第21話 夾竹桃

 夕方の暗くなる直前に、学校に来るのはかなり珍しい。

 いつもより電車に乗っている人が少なかったり、乗っている人の客層が違う。

 年配の人や、早めに帰るであろう社会人。大学生と思われるカップルなど、朝、電車で見かける人とは違う人ばかりを見かける。

 電車を降りると、いつもより暗い仙川駅に、少しわくわくした。

「へいへい」

「ん? なんだ林田か」

「一緒に行こうぜ~クリイベ~」

 林田は手を振りながら、こちらに来る。

「はいよ」

 俺と林田は歩き出す。

「林田、今日演劇すんのか?」

「今日はなんとするぜ」

「まじかよ」

「なんてったって、今回はコメディだからな。蜜柑が王子様も魔女もやんね~し、俺の出る幕があるってこと」

「なるほどな……っていうかお前、蜜柑に役取られてるんだな」

「当たり前だろ。蜜柑のほうが演技うまいし、顔もいいしな。そして何より、声がいい」

「なるほどな。声は大事か」

「あと男だと、キザな役やりにくいんだよな……男役の女子のほうが、ヒロインの女の子を相手にするとなると、女の子同士ってこともあって、ちょっとかっこいいセリフ言いやすいんだ。変な雰囲気にならないっつーか」

「あ~確かに! めっちゃ納得したわ……」

「宝なんとかが人気なのも、そういうのが関連してるんだろうな」

 昨日、車に轢かれそうになり、死にかけた信号を渡る。

「そういや、今日出し物ほかにもあるらしいけど、何があるか知らないんだよな」

「そうなの? 林田たち以外にも出し物やるやついるのか」

「誰がやるんだろうな。心当たりあるか?」

 信号を渡ると、相変わらずの狭い道が続く。

 正面から人が来たので一列になる。

「う~ん。意外と一芸持ってるやつ少ないからな。俺含め、周りにいるやつ。強いて言うなら若葉くらいか」

「若葉ちゃんね。文化祭でごりごりギター弾いてたしあり得るな」

「若葉はマジで文武両道だし、何でもできるんだよな……羨ましい」

 俺たちは校門を通る。そして校庭に向かう。

 少し早めに着いたということもあり、生徒はぼちぼちいた。

「校庭では、演劇部以外の出し物があるらしいな。演劇部は最後に、体育館でやるんだと」

「なるほどな」

「ちなみに、食い物は体育館にあるぞ。先に見に行くか?」

「い~や……俺はこの後、たんまり食べる用事があるので」

「そっか。というか何時から何が始まるのかとか、知らねえんだけど……しおりとかないのかな」

「ないけど、私が教えてあげるわ」

 後ろを向くと弥生がいた。

「あと十分もしたら、生徒会長が挨拶するから、それからは出し物とか見ながら、適当に遊んでおしまいよ。出し物の演目は放送で流れるから、興味があったら見ればいいわ」

「なるほどな」

「ありがとう弥生さん」

「いいのよ。楽しんでいってね。二人とも」

「ああ」

「もちろん!」

 そういうと弥生は去っていった。



 生徒会長のあいさつが終わった後、生徒たちは一斉に行動し始めた。体育館に行く人、校庭に残り、出し物を待つ人などいろいろだ。

 林田は演劇の準備があるということなので、俺はまた一人になった。

「はい一人になったところ、失礼するわよ」

「あ、またお前か」

 弥生はいつもの制服に身を包んでいる。

「なに? 不満なの? チェンジってことなの? ならいいわ。じゃあね」

「違う。どうしてそうなるんだ!」

「はいはい嘘よ。私も一人だから、声掛けに来ただけ」

 弥生は笑顔で答える。弥生は結構笑う方だが、今日の笑顔はなんだかいつもより輝いて見える。

「あっそ。えらい機嫌よさそうだな。何かあったのか?」

「そう、聞いて。薫が今日はなんだかやる気でね。未来を喜ばせるんだ~そのためには僕が頑張るんだ~って躍起になってたのよ」

 弥生は楽しそうに話す。

 昨日、俺が言ったことを、しっかりとやってくれようとしてるようだ。

「良かったじゃん」

「ええ、やっと薫が自分から動き出してくれてうれしいわ。今まではあんまりそういうことなくて困ってたのよ」

「薫、あんまり人にあーしたいこーしたいとか言わなさそうだしな」

「そうね。あ、そう。それで、校庭での出し物のトップバッターはね。若葉ちゃんと薫なのよ」

「え?」

 今、若葉と薫って言ったよな?

