第21.5話 間章 日輪、沈む

 これは、出雲薫の事である。

 これを読んでいる君たちのことを思い、筆を取る。この出雲より自分はマシだ、とでも思ってくれたら嬉しい。少しでも生きる希望を持ってもらいたいのだ。僕もあの先生のように過去を告白することで、誰かの役に立ちたいのだ。少しでも、僕に救われてくれる、人間がいることを、期待する。

 さて、僕の事について話していきます。誰かさんの言葉を借りると、恥の多い生涯を送ってきました、ということになるでしょう。まだ、僕は、成人もしていませんが、そう言わせてもらいます。

 僕は、狂った両親に挟まれて、生きていました。ですが、兄の話によると、僕が生まれた直後までは、真っ当な人間だったそうです。しかも、素晴らしい能力、容姿を携えた両親でした。ですが、僕は、そんな能力や容姿を持った両親から生まれてしまったため、特に容姿ですが、これを持ってしまったために、僕は苦しむことになるのです。まずは父の話をしましょう。

 父は、優秀な政治家でした。若い頃は、国家公務員として働いていたそうです。公務員らしく、曲がったことが嫌いで、とてもまじめな人だったと、兄から聞きました。ただ、とても不器用な人でありましたので、悪い人に騙されることも多くあったそうです。その父は三十代で政治家となり、テレビでもたまに見る政治家になりました。頭がよく、容姿も端麗で、そのおかげもあってか、政治家として高い地位にいなくとも、父の姿はテレビでたまに見ることができました。

 そんな父と僕の関係ですが、あまり関わりがありませんでした。まず、家にいることが少なかったです。仕事で忙しく、真面目だったので、あれやこれやと仕事や厄介なことを押し付けられ、帰ってくることが出来なかったのでしょう。また、僕や兄にも興味がないようでした。家にいたとしても、父が、僕や兄に話しかけていることは、ありませんでした。まあ、僕自身も、父と話す気なんて、あまりなかったのです。というのも、父は、何を考えているのか、分からない人でした。家にいる時は大抵、パソコンと向かい合っているか、読書をしているか、新聞を見ているか、テレビを見るかをしていました。しかも、ほとんど政治に関連していることしか見ていませんでした。とても真面目なのが、わかると思います。ただ、不気味だなと思いましたので、あまり話そうという気には、なれなかったのです。

 次に母の話をしましょう。母は父に比べて若く、とても美人な人でした。僕が赤ん坊ではなくなったぐらいの時期までは、とても素晴らしい、母として模範と言えるほど、素晴らしい母親でした。頭もよく、家事も出来ました。狂う前の母は、完璧すぎてあまり書いていて、面白くないものですね。この頃の母のままでいてくれたらよかったと、心から思います。狂った母と僕の関係については、この先で書くことにします。

 兄は、素晴らしい人でした。年は十個近く離れていましたが、父に似て真面目で、母に似て、僕の面倒も見てくれる、優しく、頭もよく、容姿も素晴らしい人でした。しかし、不器用で真っすぐなところがあるせいで、僕の悪を、罪を、代わりにすべて抱えてしまいました。

 僕が小学校に入学する頃、父にあることが起きました。反社会的勢力との関わりが、世間にばれてしまい、政治界から追放されてしまいました。テレビでもよく出ていたので、父のニュースはすごい勢いで拡散されていきました。真面目な父がなぜ、反社会勢力と関わっていたのか、わかりません。もしかすると、ほかの誰かに、はめられたのかもしれません。それからの父は無気力になり、部屋に閉じこもり、ほとんどの時間を床で座って過ごしていました。お金もどんどん無くなっていきました。

 母もその頃より、少し前から狂い始めました。父が反社会勢力と関係を持っていることと、関係あるのかはわかりませんが、お薬を売ってくれる人と、なにやら関わりを持ってしまっていたようです。母は僕に、薬をお菓子と呼ぶんだよ、と教えてくれました。父が政治家時代にため込んだお金を、湯水のように使い始めました。さすがに怪しまれていたのか、警察がたまに、僕たちの家を捜索していました。しかし、薬が見つかることはありませんでした。なぜかというと、僕の腹巻の中に、お薬は隠されていたからです。さすがに警察も、子供を脱がすわけにはいかなかったようで(子供の腹巻の中にあるなんて、露ほども、思わなかったのかもしれません)、薬は見つかることはなかったです。母は警察が出ていくと、獣のように僕の服を脱がし、お腹にあるお薬を求めました。非常に怖かったことを記憶しています。

 兄はというと、家計を心配し始めました。当時兄は中学三年生だったのですが、就職をするか、無理やり受験をするかを悩んでいました。模試でも、トップクラスの成績でしたので、中学校の先生からは、受験を強く勧められていました。ですが、兄は、僕の生活のために、自分の将来を捨て、青春を捨て、自分を犠牲にして、僕のために就職することを決めました。頭の良さもあり、見た目や人当たりの良さもあり、いわゆる、親方に気に入られて、鳶職という仕事に就職が決まりました。

 さて、小学生の頃の僕はと言いますと、少しだけクラスから浮いていました。当時の僕は、周りの児童たちが、とても幼く見えました。僕は勉強が出来た……どころではなく、教員からも、天才だと言われてしまうくらいには、勉強が出来たのです。だから、僕には、周りの児童が幼く見えたのでしょう。授業は聞いていましたが、すぐにわかってしまうものばかりでした。

 しかし、よくできる子供によくある「先生を質問攻めにして、困らせてしまう子供」ではありませんでした。僕は子供ながらに、授業はみんなで受けているから、授業を止めて、迷惑をかけてはいけない、ということを理解していたのです。物分かりが良かったのです。そのせいで、母からされていることの意図を、明確に理解してしまうことになり、苦しむことになるのですが。

 クラスから浮いていた僕は、ほかの児童からのいじめの対象になりました。特に男子児童には、「頭がいいから」「静かに本ばっかり読んでいるから」「なんか気持ち悪いから」などの理由でいじめられていました。しかし、僕は特に「いじめ」で気を病むことはありませんでした。理由は二つあります。一つ目は、女子児童がいくらでも助けてくれたからです。男子児童にいじめられているのを見ると、すぐに女子のグループが助けてくれました。まあ、その女子のグループに助けられているのが、気に入らないだの、男らしくないだの、そんな理由で、またいじめられることになるのですが。二つ目は、母にもっと酷いことをされていたので、いじめ程度で気を病むことなんてなかった、ということです。

 母には犯されていました。薬を使い始めた母は、狂い始めたと同時に、母ではなく、女になりました。僕が家に帰ってきて、日が沈むころになると、母は目を覚まします。なにやら物を吸うと、適当に兄が作るか、買ってきたであろう飯を喰らい、僕を抱きました。僕を抱くときだけは、なぜか人間らしく、風呂に一緒に入り、丁寧に歯を磨き、そのまま裸でベッドに入るという手順を踏んでいました。僕を息子とは、一切見ておらず、僕を男として見ていました。犯され始めたときは、とても嫌な気持ちでしたが、何度も回数を重ねると、何も思わなくなりました。行為をするたびに、母が僕の上で動くたびに、めちゃくちゃにキスをされるたびに、心が、腐れた木がメリメリと折れていくように壊れていきました。体格差はありましたが、母は薬を始めてから、痩せ始めていたので、特に重いなあと思うことはなかったです。行為が終わるたびに「笑って」と言われていたことを、今でも覚えています。そのおかげか、今の自分は、笑い方がよくわかりません。

 お金がない時、母は身体を売っていました。母は美人だったので、それだけでお薬がもらえたようです。ただ、女の売人には、僕を売りました。最初は女の売人も、さすがにそれはと、断っていたのですが、僕は残念ながら母に似ていて、美少年でしたので、女の売人は欲に負けて、僕を抱きました。

 父は、僕や、ほかの人間に興味がなかったので、母の行為を止めることはありませんでした。兄は、もちろん止めてくれました。しかし、何を言っても母が止まることはありませんでした。ぶん殴ってでも止めるべきだと、僕は思っていたのですが、兄はとても優しいので、母を殴ることはしませんでした。

 見かねた兄は、たまに職場の人の家に、僕を泊めてくれる日も、ありました。ただそこの職場の人は、あまり僕をよく思っていなかったみたいで、最低限の会話しかしませんでした。僕はまったく話さなかったので、そんな静かな子供が、なんだか不気味だったのでしょう。それでも、母から逃れることが出来る時間をくれた、職場の人には、感謝しています。

 兄はほかにも、休みの日になると、色々なところに連れて行ってくれました。お金は母が使ってしまい、なかったので、電車で近くの大きな公園に行ったり、図書館に行ったりしました。車もいつの間にか、母が売っていたようで、ありませんでしたので、電車でいけるところに連れて行ってくれました。そんな中でも、横浜で見た夜景は忘れられません。夜にどこかに行くなんてことは、ほとんどなかったので、印象に残っています。

 遊びも兄が教えてくれました。トランプ遊びや、将棋、オセロ、チェス……大抵のことは教わりました。必死に勝ち筋を考えているときは、母の事を忘れられたので、楽しかったです。

 ある日、兄が髪の毛をバリカンで刈っていました。兄に聞くと、仕事の邪魔だから切るんだと、心底優しい声で言っていました。僕は髪が長い、おしゃれをしている兄が好きだったので、悲しい気持ちになりましたが、それ以上に、兄が僕のために身を削っているということが、明確に見えた気がしてとても、とても罪悪感に包まれました。

 母に犯されてからです。僕が、女の子だったら、母に犯されることなんてなくて、どんなに楽だったのだろうと思い始めたのは。髪を少し伸ばし始めたのも、この頃でした。

 小学校中学年の頃、仲の良かった……というよりか、印象に残っている児童が一人います。

 川辺という子です。川辺も、恐らくですが、家庭の環境が良くなかったようで、服はズタボロ、髪の毛もぼさぼさでした。無感情で、容姿も平凡でしたが、ただ、頭はよかったです。家庭環境が極限の状態だと、頭がよくなるのでしょうかね? 僕と同じで、静かに過ごしているような児童でした。彼も、僕の家庭環境の事は、何となく察していたようで、

「最近、家はどう?」

「家? まあ、いつも通りかな。そっちは」

「こっちも、ざんねんだけど変わらない」

「そっか」

 みたいな会話をしょっちゅうしていました。

 彼は、僕と同じような境遇で、静かな児童なので、いじめの対象になっていたようでした。ただ、僕とは違い、かなり傷ついていたようで、保健室に泣きながら行くこともあったようです。

