日は……」
そこまで言うと、少し音声が無くなった。
たぶん、ミュートになったと思う。
「すまん。あと二日は動けそうにないからな。安静にしておかないと」
「そうか……話したいことか。俺もあるけど……そっちからで」
「そうだな。とりあえず、薫を助けることに、ぼくは向いていないということを言いたかった」
「……それはどうして」
と聞きながらも、少し察するところが俺にはあった。
黛はちょっとした人助けには、とても向いている。何かのついでに、ちょっとだけみたいな人助けとかな。
でも、黛は大きな人助けは向いていないんだ。それはどうしてか。
「ぼくは人から嫌われるのが嫌なんだ。だから、少しでも、嫌われる可能性がある行動はできない。人の時間を奪えないし、否定もできない。叱ることも出来ない。それに、ぼくにはできないんだ。自分を犠牲にするのは。そう思った。昨日までの事を経験してな」
そうだ。黛は人から嫌われることを極端に怖がる。だからこそ、黛は、薫が正しいと思っている考えを、否定することはできない。だから、大きな人助けには、今回の薫を助ける、ということに関しては、あまり向いていないんだ。
「あの時、我が身可愛さで、お前みたいにナイフを握ってまで薫を助ける、なんてことは一切考えなかった。ありえないことだって思っていたからな……もしかすると、進の在り方こそが、正解なのかもしれないと思った」
「そうか」
「……ごめんな。任せるような感じになってしまって」
「別にいいさ。好きでやってるんだから」
「……そっか……ぼくの話は終わりだ。次はそっちの番」
「ああ。今の黛の意見でいい。わからなくてもいい。どうすればもっと薫の状況は良くなると思う?」
「……それはまたざっくりだなあ……う~ん」
黛は考え始めた。
黛だからこそ、わかることがあるはずだ。
薫とは別れ方が違いすぎるけど、黛にも両親はいない。それに今も、色々なことを考えている。それはいろいろなものが見えてしまうからだろう。
黛だからこそ、たどり着いている考えのようなものがあるはずだ。
「……逃げ場が欲しいのかもな。いざという時、どんな状況でも、絶対的な味方で居てくれる人、そんな逃げ場。でも、今の薫は、その逃げ先にいる大切な人を傷つけたくないから、死にたいって言ってるんだと思う」
「……そうか」
三島が言っていたことと、ほとんど同じだ。
両親がいないと、やっぱり気が付くこともあるんだろうな。
逃げ場ね。それで、その逃げ場にいる大切な人を傷つけたくないと。
「人間、悪の部分を捨てて、生きていくことなんてできない。生きてれば人に迷惑をかけるなんて当然なんだから、その迷惑を受け入れてくれる人を、探すしかないのかもしれないな」
「……そうだな。俺だって迷惑をかけること、あるしな」
「お前に関しては、迷惑というか心配だな。頼りにはしているけど、無理はしないでくれよ」
「ああ。俺も黛に頼られて、少しうれしいよ。普段頼られないしな」
「……すまん」
「いいから、休んでてくれ。後は任せとけ」
「……ありがとう。それじゃあ」
「じゃあな」
そう言うと、電話は切れた。
……あとは俺と……弥生で頑張るしかないか……。
昨日の件で、落ち込んでないといいけど……。
……今日も弥生の部屋の前まで来た。
一旦は、弥生の様子を見ておきたいというのもある。
徹さんが言うに、薫が昨日起こしたことを、弥生が聞いたとき「そう……ですか……。すみません。私も考えたいことがあるので、一人にしてくれませんか?」と言っていたらしい。
俺は、弥生の部屋の扉をノックする。
「はい」
「橘です」
「……いいわよ、入って」
弥生の声は小さかったが、元気がないというわけではなさそうだった。どちらかというと、少し緊張しているときの、震え交じりの声に近かった。
「よお」
弥生は、椅子に座り、テーブルと鏡の前にいた。
「ごきげんよう」
「どうだ、調子は」
「まあ、良くはないわ」
弥生は少し苦笑いしながら答えた。
「というより、あなたにはお礼をしないといけないわ。ありがとう。薫を受け止めてくれて」
「ああ……いいんだよ別にさ」
弥生は、俺のケガした右手を見ながら言った。
「おかげで、薫はほんの少しだけ、安定してるらしいわ。今は、の話だけどね」
