第一話

 ──俺には一つだけ悩み事がある。


 別に深刻なものではない。ただ、ちょっとした騒音問題だ。

 このアパートに越してきて早二か月が経つ。

 都会暮らしにも慣れてきた。新しく友達もできた。新たに始まった俺の大学生活は、まさしく「順風満帆」そのものと言えた。

 

 ただ、最近……一つだけ気になっている事がある。

 それは隣人。いや、正確には「隣の部屋」と表現したほうが良いだろうか。

 

 ──夜中になると何か物音がするのだ。

 

 このアパートの壁は防音ではない。日常生活から出る些細な音なら問題ないが、大きな物音は隣の部屋まで届いてしまう。

 別にそれだけなら問題ない。人間誰しも、大きな音を立ててしまう瞬間などいくらでもあるだろう。

 ただ、隣の部屋からは毎日音が聞こえてくるのだ。それも、決まって深夜の三時頃に。

 

 何と言ったら良いだろうか……

 ──何かを壊す音。詳しく言えば、引きちぎったり、叩きつぶしたり、裂いたり、折ったり…そのような不気味な音が聞こえてくるのだ。

 

 何かの勘違いかもしれない。

 だが、実際に隣人と話して解決できる問題なら早急に対処すべきだろう。

 

 ──そう思って俺はここに来たのだ。

 

 目の前には扉。脇には『山岡亮子』の文字がある。

 

 「今時フルネームの表札なんて珍しいな……」

 

 俺はそう言ってインターホンを鳴らした。

 山岡さんと会ったことは一度もない。もちろん話したことも。

 

 俺がこのアパートに来て日が短いこともあるだろうが、何故かこの部屋から人が出入りしている瞬間を一度も見たことが無いのだ。


 

 ──そんなことを考えていると、不意に扉が開いた。


「はーい?」


 片手には何故かデッサン人形を持ち、ツナギのあちらこちらに塗料をつけた奇怪な状態で、ここの住人が顔を出す。

 ……思っていたよりも若い。

 女の子は頬にも色をつけたまま、目をぱちぱちと瞬かせた。


「隣の者ですが……」


 隣人の意外な姿に動揺したのかもしれない。

 思ったよりもぶっきらぼうな物言いになってしまった。少しの間、首を傾げていた彼女は、ふと合点がいった様子で、ぺこりと頭を下げる。


「ごめんなさい。……うるさかったですか?」


「いえ、まぁ」


「ですよね、本当、ごめんなさい。ついつい、課題制作に夢中になってしまって……」


「課題?」


「実は美大に通ってて」


 女の子が気恥ずかしそうに笑う。

 なるほど、それでつい熱中してしまったのか。


 ちらりと見えた先に、絵画が1枚飾ってある。


 煌びやかな衣装の美女が、男の首を抱えていた。

 ……正直これを玄関に飾るのは、俺には分からないセンスだが、芸術家の卵として、お気に入りの1枚なのかもしれない。


「ある程度は仕方ないですよ。あ、でも夜は少し控えめにしてもらえると、助かります」


 なるべく、強い言い方にならない様に注意して話す。

 ……相手は、少し困った様な顔をした。


「……えっと、言い訳みたいに聞こえてしまうかもしれませんが」


 彼女は、この部屋をアトリエ代わりに借りており、今日の様に、昼間の間だけ、此処に作業に来ると言うのだ。

 夜になると、実家に戻って生活しているらしい。


「だから、夜は、此処には誰も居ない筈なんですけれど……」


 女の子は曖昧な表情で視線を下に向けた。

……勿論当たり前だが、俺も、嘘はついていない。


 微妙な空気が、再び俺たちの間を支配していた。


「あ、それじゃ……私は作業に戻りますので」


「は、はい」

 俺はつい辿々しく返事をしてしまった。


 結局正体は何だったんだ?夜中に、しかも誰も居ない部屋から音が聞こえてくるのはなぜだ?