 クラスは同じでしたので、体育の授業は同じでした。ペアを組む時に、僕には言い寄ってきてくれる女の子がいましたので、相手には困らなかったのですが、川辺はペアを組んでくれる人がいなかったようなので、僕が声をかけて、ペアを組むことが多かったです。サッカーの授業で、ショートパスの練習をしていると、彼に尋ねられました。

「なんで君は運動が出来るの?」

 彼はそう言いました。確かに川辺よりは、運動は出来ましたが、クラスで一番できるかと言われると、自信がなかったので、少しだけ驚きました。

「わからない」

 僕がそういうと、彼は心底不快そうな顔をして、「あっそ」とだけ言って、黙々とパス練習を再開しました。

 図書室で本を読んでいると、川辺が決まってやってきて、僕が読んでいる本の表紙をジロジロと見ていました。ただ、すこし恥ずかしかったのか、表紙をしっかりと確認できると、適当に別の本を手に取り、ペラペラと捲っていました。そして僕が本を読み終わると、川辺は僕が読んでいた本を、難しそうな顔をして読んでいました。確かに、小学校中学年の子が読むような本ではなかったので、彼の頭がいいとはいえ、難しかったと思います。

 僕が本を読んでいると、川辺が声をかけてきたことがありました。

「どうしてそんなに難しい本を読むの?」

「難しい本を読んでいると、本に気を取られて、いやなことを忘れられるから読んでる」

 僕はそう答えました。家に帰ると、それはまあ、兄を除いて、どうしようもない人しかいなかったので、学校ではこういう難しいことを考えて、気を紛らわせるしかありませんでした。

「そうか。俺も気を取られるかな。難しい本を読めば」

「そうだね」

「じゃあ、俺も読む」

 そういうと彼は、僕がよく本を選んで取っていた、日本の純文学のコーナーに行き、適当に本を取り、捲っていました。

 川辺は、なにかと僕と競っていたつもりか、それとも、ただ真似事をしたかったのか、わかりませんが、僕がやっていることは、すべてやろうとしていました。授業中の問題に退屈して、適当に借りて来た問題集を解いていると、彼もそれを借りて、休み時間に解いていましたし、体育でも、彼は似たようなことをしていました。しかし、残念ながら、すべて僕の方が勝っていました。

 川辺とは帰る方向が同じだったので、たまに一緒に帰っていました。ただ、一緒に帰ろう、と声をかけることはお互いになく、なんとなく、下駄箱であったら、そのまま横並びで帰る、という不思議な関係でした。帰っている途中に、僕は虫に刺され、腕が腫れてしまいました。その時、川辺がすぐに、虫刺されの薬を塗ってくれたのを覚えています。

「なんで、虫刺されの薬なんて持ってるの?」

「お母さんが、もってなさいって。こうやって、気を使って、いい人になれば、誰かお金持ちの人がお金をくれるって、言ってた」

「そうなんだ。残念だけど。うちはお金持ちじゃないよ」

「そっか。残念」

 彼はそういうと、表情を変えることなくまた歩き出し始めました。

 川辺とは仲がいいわけではありませんでした。しかし、なんとなくですが、いい奴であることは、感じ取れました。けがをした子には絆創膏を渡したり、重たい荷物を運んでいたら、手伝ってあげたりなど、気が使える子でした。ただ、容姿は平凡で、服もボロボロで、髪もぼさぼさなので、手伝ったとしても、好かれたりなどはされていないようでした。

 たまにですが、野外給食があり、校庭で持ってきた弁当を食べるイベントのようなものがありました。僕は兄が作ってくれた弁当を持ってきていました。しかし、川辺は弁当を持ってきていなかったので、僕が分けてやることにしました。校庭のブランコに座ることが出来たので、そこで座り、二段弁当の下の段の米を、半分だけ上の段に移し、おかずを、下の段に半分だけ移しました。

「ありがとう」

「兄さんが作る弁当は量が多いんだ。気にしなくていいよ」

「うん」

 そう言うと、川辺はゆっくり、学校からもらった割りばしで、弁当を食べ始めました。

「ねえ」

「なに」

「好きな人いる?」

 川辺は僕に尋ねました。僕はこんな不幸な身分でありましたので、僕なんかが好きになってしまうのが、申し訳なくて、誰かを好きになる事なんて、ありませんでした。だって、母やいろいろな大人の女に犯されている、汚い体ですから、そんな僕が、誰かに好きになってもらうなんて、申し訳ないです。言い寄られることは、ありましたが、それもすべて断っていました。でも、兄の事は好きでした。恋愛感情なのかはわかりませんが、とにかく好きでした。

「兄さんかな」

「へえ。どこが好きなんだ?」

「優しくて、いろんなことを教えてくれるし、一生懸命働いているから、好き」

「いい兄さんだな」

「川辺には、好きな人いるのか?」

「お父さんとお母さんが好きだ。俺を生んでくれた人だからな」

 川辺は淡々と答えた。

「じゃあ、嫌いな人は?」

 川辺は僕に尋ねました。こんな不幸な身分になったのは、父と母のせいだと思っているので、僕は父も母も嫌いでした。

「父さんと母さんは嫌いだな」

「それはいけないな」

「なんで?」

「この世に生まれたのは、お父さんとお母さんのおかげだからな」

「ひどいことをされても? 好きでいないといけないのか?」

「俺もあんまりいい両親とは言えないかもしれないけど、好きだから。君も親ぐらい好きになった方がいい」

「そうか」

 そんなことを言われたって、僕の親は君の親より、ひどい人間だ。そうに違いない。僕が一番不幸な子供なんです。仕方ないんです。

「じゃあ、君には嫌いな人はいないのか?」

「……」

 川辺は弁当を食べる手を止めました。そのまま弁当を見つめている、彼の目は、段ボールの中に置き去りにされている、犬や猫を見ているような目をしていました。

「今言うと、君に悪いから、いつか言うよ」

 彼は、僕をしっかりと見て、そう言いました。

 川辺の嫌いな人については、その話をした、二か月後に、聞くことになりました。十一月ごろだったかと思います。しっかりとした寒さが、体を苦しめ始めるころです。

「やあ」

 川辺はとてもすっきりした表情で、朝、僕が本を読んでいるところに、話しかけてきました。驚いたのは、彼の容姿です。しっかりと髪を整えており、服装も、まるで葬式にでも行くのかと思うような、黒の正装をしていました。

「どうしたんだ? その恰好」

「ちょっと用事があってね。その用事の前に、君に言い残してたことがあったことを思い出したんだ」

「なんだ? 言い残してたことって」

「俺の嫌いな人の事だよ」

 彼は、少しだけにこやかに言いました。

「そういえば、いつか言うって言ってたっけ」

「ああ、まあ親を待たせているし、もったいぶらないで言うね。俺は君が嫌いだった」

 川辺は言いました。

「それじゃ、さよなら」

「ちょっと待って」

「なんだ? 親を待たせてるんだけど」

「なぜ僕が嫌いだったんだ? 参考にしたいんだ」

「なるほど。そうだね、せっかくだし教えてあげるよ」

 川辺は、少しニヤッとして言った。

「ありがとう」

「いいんだ。まあ、俺と似た境遇なのに、何もかもが、俺よりできるのが、ムカつくんだ。だから、嫌いだった」

「なるほどな」

「あとは、愛されるべき身分をしているのに、愛され慣れてないのもムカついた。周りにそんなに好いてくれるやつがいるなら、一人ぐらい頼ればいいのに」

 川辺は、やれやれとした顔で言った。

「好きな人を頼るか……」

「ああ、君にはいい兄さんがいるだろう。困ったら、頼ればいい」

「そうか。じゃあ今度、そうしてみるよ」

「そうしてくれ。じゃあな」と川辺は言った。

「ああ、また」と僕も川辺に言った。

 僕と川辺はそう言って別れた。別れたのはいいものの、その日、川辺は本当に帰ってしまいました。先生に許可を取った様子もなく、その日、彼の席は空き続けていました。先生が、家に連絡をしたのですが、返事がなかったので、心配した先生は、川辺の家に行ったそうですが、インターホンを押しても、何も返事がなかったそうです。

 次の日、川辺は、父と母と、死にました。

 山の中の道路で、車の中にガスを充満させて、死んでいたそうです。服装や、靴も車の中できれいに揃えられていたそうなので、一家心中と思われました。また、三人とも、仲良く、手を繋ぎながら、後部座席で死んでいたそうです。車は、川辺たちが盗んだものでした。遺書らしきものが見つかっており、内容を、すべては知りませんが、お金がないし、働く元気もないし、不安なので、死にます、などと書かれていたそうです。

 なぜかはわかりませんが、特に驚きはしませんでした。ただ、川辺には、死ぬ理由がないような気がして、父と母と、一緒に死ななくてもいいのに、と自分勝手に思いました。

 それから約半年後の六月。

 その頃になると、父の無気力は加速し、母に働けと言われても、何も動かず、殴られても、殴られっぱなしでした。母は、薬物の使い方がどんどん荒くなり、僕の身体を求める回数も、増えていきました。幻覚も見ているようで、たまに、物を壊し、殴り、何かよくわからないことを叫んでいました。兄も、かなり体にガタが来ているようでした。なにやら、夜にも仕事を始めていたようで、ほとんど寝ないで働いていました。それでも兄は、僕と遊ぶ機会をないがしろにすることは、ありませんでした。でも、川辺の言うように、好きな人である、兄を頼ると、兄を苦しめているような気がしました。

 そんな六月。天気は雨。

 家に帰ると、母がソファで、ひどい顔をしながら寝ていたので、僕は久々に一人で眠れる、と思い、すぐにベッドに入り、眠りにつきました。それから、少し眠っていると、何やらガシャンという音と、母の叫び声が聞こえました。その音で目が覚めてしまいましたが、まあ、別に、いつもの事だしな、と思い、もう一度寝ようとしました。しかし、すぐにその母の叫び声は聞えなくなりました。いつもなら、ずっと叫んでいるので、おかしいなと思いました。おかしいなと思ったので、僕は起き上がり、寝室の部屋の扉を開けて、母の様子を確認しました。

 母の手には、鈍く光る包丁が握られており、母の目線の先には、父が血を流して、床に突っ伏しているのが見えました。血の匂いが、部屋には漂っており、なんとも言えない、重い空気で満ちているような感じがしました。母は、僕に気が付くと、包丁を持ったまま、こちらにやってきました。