「少しでも元気になってればよかったよ」
弥生は、心配そうに笑っていた。
「……今日も薫のとこに行くの?」
「ああ、止まってても、仕方がないからな」
「……今日、考えてたのよ。私がどうしたいか」
「……ああ」
「……もうね、薫が傷ついているところは、見たくないのよ。だから、決めたの。今日で終わりにするって……」
「終わりにするってなにを?」
弥生が、悪い意味で言っているはずがないということは、わかっていたが、そう思ってしまうぐらいの気迫が、弥生にはあった。なぜ気迫あると感じるのか、わからないぐらいには、弥生は切ない顔をしている。
「薫に拒否されても、会いたくないって言われても、くっつかれたくないって言われても、今日からずっとそばにいるつもりよ。ある程度、薫が良くなるまではね」
「……」
……確かに、そうすれば、弥生にとっても薫が必要だということを、薫にわからせることが出来るかもしれない。
しかし、大きな賭けだ。もしかすると、薫が……大きく壊れて、崩れてしまう可能性もある。本人は、弥生を傷つけたくないと思っているわけだからな。いつかの旅行の時、薫が暴れたことを思うと……少し危険だ。
「薫のすべてを受け入れるつもりよ。私は。それだけ、薫に懸けたいの。昨日の事があってから、もう決心がついたわ。もう私は、薫がいないと生きていたくないの。生きていけないの。だから、無理やりにでもわからせるわ」
「……本当にやるんだな」
「心配してくれているんでしょ?」
「ああ。もちろん」
「……でもこれは私がやらないと、伝えないとダメでしょ? 黛から聞いたわよ。一番大事な人の意見を聞きたいって、薫が言ってたって」
「……そうだな」
確かに薫は言っていた。もしかすると、薫も傷つけるリスクさえなければ、弥生に会いたいと思っているのかもしれない。いや、絶対に弥生には会いたいはずなんだ。
「私はやるわ。だから、その……薫がもし、私じゃどうにもならなそうなら……その時は……お願いしてもいい?」
「もちろん。親友だろ。俺たち」
「……ふふ。そうね」
弥生は、初めて素直な笑顔を見せた。
……いざとなった時、こいつの笑顔を守らないと。
「じゃあ、準備はいい? 薫の部屋に行くわ」
「……おっけ。俺も行く」
俺が言うと、弥生は頷き立ち上がる。
「……さ、助けに行くわよ」
「ああ」
そう言う弥生は、力強く歩みだした。髪はなびき、いつもの強気な弥生が戻ってきたような気がした。
……なんだか、頼りになるな。
薫の部屋の前に着く。
弥生は、呼吸を整え始めた。
「……緊張してるか?」
薫に聞こえないように、静かに弥生に話しかける。
「ええ。久々に会うもの」
「……大丈夫。俺が付いてる」
「……そうね」
弥生はそう言うと、胸に手を当てて、落ち着く。そして扉に手を当てて、ノックした。
「……はい」
「私よ。進もいるわ」
「……」
「入ってこないで、と言っても、今日は違うわ。私はね、あなたに会いたいの。だから、強引にでも、入るわ」
「……嫌って言ってもダメですか」
「ダメ」
「……あなたを傷つけてしまうと言っても」
「別にいいわ。あなたのために傷つくことぐらい」
弥生がそう言った後、薫からの返事はなかった。弥生はその後、俺に小声で言った。
「何かあるまで、扉の前で待ってて」
「わかった」
弥生は、俺からの許可を取ると、そのままドアノブに手をかけて、そのまま薫の部屋を開けた。
「……」
「……」
弥生と薫は、見つめ合う。
薫は、昨日見た腕の傷に、巻かれているガーゼのところを抑えながら、弥生を見ていた。髪はくしゃくしゃで、薫はすぐに、弥生から目を逸らした。薫は相変わらずベッドの上で座っている。女の子座りで座っている。
「ひさしぶりね」
「……」
弥生は、本当に優しい声で薫に声をかける。そしてゆっくり薫に近づく。
「……別に話さなくてもいいわ。でも、私が一方的に話しかけるけど」
そのまま、薫に近づいていく弥生。
「私ね。あなたがいなくて、会えなくて寂しかった。それに、とっても心配だったの。会えてうれしいわ。昨日……どうやら色々あったみたいね。聞いたわ」
「……」
弥生は、歩みを止めない。
「……あなたの気持ちについても、聞いたわ。自分の存在が、人に迷惑をかけるというのがとても辛いって。でもね……」