 幽霊?いや、それは無い。大切にされた人形には魂が宿るなんて話はよく聞くが、俺は理系だ。理系として、そんな物は物理的に考えて存在しないと断言する。

 となると問題は、夜中に誰が何の為に山岡さんの部屋に入ったかだ。俺はこの謎を解明するべく、今夜は寝ずにいる事にした。


 その日の夜、例の物音が聞こえてきた。相変わらず不気味な音を響かせている。


「よし、今だ」


 俺は急いで外に出て、山岡さんの部屋のインターホンを鳴らした。

 待ち続けても誰も出ない。

 俺は思い切ってドアを叩いてみる事にした。近隣住民の方には少々迷惑がかかるが、この騒音が続くよりはマシだ。仕方のない事として割り切ろう。


「すいませーん! ちょっとお話したい事が……」


すると突然、ドンという大きな音が聞こえて、やがて何も聞こえなくなった。


「何なんだよ一体……」

 

 これだけしても誰も出てこない。またしても騒音問題を解決する事は出来なかった。


 そして次の日の朝、俺の元へ一通の手紙が届いた。

「なんだ?」恐る恐る見てみると、そこには綺麗な字でこう書いてあった。


『201号室 岡林様 突然のお手紙申し訳ありません。最近、深夜にたびたび大きな音が聞こえてきます。岡林様の事情もあるかと存じますが、ご配慮いただけるようお願いします。一方的なお願いですが、何卒宜しくお願い致します。 なお、こういったことが続く場合管理会社に相談するつもりです』


名前は書いていなかったが、何処かの部屋の住人は俺が毎夜毎夜騒音を出している元凶だと思い、手紙を送り付けてきたのだろう。

 

「ふざけんな!」


 グシャ、と手紙を握りつぶしてそのまま真の元凶がいるであろう部屋の前に行きインターホンを何度か鳴らす。しかしまだ午前中、当然人のいる気配はない。

 

 「クソっ…」

 

 一度深呼吸をして怒る気持ちを抑える。ともかく大学に行かねば、階段を下りていくと下に女の姿が見えた。

 

「なぁちょっと!山岡さん!」


 俺はとっさに声をかける。急に呼びかけられて「え?」と顔を上げた彼女が俺の顔を見て驚いた。 

 

「あっ、この前の…」


「これ、アンタのせいで俺が騒音の原因だと思われてるんだけど。」

 

ずい、と自分のポストに投函されていた手紙を彼女に押し付けた。山岡さんは戸惑いつつも手紙を受け取り内容を読むと、顔を上げる。

 

 「あの、でも私、ホントに夜中は居なくて」


 とさも『自分は無関係です』と言わんばかりの言い草がさらに腹が立った。


 「じゃあ部屋見せてくださいよ」

 

 「えっ」

 

 「誰も居ないんなら部屋の中見せてくれますよね?俺の部屋も見せますし」


 こっちは被害者だ、ソレ位してくれても当然だろう。

 

 「………わかりました」


 渋々といった様子で山岡は俺を部屋に案内し鍵を開け、扉を重そうに少し浮かせて玄関の扉を開ける。


 「どうぞ」


 と山岡に促されて部屋に入ると、以前見えたあの美女の絵画が目の前に入る。俺は近寄って絵をまじまじと見る。男の首を抱えているがその不気味さ以外に違和感は感じられなかった。

 

 「コーヒーでも出しましょうか?」 


 

 お構いなくと返事をしようと振り返った瞬間、俺はたじろいだ。


 男の生首が飾られていたのだ。


「っ?!」


 だがそれも一瞬の事。冷静になってその首を見てみると、人の顔にしてはツヤがあり、そもそも目鼻口が存在していない事に気がついた。

 となると、これって————

 

「あ、ビックリさせちゃいました?それマネキンの首です。置き場に困ったんで壁とかなら歩く時邪魔にならないかなって」

 

 俺より先に山岡が正体を口にする。

 首の正体に安心したのと同時に、意図的ではないにしろ驚かされてしまった事に少々腹が立つ。


「……だからって扉裏にぶら下げとくのもどうかと思うんですけど」


「ごめんなさい、後で外しておきます。それと作業部屋はこちらです」

 

 開いた片手を奥に向け、夜中に音が鳴っていたであろう現場を示す。

 

 部屋の中には、生活するスペースと言える箇所は一切無かった。

 床には絵の具やインクが染みるのを防ぐ為の新聞紙が敷かれており、窓には日光を遮る為に段ボールが貼られている。

 壁には特に何も貼られたりしてはいなかったが、窓際には作業机が備え付けられており、その上にはデッサン人形が置かれている。

 そして部屋の中央には、イーゼルと椅子がドカンと置かれていた。

 当然そこに人の影などは無い。


「これは……」


 部屋の内装に目を疑う。どういう事だ?