「私がこんなにも苦しいのは、あなたたちのせいなのよ。だから、消えてね」

 母はそう言いました。

 いやいや、こっちのセリフだ、君たちがテレビや本、学校の授業参観で見るような、ほかの両親のように、両親の役割を全うしないから、子である僕が不幸になっているんだと思いました。子供より、親のほうが大事だとでも、思っているんだろうと思いました。

 母はゆっくりと距離を詰めてきます。別に、死ぬのも悪くないかな、と思いました。だって、母には犯され、父は何も教えてくれず、お金もない。幸せなんてほとんどなかったのですから。

 しかし、兄の存在を思い出すと、僕は必死に抵抗しなければいけないと思いました。兄の事は好きだから、離れ離れになりたくないから、生きなきゃ、と思いました。とはいえ、まだまだ僕は子供でしたので、母から逃げるのに精一杯でしたし、お腹もすいていたので、力も入りませんでした。

 その時です。兄が母に飛び掛かりました。

「何してんだよ!」

「何よ! あの子を殺さないと、私は一生苦しいの!」

 兄は、必死に母の包丁を取り上げようとしました。しかし、闇雲に包丁を振るう、母を止めることは難しそうでした。そして、少しの間、二人はもみ合っていると、突然、二人の動きが止まりました。動きが止まったと思うと、兄はこっちを向いて、かすれた声で言いました。

「薫……逃げろ……」

 兄はそう言うと、父と同じように、床にどさっと倒れました。

 兄が死んだ。そう思うと、今度こそ僕は、ああ、死んでもいいな、と思いました。

「さあ、あとはあなただけ」

 母がこちらに、ゆっくりと近づいてきます。手に包丁を持ってはいませんでした。僕は、特に逃げることをしないで、ただ、背にしている外をちらっとだけ見ました。悲しいほどに雨。ああ、こんな僕でも、最後くらい、日の光を見て、死にたかったなあ。そう思いました。

 しかし、母の歩みは、僕の前で突然、止まりました。

 そして、母は倒れました。

 すぐ背後には、血まみれの兄がいて、手には包丁を持っており、母の背中の服は破けていました。きっと、兄が母の背中を刺したのでしょう。兄は自分に刺さっている包丁を抜いて、母に突き立てたのです。

「薫……お前だけでも……幸せに……」

 そう言っていたような気がします。ほとんど聞こえなかったので、気のせいかもしれません。そう言うと、兄も倒れて、雨が降る音だけが部屋に響きました。

 父は死んだ。

 母も死んだ。

 兄も死んだ。

 兄が死んでしまった。

 僕は生きている。

 兄を失うと、悲しさがどんどんあふれてきました。こんな気持ちは生まれて初めてでした。

 兄を失うと、初めて死にたいと心から思いました。兄の代わりに、死んでやりたいと思いました。なんで、僕だけ生き残ってしまったのか、わかりませんでした。

 その時、川辺がなぜ、父と母と死んだのか、わかりました。好きだったからこそ、一緒に死んだのだと。好きな人がいない世界で、生きていても、しょうがないから。好きな人に先に死なれるのが、辛すぎるから。

 川辺、僕も君みたいに、好きな人と死にたかったよ。僕も兄と死にたかった。

 大切な人が傷つくぐらいなら、僕は死んだ方がいい。

 苦しくて、耐えられなかったので、僕は、兄の手に触れながら、ワンワン泣いた後、母と父を見ました。

 それは、とてもとても、冷ややかな目で見たことを覚えています。

 ……どうしてこの二人だけ死ななかったのだろう。僕がもし両親を殺せば、兄と幸せに暮らせたのかな。そういう考えが浮かんできました。

 

 その時、心から、父と母を殺したいと思いました。

 

 あまりにも腹が立ったので、軽蔑の目で見ながら、父と母の死体に、ぺっと、唾を付けました。今まで、ひどいことをされても、僕がやり返すことはなかったので、お返しのつもりでした。

 気分的には、父と母を殺したような気持ちでした。

 そして台所からナイフを取り出すと、僕は、自分の胸に突き立てました。しかし、僕は子供だったので、力が足りないし、痛いし、怖いし、無理でした。首でも吊ろう、と思ったのですが、吊れるものがありませんでした。方法もわかりませんでした。

 僕は子供だから、死ぬこともできないのか。途方に暮れていると、兄が、幸せにとか言っていたような気がしていたのを、思い出しました。仕方ないので、死ぬことは諦めることにしました。生きようと思ったのではありません。死ぬことを諦めようということです。

 部屋はひどい臭いでいっぱいでした。僕の服には血がついていました。なので、とりあえず着替えました。

 その後、警察にこの事を伝えよう。そう思ったのですが、ただの子供が何も持たずに「母が父を殺して、兄は僕を庇って母に殺され、兄は最後の力を振り絞って立ち上がり、僕を守るために、母を殺しました」なんて言っても、信用されないと思ったので、まず、血の付いた服をちぎり、持ち出しました。警察を信用させるためです。服をちぎったのは、服のすべてを持っていくと、臭いがひどかったからです。そして、落ちていた血まみれの包丁を、新聞紙でぐるぐるに包んで、僕の指紋が付かないように、持ち出しました。包む際、この包丁は、三人も殺したんだ、大悪人じゃないかと思いました。そして、すこしやりすぎかなとも思いましたが、置いてあったカメラで、母と父の死体の写真を撮りました。これも警察に信用されるためです。兄のは、撮りませんでした。写真の中の父と母はひどい顔をしていました。ざまあみろ、と思いました。

 近くの警察署までは、雨が降っていたので、傘を差して行きました。じめじめとして、嫌でした。ですが、睫毛に乗った水滴のせいか、涙のせいなのか、わかりませんが、車の光が、万華鏡の中を見ているような、綺麗な光を放っていたので、それだけはいいな、と思いました。しかし、兄が死んだのに、何故、こうやって僕は降り注ぐ雨を受け止めているのか、わからなくなることがありました。

 警察署に着くと、僕は、血の付いた服と、包丁と、カメラが入ったバッグを机に置き、

「母が父を殺して、兄は僕を庇って母に殺され、兄は最後の力を振り絞って立ち上がり、僕を守るために、母を殺しました」

 そう言いました。

 その後、警察は少し間を置いてから、おそるおそる、バックの中を確認すると、とても驚いたような表情をしていました。吐き気のようなものを催している警官もいました。少しすると、ドタバタ警官が連絡を取り、僕を交番の奥へ連れて行ってくれました。恐らく、家を捜索しに来た時に、母と一緒にいた僕の事を、覚えている警官がいたのでしょう。交番の奥の部屋では、とびきり優しそうな警官が、

「安心してね。もう大丈夫だから、少しの間、眠いかもだけど、ここにいてね」

 と言いました。僕は何も言わず、コクっと頷きました。

 子供として、先生以外の人に扱われるのは、久しぶりでした。

 ただ、その警官は冷や汗を掻いていて、僕に怯えているようでした。



 その後は、いろいろな事情聴取されました。もしかすると、僕が三人を殺した可能性もあったからです。ただ、その疑いはすぐに晴れました。まあ、自殺すらもできないので、人なんて殺したくても殺せません。殺そうなんて考えも浮かびません。考えが浮かんでいたら、多分、もっと早く父と母を殺していたと思います。僕と兄のために。

 それからは、施設に引き取られました。年齢も、もう二桁になり、小学校高学年になりました。まずは、転校した先の小学校の頃の、話をしたいと思います。

 精神状態の鑑定や、施設との兼ね合い、小学校との連絡と手続きなどで、かなり時間がかかってしまったせいで、僕が小学校に転校できたのは小学校五年生の、三学期の頃でした。

 三学期に、転校生が来たのが珍しかったのか、ただ転校生が珍しいからなのか、僕の顔がいいからなのか、わかりませんが、転校した直後は、クラスメイトからの交流がかなり多かったです。二月にすぐバレンタインがあるからなのか、好きなお菓子とか、どこから来たのかとか、質問攻めにあいました。施設で生活しているということを話すと、さらに珍しがられ、もっと質問攻めにあいました。少し、鬱陶しかったです。

 しかし、誰が流したのか、僕の身に起こったことが、広まったらしく、ある日突然誰からも話しかけられなくなりました。本当に僕の身に起こったことが、話されたかの、真偽はわかりませんが、とにかく話しかけられることは、なくなりました。ただ、無視と言いますか、いじめみたいな感じではなく、怯えられていました。僕が授業で発言をするたびに、僕の周りの席の子たちは、カチッと体を固めました。ひどい子になると、登校しなくなる子もいました。教師陣からも、怯えられているようで、授業で当てられることもなかったです。僕は教師からいないようなものとして、扱われていたような気がします。親からのクレームがあったのか、教師からやんわりと、怖い顔をしないでねと、そんな意図の事を言われました。別に怖い顔をしているつもりではないので、とっても困りました。

 僕は仕方がないので、登校することをやめて、施設で勉強することにしました。僕自身も、僕という存在がいるだけで、周りを不幸にしてしまっているという感覚が、とても辛かったのです。なので、修学旅行などの行事にも参加することはありませんでした。

 次に施設での話をしましょう。施設でも、最初はいろいろな子供たちが、僕と関わりを持とうとしてきました。しかし、施設の大人は、僕の境遇を知っていたので、ある一人を除いた施設の大人は、極力、僕と関わろうとはしませんでした。子供たちも、施設の大人たちから聞いたのか、すぐに僕と関わることをやめました。どんどん体が完成してきて、僕はより綺麗になってしまっていたので、そのおかげで、たくさんの人を、一度、引き寄せるけれど、僕の身の回りの話を聞いたら、血色を変えて離れて行ってしまいました。一回強く、引き寄せてしまう分、離れていくのが、辛くて、僕はその分傷つきました。

 施設の人も、学校の先生も、僕の事を子供扱いはしてくれなかったのです。

 施設に来てから、よくなったなあ、と思うこともありました。施設では、今までとは違い、母がいないので、静かに寝られます。こんなにいい睡眠環境はありませんでした。時々、母が夜這いしてくることを、夢に見て、起きてしまうこともありました。でも、今までよりは、とてもよく寝られました。

 僕は施設内では珍しく、学校に行っていなかったので、昼間は一人で勉強をしていました。自分のペースで勉強ができるので、かなりはかどりました。小学校を出るころには、高校一年生の勉強ぐらいはできたと思います。