「それ以上近づかないでください!」
薫はいきなり大きな声で、弥生を制しようとした。
「嫌」
弥生はそのまま、まったく迷っていない、まっすぐな声で、薫に「嫌」と伝えた。
「それ以上近づいてきたら、また僕はお嬢様を傷つけてしまいます!」
「別にいい!」
薫が弥生を制しようとして出した声より、弥生は、右手を胸にあてながら、大きい声で叫んだ。
「いつ! 私が! あなたの存在が迷惑だと言ったの!」
「……っ」
弥生のあまりの気迫に、薫は気圧される。
「……お嬢様だけじゃなくて、他の人にも僕の存在は迷惑を……」
「薫が迷惑をかけたらなら、私だって謝る! 何とかする!」
「だから……それがお嬢様への迷惑に……」
「だから、別にいいって言ってるでしょ!」
弥生は、一気に薫への距離を詰める。
「……だから、近づいてこないでください! 僕はもうお嬢様を、大切な人を傷つけたくない! 失いたくない!」
「だからそれも別にいい! いくらでも迷惑かけていいの!」
「……だから、それが嫌なんです!」
「……ああもう! それでもいいの! 迷惑をかけたとしても、あなたが何もしなくなったとしても、どんな人になったとしても、たとえ廃人になっても、生きていてほしいの!」
生きていてほしい。そう薫は言われると、ハッとした。
「生きているだけでいいの! 迷惑をかけてもいいの! 私なら全部受け止められるから! 薫のためになら、全部受け止められるから! 笑っていてほしいの!」
そう言うと、弥生は薫に抱きついた。
「な、なにしてるんだ! 放せ! 僕はもういいんだ! 死んだ方がいいんだ! 誰か、僕を殺してくれ!」
「あなたを殺そうとする人なんて、私が殺す!」
「……!」
弥生はがむしゃらに薫に抱きつきながら、泣きじゃくった。あんなにも、すべてを投げ捨てているような、周りの目を気にしていない弥生を見るのは初めてだった。
「それが嫌なら生きてよ! それぐらい生きていてほしいの! 私以外の人に迷惑をかけるのが心配なら、それは私に任せればいいじゃない! 私には迷惑をかけていいんだから! それが嫌でも私は大丈夫だから! あなたは私にとっても、大事な人なの!」
弥生は、少し鼻声交じりで、子供が駄々をこねるような感じで叫んだ。
……これが心からの叫び、というものだろう。
俺はそう思った。
……未来が咲だとわかった時の俺も多分、こんな感じだったんだろう。
薫は、弥生に抱きしめられながら、無言で頭を横に振っている。
恐らく、葛藤しているのだろう。
弥生に甘えてしまいたい自分と、弥生を傷つけたくないからこそ、甘えたくない自分が戦っているんだ。
「薫。弥生のために生きてやれよ。本人がこんなになるまでお願いしてんだよ。迷惑ぐらい気にすんな。これだけお前は必要とされているし、必要とされてるんだから、迷惑だってかけていいし、わがままだって言ってもいいんだよ。そこを逃げ場にすればいいんだ……それでも死にたいのか? 生きたくないのか?」
俺は薫に言う。
「そうだよ。弥生さんのために生きてあげて」
突然、後ろから声が聞こえた。
俺が振り向くと、そこには未来がいた。
「……未来」
薫がつぶやいた。弥生も薫を抱きしめながら、未来がいることを確認する。薫の目を見ると、少しだけ光が戻っているように感じた。
未来もとても優しい表情をしていた。
「弥生さんだけじゃないよ。薫くんが生きていてほしいって思ってるのは。あなたのお兄さんだって、みんなだって、生きていてほしいって思ってるし、薫くんはこの世界に必要な存在だよ」
未来はそう言った後、俺をチラッと見た。後は任せた、と目で言っていることは伝わってきた。
「……ふっ。さ、どう思う薫。これでも死にたいか?」
俺は、薫に尋ねる。
確信はあった。もう、薫は生きるって。自信があったからこそ。俺は、少し得意げに薫に尋ねた。
「……僕は、僕は……」
薫は呼吸を乱しながら、次の言葉を発した。
「生きたい!」
……多分。お前と仲のいい奴は、お前の事を大切に思っている人は、まったく同じことを思っているはずだ。
やっと、前を向いてくれたって。
生きたいって言葉が、薫から聞けて嬉しいって。
薫は抱きしめるのをやめて、弥生の肩を持ち、弥生の顔を目の前で見る。