「な、なにすんの? 文化祭だと、黛と菊池くんとで、バンドしてたけど……」

「若葉ちゃんによると、アイドルっぽいことするらしいわ」

「アイドルっぽいこと?」

 アイドルっぽいこと。まあ歌ったり踊ったりだろうけど……。

「まあ見ればわかるでしょ。楽しみね」

「楽しみだけどさ……二人とも歌えるのは何となくわかるけど、踊れるのか?」

「さあ?」

「おいおい」

「あ、来たわよ」

 ステージには、制服を着た若葉と薫がいる。

 マイクの前で目を瞑りながら、視線を横に外し、立っている。

 本当にアイドルっぽい。

「ちなみに、あれをやろうってどっちが誘ったんだ? 聞いてるか?」

「若葉ちゃんかららしいわ。薫とやりたい曲があったらしいの」

「へえ……本当に変わったよな。若葉」

「そうね。一年の頃の若葉ちゃんが思い出せないくらいには、変わったわ」

 弥生は、ステージを見ながら言った。

 偶然にも、俺たちは、ステージの正面から、かなり離れた位置に立っていた。

 人が密集しているところから距離があったため、二人の様子がよく見える。

「薫も……変われるといいのだけど」

 弥生はぼそっと言うと、伴奏が始まった。

 音楽には詳しくないが、シンセサイザーのような音から始まるその曲は、いわゆるアニメソングのようだった。

 疾走感があり、見ている生徒たちは腕を挙げて、リズムに乗っている。

 若葉と薫は交互に歌ったり、一緒に歌ったりしながら、いつどこで練習していたのかわからない踊りをしている。キレもあり、本当にアイドルみたいだった。

 薫は泣きそうな顔で歌っていたが、一方若葉は、少しだけ微笑みながら歌っていた。

 歌詞は決して明るくはなかった。しかし、アップテンポな曲調のおかげか、歌詞の暗さは消えていた。

 歌い終わると、見ていた生徒は大きな声をあげ、二人に届ける。

 拍手も起こり、その拍手はかなり長い間、鳴り止まなかった。

 薫と若葉は軽く礼をすると、拍手が鳴っているうちにステージを後にした。

「すごかったわね」

 拍手が鳴りやむと、弥生が話しかけてきた。

「そうだなぁ……いつ練習したのやら」

「もしかすると、ほとんど練習してないのかもね」

「うわ……ワンチャンあるわ……」

 あいつらの文武両道っぷりを見ると、もしかしたらあるかもと、思えてしまうのが恐ろしい。

「弥生せんぱ~い!」

 遠くから、弥生を呼ぶ声がした。

 弥生と同じくらいの背丈の女子生徒が寄ってきて、弥生に話しかける。

「なにかしら」

「あの、思ったより来てくれる生徒が多くて……体育館のスタッフの人数が足りないんですけど……あの……」

 その女子生徒は申し訳なさそうな顔で、言い淀んだ。

「いいわよ。私も手伝うわ」

「……すみません……せっかく二年生はそろそろ受験だから、当日は仕事なしって意気込んでたのに……」

「別にいいわよ。気にしないで」

「ありがとうございます。じゃあ、体育館のポテト配ってるところ、手伝ってあげてください!」

「了解よ」

 弥生が返事をする。

「じゃあ、お願いします!」

 その女子生徒は小走りで去っていった。

「さ、あなたも行くわよ」

「……だろうな……連れてかれると思ったわ……」

「別にいいでしょ~いつもこうやっておせっかいしてるわけだし」

 もはや、日常茶飯事である。

「まあな。さ、行こうぜ体育館。ポテト配るんだっけか」

「ええ。行きましょ。かわいい後輩の頼みよ」

 こうして俺たちは、体育館に向かった。


 体育館に向かうと、確かにかなりの人がいた。

 まるで社交パーティーのようだった。

 体育館に入ると、すぐさまポテトを配っているところに向かい、忙しそうにしている人たちの仲間に入り、コップに入っているフライドポテトを配る。

「すみません、演劇の照明のセッティングがあるんですけど……」

 もともとポテトを配っていた生徒が、弥生に言う。

「気にしないで行ってらっしゃい。助け合いよ、こういうのも」

「ありがとうございます先輩!」

 弥生は、完璧な笑顔で答える。

「……お前……マジで完璧な先輩だよな」

「あら」

「ぱっと見」

「ねえ」

「実は、成績下から数えた方が早いようには見えないな」

 こんなきれいな見た目で、完璧な先輩なのに、なぜかどうしてか、弥生は勉強ができない。

 逆にこれで勉強までできたら、超人だけど。

「……はあ……勉強だけはできないのよね……」

「結構努力はしてんのを、俺は見ているわけだけど、なんでだろうな」

「ホントよね。これじゃ医者になれないわ」

「へえ。医者になりたいのか」

「そうね。お父様みたいな医者になりたいって気持ちもあるわ。はいどうぞ」

 弥生はポテトを来た生徒に手渡す。

 五、六人集団だったので、人数分になるように俺も渡す。

「ありがと!」

「いいえ。どういたしまして~楽しんでな~」

 俺は、その集団を送り出す。

「なりたい気持ちってことは、ほかにもなりたいものあるのか?」

「お洋服作る仕事したいわ。まあ、デザイン系の仕事ね」

「へえ……お前、結構センスいいもんな」

「まあね。お母様もアパレルブランド成功させているわけだし、母の後を追いたい気持ちもあるのよ。難しいわね。早く決めないとなのだけど」

 そういや、弥生の母親はアパレルブランド経営してんだっけ。

 弥生の母さんにはそういえば、会ったことがない。忙しいのだろうか。

「まあ、まだ時期的にギリギリ悩んでいても平気だろ。まだ悩めよ」

「そうね。そうするわ」

 体育館は、テンションの高い生徒が集まっているためか、寒くない。

 至る所で、生徒が盛り上がっている。

 自撮りをしたり、話をしたりして盛り上がっている集団もあった。

「あれ? 進くんと弥生ちゃんじゃん」

「ホントだ~。こんな時までお仕事なんて大変だね~」

 話しかけてきたのは、柏木さんと森田さんと赤城さんだ。

「そんなことはないわよ、ここで見ているだけで意外と楽しいものよ」

「そっか~。あ、ポテト貰っていいかな?」

 森田さんは、ポテトを一つ指さす。

「はいよ」