 ただ、施設では、珍しく、僕に偏見なく接してくれる人が二人いました。

 一人は三島という一つ下の男です。背丈は僕と同じくらいで、僕に何やら興味があるようでした。僕の身に起きた話を聞いても、特に何も変わらずに、接してくれました。ほかに施設で仲良くしてくれる子はいませんでしたので、必然的に仲良くなりました。僕は、三島に遊びやら、勉強やらを教えてやりました。兄が僕にしてくれたようなことを、三島には、してやりました。別に良心からしているわけではなく、ただの暇つぶしのつもりでした。相手がいないと、勝負事の遊びはできませんから。

 ある日、将棋をしていると、

「強いですね」

 三島がそう言ってきた。

「兄とやってたからな」

「そうじゃないです。あなたが、強いってことです」

 てっきり将棋の事だと思っていたので、僕は驚いた。

「僕が強い?」

「ええ。ほとんど誰とも関わりを持っていない、その上、誰かに頼ることもしないのに、平然と生きている。すごいなと思います」

「そうか」

 施設に来る前の環境と比べれば、この施設の環境は天国みたいなものです。平然と生きられるのも、当然です。

「そんなあなたから、たくさんの事を吸収したいです」

「別に僕には何もないぞ」

「いえ。あります。それを決めるのはあなたでなく、私の捉え方です。本を読むときと同じです。作者の意図ではなく、読み手の捉え方次第なのと、同じように」

「……」

 僕の事を尊敬しているような雰囲気を、三島からは感じました。本当に、僕から吸収することなんて、ないと思っているので、とても困りました。

 もう一人は、施設長です。名前は美知子と言いました。施設長は、定年が迫っているくらいの年齢で、僕によく、一方的に話しかけてくれる人でした。傷つくのが嫌だし、どうせ、この人も離れていってしまうんだろうな、と思い、無視していたのですが、離れる気配がなかったので、いつの間にか、僕は施設長にどうでもいいことを話すようになっていました。色々なことを話したと記憶していますが、一番記憶に残っていることは、小学六年生の夏休みに話したことです。

「施設長」

「なにかな」

「僕が、どこかの家庭に引き取られることはあるのでしょうか」

「さあ。でも、君みたいな頭のいい子を引き取りたいって家はあると思う」

「そうですか」

 施設の近くにある公園で、僕は施設長とベンチに座っていました。セミは鳴いているし、太陽はギラギラ照り付けているので、とても暑かったです。

「そんなことを尋ねるくらいってことは、どこかに引き取られたいのかい?」

「……引き取られる自信がないので、その自信を確認するために、聞いただけです」

「はあ、そんな自信、持たなくていいです」

 施設長は、ため息をつきながら言った。僕を引き取ろうとした家庭は、大抵、僕の身の上を聞いたら、急に引き取ることを断ります。僕は頭が良かったですし、見た目も良かったので、それに惹かれて、引き取ることを考えるのですが、僕の身に起こったことを、引き取ろうとしてくれる里親は皆、何とかできる自信がなかったようで、引き取りをやめてしまいます。

 本当に、この容姿は、必要ありませんでした。母や父の呪いのようなものです。一度、強く引き寄せる分、離れていくときに、より傷つく。本当に自分の容姿が嫌いでした。鏡を見たり、写真に写った自分を見たりすると、自分の顔をズタズタにしたくなるし、なんなら殺したくなるとまで思えてしまうので、鏡は極力見ないようにしていましたし、自分が写った写真は見ないようにしていました。いつの間にか、鏡は見ることが出来なくなっていましたし、写真を取られるのは、叫んでしまいそうになるほど、苦手になっていました。カメラも、苦手でした。

「じゃあ、もし、引き取られたとして、何がしたいですか?」

「……そうですね」

 別にこれと言って、夢もありませんでした。施設で育つと、残念ですが、色々な理由で、大きなことを成し遂げることは難しいと理解していました。なので、夢を考えるだけ、無駄だと思っていました。

 ただ、一つ、夢と言えることはありました。

「誰かを好きになって、その好きになった人に、愛されたいですね」

「ほ~う」

 母や父からは、物心ついた頃からは、もう愛された記憶はありませんでした。

 愛された記憶がないので、愛し方も、もちろんわかりません。

「好きな子とか、いたことないのかい?」

「ないです。好きになり方もわからないので」

「はあ……相変わらず重症だね」

「好きになったとして、もし、その好きになった人と別れたら、辛いでしょう。もし、自分がその人を傷つけてしまったら、辛いでしょう」

「あ~確かにね~」

 好きになり方がわからないとは、言いましたが、兄の事は好きだったと言えます。その兄と別れた時は、本当に苦しくて、悲しかったことをその時、僕は思い出していました。

「でも、別れは必然だよ。施設を出ていく子だとか、この年になると、先に亡くなった人とか、いっぱいいたけど、毎回悲しいし、辛いもんだよ」

「だから、大切な人を作らない方がいいんですよ」

「そんなわがままが通用するこの世じゃないよ。一人で生きていくなんて、そんな自分勝手なことは出来ないのさ」

「自分勝手なことなんですか? 一人で生きていくことは」

「もちろんさ」

「なぜですか? 一人で生きていくんですし、自分勝手ではないと思いますけど」

「薫くんと一緒にいたいって人を、ないがしろにしているからさ」

「……」

 僕と一緒に居たいと思う人なんて、絶対存在しません。この僕の身に起こった過去のことを話した瞬間に、離れていくからです。

「その顔は、信用していないな? 絶対現れるよ、一人ぐらい。君のすべてを受け入れてくれる、君と一緒に居たいって人」

「はあ……」

 僕はなんだか、イライラしてきました。

 ひたすらに、理想論をぶつけられているようで、なんだか気分が悪かったです。

「いいかい。君の過去は、記憶は、弊害でしかありません。今は無理でも、いつかその記憶を乗り越えようとする、薫くんのことを、手助けしてくれる人が現れるよ」

 施設長は、僕を見ることなく、公園で遊んでいる子供たちを見ていました。



 先ほども、言いましたが、僕は何度も、引き取られそうになって、それから、僕の身の上の話をしてから、引き取りを拒否されることが、何回もありました。

 しかし、唯一、僕を引き取ってくれた家庭がありました。これを書いている今は、そこに住まわせてもらっています。その家庭に、引き取られる話を、今度はしたいと思います。

 初めに、その家庭の人を見たのは、小学六年生の夏休みでした。スラッと背の高い、若いスーツを着た男の人が、僕を見に、施設長と来たのを覚えています。その男の人は、僕が勉強している様子を、後ろからちらちらと見ていました。少しだけ気になったので、僕は振り向いて、彼を見ました。

「お、お邪魔だったかね」

 彼は、少し緊張した顔をしながら、言いました。

「いえ、何かな、と思いました」

 僕はその時、この男の人が、僕を本当に引き取る人になるとは、思っていませんでした。なので、このような物言いをしました。

「……すまない。私は不器用で、どのように話しかければいいのかわからなくてね」

「はあ」

 その男の人はそう言うと、頬を掻き、少しだけ照れているようなしぐさをした。

「自己紹介がまだだったね。私は小鳥居武。君を引き取ろうと考えているおじさんだ」

「出雲薫です」

 この時の僕は、ああ、また来た、どうせ、僕の身の上の話を聞いたら、顔色を変えて断るんだろうな、と思いました。

「……君は何度も引き取られそうになって、断られているらしいな」

「ええ。今回もそうなるかと」

 そう言いながら、僕はもう一度、勉強しているノートに、目を向けました。解きかけていた問題に、もう一度取り掛かりました。

「それはどうかな。私はね、先に君の身に起こった話を聞いている。聞かせてもらったんだ」

「……」

 僕は手を止めました。さすがに、彼の話は気になったからです。

「それを踏まえた上で、私は君を引き取りたいって思っているんだ……」

 施設長や、三島以外に、僕の身の上の話を聞いて、僕を偏見の目で見なかった人は、初めてだったので、少し驚きました。

「……先に言っておくが、私は不器用だ。そして、君はかなり物分かりがいいと聞いている。だから、直接的に言うが、君と良好な関係を築いたうえで、君の頭脳を活かしたんだ。その……だから、うちで好きに、自由に過ごさないか? という提案を先にさせてもらう」

「……まだ信用はしません。そのようなことを言って、引き取られた試しがありませんから」

「……それでいい。ただ、チャンスをもらえないかな。私はここに出来るだけ通う。君との交流をしたいんだ」

 彼は、無表情で言いました。しかし、額には汗を掻いており、手は震えていて、必死なことが伝わりました。僕は、冷や汗を掻いている人間を、たくさん目の前で見てきたので、普通の汗と、冷や汗の違いは何となく、わかりました。

「わかりました」

「ありがとう。それじゃあ、また近い日に来る。その時はよろしく」

「はい」

 そう言うと彼は、僕に丁寧に礼をすると、施設を去っていった。子供に礼をする大人なんて、変なの、と思いました。

 その次の、次の日。彼は施設に来ました。今度はスーツではなく、質素な私服で現れたことを覚えています。

「いろいろ、ワークやら文房具やらを買って来たんだ。見てくれないか?」

「はい。いいですよ」

 彼はバックから、ワークをいくつか取り出しました。中学の数学や、理科のワークが多かったです。別に勉強が好きというわけでは、なかったのですが、別にやることもなかったので、やっていました。ただ、新しいことを学ぶことは嫌ではありませんでした。文房具は、見たことがないほど、綺麗なものが並んでいました。一目見てわかりますが、明らかに高価なもので、手に取ってみると、重かったり、触り心地が良いシャーペンなどがありました。

「いいんですか? 明らかに、安物ではありませんけど」

「いいんだ。一応、医者をやらせてもらっている身だ。妻も素晴らしい人だから、おかげさまで、お金には困っていないのでね」

 彼は自信ありげに言った。その様子が、すこし、子供っぽいように見えたので、すこしからかいたくなりました。

「物で釣るつもりですか?」

「あ! いや、そんなつもりはなくてだな!」

 彼はまた、子供っぽく、焦りながら否定しました。なんとなくですが、やっぱりこの人は、不器用だけど、いい人なんだな、と感じました。頂いた文房具を使って、僕はワークをすらすらと解き進めました。その様子を、彼は興味深そうに見ていました。

 その三日後、今度は高そうなお菓子と、高校生向けのワークを持って、僕に会いに来てくれました。

「この前来た時、中学生向けだと、簡単そうに解いていたからな。高校生向けのものを買ってきた」

「ありがとうございます」

「お菓子もあるから、頭を使ったなと思ったら、好きに食べてくれ」

「はい」

 僕はページをめくり、目次を開きました。高校生向けの数学のワークのようでしたが、数学は特に得意でしたので、一ページ目から解き始めました。解いてはいましたが、さすがに高校生向けのということもあり、少し詰まるところもいくつかありました。武さんは、医者だと聞いていたので、きっと頭がいいと思い、尋ねてみることにしました。