「でも生きていていいんですか? こんなに周りに迷惑をかけて……」
「いいの! いくらでも迷惑をかけていいから! 私のために……生きて……お願い……本当にお願いだから……」
弥生はそう言いながら、薫に向かって崩れ落ちる。
薫の膝あたりで、弥生は額を付けた。まるで土下座をしているみたいに。
とても必死なことが伝わる。本当に、どうしようもないくらい、情けないほどに必死だ。
そんな必死な弥生は、とてもかっこいいと俺は感じた。
頑張って生きているんだ。これぐらい、情けないぐらいに必死で、別にいいだろう。
俺はそう思う。
「僕が……」
そう言いながら、薫は弥生を支え、そのまま抱きしめる。
「僕が生きれば、笑えば、傷つく人がいるかもしれません。お嬢様、僕はお嬢様のために生きます。お嬢様のために笑います。そうしたら、お嬢様も笑ってくれますか?」
薫は、いつもの口調に戻っていた。
とても優しくて、なんというか、誰もが惚れてしまうような声だ。
「いくらでも笑う! あなたが生きているだけで、笑っているだけで、幸せなの! うっ……だから……生きて……全部……受け止めるから……」
弥生はうえーんうえーんと、子供っぽく泣きだした。
あんなに子供っぽい弥生を見るのは、初めてかもしれないな。
「……わかりました。僕は、生きます。だから、今は……少しこうしていたいです」
「……ひっく……うぇ……うん……」
弥生は嗚咽を漏らしながら、薫をこれでもかと抱きしめた。
……薫は……どうやら過去を振り払ったらしい。
二人はかなりの間、抱きしめ合っていた。
この数日間。会えなかった分を埋めるかのように。
こんなに影で、こんなどうしようもない僕を待っている人もいたんだ。
生きていて、良かったと思った。
夕方、俺はそろそろ小鳥居家から帰ろうかと思い、客間で帰り支度をしていた。
未来は先に帰っていた。まず未来がなぜ、ここに来ていたのかについて、説明しよう。
未来は、俺や若葉と話して、いつも通りに戻った。そこで未来は、少しでもいいから、手を貸したいと思ったらしい。
まあ、とにかく、総括すると本人曰く「現彼女のもう一押しが必要かもって思った」だそうだ。
だから、未来は小鳥居家に来たらしい。
「あら? 帰るの?」
弥生は、俺が立ち上がったと同時に部屋に入ってきて、俺に尋ねてきた。
「ああ、もう一旦、やることはないしな」
「そう……本当、ありがとうなんて、いくら言っても足りないわね」
「いいんだよ。好きでやってるんだ」
「そう。ならいいのだけど」
「薫はどうだ? 今は何してる?」
「今はお風呂に入って……たくさんご飯を食べました。もう元通り……いや、それ以上ね。前より断然明るくなった気がする。まだ元気になってから、少ししか経ってないから、わからないけどね」
「そうか……本当によかった」
もしかすると、過去を隠していたころとは違い、今の薫は、過去を告白して、それを受け入れてもらったという状態だから、前より明るくなっていてもおかしくない。
今までは、過去を隠しながら、薫はほかの人たちと接していたから、ちょっと申し訳ない気持ちがあったのだろう。
「今から帰るけど、薫を見てから行くよ」
「そう。嬉しいわ。多分、薫の部屋にいるわよ」
「オッケー。じゃあ、またな弥生」
「ええ。また呼ぶと思うから、その時は」
そう言うと俺は、部屋を後にする。
部屋から出る時に見た弥生の顔は、とても穏やかな顔だった。
俺は薫の部屋を訪れた。ドアをノックしようとする俺の気持ちは、数日前とは全く異なっていた。友達の部屋を気軽に訪れる。そんな気持ちだ。
「はい!」
「橘です」
「ああ! 入っていいぞ!」
そう言われると、俺はドアを開ける。
「どうしたんだ?」
薫はきょとんとしていた。髪は下ろしている。ぼさぼさになっていた髪は、綺麗になっていた。
「いや、顔だけ見て帰ろうかなって」
「そうか。ちょうどいい。僕もお礼が言いたかったんだ」
薫の目は、今までで一番光り輝いていた。とても綺麗で、純粋で、可愛らしい目をしていた。
薫は、机の前で座って、何か手紙のようなものを見ていた。薫は立ち上がる。
「本当にありがとう。もう何と言っていいかもわからない」
「いいんだよ。好きでやってるんだから」
薫は頭を下げた。
「……それで、それはなんだ? 机の上にあるやつ」