「わ~い進くんありがと~」

 俺は、森田さんにポテトを手渡す。

「二人はどう?」

 弥生は両手にポテトを持って、二人に尋ねる。

「私はいいかな……修学旅行で太ったし……」

「ありゃ、じゃあ柏木はもらいますよ?」

 赤城さんはどうやら、体重を気にしてお断りらしい。柏木さんは、弥生からポテトを受け取る。

「どうも~」

「本当にいいのかい二人とも」

 赤城さんは腕を組み、目を瞑り、何かを悟ったように言った。

「なにがだい赤城」

「私たちが食べているからって、気を悪くしないでよ」

 森田さんと柏木さんは、赤城さんに言う。

「ふ……君たちはこれから先の伝統的イベントを知らないのかい?」

「何が言いたいんだ赤城……」

 柏木さんはポテトを口に放り込みながら、赤城さんに尋ねた。

「クリスマス……家でもチキンやターキーやバード……」

「いや全部鳥だそれ」

 俺は我慢できなくなり、赤城さんにツッコむ。

「お正月……お餅……おせち……寝正月……増える体重……」

「は!」

「あ……」

 柏木さんと森田さんは、赤城さんの言ったことに驚いているようだ。何かに気が付いたらしい。

「これから太るかもしれないイベントが山盛りなのには気が付いたかな……私はここで空腹を貯金しておくのさ……愚かな子娘たち……」

「くっ……しかし、今は食欲が……勝ってしまう……」

 柏木さんはポテトを持っていない手で、頭を抱える。

「うわあ! 考えたくない~! 頭がおかしくなる~!」

 と森田さん。

 そのまま「うわ~!」と言いながら、三人はどこかへ去っていこうとする。

「あ、ありがとう二人とも」

 柏木さんは去っていこうとしていく途中で振り向き、俺たちに言った。

「ありがとう~」

「二人も楽しんでね~」

 森田さんと赤城さんもこちらを振り向き、俺たちに言った。

「は~い」

「そっちも楽しんでな~」

 俺たちは、三人を見送った。

「……なんだったんだ、あのコント」

「部屋でもあんな感じだったし、いつもあんな感じなんじゃないかしら」

 弥生はそう言いながら、彼女らの背中を眺める。

「ふふ、いいわね。賑やかで」

「そうだな」

 それから、少しすると、今度は久米さんと若葉が訪ねて来た。

「お、若葉じゃないか、さっきはお疲れ様」

「えへへ、どうも」

 若葉は少し疲れているようで、髪が少し乱れていた。

「久米さんもどうも」

「どうも~弥生さんもどうも~」

「どうも~」

 久米さんは、ふにゃふにゃと手を振る。

「若葉、めっちゃよかったぞ。さっきの出し物」

「へへ……ほとんど付け焼き刃だったけどやってよかった……」

「付け焼き刃だったんだな」

「うん。私がどうしてもやりたくてさ。私はちょっと練習してたから、良かったんだけど、でもペアで歌う曲だから、誰か、サッとやったらすぐできる歌のうまい人いないかなって思って探したら……」

「なるほどね……確かに若葉ちゃんと仲良しの子だと、薫ぐらいしかいないわね」

「そゆこと」

 若葉は、ウインクしながら答える。

「蜜柑くんは? 蜜柑くんも出来そうだけど」

 久米さんが若葉に尋ねる。

「そう。その選択肢もあったんだけど……演劇で忙しいかなってね」

「そか、そりゃそうだ」

 久米さんは、頭を掻きながら納得する。

「というかポテト頂戴! お腹すいた!」

「私も!」

 二人は手を挙げながら言った。

「はいよ」

「はいどうぞ」

 俺は久米さんに、弥生は若葉に渡す。

「ありがとう~」

「いただきます」

 若葉は、一気に数本を口に入れる。

 そう言えばこいつ、大食いなんだっけ。

「若葉、一つで足りるか? まだ結構あるぞ」

 俺は若葉に提案する。

「えっと……う~ん」

 若葉は、周りをきょろきょろと確認する。

 俺と久米さん、弥生はその様子をニコニコしながら見ている。

 周りを確認した若葉は、俺に手をくいくいと動かしながら、

「……もらえるなら……あと五カップ……ほしい……早く……」

 と小さい声で言った。

「ほいほい」

 俺は、若葉に次々とカップを渡す。

「ありがと……よっと」

 若葉は複数のカップに入っているポテトを、二つのカップにまとめると、次の瞬間口を上に向けて、ポテトを流し込んだ。

 結構衝撃的な絵だったが、弥生も久米さんも動じていない辺り、若葉が大食いなのは知っているんだろう。

 むしろ、いっぱい食べる娘を見る、親のような目線でその様子を見ていた。

「……おじぞうさまうぇした」

「おう、ごちそうさまな……飲み込んでからでいいぞ……」

 若葉は、その場で平らげたポテトが入っていたコップを、ごみ箱に捨てながら言った。

 相変わらず体の小ささの割によく食べる女の子だ。その栄養はどこに行っているのやら。

「いや~。生き返った~。満足満足」

「良かったわね、若葉ちゃん」

 弥生は若葉に近づき、頭を撫でる。

「ほら、口に海苔ついてる」

「ん」

 久米さんは、ハンカチで若葉の口元を拭く。

 本当に娘と親に見えて来た。尊い……とはこのことを言うのだろう。

「そういえば薫は、あの後どうしたの?」

「薫ならすぐに、未来ちゃんのとこ行ったよ」

「あらそう。良かったわ」

 弥生は安心したような顔をする。

「若葉、あっちにチュロスあるみたいだけど」

 久米さんは指さしながら若葉に言った。

「行く!」

 若葉は、すぐに楽しそうに返事をする。

「じゃあね! 進! よいちゃん!」

「ああ」

「じゃあね~」

 若葉と久米さんは、まるでスキップするようにチュロスに吸い込まれていった。

 あ、そういえば、黛を見ないな。若葉なら知ってそうだし、聞けばよかった。



 黛はその後、蜜柑たちの演劇が始まる前に、ポテトを受け取りにやってきた。

 本人曰く、若葉と薫の出し物を見た後、家に帰り、今日の食事の準備をした後、また蜜柑たちの演劇を見に来たらしい。

 黛本人には疲れている様子はなく、とても楽しそうに弥生や俺と、飯がこっちにもあるから食いすぎるなよとか、のんびりぼくはイベントを楽しむから、ということなどを話した。