「この問題、わからないんですけど」

「どれ……」

 武さんは、僕が指差した問題を見ました。武さんは書かれている数列を見ると、すぐに顔をしかめた。

「えっと……なんだっけかな……」

「……わからないんですか?」

「そうだな……」

 武さんは、申し訳なさそうな顔をしながら答えた。

「医者になるために、勉強はしたんだが、学力はぎりぎりだったんだ。簡単に言うと、私は勉強が出来なかったんだ」

「そうなんですね」

 なんとなく、僕を引き取りたいという、理由がわかった気がしました。きっと、自分にない部分を持っている人が、欲しいんでしょう。ただ、自分の弱さを認められる武さんに、僕はとてもいい印象を持った記憶があります。

「無理はしなくていいですよ。自分で考えてみます」

「ああ、お菓子も食べてくれよ」

「はい」

 そう言うと、僕はお菓子をつまみながら、問題に取り掛かかりました。



 それから、一月ぐらいですか、彼はかなりの頻度で、僕に会いに来ました。ワークのほかにも、本を買ってきてくれたり、将棋などの勝負事もやりました。大人に優しくしてもらう機会なんて、あまりなかったもので、僕は珍しく、子供っぽく楽しんでいたと思います。なんだか、楽しくなり、武さんを少しからかうなど、人間らしいコミュニケーションも取れるようになっていました。

 そして、ついに外出をすることになり、なにやら、高価なご飯屋さんに連れて行ってくれるとのことでした。お昼時、武さんが施設に迎えに来てくれました。私は玄関で待っていましたが、武さんの乗っていた車が、明らかに高いものだったので、本当にお金持ちなんだなと思いました。

 車に乗ると、助手席に乗せられました。実は助手席に乗るのは初めてだったので、興奮したのを覚えています。武さんは車に乗ってからは、あまり話さなくなりました。

「……車に乗ると、あまり話さないんですね」

 僕は、武さんに話しかけました。

「え? ああ、実は本当に車を運転するのは久しぶりでな、しかも運転得意じゃないから、話している余裕がないんだすまない」

 武さんは、しっかりとハンドルを握り、目をこれでもかと開き、とても早口で言いました。

 なんだか、真面目な大人が、いっぱいいっぱいになっているのがおかしくって、ふふふと笑ってしまいました。

 ご飯は焼肉でした。何やらとても綺麗な内装のお店に入り、メニューを見ると、とんでもなく高い値段の焼肉たちが並んでいました。

「……すみません、武さん」

「なんだ?」

「この量で、この値段なんですか?」

「そうだ」

 僕は兄と焼肉に行ったことが、一回か二回ありましたが、その時の五倍ぐらいの値段でした。

「ただ、一度食べると、もう忘れられないはずだ。好きなだけ食べるといい」

「でも……さすがにこれは……」

「もしかすると、親になるかもしれないんだ」

 彼はそう言いました。

「本当にこういった行為が、親として正しいかはわからないが、親っぽく振る舞ってみたいのだ。遠慮するな」

「……」

 僕は、僕を生んだ母や父には、このようなことを言われたことはありませんでした。それなのに、これから僕を引き取るかもしれない人。言ってしまえば、赤の他人の男の人が、こんなにも尽くしてくれるなんて、なんだかおかしな話だなと思いました。

「……なら、武さんが、僕に食べてほしいものを注文してもらえませんか? あまり、焼肉には来たことがないので」

「そうか。よし、じゃあ任せてくれ」

 そう言うと武さんは、メニューを少し見た後、店員さんに声をかけ、あれやこれやと注文していました。

 少しすると、たくさんのお肉と、お水が届きました。武さんは、それを焼いていきます。

「……もしかして、焼きたかったりするか?」

「……いや、大丈夫です」

「そうか」

 武さんは、そう言うと、肉を取って少しずつ焼いていきました。

「こうやって焼きながらでいいんだが、話したいことがあるんだ」

「はあ、なんでしょうか」

「実は、もっと早く言わなくては、ならないことだったんだが……」

「はい」

「実は、娘がいるんだ。君と同じ年代の子だ」

「はい」

「……君と馬が合うか、わからないし、君も住むことになるかもしれないから、うちに来て、娘とすこし遊んでみてくれないか?」

 僕はあまり、同じ年代の女の子と遊んだことはなかったので、少し不安でした。しかし、初めて、僕の身の上の話を聞いても、引き取りたいと言ってくれた、武さんの娘さんということもあり、断る気持ちにはなれませんでした。

「いいですよ。娘さんが僕を気に入るかも、わかりませんからね」

「……そうか、ありがとう」

 武さんは、心底安心した顔をした後、焼き終わったお肉をお皿に置いて、僕の近くに置きました。お肉は本当に美味しかったです。これを書いている今も、たまにこのお店に行っていますが、毎回、頬がとろけてしまうほどに、美味しいお肉が出てきます。



 武さんの家に訪問することになったのは、それから一週間後でした。

 また、武さんの不安な運転で、向かうことになりました。普段、使用人が運転しているらしいのですが、運転中に、僕との交流を少しでもしたいということで、運転されているそうです。

 かなり長い距離、車に揺られると、とても大きな豪邸が見えてきました。

「ここだ」

「……え? これですか?」

「ああ」

 武さんが指差したのは、明らかに、給料が高いとはいえ、お医者さんが建てられる大きさの家ではありませんでした。とても洋風の、綺麗な家で、広い庭があり、お城みたいでした。

「妻も素晴らしい人、と言ったが、実はファッションブランドを成功させた人でね。私の何倍も稼いでいるんだ。妻には頭が上がらないよ」

「はあ」

 本当に、裕福な家庭なんだなと、改めて思いました。

 車を降りて、玄関に向かうと、使用人らしき、年を重ねていそうな、執事がいました。恐らく、施設長と、同じくらいの年齢でしょう。六十前後でしょうか。

「武くん、彼が薫くんかい?」

「そうです」

 その執事は、武さんと仲良さそうに話していました。しかし、その執事は、決して敬語を使っている様子はありませんでした。

「そうか。私は凪徹。定年後、ここで執事、まあ、使用人……みたいなことをしている、おじいちゃんだ」

 その執事は、僕に丁寧に挨拶をしてくれました。おじいちゃんと言っていますが、かなり見た目は綺麗な人でした。若い頃は、きっと、さぞかし女性に好かれたことでしょう。

「出雲薫です。よろしくお願いします」

 僕も挨拶を返しました。

 その後、中に案内されると、広い廊下がありました。広い廊下に、等間隔に配置されている柱に、隠れてこっちを見ている女の子かいることに、僕は気が付きました。

「武さん。あの子ですか」

「ん?」

 武さんは、僕の視線の先見ると、女の子を確認したようでした。

「ああ、あの子が、私の娘だ」

 武さんは、その子を手で呼び寄せました。

 その子は、なんと言いましょうか、一言で言うと、とても綺麗な女の子でした。真っ黒な、綺麗な髪をしていて、その髪は艶やかで、肌も色白で、とても大切にされているのがわかりました。驚いたのは、大抵、僕は美しい女の人を見ると、母を思い出してしまうのですが、この子には、母を思い出させる要素がなかった事です。その子は、こちらに来ると、武さんの背後に周り、武さんの腕を掴み、恥ずかしそうに、不思議そうに、こちらを見ていました。

「この子は弥生、というんだ。仲良くしてもらえると嬉しい」

 武さんは、弥生さんを僕によく見えるように、自分の前に立たせました。武さんの紹介があると、弥生さんはちょこんと頭を下げました。

 挨拶すると、武さんから「弥生と家を回ってほしい」と言われたので、弥生さんと、二人で家を回ることになった。弥生さんは、僕をチラッと見ました。

「えっと、弥生です」

「はい。薫です」

 弥生さんはチラッと僕を見た後、すぐに目を逸らし、改めて自己紹介をしてくれました。

「適当に案内っていうか、回る感じでいいかしら?」

 弥生さんは丁寧な口調で言いました。珍しく、女性っぽい口調をしている女の子のようでした。

「はい。それでいいです」

「了解よ……じゃあ、ちょうど昼時だし、庭から行きましょうか」

 そう言うと弥生さんは、ゆっくりと歩き出しました。歩きながら、なんとなく思ったことがあります。普通、同年代の女の子は、少なからず、僕の事を好きなんだろうな、という目で見てくるのですが、弥生さんには、それはありませんでした。もしかすると、僕の身の上の話を、聞いているのでしょうか。

「弥生さんは、僕の話は聞いていたんですか?」

「ええ。聞いてましたよ」

「……暗い話はありましたか?」

「いえ? とても頭が良くて、綺麗な女の子みたいな男の子、と聞いてました。聞いた通りですね。女の子みたいでかわいいです」

「そうですか」

 彼女は、ニコニコしながら言いました。

 僕の身の上の話を、聞いているわけではないようでした。しかし、僕の事を、好きなんだろうな、という目で見ていない理由が、恐らく、僕を女の子みたいに見ているから、ということがわかりました。

「ここがリビング……みたいなものね。キッチンが近いから、ここで良くご飯を食べます」

「おお……」

 施設の食堂と同じくらいの大きさの、食堂のようなリビングがありました。この大きさのリビングを持っている家庭は、なかなかいないでしょう。

「まあ、テーブルとイス以外、何もないけどね。さ、そこすぐ行ったら庭ですよ」

 そう言うと、弥生さんは庭につながる裏口へ、歩いて行きました。

 庭に出ると少し秋を感じる寒い風が、吹いていましたが、日差しは暖かかったです。

「どう? いつも執事の人が、手入れをしてくれてるのよ」

「ええ、とてもきれいです」

「ふふ、でしょ?」

 弥生さんは楽しそうに笑いました。庭に紹介したいところが多いのか、かなりテンションが上がっているようでした。かなり広い花壇が、置いてあり、そこには花が咲いていました。

「この花は?」

 僕は、弥生さんには尋ねました。

「え?」

 弥生さんも、一緒に花壇の花を見ていたのですが、なぜか聞き返してきたので、僕はもう一度、もう少し丁寧に尋ねました。

「この花の名前はわかりますか?」

「……えっと~」

 弥生さんは左頬を持ち上げて、困っているような表情をしました。

「……わからないんですか?」

「ま、まあ! 綺麗なことはわかるわ!」

「それはそうですけど」

 弥生さんは人差し指を上に立てて、言いました。急に質問されて、答えられないのを見ていると、武さんと似たような雰囲気を感じました。もしかすると、この人も、武さんと同じで、あまり賢くなくて、不器用な人なのかもしれません。見た目はとても、そうは見えないのですが、そうかもしれません。