「ん? ああこれか……」
薫は、その手紙を俺に渡してくる。
「ほら、読んでもいいぞ」
「どれどれ……」
俺は軽く目を通す。
これは……薫の過去が書かれた手紙らしい。
小説のような文調で書かれている。
「これって、薫の事だよな?」
「ああ。僕が中学を卒業するときに書いた、何というか……自分の昔の事を、お嬢様に告白するときに……書いた文章だ。多分、お嬢様が話した僕の過去の話は、これを要約したものだったと思っているんだけど、どうだ?」
「そうだな。大体こんな感じだったような気がする」
「で、それを捨てようかなと思ってさ」
「捨てちゃうのか?」
「うーん。僕はもう過去を克服した……ような気がするから、過去の事を書き記したこれは捨てちゃおうかなってさ」
「……」
俺は一度考えたことがある。
俺の過去を告白することで、誰かの手助けになるんじゃないかって。
だから、薫の過去も、もしかすると、誰かの手助けになるかもしれない。
「それさ、もし辛くないんだったらさ、捨てなくてもいいんじゃないか?」
「? どうして?」
「それ、誰かのためになると思うんだ。なんて言うんだろうな……濃密な過去があって、それを告白してるものだったら、いつか誰かの参考になりそうだな……って」
「なるほどな……」
俺は、薫に手紙を返す。
薫はまじまじと手紙を見る。そして少し経ってから、また話し出した。
「うん……そうかもしれないな。じゃあ、取っておこう! これから僕だってお嬢様だけじゃなくて、誰かのためになりたいって気持ちはある。その第一歩だな!」
薫は、綺麗な笑顔で言う。
「うん。それがいいと思う」
「……暇だったら、少し書き足してみるのもいいかもしれないな……まあ、また今度考えよう」
そう言うと薫は手紙を畳み、机の中に大事そうにしまった。
「……ホント、元気になってよかったよ。むしろ、前より元気じゃないか?」
「そうだと思う。だって隠していることはもうないからな。後ろめたさも罪悪感も、もうない! とっても元気だ!」
薫は腰に手を当てて、胸を張り、大きな声で言った。
本当に、出会った頃より元気だ。
これが本来の薫なんだろうな。
「じゃ、また遊ぼうな。元気になったことだしさ」
「そうだな」
「そんじゃ、またな」
俺は、薫の部屋を後にしようとする。
「うん……あ、送っていこうか?」
「いや、いいよ。部屋でゆっくりしてな」
「そっか。じゃあ、またね進」
俺がドアを開けて、部屋から出て振り返ってみると、薫は手を振ってくれた。俺も振り返す。
……やっぱり、女の子にも、男の子にも見えるな……こう見ると……。
さ、俺も一仕事終えたから、家でゆっくりしよう。
……いつもの日常が戻ってきたかな。
次の日。黛の様子でも見に行くか、それとも宿題をやろうかと悩んでいたところ、未来から連絡があった。
何やら話したい大事なことがあるから、会いたいということらしい。
そして、俺は呼び出された時間通りに、未来の家の前まで来た。今は午後二時である。
俺はインターホンを押す。するとすぐにドアが開いた。
そこには未来がいた。しかし、俺はすぐに、驚かざるを得ない状態になっていた。
未来は髪をバッサリと切り、肩までの長さになっていた。
髪も巻いていない。これはまさしく、「咲」の髪型だ。
「おはよ。もう昼だけどね」
「……」
俺は挨拶も忘れて、未来の顔を見る。
「ねえ。おはよ」
「ああ……おはよう」
「……なんか……ないの……感想」
未来は、恥ずかしそうに髪を触りながら言った。
「え。いや……本当に咲なんだなってさ……」
「だからそう言ってるでしょ」
改めて見る。髪型まで同じだと、改めて実感する。身長、顔、体格、すべて同じ。性格は少し明るくなって、服装はちょっとストリート系? になっているし、少し口調は強気になっているけど……正真正銘、咲だろう。
「なんで咲だった頃の髪に戻したんだ?」
「……まあ……進が頑張っていることは知ってたんだけど……その傷を見た時に、ちょっと思うところがあって……せめて、少しでも頑張ってた進が、報われればいいなって思ってさ。それで私が出来ることって言ったら……咲の見た目だけでも、見せてあげたいなって。探してた人、見つかったよって思ってほしかった……」
