無知の罪 ( 2/5 )

「さなちゃんはおやつタイムに、自販機でトマトジュースを買うのが日課なんです」


 職員さんは説明をつづける。

「こちらで用意する飲み物だと、ダメなんですよ……。ご家族も『好きにさせてあげてください』とのことで、ジュース代をさなちゃんに渡してます。これに入ってます」


 さなちゃんが、ビーズ刺繍の小銭入れを手に持っている。

 彼女はこっちの話を理解して聞き、首を振る形で意思表示をすることができる。職員間の会話の内容が通じているときもある。

 額の線が真友に似ている、なんちゃって。ややしかめ眉だったとこまで。


「階段は使わないから、大丈夫だと思います。お金を投入するのと、ボタンを押すときはやってあげてください」


 ガラス扉のむこうに、自販機が見えた。「はい」


「あ……それから、取り出すときも、おねがいします。じゃあ、さなちゃん、いってらっしゃーい」


 さなちゃんは手を振り返すと、ロビーに向けて歩き出そうとした。俺は扉を開ける。

 うん、足どりはひょこひょこしてるけど、全然イケるっぽい。


「さなちゃん、これでいいの?」と俺は自販機のサンプルを指差した。


「そう」

 と彼女はうなずきながら小銭入れをさし出した。


 取出し口に、トマトジュースの缶が落ちる。

 渡すと、彼女は冷たそうに缶を持った。


「そっちまで、僕が持ってこうか」


 缶を預かる。その直後……想定外なできごとが起きた。


 さなちゃんが、俺に腕を組んできた。彼女はにこやかな表情で、先を見ながら歩く。

 俺も必死で平然を装った。

 いや、心を開いてくれてるのはわかる。

 わかるけど。

 あなたは俺からしたら年齢的にオバさんだ。近い未来のお客さんだ。だけどそんなにぴったりされると胸が当たるんだよォォ、俺にぃ。



 何色かの色鉛筆で何かの書かれた、テーブルの紙。渦巻きキャンディの模様にも見える。


「なんの絵?」


 さなちゃんはなぜかあさってのほうにちろちろ目をやり、返事をしてくれない。


「するとこれは文字……」


 なかば無意識に言ったらそこで彼女は顔をほころばせ、大きくうなずいた。


「絵じゃなくて、文字なんだね。さなちゃんの言いたいことが書いてあるんだ」

「そう。そうよー」


「なんて書いたのか、知りたいな」


 ちがう色の鉛筆で、なぐるように書き足すさなちゃん。

 場をつなぐために俺は言ってるが、解読できずもどかしいのも本当。そんな自分がいるのに、ちょっと気づいた。


 その『言葉』に彼女の意思が宿っている。


    ୦


 一週間前、さなちゃんが救急車で運ばれていった日も、『すこやの庭』は通常に回っていた。

 ほかの利用者さんたちには、影響がないように見える。


 俺のかたわらにいる男性職員さんのところに、ひとりの男性利用者さんが来た。本を手にしている。


「読みたいの? 亮くん」


 伝記だ。職員さんは表紙を見て言った。

「よく書けた絵ですね」


「よくかけたっすねぇ」と亮くんが答えた。


「もとの場所にもどせる? 亮蒔郎りょうじろうさんはどっちから来たっけ」

 職員さんは彼を見、彼がもと来たほうへ目をうつす。


「もとーもどせー? 亮、蒔郎ぅーさんー」

 と亮くんはそっちにまた歩いていった。


 俺はただそのやりとりを見ていた。

 良く言えば、寡黙なのか。このおじさん、俺は口もききづらいが、見てると利用者さんにモテモテなんだ。


「あのタイトルの人、知ってる?」

 と名札に『塩谷』とあるその無愛想な職員さんは言った。


 念押しに「僕ですか?」と聞くと、彼は視線を一瞬こっちに向け、それとなくうなずいた。


「名前は知ってます、学校の図書室にもありましたから」

「その出会い――歩みは、私も感銘したひとりだけど。だれがどうしてあの本、持ち込んだのか…………あの人物は三十代の時点で、優生思想を唱えていたらしいよ」


「ゆうせい思想」


「それによると、重度精神障害児や奇形児は、安楽死の対象になる」


 殺すってこと?


 身体機能の強固な『壁』を自身がのり越えたことで知られる人。

 たったいま聞いた、その思想。

 どうやってとっさに結びつけろというんだゴァッドゥ。


「当事者との関係性いかんで感じかたが異なる部分があるにせよ、私はその考えかたを支持しかねる」


 利用者さんたちに目を向けながら、さらに彼はそう言った。


 障害を持つ、十九人の人が刃物で殺されるということがあった。神奈川の相模原市において。俺からすると祖父ちゃんが亡くなる前の年、小学五年のときに。

 晩年の祖父ちゃんを見ていて、死んだほうが本人は楽なんじゃないかって気持ちと、ずっと生きててほしいって気持ちと、俺には両方あった。

 当事者との関係性。

 生きててほしい気持ちはエゴだろうか?

 もうひとつ、俺は優生保護法って言葉を思い出していた。

 いまでいう、母体保護法って法令の名称だ。

 しようと思えば――人工妊娠中絶のよりどころにできる。


「はい。あ。お名前、塩谷しおやさん……ですか?」


塩谷しおたにです」



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