「ポテトもほとんどなくなったわね」

「そうだなあ……」

 山ほどあったポテトも、もうほとんどなくなっていた。

 周りの生徒を見ると、何かを食べている生徒はほとんどいなくなっていた。

 ……まあ、若葉はチュロス食べてたけどな。今も。

「時間的にも演劇が始まるころだし、時間的にも、もうちょうどいいわね」

 弥生がそう言うと、俺は時計を確認した。時刻は一九時。

「そうだな……っていうか十五分くらいしか演劇しないんだな」

「まあ、学校の小さいイベントだし……そんな盛大にやらなくてもいいのよ」

「コメディって言ってたしな」

 そういうと、じー、と開演の音が鳴る。

 騒がしかった体育館は、かなり静かになり、体育館の出入り口付近にいる生徒も、舞台に注目している。

 幕が横へ開いていく。

 するとスポットライトが照らされる前の舞台には、男装した蜜柑の姿があった。

 スラッと伸びた長い脚、目を疑うほどの高等身。そしていつ切ったのか、蜜柑の髪型は首くらいまであった長さから、かなり短くなっていた。

 その影響か、ぱっと見美男子に見える。

 そして何より顔がいい。健康的な肌の美しさは、光に照らされ、さらに際立っている。

「皆さん初めまして! 俺は中村蜜柑! 今は彼女無し、交際経験なしのもてない男だ!」

 スポットライトが当てられると、蜜柑は観客に挨拶をした。

 動きも舞台の端から端まで、大きく使って動いている。身振り手振りも、ミュージカルでよくあるように、少し大げさに動かしている。

 音楽もかかっており、ネズミとネコが追いかけっこしていそうなBGMがかかっている。

 というか、なんだその自己紹介は……。

「こう自己紹介をしたけど、俺は別に悪い身分じゃないんだぜ! ほら、見てくれこの顔!」

 蜜柑は顔を前に出し、両手の人差し指で自分の顔を指さした後、黒子が舞台袖から素早い動きで鏡を持ってきて、蜜柑に手渡す。

「うん! 自分で見ても、よい顔をしている。さすが俺だ!」

 そういうと蜜柑は客席にウインクをする。すると黄色い歓声が、甲高く体育館に響いた。

 蜜柑は華麗に鏡を黒子に渡すと、黒子は舞台袖にいなくなっていった。

「そして俺は、大財閥のお嬢様でもある!」

 そう蜜柑は言った。そしてすぐさま後ろを向いて、咳ばらいをしてから、続けて言った。

「間違えた! お坊ちゃんだ! 俺は男という設定である! ごめん俺に恋してる男子諸君のみんな!」

 今まで完璧なミュージカルだったのにも関わらず、いきなりのメタ発言に、観客は笑い出す。

「あと実のところ、ある程度の流れだけ決めてるだけで、今回のこの舞台に台本などない! お願いだから大目に見てね♡」

 蜜柑はお茶目に胸の前で両手を合わせ、お茶目に観客にお願いする。

「いいぞ~!」

「面白いぞ~!」

 観客はこの演劇の雰囲気を理解したのか、ヤジを飛ばす。

「ありがとう! どんどん声を出して盛り上げてくれると嬉しい!」

 そう言うと、蜜柑はキメキメだったポーズをやめて、頭を掻く。

「えっと、何の話だったっけな? みんな覚えてる?」

 蜜柑がそう言うと、すこし間を置いてから、袖からズッコケる黒子の姿があった。

 なぜか効果音も咄嗟についている。すごい連携だ。

 また観客は、クスリと笑う。

「財閥!」

「お坊ちゃま!」

 観客からヤジが飛ぶ。

「そう! それだ!」

「お嬢様!」

 また観客からヤジが飛ぶ。

「それは違う! 混乱しちゃうから!」

 蜜柑は大げさに頭を抱える。

「というわけで俺はお坊ちゃんなんだ! お金も持っているし、将来も安泰! だから支えてくれるお嫁さんを探しているんだ! そう、俺はおまけに勉強もできるし、文武両道、お金持ちのセレブなんだ!」