咲は途中から、とても照れているようで顔は真っ赤になっていた。
「……そっか。めっちゃうれしいよ。俺」
俺はとても笑顔で言ったと思う。
「ただ、少しオシャレになったな、未来」
「そりゃそう。高校生だよ」
「そりゃそうか」
「そう」
未来は言いながら、とても明るい笑顔を見せた。
その笑顔が、あまりに懐かしかった。
俺と一緒に居た時に見せていた笑顔が、また戻ってきた。
「……その笑い方、知ってんだよなあ……」
俺は本当に咲が戻ってきたことだけではなく、両親が亡くなった後の、暗い咲ではなく、明るい咲に戻っていたこともあり、感極まって泣きそうになる。
「はは……って……ちょっと! 泣かないでこんなとこで! ここ玄関!」
「ああ、悪い悪い」
「はあ……さ、行くよ」
「え? どこに?」
「駅前」
「何しに行くんだ?」
「……話すことは決まってるけど、やることは行ってから決める。中学の時だって、こうやって理由なく会ってたし、別にいいでしょ?」
「……そうだな。行ってから決めるか」
「じゃ、行こ」
「ああ」
そう言うと俺は、未来と並んで駅前に向かった。
駅前には、目新しいものはない。しかし、忙しさのようなものもない。
咲の記憶を取り戻した未来と、歩く分にはとても楽しかった。
失われた、会えなかった約二年を、取り戻しているような気がした。
まずは服を見に行った。俺はファッションには興味がないので、あまり買いに行くことはなかったので、楽しそうに未来が、服を選んでいるのを見るのは楽しかった。
次にカフェに行き、軽食を食べつつ雑談。ここでは本当にたわいのない会話をした。中学の頃の俺の友達の話とか、未来が記憶を取り戻したことを弥生には伝えていて、それを薫にも伝えるように言った、と未来が言っていたことが印象に残っている。ほかにも黛や蜜柑に若葉、今回、薫と未来の件に巻き込まれた人には、未来が記憶を取り戻したことを伝えたそうだ。
「どうだった? 反応は?」
「みんな驚いていた。けど……若葉ちゃんは結構深いこと言ってたよ」
「なんて言ってた?」
未来は頼んだ暖かいココアを、少し持ちながら話している。
「えっと、絶望的なかみ合いがあって……未来ちゃんと薫、よいちゃんを中心にこんなことが起こったのかなあ……みたいなこと言ってた」
「あ~確かにそうかもなあ」
薫が過去に何もなければ、未来が過去に何もなければ、今回の件は起こらなかっただろう。
弥生だって、最初から薫の過去を明かしていれば、もしかしたら何か変わったかもしれない。しかし、弥生の、薫の過去を隠していたいという気持ちもわかる。薫の過去を友達になる前に聞けば、関わりたくないと思ってしまう人は多くいるだろうし。
「……ま、みんなこれまで通り関わってくれそうだし……みんなではないかもだけど……一旦はいいかな」
「そっか。俺は今まで通りというわけにはいかなそうだけどな……」
俺はぽりぽりと頬を搔いた。
次に駅前から、まっすぐ進んだところにある、広い公園に向かった。
ここには広い水場があり、その前の広場でボール遊びなどもできる。
ランニングや散歩に来ている人もたくさんいる。今は夕方なので、一番人が多いだろう。
未来は「カフェだと静かすぎるから、公園でもいい? 懐かしいし」ということで、俺と来た。恐らく、ここで俺を呼んだ理由でもある大事な話をするのだろう。
今は水場の前のベンチで座っている。少し肌寒くなってきた。
「それで本来の目的だった話をしたいんだけど」
「うん。いいぞ」
「どれから話そうかな……そうだね。黛くん元気?」
「ああ……今は少し元気になったって、若葉が言ってたぞ」
「そっか。良かった。黛くんは、私に会いに来てくれなかったみたいだからさ」
「……」
俺は悩んだ。黛が未来のもとに行かなかった理由については理解している。
未来にいらないことを言ったから、会いに行きにくいということだ。
しかし、未来がそれを理解しているかはわからない。
「……黛が未来のとこに来なかったのは……」
だが言った方がいいだろう。黛は言ったことを後悔していた。決して悪意を持っていったわけではないということを、未来に伝えるべきだ。
「未来にいらないことを言ったからと言っていた」
「……」
「何か心当たりはないか?」