「別にわからなくても、私はこの花、好きよ? それだけでいいじゃない」

 また弥生さんは楽しそうに笑いました。わからなくても、好き。いいですね。馬鹿にしているわけとかではなく、それだけでいい、と割り切れるのは素晴らしいと思います。羨ましいです。僕は考えすぎてしまいますから。

「そうですね」

「でしょ? さ、今度は噴水を見に行くわよ」

 そう言うと、弥生さんは僕の手を引いて、歩き始めました。弥生さんはいつの間にか、敬語がどんどん薄れていました。結構、誰とでも自然と仲良くなれる人なのでしょうか。かなり距離が近くなるのが、早いように感じます。

 噴水の近くには休憩できるベンチがあったので、そこに座り、弥生さんと休憩をすることになりました。弥生さんは、携帯で何かを連絡しているようでしたので、気になって何を連絡しているのか、尋ねてしまいました。当時、私は携帯などを持ってはいなかったので、仕方がないことですが、これを尋ねることは、あまりよくないことだと思います。

「何を連絡しているんですか?」

「ん? ちょうどお腹もすいたところだし、せっかくだから、ここでご飯食べたいなって思ったから、徹さん……っていう執事の人に、サンドイッチをお願いしたのよ」

「なるほど」

「さ、待ってる間、あなたの事を知りたいわ」

「はあ」

「そんな顔しないで、おしゃべりするだけよ」

 弥生さんは顔を近づけてきました。改めて顔を見ると、本当に綺麗な顔をしています。お人形さんみたいで、いいなと思いました。

「歳は同い年らしいわね」

「そうみたいですね」

「そろそろ、小学生も終わりね」

「ええ。そうですね」

「何か思い出とかあるかしら?」

「うーん」

 川辺が死んだことと、兄が死んだことが印象に残っているのですが、初対面でそれを話すのは、あまりにも印象が悪すぎるので、できませんでした。修学旅行にも行っていないので、ここは適当に、運動会とでも言っておくことにしました。

「運動会ですかね」

「運動会ね。何年生の?」

「三年生ですかね」

「なにか一番でも取ったのかしら?」

 僕は足が速かったので、かけっこは毎回一番でした。

「かけっこで、一番でした」

「そう。足が速いのね。羨ましいわ」

「弥生さんは、足は速くないんですか?」

「運動も勉強もダメなのよ。私。ピアノとか、絵とか、そういうのはできるのだけど」

 弥生さんは、手を横に振りながら、言いました。

「見た目からすると、できそうですけどね」

「そう! そうなのよ! 本当に!」

「よく言われるんでしゅか」

「でしゅか?」

「む」

 珍しく、僕は言葉を、噛んでしまいました。

「ふふ。お茶目なところとか、雰囲気的にないかなって、思ってたけど」

「うるさいな」

「あら、気に障った?」

「そんなことはない」

「……ふふ、よかった」

 弥生さんは、とても安心したような顔をしていました。

 僕は、久しぶりにこうやって、僕をからかってくれる人に出会って、少しうれしいような、そんな気がしていました。

「なんで、少し、ほっとしてるんですか?」

「え? だって、なにも言い返さない子なんて、人じゃないみたいじゃない」

 人じゃないみたいじゃない。弥生さんは、そう言いました。今まで、僕は人間らしい扱いをされることは、あまりありませんでした。でも、今言われたことは、僕を人間だと見ているということでしょう。僕はとても嬉しかったです。

「でも、言い返してくれるってことは、少しは仲良くなれてるってことかしら?」

「そうですね」

「あら、うれしいわ」

 弥生さんは、笑いました。その後、たわいのない会話を楽しんだ後、執事さんが持ってきたサンドイッチを食べて、それから弥生さんと別れて、施設への帰路につきました。女の子と、こんなに自然体で話が出来たのは、初めてだったと思います。話していると、こんなに、僕は子供っぽいところがあるんだなと、感じました。



 次に小鳥居家を訪れたのは、一週間後でした。

 今回は、執事の徹さんが、施設まで迎えに来てくれました。

「いいんですか、後ろの席で」

「ああ、気にしないでくれたまえ」

「どうも」

 徹さんは、ゆったりとした手つきで運転をしている。

「そういえば、君は頭がとびきりいいらしいな」

「はあ、そう言われますね」

「そうか、うちの孫と、どっちが頭いいだろうなあ」

「孫ですか」

「ああ、自慢の孫でね……不幸だけど、よくやってくれているよ。本当に」

「不幸ですか」

「ああ、不幸だ。君もそうらしいな。詳しくは知らないが」

「ええ、とびきり不幸です」

「そうか、そうか」

 僕は、自分より不幸な人間なんて、いないものだと思っています。誰が張り合ってきても、世界一不幸なのは、自分だと、張りたくもない胸を張るつもりです。

「でも、ここで幸せになれるといいな」

「幸せですか」

「ああ、小鳥居家には、幸せになれるパーツが転がっていると思うぞ」

「そうですか」

 幸せになれるパーツ。それは兄でしたが、もう兄はいません。もしかすると、引き取られたら、見つかるかもしれませんね。



 家に着くと、弥生さんがすぐに出迎えてくれました。

「いらっしゃい」

「どうも」

「……いらっしゃいじゃなくて、お帰りなさいかしら?」

「まだ早くないか?」

「ふふ、そうね。さ、今日はやってもらいたいことがあるの。早く入りなさい」

 そう言うと、弥生さんは、僕の腕を掴み、引っ張りました。

 家に入ると、どんどん廊下を進んでいきました。

「やってもらいたいことって?」

 僕は引っ張られながら、尋ねました。

「勉強できるんでしょ? あなた」

「まあ」

「教えてほしいのよ」

「いいですけど」

「やった。もし断られても、何度でもお願いする予定だったから」

「はあ」

 弥生さんは、立ち止まると、部屋のドアを開けました。その部屋には、ベッドにぬいぐるみが置いてあり、テレビや本棚などがありました。これは、恐らく、弥生さんの部屋でしょう。

「さ、ここに座りなさい」

「うん」

 僕は言われた通り、学習机の隣の椅子に座りました。その隣に弥生さんも座りました。

 弥生さんがやっている勉強は、年齢相応のものでした。しかし、かなり苦戦しているようでした。この程度であれば、素直に解法や公式を教えれば、出来るようになると思ったので、教えると、ちょっと苦戦しながらも、解けるようになっていきました。確かに、勉強はあまりできないようですが、机に向かう弥生さんは、とても真剣でした。努力は良くしているようです。話に聞いたことですが、武さんとやはり似ているようです。

「はあ、こんなんじゃ、お医者さんにはなれないわね~」

 弥生さんは、伸びをしながら言いました。

「お医者さんになりたいんですか?」

「ええ、お父様みたいになりたいわ。こんな小学生の問題で躓いていたら、中学高校、どうなるのか心配なの」

「なるほど」

 もしかすると、武さんは、僕を引き取り、医者にしたいのかもしれません。勉強が苦手な弥生さんに、勉強を無理やりさせてでも、そこまで苦労をさせてでも、お医者さんにはさせたくないんでしょう。

「でも、疲れちゃった。時間は……うん。いい時間ね。なにか遊びたい気分だわ」

 弥生さんは席を立ち、テレビの近くに行きました。

「ねえ、ゲームしましょ」

「ゲームですか?」

「したことある? ゲーム」

「チェスとか将棋ならありますけど」

「テレビゲームとか、携帯機でゲームとかは? したことない?」

「ないですね。話は聞いたことありますけど」

「ならやってみましょ? ほら、コントローラー持って」

「はい」

 僕の手に渡されたコントローラーは、リモコンのような形をしている、細長い形状をしていました。

「これはこうやって、横に持つのよ」

「こうですか?」

「そうよ」

 僕は弥生さんと同じように、そのコントローラーを持ちました。

「来年の秋に、このゲーム機の後継機が出るみたいだから、遊び倒しておきたいのよね」

「そうなんですね」

 弥生さんは、とても楽しそうに言いました。

「せっかく二人だし、モリカーでもやりましょうか」

「モリカー?」

「レースゲームよ。2ボタンで進んで、この十字キーで進む方法を変えられるわ」

「はあ」

「大丈夫。やればすぐに慣れるわ」

 そう言うと、弥生さんは、そのゲームのディスクをテレビの下の棚から取り出して、そのゲーム機に入れました。するとゲーム画面が切り替わり、ゲームが起動しました。弥生さんに言われた通り、キャラクターとカートを選択し、レースが始まりました。最初は、慣れない操作に戸惑ってしまいましたが、弥生さんの手元を見ながら、やっていると、どんどんうまくなっていきました。

「もう十分上手ね」

「そうですか?」

「ええ。勉強だけじゃなくて、ゲームもできるのね」

「そうなんですかね。このゲームが得意なだけかもしれませんよ」

「そうね。まあ、またうちに来たら、別のゲームやりましょ」

「そうですね」

 テレビゲームをするのは、初めてでしたが、非現実というものを体験している感覚がして、とても心地よかったです。ゲームに熱中すると、嫌なことを忘れられるのも良かったです。

