尾八原ジュージ

モテ期

 駅からアパートに帰る道すがら、おれは川で葦の茂みに引っかかっていた鯉を助けてやった。その夜自室でひとりのんびりしていると、インターホンを何度も鳴らされた。

 眠かったので、うっかりしてろくに画面も見ずに外に出てしまった。玄関の前には、全身がぐっしょりと濡れた女が口をパクパクさせて立っていた。

「先ほど助けていただいた鯉です。恩返しに参りました」

 そう言うものだからとりあえず中に通したが、初対面の魚など家に入れるものではない。おれはすぐさま後悔するはめになった。

 女はまず「お部屋の片付けをしましょう」と言い、びちょびちょの手であちこちを触るもんだからおれのスマートフォンが濡れて動かなくなった。やめろやめろと慌てて止めたら「じゃあお料理でも」と言ってキッチンに向かい、包丁を手に取ると恐ろしい形相で自分の腕を切り落とそうとするので、これも止めた。

「気持ちだけで十分なのでもう帰ってください」

 そう言って玄関の外に追いやろうとしたが、鯉はしぶとい。

「いえ、不義理という言葉は我が一族の辞書にはございませんので」

「お前の一族の誇りとか知らんわ」

「何かお手伝いすることはありませんか?」

「ありません。帰らないなら警察呼ぶぞ」

「呼んでみろやお前のスマホ壊れたやろが」

「何だコイツ。お前が壊したんだが?」

「お手伝いすることはありませんか?」と、鯉はおれの話を無視する。「ないなら、あなたのお嫁さんになってあげましょう」

 そう言うと鯉は泥臭い息を吐きながら、おれにキスをしようと迫ってきた。おれはその腕を払いのけ、キッチンに走った。出しっぱなしになっていた包丁をとっさに手にとり、鯉に向かって突き出した。

「帰れ!」

「帰らない! あなたのことを愛しているの!」

 もみ合いになった。

 気がつくとおれの足元で、魚の姿に戻った女が腹に包丁を突き立てて死んでいた。よく見るとさっき助けた鯉とは大きさも形も違い、明らかに別の個体である。おまけにヒゲがない。

「お前……鮒じゃん」

 恩返しではなくストーカーだったらしい。気分が悪いので、おれは鮒の死骸をビニール袋に入れ、さっきの川に持って行って橋の上から捨てた。その辺に立っていた鷺が寄ってきて鮒を食い始めた。やれやれ一件落着。

 どっと疲れて自宅に帰り、ベッドの上でゴロゴロしているとインターホンが鳴った。画面を見ると、唇の尖ったやけに首の長い女が立っている。

『さっき食べ物をいただいた鷺です。恩返しに参りました』

 おれは黙って画面から遠ざかった。玄関のドアノブがガチャガチャと鳴り始めた。

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尾八原ジュージ @zi-yon

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