「ある。めっちゃある……あ~あれはそういうことだったんだね~空耳だと思ったけど、やっぱり言ってたんだ」
「あるんだな」
「うん。薫とは別れないのか? ぼくがお前なら、薫と別れるって言ってた」
「……どう思う?」
「実際こんなことになってるし、彼なりに気を使ったんでしょ。別にいいよ」
「そうか。良かったよ」
「……さて……次」
未来は少し深呼吸をしてから、また話し出した。
「弥生さんはさ、私の事どう思ってるかな」
「……そりゃまた難しいことを……まあ、色々複雑だとは思うよ。絶対肯定的に思ってるってことはないかな」
「そうだよねえ……」
「逆に未来はどう思ってるんだ? 弥生の事」
「……そりゃあ言いたいことはたくさんあるよ。それはしっかり話すつもり。でも、記憶を取り戻せたから……少し感謝してるかな」
「そっか……弥生も話したい事あるだろうしな、ゆっくり話せばいいよ」
「そうだね」
未来はずっと水場を見ている。
「……薫はどうだ? これまで通りとはいかないか?」
「そりゃそうだよ。というか、多分考えていることは同じだと思うし、薫くんとも話すつもり」
「考えていることは同じか……」
俺は未来が言ったことを、思い出していた。
「……あ、いいか? 俺も話したい事あったわ」
「え? 何々」
「呼び方の話だよ。咲で呼ぶか、未来で呼ぶかの話」
「ああ……それね」
俺は正直、咲と呼んでしまいたい。満足いくまで、咲と呼びたい。
だが、これは未来の心を無視している。
咲の髪型にはしてくれたけど、未来の気持ちは、咲と呼んでもらいたいと決まったわけではないだろう。
「今は未来って呼んでるけど、決めてくれよ、そっちがさ。呼ばれたいのはどっちだ?」
「……う~ん」
未来は暗くなっていく夕焼け空を見る。しっかり考えているようだ。
「未来かな。あんたには悪いけど」
「そっか」
「理由聞かないの」
「……別に聞かなくてもいいけど、そう言うことなら聞くわ」
「なんだか前向きで素敵だし、好きなんだ。未来って名前。咲って名前もいいけど、今の未来って呼ばれる方が好きだから」
「めっちゃいい理由だな、それ」
「でしょ」
未来は笑った。
……記憶を取り戻したからだろうか。
笑顔が上手になっている気がする。
あたりが暗くなり、いっそう寒さが深まっていく。
公園から見える、ほんのりとした駅前の明るさが、とても安心した。
薫くんが過去を話してから、一夜明けた。
私は中村家にいる。黛さんと暮らしているあの家は、元はというと、凪家が住んでいたものなので、本来の私の家はこっちだ。しかし、小学校の頃から、凪家に住んでしまっているので、こっちに来ることはあまりない。
薫くんの話を聞いて、少し気持ちが悪くなってしまい、いろいろバタバタしている黛さんたちに気を使ってもらうわけにはいかないので、私は中村家に来た。
まだ体調は万全というわけではない。しかし、暇である。
こっちには私の部屋もないので、いつも暇なときに読んでる本もないし、パソコンもないのでゲームも出来ない。
お父さんは仕事に行っていて、お姉ちゃんも仕事に行っている。二人とも、私を気遣って仕事を休もうかと言ってきたけれど、大丈夫そうだったので、断ってしまった。
今は、一番広い和室にいる。
中村家は、小鳥居家よりは少し小さいけれど、綺麗な和風の家だ。綺麗な庭もあり、廊下も思わず雑巾がけをしたくなるくらいには、懐かしい雰囲気がある。
何故和風の家なのかというと、お母さんが、和風好きだったというのがある。それと、お父さんが「小鳥居が洋風なら、うちは和風だな!」と言っていたような気がする。多分、お父さんだったら言いかねないし、多分言ってる。
そんなことを考えていると、インターホンが鳴る。時刻は十一時ピッタリ。
私は玄関を開けた。いたのは三島くんだった。コートを着ている。
「あれ? どうしたの三島くん」
「ええと……凪先輩から話を聞きまして。何やら体調が悪いと聞いたので」
「ああ、そうなの?」
「はい。とりあえずこれを」
三島くんは、手に持っていた紙袋を渡してくれた。
中をチラッと見ると、スポーツドリンクや冷えピタ、ゼリーが入っていた。
「ありがとうございます」
「いえ。体調は平気ですか?」
「あ、うん。もう大体平気」
「良かった」