 そう言うと蜜柑はくるりと周り、その場にへたり込む。BGMもなんだか残念な雰囲気の曲に変わった。

「なのに……どうしてモテないのかがわからないんだ……だから今日は君たちに俺のいつもの様子をいくつか紹介するから、どこが駄目なのか、考えてほしいんだ!」

 蜜柑は最後まで言い切ると、勢いよく立ち上がり、そのまま話を続けた。

「何が駄目かわかったら、手を挙げてほしい! 君たちもこの幕の一員だ! いいかな?」

 いいかな? と尋ねる蜜柑は、手を耳に当て、客席に返答を求める。

「「いいよ~!」」

「よっしゃ! じゃあ、今から再現するのを見て、ダメなところがあったら手を挙げてほしい! それじゃあいくよ!」

 蜜柑はそう言うと、舞台の端っこにスタンバイする。

 ここまでの流れを見ている俺たちは、蜜柑の観客を引き寄せ技術に感心していた。

「ほんとすごいよな蜜柑も」

「そうね。レディプリンスなんて言われていたもの。一年生の頃から主役張っているし、場慣れはしているはずだけど、こればかりは才能を感じるわ」

 蜜柑は、その後も観客を笑わせながら、演技を続けた。

 舞台袖から出てくる、女子生徒に告白しては、フラれる、といった流れが何回か続いていた。

「俺は君のことが好きだ! 付き合ってほしい! 俺を支えてほしい!」

「えっと……ごめんなさい。すごくいい人だと思うけど……ごめんなさい」

「そんな……俺はお金持ちで勉強もできて、顔もいいぞ! 何が駄目なんだああ!」

 とても顔のいい端正な美男子のような美人が、フラれているのも面白いが、何といっても、普段からモテる蜜柑がフラれているのを見るのは、なんだか滑稽だった。

「はい! そこのメガネの君! 何が悪いと思う?」

「まあ……自信持ちすぎとか……?」

「あ~確かにそうかもしれないなあ……ありがとう。でも逆にこれだけの才能が有って謙遜してるのも、相手に失礼かもしれない……どうだろうか……」

 蜜柑はまた舞台にへたり込み、頭を抱える。

 その後も、フラれては観客に尋ねるを繰り返し、そのたびに面白い反応をして盛り上げる蜜柑。

「……う~ん。君たちに尋ねてみたが、だんだんと自分のいけないかもしれない点がわかってきたぞ」

 そう言いながら腕を組み、人差し指を顎に当てて考える蜜柑。

「ねえ」

 考えている蜜柑に声をかけたのは、序盤で鏡を渡した黒子だった。

「な、なんだね君は。君はただの黒子だろう? こんな流れ、台本にはなかったはずだ」

「そうだね。でも話を聞いて。あなたがなぜモテないかわかるから。私がなんで黒子をしてるのかわかる?」

「……なんで……?」

 黒子をやっている女子生徒は、あまり舞台には慣れていないような声質をしていた。

 そのため、盛り上がっていた観客も、静かに彼女の声を聴いている。

「……これ、図書室から借りて来た辞書。黒子の頁を読むね」

「ああ……」

「表に出ないで、物事を処理する人。陰で支える人。そう書いてある」

「……それがどうかしたというのだ?」

「……私があなたの黒子になっている理由。それはあなたを支えたいから」

「ああ、そうだな。しかし、それと何が関係ある?」

「あなたを支えてもいいって考える人って、少なからず……あなたのことを尊敬して、引っ張っていってほしいって思っているはず」

「はっ!」

「……そう。後はわかるはず」

 そう言うと黒子は、すすす、と舞台袖に引いていった。

 その間、蜜柑は微動だにしなかった。

 その時の蜜柑の表情は、何かを嚙みしめているような表情に見えた。

「そうだ! なぜ、俺は恋人に支えてもらうことばかりを望んでいたんだ!」

 蜜柑は両手を大きく広げ、綺麗な男役の声で言った。

「こんなにも才能に溢れている、余裕のある立場なのであれば、俺が支えればいいのだ! 俺が引っ張っていけばいいのだ! 皆を!」

 蜜柑は両方の舞台袖を見る。

 蜜柑はとても、ニコニコしていた。

「皆さん! 来てください!」

 蜜柑はいきなり女性の声に変わり、舞台袖に言う。

 すると、演劇部の部員たちが走り込み、舞台に並んだ。

「よく、主役をやらせてもらっている私ですが、こんなにもの人たちに支えられています。そして私は、この人たちを引っ張っていきたいと思っています! だから……」

 蜜柑は大きな声で言った。

「これからも高梨高校演劇部をよろしくお願いします!」

「「よろしくお願いします! メリークリスマス!」」

 蜜柑に続いて、部員たちも言う。

 少し経った後、観客席や、体育館の中にいる人たち、外から見ている人たちも、総出で拍手が起こった。

 その拍手は、とても長い間続いていた。

「……いつの間にか、蜜柑はいろんな生徒に尊敬されている人になっていたのね」

「ああ、そうだな」

 あの修学旅行で、なにか気持ちの変化があったのだろうか。真偽はわからない。

 しかし、髪を切り、さっぱりとした蜜柑は、演劇の中でどこか吹っ切れてる様子だったように思える。

 弥生は拍手をしながら、そしてかすかな微笑を浮かべながら、蜜柑を見ていた。



 それから、クリスマスイベントが終わり、次は黛と蜜柑の家で、二次会的なクリスマスパーティに行く。

 連絡があり、校門に帰宅準備が整い次第集合、とのことだった。

 俺やその他の生徒は、皆片づけを手伝っていた。準備をしている人数より人数が多かったため、かなりの速度で片づけが終わっていった。

 帰宅準備を終えて、校門に向かうと、黛と弥生と薫が先に待っていた。

「おす」

「よお進」

 黛はかなり薄着だった。ブレザーを着ているだけで、寒くないのだろうか。

「四番目ね。あなたの事だから、最後の最後まで何か手伝えることはないかと尋ねて回って、一番遅くなるんじゃないかって思ってたわ」

「こっちを待たせるわけにはいかないからな、自分の周りが帰りだしたタイミングで抜けて来たよ」

「いい心がけね」

 弥生はしっかりと着こんでいる。マフラーを付けているが、手袋はつけていない。

「進は楽しかったか?」

「ああ。まあ、ほとんど手伝いだったけど、いろんなやつと話せて楽しかったぜ」

「そうか! それは良かった。これからもっと楽しいことが待っているからな」

「そうだな」

 薫は元気よく話す。……が、どこか無理をしているような気がする。動きもどこか大げさで、見栄を張っているように感じる。顔も笑ってはいるが、ひきつっているように感じ、違和感を覚える。