 部屋の中には音の原因になるようなものは無い。筆も椅子もキャンバスも、大きな音を出す要因にはなり得ない。出たとしてもあれだけ生々しいというか、やかましいような音は鳴らない筈。


「どうです? 大きな音がなるようなものがあるように見えますか?それとも、他の部屋も見せましょうか?」


 山岡さんは固まる俺に言う。


「いやでも、確かにこの部屋で音が————他の部屋。他の部屋も見せてもらえますか?」


「いいですよ。とは言っても、他の部屋なんてトイレくらいしかありませんけどね」


 俺は山岡さんに他の部屋も見せてもらう事にした。

 しかしそこも同様。騒音の原因になるような物はなく、人の姿も見受けられなかった。


「……」


 予想と全然違う。こんなはずじゃ…なんで誰もいない?音の原因は一体……


 そう悩んでいると、山岡さん勝ち誇ったような顔をしながら言ってきた。


「どうです? まだ納得いきませんか?」


「……いえ、もう結構です」


 完全敗北である。

 拭いきれない違和感がある気がするが、それでも現実は現実。この部屋には何も無かった。

 不満げな表情を浮かべながら、俺は山岡さんに「それじゃあ、失礼しました」と告げ、渋々マネキンの掛けられた扉に手を掛けようとした。

 

 すると、山岡さんは突然「待ってください」と言い、俺の背中を呼び止めた。


「その顔、まだ納得いってないですよね? 本当ならこのままお引き取り願いたい所ですけど、今後また変な疑い掛けられても困りますし。なので、こちらをどうぞ」


 彼女はそう言うと、銀色の何かを俺の胸に突き出してきた。


 「これは……?」


 「見ての通り、この部屋の合鍵です」


 彼女が突き出してきた手には鍵が握られていた。鍵には『202』と書かれた簡素なタグが括り付けられている。


 「流石に受け取れませんよ」


 「でも、私の部屋が気になるんでしょう?」


 彼女が何食わぬ顔でこちらを見る。俺が受け取らないことを確信しているからこその態度だろうか。彼女の余裕ぶりがいちいち癪に障る。


 「…僕は常識の無い人間ではないので」


 俺はそう言うと、鍵を握る山岡さんの手を押し返した。

 悔しいが、この鍵を受け取る訳にはいかない。


 「そうですか。では、今日のところはお引き取りください。もうこの部屋に用は無いはずでしょう?」


 山岡さんが勝ち誇った表情でそう言った。

 確かに、もうこの部屋に用は無い。結局、騒音に関する手掛かりは何一つ掴めなかった。


 

 ──ピンポーン。


 その時、突然インターホンの音が部屋中に鳴り響いた。

 山岡さんは俺の方を一瞬見た後、すぐに玄関の方へと向かう。もちろん俺も後に続いた。


 「はーい?」


 山岡さんが玄関の扉を開けると、そこにはアパートの大家さんがいた。


 「あ、岡林さんも一緒だったんですね。それならちょうど良い……」


 大家さんは、山岡さんの背後に立つ俺を見て言った。

 その隙に、俺は山岡さんの横を通ってそそくさと部屋から出る。


 「今日は何の御用ですか?」


 俺が部屋から出た後で、山岡さんが大家さんに質問した。


 「ええ、今日はゴミ出しの件について話に来ました。最近、ゴミの収集日や分別を守らない住人が増えてきたもんですから」


 どうやら大家さんはゴミ出しに関する注意喚起が目的でここに来たようだ。おそらく、すべての部屋を順番に回っているのだろう。


 「まず、一昨日はペットボトル・缶の収集日でしたが、一つだけ生ゴミが入った袋が混ざっていました。生ゴミの収集は金曜日なので注意してくださいね?」


 その話を聞いて、俺は心の中で大家さんに謝罪した。実は一昨日、家で作ったラザニアの食べ残しをうっかり捨ててしまったのだ。これについては、潔く反省する必要がある。


 「それと……最近、妙なゴミが増えているんです」


 続けて、大家さんが深刻そうな面持ちでそう言った。


 「妙なゴミ?」


 俺は気になって大家さんに聞き返した。

 山岡さんは何故か黙っている。


 「ええ、具体的にはザリガニの死骸です。それも大量の……」


 「ザリガニ?」


 「はい、それと……一つだけ別の物が入ってました」


 大家さんはそう言うと、突然山岡さんの方を見てこういった。





 「──壊れたデッサン人形です」






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