三島くんの声がいつもより元気がないように聞こえる。少しもごもごした話し方をしている気がする。
そりゃそうだよね。きっと黛さんか、進さんから、薫さんがどうなったかを知らされていても、おかしくない。もしかすると薫さんがどうなったかを知っているかもしれない。
「……元気出して、三島くんも」
「……!」
三島くんは、素早く頭をあげた。
「す、すみません。私がお見舞いに来たのに……」
「いいの。薫くんが心配なんでしょ」
「……はい」
「きっと大丈夫。私を助けた黛さんと、とっても頼りになる進さん、あと若葉ちゃんもいるから大丈夫」
「……そうですね」
三島くんは、少しだけ安心した表情をした。
「……私も落ち込んでいるみたいなので、ここに居ても迷惑をかけてしまうだけみたいです。渡すものは渡したので、帰ります」
「うん。じゃあね」
「また、年明けの部活で」
三島くんは少し礼をすると、くるっと背を向けて帰っていった。
私はその背中を見届け終わると、そのタイミングで急に声がした。
「……人を元気づけられるくらい元気なら、俺は来なくてもよかったかな?」
「……はあ。なんで同じタイミングで来るの?」
「できる限り早く様子を見に来たかった、でも朝早すぎるのは迷惑かな⁉ じゃあ十一時にしよう! はい、大被り~どんでんどんでん」
声の主は柚だった。自虐をしながら面白おかしく動いている。
「それに」
柚は真剣な顔をして言った。
「好きな女の子には、ただ幸せになってもらいたいんでね」
……。
「一緒に来ればよかったのに」
「……はあ……来れるわけねえだろ」
「なんで」
「……そりゃあねえ……」
「……わかんないけど」
「わかんないなら、それでよろし」
「うざいなあ」
「それで、どうなの調子は」
「別に平気だけど……」
「違う」
「え?」
そういう柚は、左胸をトントンと叩き、続きを話した。
「ここの話よ」
「……」
心の話、ということ。
……ほんと、無駄に気が使える人だ。
「……ちょっとしんどいかな」
「……ふーん。んじゃこれ」
「ん? なにこれ」
柚は何やらリュックから、紙でできている本のようなものを渡してきた。本にしては大きい。教科書みたいだ。
「って……これ台本?」
「ああ、春休み前にやる台本だ。これで元気出せよ」
「……」
……理由はわからない。
だけど、とても安心した。元気が出た。
多分、あまりにも日常すぎて、いつものことすぎて、安心したのかもしれない。
「ばか」
「はいはい。好きに言ってください蜜柑さん」
「……ばか」
多分、私は呆れかえった顔をしているだろう。
……顔が熱い。
「んじゃ。そういうことだからさ。後ろから読むなよ」
「じゃあね。また今度」
そういうと柚は帰っていった。三島くんとは違い、柚の背中は見届けない。
私は部屋に戻り、台本を読もうとする。
……わざわざ、後ろから読むなよって、何で言ったんだろう。
気になった私は、台本をひっくり返し、後ろのページをめくる。
「……」
そのページには紙が挟まっており、そこにはこう書かれていた。
「だから後ろから読むなって言ったじゃん。面と向かって愚痴れないことがあったら、連絡してくれよ」
……。
「……はあ……ほんと、演劇始めて、正解だったかも」
私は一人呟いた。
私は携帯を開き、柚に連絡をした。
「相談事なんてない! 柚も台本読んどけ! ばーか!」
誰でもいいから、自分が傷ついてもいいから、人を助けることを生きがいにしている人。
自分ができる範囲でしか、人を助けられない人。
誰も助けることができない人。
全員、生きていいんです。
僕は、よいちゃんのために生きようと思います。
皆さんも、死なないでください。
これを読んでいる皆さんのことを、待っている人は必ずいます。
パンドラの箱から出た災いが、まだ出続けているだけなのです。
その箱が空になった時、最後に必ず希望が出てきます。
決して途中で、パンドラの箱を閉めてはいけません。
最後まで残っている希望を、閉じ込めてしまいますからね。
それに人生の幕を、自らの手で閉めてしまうのは、勿体ないです。
皆さんは、素晴らしい人たちなのですから。
どうかお元気で。命だけは大切に。
出雲 薫
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