「あ、お~い!」

 声がした方を見ると、蜜柑と未来と若葉が一緒にいた。

 仲良く歩いてくる。

「よし。これで全員だな。行くぞ」

 全員そろったのを確認すると、黛が先頭を切る。

 その後ろに二列で、俺と弥生、蜜柑と若葉、未来と薫の順で歩く。

「う~さむ」

「寒いわね」

「あったかそうだな。そのマフラー」

 弥生は夜でもよくわかる、白のマフラーを付けている。

「つけてても寒いわよ」

「手袋はどうした? つけないのか?」

「スマホとっさに触れないのがちょっと……ね」

「現代っ子め」

「あら嫌だわ、おじさん」

 弥生は、おほほと笑う。

 黛の家までの道は、学校に近いほど狭く、徐々に広くなっていく。

 今日は月が見えていない。星も一切見えておらず、雲で空が隠れてしまっているようだ。

「高校生活も……もう半分もないのね」

「そうだな」

 このまま年が明けると、二年生もすぐ終わってしまう。

 うちの学校のほとんどの生徒は、大学受験をするので、三年時は勉強をして終わってしまうだろう。

 まあ……一部生徒……例えば、薫や若葉は勉強なんてしなくても、多分めちゃくちゃいいところに受かってしまうだろうけどな。

「三学期も……みんなで仲良く後悔の無いように過ごしたいわね」

「ああ」

 俺は、後ろをちらっと見る。

 歩くのが遅いようで、蜜柑と若葉、未来と薫は少し離れた位置にいる。

「黛」

「ん?」

 俺は、前を歩く黛を引き留める。あまり距離が空くとなんとなく心配になる。

「ああ……なるほど」

 黛は距離が離れていることに気が付いたようで、その場で立ち止まる。

「みんな~黛が首を長くして待ってるわよ~」

 弥生は、後ろにいるみんなに呼び掛ける。

「は~い」

 蜜柑と若葉が、小走りでこっちに向かってくる。

「ほら、薫くんも」

「うん」

 薫と未来は走り出そうとする。

「うわ!」

 その瞬間、未来は何かに躓いてしまい、転倒しそうになる。

「危ない!」

 薫が未来をお腹のあたりで抱える。

 そのまま未来は、薫をクッションにするように倒れこんだ。

 俺と黛と弥生はすぐに道を戻り、二人の様子を見ようとする。

 蜜柑と若葉も、二人に駆け寄った。

 しかし、駆け寄った瞬間に、

「やめろ!」

 と言い、薫は未来と軽く突き飛ばした。

 未来は、そのまま地面にしりもちをつく。

「っちょ! いったい……」

「やめろやめろやめろ! くっ……はあ……はあ……」

 薫はお腹を押さえながら、ゆっくりと立ち上がる。

 これは……俺は覚えがある。

 夏休みの時だ。薫と弥生と薫のお兄さんの墓参りに行った時と全く同じだ。

 まるで別人みたいに、頭を抱え、髪を握り、腹を掻き、苦しんでいる。

 まるで別人みたいにと言ったが……少し違う。人間でないものみたいだ。

 ……俺は恐怖を感じた。恐らく、俺だけじゃなくて、他の蜜柑や未来も、内心、恐怖を感じているだろう。

 弥生を見ると、口を押えて立ち竦んでいた。手は震えており、バッグは落としていた。

 蜜柑と未来は、まったく理解できていないようで、薫の様子をぼーっと見ている。

 若葉は薫を心配そうな顔で見ている。特に動揺している様子はなさそうだ。

 黛は、すこし大きく目を見開き、薫を見ている。

 薫は、少し暴れた後、ゆっくりと動くのをやめて、俯き続けていた。

「……っ」

 そして、とさ、という音を立て、薫はその場で目を開けたまま、膝から倒れた。



 黛と蜜柑の家にて。

 薫は、特に気絶しているわけではなく、動けなくなっているようだったので、俺が蜜柑のベッドに運び込み、寝かせておいた。

 机の上には、黛が用意したであろう料理にラップがかけてある。

 唐揚げからターキー、人数分のムニエルやポテトサラダなど、たくさんの豪勢な食事が並んでいる。

「……」

 その机を囲むのは、黛と蜜柑、若葉と俺。

 そして未来と弥生。

 誰も口を開かず、豪勢な料理を前に、静かな時間が流れている。

「ねえ」

 一番初めに、口を開いたのは未来だ。

 明らかに、何かを言いたそうな顔をしている。

 その目線は弥生に向いており、なにやら怒っているようだ。

「ねえって言ってるでしょ。弥生さん」

「何かしら未来ちゃん」

 弥生は、未来から目を背けながら返事をする。

「……あれはなに?」

「あれって?」

 弥生は何とかしてはぐらかそうとしているのか、質問を質問で返したり、回りくどいことをして、時間を稼ごうとしているようだった。

「とぼけないで!」

 未来は、大きな声を出して立ち上がる。

「薫くんのあの行動……弥生さんはなんだか知っているでしょ」

「……」

 弥生はだんまりだ。

「なに? 何も話してくれないの? そうやってまた私には何も、薫くんのこと教えてくれないんだ」

 未来は、弥生に歩いて近づく。

「話しても、あなたのためにならないわ」

「だから! 何で彼女の私にすら話せないことがあるの? あんなに苦しそうにしてたのに、弥生さんは何も話してくれないの? ねえ!」

 未来は弥生の肩を掴み、無理やり振り向かせる。

「おい未来!」

 俺は立ち上がり、未来を止める。

「……進だって気になってるでしょ? 薫くんの事」

「だからと言って、強引に言わせようとするのは違うだろ」

「そうかもね。でも我慢の限界なの。私以外の人と隠し事があるなんて、耐えられない!」

 未来の気持ちはわかる。俺だって気になる。でも弥生が話したがっていないのには、理由があるはずなんだ。

「ほら、話してよ。もう逃げ場なんてないよ」

「……」

 弥生は目を閉じた。未来に対しては無視を決め込むらしい。

 蜜柑は心配そうな顔をしながら、きょろきょろとみんなを見ている。

 黛は腕を組み、窓の外を見て、何かを真剣に考えているようだ。眉間にしわが寄っている。

「ちょっと! 二人とも! いい加減にして!」

 若葉は立ち上がり、二人の仲裁をしようとする。

「若葉ちゃん静かにしてて! これは私と弥生ちゃんの問題なの!」

「うるさい! 一回静かにして! 落ち着かないと会話なんてできないよ!」

「そうかもだけど、もう限界なの!」

 未来は若葉に掴まれた手を、振りほどく。

「ああもう! 一回みんなお口チャックして座って! じゃないと……」

 若葉は、俺に寄ってきて、俺の腕をつかむ。

「うお!」

 そのまま背負い投げで、リビングのテレビの前にあるソファに投げ飛ばされた。

「みんなこうだよ! いい?」

「……」

 俺は天井を見上げている。

 若葉……いつの間にそんな武術を覚えたんだ……?

 そんな若葉に免じてか、みんなは席について、静かになる。

 俺も席に戻る。

 そんなことを考えていると、今まで黙っていた黛が、席を立ち、口を開いた。

「……もう限界だろ。弥生」

 黛は窓に歩いていき、カーテンを閉める。時刻は今、九時になろうとしている。

「話すべきだ。これ以上引き延ばして、後に引けない状況になったら……わかるか」

「……でも……また薫がもし……」

「……乗り越えるしかない。こう言った以上、ガラじゃないが、ぼくは逃げない。薫と向き合う」

「……」

 弥生は黛を、助けを乞うような目で見る。

「……未来ちゃん」

「……なに」

「……これから話す、薫のことは、すべて真実よ。覚悟はいいかしら」

「……聞く。彼女だもん」

 未来は言う。

「……そう。後悔し……いえ、後悔はするわ。確実に」

 弥生は、少し自分をあざ笑う。

「みんなは? 聞くか、聞かないかは自由よ」

「聞く。薫のこと、好きだし」

 若葉は即答した。若葉は普段から、薫と雰囲気が似ており、仲がいい。

 それに若葉は変わった。強くなったんだ。だからこそ……自信を持って、即答できるのだろう。

「俺も聞くぜ。人のためなら……何でもできるからな、俺は」

 俺は元から、覚悟はできている。

 弥生が、あんなに話したがらない、あんな目をしている薫の話。

 どんなものでも、俺は受け止める。

「蜜柑。お前は聞かないほうが……」

 黛は、蜜柑に言った。

「……や、です」

「……だけど……お前が受け止めきれるか……薫のことをこれまでと同じように、見られるか……ぼくは不安で……」

「大丈夫です! 私だって薫さんが引き取られてきてから、一緒に遊んできているんです! 今更……薫さんのことを、これまでとは違う目で見るなんてありえません」

「……そうか……ならいい」

 黛は少し心配そうな顔をしていたが、蜜柑の明るさを見て、微笑んだ。

「……一応、上の階にいる薫の様子を見てくる。起きてても、起きてなくても、話すけど、みんなを信用してるからこそ、薫のことを話すわって伝えてくるわ」

 弥生はゆっくり階段を上り、上の階にいる、薫の元へ向かう。

 帰ってくるまでの間は、誰も何も話さなかった。

 車の通る音が、聞こえたりするだけだった。

 弥生が帰ってくるまでの時間は、とても長く感じた。

「お待たせ。薫は……小さく……お嬢様にお任せします……って言ってたわ」

 弥生は階段を降り、席に着きながら話す。

「……じゃあ、話すわね。薫が……どんな過去を過ごしてきたのか、彼の境遇。あんな行動を取った理由。薫のすべてを……私が話すわ。薫が生まれた瞬間の事から今に至るまでの、彼の壮絶な人生を」