「ゲームは、自分で始めたんですか?」

「いいえ。友達に教えてもらって、お父様に買ってもらったのよ」

「そうなんですね」

 僕たちは、ゲームもひと段落付き、少しベッドで休憩していました。かなり熱中していたのか、久しぶりにかなり疲れている感覚を覚えました。

「そういえば、薫くんは、髪を伸ばしているのね」

「はい、そうですね」

 弥生さんは興味深そうに、僕の髪を見つめていました。

「触ってもいいかしら?」

「え? まあ、いいですけど」

「ありがとう」

 そう言うと、弥生さんは僕の髪に手を伸ばしました。初めて僕の髪を触りたいだなんて言われたので、変な人だな、と思いました。

「……少し、傷んでるわね。ちょっと待ってて、ブラシ持ってくるから」

「はあ」

 そういうと、机の引き出しから、なにやら高そうなブラシを持ってきました。

「髪、下ろしてもらっていいかしら」

「はい」

 僕は髪を結んでいたゴムを、ほどきました。

「……ああ」

 弥生さんは、とても小さな声で、何かを呟いていたので、気になりました。

「どうかしましたか?」

「……いえ。ちょっと髪を下ろしているところを見ていて、綺麗だなって思ったのよ」

「そうですか」

「いや? 綺麗に思われるの」

「いえ」

 かっこいいとか、言われるよりかは、綺麗って言われる方が、とても嬉しいです。かっこいいって言われるほど、男らしくないですし、綺麗って言われた方が、嬉しかったです。

「じゃあ、失礼するわね」

 そう言うと、弥生さんは、僕の髪にブラシを当て始めました。

「ヘアオイルとか、リンスとか、使ってるの?」

「いえ。施設にあるシャンプーだけですね」

「そうなのね。今度来た時、何かあげるわ」

「いえ、申し訳ないので……」

「だめ。もったいないもの。こんなに髪伸ばしてるのに、ケアしないの」

「そうですか……じゃあ、今度来た時に……」

「ええ。もらって頂戴」

 そう言いながら、弥生さんはとても丁寧に、まるで、赤ん坊に触るかのように優しく、ブラシを僕の髪に入れていました。

「そういえば、なんで髪を伸ばしているのかしら?」

 弥生さんはそう質問してきました。髪を伸ばし始めてから、かなりこの質問をされることが増えました。いつもなら、もし女の子として、生まれてきたら、きっと生きるのがもっと楽だっただろうから、せめて女の子に近づくために髪を伸ばしている、と答えるのですが、こんなにもよくしてもらっている、弥生さんを困らせるわけにはいけないな、と思ったので、はぐらかすことにしました。

「好きなので、伸ばしています」

 別に髪が長いのが、嫌いではなかったので、嘘ではありませんでした。

「そう。いいじゃない」

 弥生さんはそう言いました。

「いい、と思うんですか」

「ええ」

「なぜですか? 変じゃないですか」

「いいえ。むしろ、好きなことを素直に実行できるなんて、とても素敵じゃない? いいと思うわよ」

 また、弥生さんは、屈託のない笑顔で言いました。何と言いますか、僕に対して、気があるから誉めているというわけでもなく、心からそう言っているように感じました。

「ありがとうございます。弥生さん」

「いいえ……う~ん」

「どうかしましたか?」

 僕がそう聞くと、弥生さんは、僕の正面に座ってきました。

「なんで敬語なの?」

「え、ダメですか?」

「敬語は別にいいけど……弥生さんはやめてほしいわね」

「はあ、そうですか」

「じゃあ、私は薫って呼び捨てにするわ。薫も私の呼び方を決めてほしいわ」

「そう言われても……」

 女の子の名前を呼ぶことなんて、あまりないので、とても困りました。少し悩んでいると、弥生さんは僕の頬を、両手でつまみました。

「ふにゃ!」

「もう、早く決めなさいよ」

「ん~!」

 悩んでいるのです、と言うにも、顔をつままれているので、言えませんでした。

「じゃあ、よいちゃんね。よいちゃんって呼びなさい」

 弥生さんは、頬をつまんでいた手を離しながら、言いました。

「よいちゃんですか」

「ええ。かわいいでしょ」

「はあ」

「なに? 嫌なの?」

「ふふ。いいえ。じゃあ、よいちゃんですね」

 僕は弥生さん……ではなく、よいちゃんの顔を見ながら言いました。

「あら、初めて私の前で笑ってくれたわね」

「え……笑ってましたか?」

「ええ。笑ってたわ」

 笑っていた、と言われました。僕は滅多に笑うことはなかったので、今まで、笑っているなんて、言われたことはありませんでした。

「うれしいわ。笑ってくれて」

「……そうですか」

 なんだか、照れくさくて、小さい声で返事をしました。

 それから、よいちゃんと武さんに会いに行くたびに、ゲームをすることが増えました。二人で協力するゲームや、対戦するゲーム、シナリオを読むゲームなど、たくさんのゲームをやりました。ゲームをするたびに、だんだん、僕も、自分でもわかるくらいに、少しだけ、雰囲気が、明るくなったと思います。

 そして、小鳥居家に通い始めてから、三か月が経った、秋ごろ。僕は初めて、小鳥居家に泊まることになりました。夕方に家に着いた僕は、いつも通り、よいちゃんに玄関で迎え入れられ、持ってきた着替えなどが入ったバッグを、空き部屋に置くと「夜の庭を回ったことないでしょ? 回ってみない?」と言われたので、そのまま上着を着たまま、庭に出ることになりました。確かに、夕方や夜に、小鳥居家を訪れたことは、ありませんでした。

「街灯が綺麗でしょ?」

「そうですね」

 庭のすぐ外には、通りがあり、そこに設置されている街灯が、庭の花や、噴水に反射して、とても綺麗でした。

「これが家なんですよね。施設の庭より大きいですよ」

「そうね。まあ、大きいと手入れに時間かかるから、大変だって言ってたわ」

「武さんが?」

「いえ。徹さんが」

「ああ……」

 話によると、徹さんはほとんど毎日いる使用人だそうです。ほかの使用人は、非常勤で、入れ替わりで入ったり、週一で入ったりなどしているそうです。

「でも、なんだかんだ、楽しそうに務めてくれてるし、勉強まで見てもらってるから、私としては、ずっと居てもらえるなら、居てもらいたいのよ」

 よいちゃんは空を見上げながら言いました。空に星はほとんど見えませんでした。都会なので、仕方のないことです。

「そうだ。今日泊まるんでしょ?」

「ええ」

「ご飯は一緒に食べるとして……寝る時は一緒に寝る?」

「え」

 僕は口をぽかんとさせて、よいちゃんのほうを振り向いてしまいました。一応、男と女なのです。確かに、僕は女の子みたいと言われたり、女の子と間違えられることもありますが、一緒に寝るのは、どうかと思います。

「いやなの?」

「いやじゃないです。でも一応男子と女子ですよ?」

「うちに住むことになるかもなんでしょ? それくらい普通じゃない?」

「……うーん」

「ね。いいでしょ?」

 そういうよいちゃんの表情からは、下心の一つも読み取れませんでした。恐らくですが、この時のよいちゃんは、心の底から、家族になるかもしれないから、親交を深めようとしていただけだと思います。

「そうですね。別にいいですよ」

「ふふ。嬉しいわ。お風呂は?」

「お、お風呂! 嫌です!」

 僕は思いもしないことを聞かれたので、足を止めて、少し声を大きくして言いました。

「冗談よ。さすがに私も少し恥ずかしいし」

「な、なんだ。よかった」

 僕は深呼吸をして落ち着くと、また歩き始めました。

「突然だけど、何か好きなことはある?」

「好きなことですか?」

「そうよ」

「好きなこと……」

 言われてみれば、楽しいと感じるものは、ありましたが、好きなことかと言われると、別に嫌いではありませんでしたが、好きというわけでもありませんでした。ほかにやることがないし、嫌な記憶を忘れることが、一時的にですが、出来たので、やっていただけでした。

「ないの?」

「うーん」

「私はね、ゲームと……絵を描くのが好きよ。何かのデザインとかを考えるのも好き」

「……そう言われると、ないかもしれません」

「そう? ゲームは?」

「嫌いではないです。でも……今まで一番好きだったものと比べたら……好きではないです」

「あら、好きなものがあったのね」

「ええ」

 兄と比べると、別に何も好きにはなれませんでした。

「それはダメね。好きなものの一つくらいないと」

「なぜですか」

 僕はよいちゃんに尋ねました。確かに好きなものがないのは、いけないことだと、なんとなく思いましたが、よいちゃんが具体的に、どうしていけないと思っているかが、気になったのです。僕は、小鳥居弥生に、興味を持ち始めていたのです。

「楽しくないからよ」

 彼女はそう言いました。とても笑顔でそう言いました。

「好きなものがないと、人生は楽しくないわ!」

 僕の前で、大きく手を広げ、踊るように回りながら言いました。

 好きなことがないと、人生が楽しくない。彼女はそう言いました。確かにそうかもしれない。単純明快ですが、よいちゃんぐらい素直な子じゃないと、声を大きくして言えないことかもしれません。

「好きなものがないのは、とても悲しいことよ」

「そうかもしれないですね」

「薫の好きなもの、探しましょ。私も手伝ってあげるわ」

「いいんですか?」

「もちろん」

 よいちゃんは、にこやかに言いました。

 こんなにもよくしてくれる、この人に、何かしてやりたいという気持ちが、少しだけ湧いてきました。こんな気持ちになったのは、初めてかもしれません。兄に対して、こんな気持ちが湧いてきても、良かったと思いますが、あの頃はそんな、何かしてやりたいと思う、余裕はなかったので、初めての事だと思います。

「……っくしゅ」

 よいちゃんは、くしゃみをしました。よく見ると、僕に比べて、よいちゃんは、とても薄着でした。今は秋の夜なので、寒いのも当然です。

「はい」

「え?」

 僕はよいちゃんに、上着を脱いで、渡しました。普通は、上着をかけたりするのかもしれませんが、慣れていなかったので、渡すことを選択しました。

「寒いんでしょう」

「ふふ。そうね。ありがとう」

 よいちゃんは渡された上着を、手に取ると、そのまま僕の手を引いて、引き寄せました。

「わ」

 僕はそのまま身を任せると、よいちゃんに渡した上着の中に、僕とよいちゃんが収まっていました。僕はよいちゃんに、後ろから抱かれているような体制になっています。普段なら、女の人に、かなり近寄られたり、体を合わせたりするのは、母を思い出してしまって、取り乱してしまうのですが、よいちゃんに対しては、特に何も取り乱すことはありませんでした。むしろ、なんだか安心しました。

「これなら、二人であったかいでしょ?」

「そうですね。でも歩きにくいです」

「あら、そうね……時間もいいし、戻りましょうか」

「そうですね。上着はどうぞ。僕は今まで上着を着ていた分、あったまっているので」

「ありがとう。じゃあ、行きましょ」

 そう言うと、よいちゃんは僕の上着に袖を通しました。

「……ん……」

 よいちゃんは少し、袖を通すと、僕の服に、顔を近づけて、まじまじと見ているようでした。

「なにか、ありましたか?」

「え、いいえ。何もないわ。行きましょ」

 そう言うと、いつもより早く、よいちゃんは歩き始めました。その隣を歩くと、よいちゃんから、暖かい空気を感じることが出来ました。



 そして、暖かいご飯を食べて、お風呂に入り、僕とよいちゃんは、客人室で寝ることになりました。というのも、一緒に寝るとは言ったものの、さすがに同じベッドで寝るわけにはいきませんでしたので、客人室で、別々のベッドに寝ることになったのです。よいちゃんには、別に一緒でいいと言われましたが、僕がまだ、慣れていませんでした。

「どう? うちで半日過ごした感想は」

「楽しかったですね。これで、学校にも行って帰ってくると考えると、退屈しなさそうです」

「ふふ、よかった」

 僕とよいちゃんは二つのベッドを使って、横になっています。びっくりするくらいに、布団は身体に馴染み、枕はとても柔らかく、気持ちよかったです。

「疲れた?」

「そうですね。特に疲れることは、してませんが、慣れない環境だったので」

「そう。ならぐっすり眠れそうね」

 目が慣れてきて、横を向くと、壁の模様が見えてきました。消灯してから、時間がたったようです。

「妹はどう?」

「いや、まず妹がいたことに驚きましたけど」

「まゆを見たときの、あの反応だとそうよね。薫が来てた時は昼間だし、まゆは昼間から夜まで習い事か、遊びか学校でいないから……」

 彼女の言う通り、小鳥居家にはよいちゃんの妹もいました。まゆ、という名前です。よいちゃんも、武さんも一度も妹の事なんて話さなかったので、ずっとよいちゃんは一人っ子だと思っていました。使用人がいたり、家が大きいのも、気がつかなかった理由の一つだと思います。武さんやよいちゃんにとって、妹がいることなんて、当たり前の事なのも、僕が勘違いしていた、要因でしょう。

「武さんからの話を聞いた限り、てっきり一人娘かと」

「私もだけど、お父様、意外と抜けているっていうか、話すのが少し下手っていうか……不器用っていうか」

「まあ、全然いい子だったので、構いませんけどね」

「そう、良かったわ。でも、たぶんあの子は自分のこと優先する子だから、薫の事は気にしないかもね。私のことも、あんまり気にしてないし」

「そうですか。それなら、遠慮しなくていいので、助かりますね」

 改めて、小鳥居家を見ると、確かに、僕を幸せにしてくれるパーツが、あるのかもしれないと、そう思いました。

「お泊りもしたことだし、そろそろうちに住むことになるのかしら」

「どうなんでしょうね」

 そろそろ僕は中学生になります。中学に入るというタイミング的には、そろそろ住むことになった方が、都合がいいでしょう。

「もし、僕が住まないって言ったらどうしますか?」

 僕はよいちゃんに尋ねました。もうほとんど、気持ちは決まっていましたが、少し意地悪をするつもりで尋ねました。

「嫌」

 思ったより、早く返答が来ました。

「私はあなたと過ごしたいわ。楽しいもの。なんでも一緒にしてくれるしね。これからも、一緒に居たいわ」

 よいちゃんは、穏やかな声で言いました。それは、かみしめるように言っているようにも感じました。僕はとてもうれしい気持ちになりました。はっきりと、なぜだかわかりませんでしたが、恐らく、誰かに必要とされた、初めての経験だったからでしょう。兄に、必要とされていたのかは、わかりませんが、あの時はそんなことを考えている暇がなかったので、仕方がありませんでした。一緒に居たいなんて、僕は嬉しいです。

「そうですか」

「そうです」

「……前向きに、考えておきます」

「ふふ。ありがとう」

 そう言うと、よいちゃんは、話さなくなりました。きっと眠りについたのでしょう。

 僕も、寝ようと思います。



 それから、次に武さんが施設に来た時に、改めて「お前の頭脳を活かしたい。うちに来て、好きに過ごさないか?」と聞かれました。僕を本気で引き取ろうとしてくれる家庭は初めてだったということと、武さんや、よいちゃん、まゆちゃんと仲良くやっていけそうなこと。そして、よいちゃんに言われたことを理由に、僕は武さんの提案を受け入れました。引き取られることを決めたのです。

 荷物を纏めて、施設を出ました。施設を出る時、見送ってくれたのは、三島と施設長だけでした。普段なら、施設全員で送り出していたはずですが、僕はひどい人間なので、仕方がありません。家に着くと、よいちゃんとまゆちゃんと武さんが迎え入れてくれました。みんなに手伝われながら、僕の部屋になるところのセッティングをしました。僕は、鏡を置かないことを、一番に気を付けました。武さんは、なんとなく理解をしてくれていましたが、よいちゃんは不思議そうな顔をしていました。自分の顔が嫌いでしたし、見たくもなかったので、施設ではかなり気を張っていました。薬も苦手なことを伝えました。葉っぱや煙も、本当は苦手でしたが、さすがにそれらを見ないで生活するのは、不可能なので、諦めました。

 小鳥居家での生活は、楽しいものでした。僕は、小学校にはもう行っていなかったので、昼間は一人で勉強や、徹さんと家事をしていました。しかし、夕方になると、よいちゃんとまゆちゃんが帰ってくるので、ゲームをして遊んだり、アニメを見たり、ピアノを弾いているところを見たり……たくさん楽しいことをしました。よいちゃんは優しかったです。でも、よく人をからかう人でした。からかう人でしたが、そこには、愛情みたいなものを感じました。僕はそんなよいちゃんに、タジタジになることが多かったです。でも、なんだかうれしかったです。

 そして、僕は中学生になりました。

 中学に入学すると、すぐに髪が長いことに皆、言及してきました。最初は、よいちゃんに聞かれた時のように、好きだからと答えていましたが、だんだんと、鬱陶しくなってきました。あまりにも聞かれるし、髪が長いことからくるからかいも、エスカレートしてきた気がしたので、僕は、武さんに相談してみることにしました。事を話すと、武さんは、自分の髪を触りながら、言いました。

「なら、私も髪を伸ばすことにするよ」

「……なぜですか」

「親が伸ばしていたら、子供が伸ばしていても、不思議じゃないだろう」

「……そういうものなんですかね」

「わからんが、やらないよりはマシだと……思う。もし、これから聞かれたら、親が伸ばしているからと言いなさい」

「はい。ありがとうございます」

 武さんは、そう言うと、本当に髪を伸ばし始めました。武さんが髪を伸ばすと、容姿が少しだけ似るようになって、親子のように見られることも、ほんの少しだけ増えました。

 よいちゃんや武さんには、一緒に暮らし始めてからも、とてもよくしてもらいました。もしかすると、家族なら当然なのかもしれませんが、僕はその当たり前がなかったので、とてもありがたいことでした。少しだけ、真人間になれたような気がしました。

 そんな彼らに、お礼がしたくなりました。ただ、何をすべきか、わかりませんでした。わからないなりに、考えを巡らせました。いろんな本や、ゲーム、アニメもよいちゃんと見たりしていたので、それを参考にしたりしました。たどり着いた答えは、執事でした。徹さんを見ていて、使用人や執事というのは、形からわかりやすく、誰かのために何かする職業なので、僕の都合にぴったりでした。武さんと徹さんに相談をすると、執事っぽい服を用意してもらいました。ごっこ遊びみたいなつもりだったので、少し大げさだなと僕は思ったのですが、せっかくだからと用意してもらいました。白いワイシャツを着て、上着を着ると、本当に執事になったような感覚になりました。まあ、自分で自分の姿は見てはいませんが。それから、よいちゃんの事はお嬢様と呼ぶようになりました。よいちゃんは、別に嫌がる様子もなく、お嬢様と呼ぶことを受け入れてくれました。

 中学には、武さんと仲の良い家庭の子供が二人いました。一人は黛と言いました。黛という名前は、苗字ではなく、名前でした。苗字は凪でした。徹さんのお孫さんだそうです。初めて会ったときから、なんだか僕と同じ匂いがしました。武さんから、彼の話を聞いたとき、それはなぜか、わかりました。彼は、バス事故で、両親を失ってしまったそうです。ただ、別に虐待を受けているわけではなかったそうなので、僕よりは、明るいしっかりとした子でした。

 また、かなり大人っぽい人でした。頭もよく、勉強しているところを見たことがないのに、成績はとても良い人でした。とても頼りになる人で、体も大きかったため、僕もたまに頼ってしまうぐらいには、頼りになる人でした。ただ、自分から積極的に友達を作ったりするような人では、ありませんでした。何と言いますか、大切な人を増やすのを、恐れているようにも感じました。

 もう一人は中村蜜柑と言いました。武さんと、蜜柑さんの父親と仲がいいそうです。蜜柑さんは、普段はほんわかとしていますが、たまにわがままな一面のある人でした。とても明るい人で、僕は蜜柑さんには、絆されることが多かったです。蜜柑さんも、黛と同じバス事故で母親を失ったそうです。それでも、とても明るい人だったのです。

 そんな似た境遇の二人と、仲良くなり、関わり始めたからでしょうか、僕は少しだけ人間らしく、子供っぽくなりました。僕を受け入れてくれる人が、増えたのも大きな要因でしょう。感情も増えました。少しだけ、笑えるようになったのです。

 ですが、普通に接してくれるのも、少し申し訳なかったです。なぜなら、彼らは、僕に起こった過去の事を知らないからです。演じていたのです。過去に何もなかったかのように、何も話さないでいたのです。

 ただ、少しだけ思うことがあります。何も演じずに、そのままの姿で、愛されている人は、この世にいるのでしょうか。



 少しだけ、真人間になりましたが、僕はまだ記憶に、過去に囚われたままなのです。トラウマは拭い切れてはいません。これを書いている今でも、薬を見ると、ドキドキします。鏡も苦手です。カメラも苦手です。お腹を咄嗟に触られると、ドキドキします。

 そんな僕も、高校生になります。

 この前、よいちゃんには、僕の過去を話しました。僕自身が、過去をよいちゃんに隠しているのが、耐えられなくなってしまったからです。よいちゃんは、僕が自分自身の過去について話すと、泣きながら、抱きしめてくれました。

「なんとか……私が何とかしてあげるから……」

 よいちゃんは、そう言いながら、さらに強く抱きしめてくれました。

 高校という、新しい場所で僕を救ってくれるような人を、見つけられるといいなと思っています。しかし、僕を救ってくれるような人は、いい人に決まっています。そんないい人を、傷つけるようなことがあれば、僕は今度こそ、辛くて、死んでしまうと思います。僕を助けるために、その人が傷つくなら、僕は死んだ方がいいのです。

 これを読んでいる諸君。僕の過去を見て、君たちが、何を思うかは、わからない。こんなにも不幸な人間が生きているのだから、自分も生きようと思ってくれたなら、ありがたいです。しかし、もしかすると、自分のほうが、よっぽど不幸じゃないか、と思ってしまったかもしれません。でも、何かしら、僕のようにならないように、参考にしてくれると、嬉しいです。これを書いた価値というものが、あるというものです。

 それでは、また、いつか。さようなら。

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