 弥生は真顔で言う。

 それは何も思っていないからではなく、明らかに、真顔でないと、自分が話す内容に耐えられないから真顔であった。


 ……。

「これが……出雲薫のすべて……彼の過去よ。ごめんなさい。みんなの顔を見るのが怖いの。目は背けさせて」

 弥生はすべての話を終えたようだった。弥生の顔は大事な人が亡くなってしまったときのような、暗い表情をしていた。

 蜜柑は口を塞いでいた。そして「うっ」と嗚咽した。

「蜜柑、大丈夫か?」

 黛は蜜柑に尋ねる。

「は、はい……」

「一旦、自分の部屋で休んで来い」

「はい……」

 蜜柑はゆっくりと立ち上がる。黛も立ち上がる。

「あ……一人で大丈夫です……黛さんも……」

「ぼくは前々から聞いていたから、大丈夫」

「そうですか……よかったです」

 蜜柑は、そのまま階段を上っていった。

 俺は薫の話を聞き、圧倒されてしまいそうになった。

 暗い、不幸な雰囲気の小説を、何とか読み切った時の苦しい感じ。それと同じような感覚があった。

 どうしようもなく、救いようもない、なぜ生まれてきたのか、なぜ死ねなかったのか。

 薫の行動や、苦手なものについても理解することが出来た。

 なぜ薫のスマホのカメラは潰されているのか。写真が駄目なのか。鏡が苦手なのか。薬を見ると顔をしかめたのか。お腹をひっかくようなことをしたのか。女の子みたいに振る舞うのか。


 なぜ、綺麗な顔なのに、黒く、くすんだ眼をしているのか。


「……若葉ちゃんは平気?」

「……うん……ちょっと苦しいけど……薫に比べたら苦しくないだろうし……それに……」

 若葉は微笑みながら、弥生に言う。

「私は、薫みたいに辛い思いをしたことがないから……想像できない話過ぎてわからないかも。でも、だからこそ……私は薫のために何かしたい。私の普通を……幸せを分けてあげたいな」

「……そう。ほんと、強い子になったわね。若葉ちゃん」

「えへへ……」

 若葉は笑う。

 こんな時でも、若葉は強い女の子だ。

「俺も薫のために何かしたい。俺にできることならなんでも」

 俺は薫の過去に、どこか咲に起こったことと近いものを感じていた。

 今こそ、今度こそ、助けるんだ。助けなければいけない。俺がどうなろうとも。

 そう思った。

「ありがとう。私の目に狂いはなかったわね。あなたと親友で良かったわ」

 弥生は俺に微笑む。弥生の頬には、涙が流れていた。

「ぼくも、仕方がないから、一度聞いてしまったからにはやれることはやらせてもらう。それに、薫と仲悪くなんて、ぼくはなりたくないからな」

 黛も言う。黛は目を瞑って得意げに言っていた。

 みんな、薫の過去を聞いたとしても、薫への考えを変えず、薫のために行動しようとしている。助けようとしているんだ。

 

 ただ、一人を除いて。

 

「ちょ、ちょっと待って」

 未来は立ち上がり後ずさりする。

 未来の表情は引き攣っており、少しだけ顔色が悪い。

 手は少しだけ震えており、明らかに動揺している顔であることが伺える。

「わ、私だけなの? こんなに震えが止まらないのは……」

 未来は、俺や周りの人の顔を見た後、また話を続けた。

「私は……無理。私は一度でも誰かを殺したいって思ったことのある人……あんなに闇を抱えている人と関わるなんて無理……ねえ。私がおかしいの? これって」

 未来は、目を見開いて俺たちに訴えかける。

 そうだ。普通、こんな話を聞いたら、こんな薫の過去の話を聞いたら、もう関わりたくないと思ってしまうのは当然だ。

 でも俺は、俺や未来以外の人は、薫との今までの信頼関係があるからこそ、薫の過去の話を聞いたとしても、薫のために何かをしてやりたいと思えるのだ。また、誰かのために何かをしたいと思える、助ける側の人間だからこそ、思えるのだ。

 しかし、未来には、自分は薫の彼女だというステータスがある。しかも、彼女だったのに、薫の過去のことは知らされずにいたのだ。

 いきなり彼氏の境遇を知らされたところで、動揺するのは当たり前だ。

 また、これは俺個人の考えだが……未来は助ける側の人間じゃないと思う。

 だから、受け止めきれないんだろう。

「なんで話したの? 弥生さん。いや、確かに話してほしいとは頼んだけど、こんなに重いならもっと、もっと止めてくれてもよかったんじゃないの?」

 未来はさらに後ずさりをし、壁を背にする。

「そうね。確かに話す必要はなかったかもしれない」

「ほら! そうだよね!」

「でも、そしたら、誰が彼を救ってくれるのかしら」

「……は?」

 弥生は、苦しそうな表情をしている。

「私ひとりじゃ抱えきれなかった。だからこそ、私以外の人を頼るしかない。でも、この薫の過去を、薫を知り合う前に聞いたらどうするの? 誰も助けてなんてくれないわ。だからこそ、みんなが薫と仲良くなってから、話したかったの。薫のために動いてくれる人を探したかった」

 弥生は顔を挙げて、みんなを一人一人見ていく。

「正直、申し訳ないと思ってるわ。薫のためにみんなを巻き込んで。でも、こうするしか薫を救う方法はなかったの。あの子の過去を、くすんだ眼を何とかするには、こうするしかなかったのよ」

 弥生は、申し訳なさそうな顔で言う。

「それに……薫の過去の話をした後……薫がどう見られるかを考えると……怖くて……そう簡単に話せるわけないでしょ……」

 弥生は机を見下ろす。表情が悟れなくなった。

「それじゃあなに? 一人じゃ抱えきれないからって、私に彼氏として薫くんを押し付けたんだ。じゃあもし、このまま何も話さずに何年か経って、社会人になってさ、もし結婚でもすることになったら……どうしてたの? 私に薫くんを押し付けられて、万々歳ってこと?」

「違う! いつか! いつか話す予定だったの! もっとこう……いいタイミングで……」

「タイミングなんて関係ない! この話、いつ聞いても私は受け止めきれない!」

「ごめんなさい! 巻き込んでしまって……本当にごめんなさい……」

 弥生は、座りながら必死に頭を下げる。

 未来は、泣きながら弥生に叫んでいる。

 若葉は心配そうな顔をしながらも、今回は止める気配はない。

 黛は目を瞑っている。

「……付き合ってる……薫くんと付き合ってる私のことぐらい……考えてよ!」

 そう叫ぶと未来は、外へ駆け出していった。

 それを見ると弥生は席を立ち、未来を追いかけようとするが、そのまま力なく崩れ落ちる。

 弥生はへたり込みながら、静かに泣いていた。

「……あ……」

 あ、という声がする方を見る。

 そこには、弥生が泣き崩れているのを見る、薫がいた。

「……僕のせいか。また」

 薫は右下を見て、俯きながら言う。

「違うの……薫は悪くないわ。悪いのは私……未来ちゃんにもっと先に話しておかなかった私の失敗なの……」

 弥生は泣きながら、よろよろ歩き、薫に近寄りながら、薫を見る。

「未来がああやって、むしゃくしゃして飛び出したのも、お嬢様が泣き崩れているのも……全部……僕のせいです。僕の過去のせいです」

「違う……違うの……」

 薫は言いながら動かない。

 少しの間、弥生の泣いている嗚咽音と、薫がぼそぼそと何かを話している声しか、聞こえなかった。

「人間、追いつめられると自分の事しか考えられないものだ」

 黛が目を開き、頭を抱えながら、肘を机に置き、言った。

「人の悪の部分は、誰かが受け止めないといけないんだ。その悪を受け止めてくれる人がいなくなったら、その悪を持った人は壊れてしまう」

 確かにそうだ。薫の過去のことだって、誰かが受け止めてあげないといけないんだ。

「かと言って、その悪を受け止めてくれる人が、悪のせいで追い詰められていくと、それを見た、悪を持ってしまっている人は、罪悪感でいっぱいになるんだ。でも、追いつめられると、罪悪感なんてものはなくなる。余裕がないと罪悪感なんて考えないからね」

 黛はまだ頭を抱えたままだ。

「でも例外はあってね。悪を持った人の中には、自分が追いつめられても、罪悪感が無くならずに、辛くなって、辛くて、誰にも助けを求められなくて、自ら死んじゃう人がいるんだ。どうすればいいんだろうな。全ての悪を受け止めてくれる、自分の身なんて捨ててでも、何でも受け止めてくれる人がいればいいのかな。そんなバカはいないだろうけど……まあ、とにかく、未来の気持ちも、薫の気持ちも、弥生の気持ちもわかる。だからこそ、ぼくはどうすればいいのかわからない」

 なんでも受け止めてくれる、そんなバカは……ここにいるけどな。

「一歩一歩前に進むしかない。俺はとにかく行動する」

 俺は、弥生に近寄りながら言う。

 弥生の頭を撫でる。

「ほら立ち上がれ。お前が元気ないと、薫も心配するだろ?」

「……」

 弥生は、俺の顔をキョトンとした顔で見る。

「……ふふ、そうね。少しぐらい、元気出さないと」

 弥生は、俺が差し出した手を受け取り、立ち上がる。

「若葉」

「ん? なに黛?」

 黛は、若葉に話しかけた。

「未来を探しに行くぞ」

「……そうだね。バッグ、置いて行ってるし、忘れ物してるしね」

 そう言うと、二人は立ち上がった。

「俺も行くぞ」

「まあ進なら、行くよな」

「進だしね~行くよね~」

 若葉と黛は、少しだけ笑いながら言う。

 ちょっとだけいつもの雰囲気に戻ってきた。

「私も……探しに……」

「弥生は薫のそばにいてやれよ。今の薫にはお前が必要だ。言ってただろ? 薫を一人にしちゃだめって」

 俺は弥生に言った。

「そう……ね。未来ちゃんのことは任せるわ」

「ああ」

「なんなら、ぼくのおじいちゃんに迎えに来てもらうといい」

 黛は弥生に提案をする。そういえば、黛のおじいちゃんは、弥生のところの執事なんだっけ。

「そうするわ、ちょっといいかしら」

「ああ」

 弥生は、黛から家の電話を借りる。

「というか、早く行かないと未来ちゃん遠くに行っちゃうよ!」

 若葉はバタバタしながら言った。

「そうだ! 早く行かないと!」

 俺は玄関に急ぐ。

「待て、進は学校に向かって一旦、探しに行ってくれ。ぼくは京王線の上りの方向に探しに行く。若葉は下り方面に探しに行ってほしい」

 黛は、効率よく探せるように指示をする。

 こんな時でも冷静だ。

「おっけ」

「わかった!」

 話をすると、黛と若葉は玄関に向かい、すぐに外へ探しに行った。

 俺も、先に行った二人の後に続いて探しに行こうと、玄関で靴を履いていると、弥生が話しかけてきた。

「ねえ」

「なんだ?」

「せめて、見送ろうかって思ったの」

「そうか」

 俺は、靴を履き終わると立ち上がった。

「ありがとうな」

「いいえ。こっちこそ、これでもかってくらい、ありがとうって言いたいわ」

「へへ、そっか」

 俺は突然、何か引っかかっていることを思い出した。

 その場で腕を組み、引っかかっていることを思い出そうとする。

 考えている俺を、弥生は不思議そうに見つめているが、その引っかかっていることはすぐに思い出せた。

「……黛は……薫の話の事……知ってたのか?」

「そうね。知ってたわよ」

「……話してたのか?」

「林間学校の時、私と黛で閉じ込められたでしょ? 倉庫に」

「ああ、懐かしいな」

「そこで話したのよ。黛なら……薫のことを嫌いになることはないだろうし、薫のために無理をすることもないって思ったし……それに黛に、薫みたいに、あんな完璧な人間なら、なにかやましいことの一つぐらいあるはずだとか、なんとか言われて、なんとなくそそのかされちゃって……話しちゃった」

「そっか」

「でも、少しだけ後悔しているのよ。黛と違って、あなたは無理しちゃうから、そんなあなたを巻き込んだことを」

「……はあ。薫も未来もお前も……こんなに傷ついている。今だろ。無理してでも傷ついてでも、みんなを助けるのは」

 そうだ。このために俺は生きているんだ。

「もう……ほら、行ってらっしゃい」

「ああ」

 俺は真っ暗な空の下、未来を探しに走り出した。





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