無知の罪 ( 3/5 )
利用者さんたちが持ち帰る、連絡ノートや昼に飲む薬など入れるポーチ。そこに来週のお昼の献立表を、折りたたんで入れる作業。
その俺のそばで職員さんがふたり、連絡ノートに各利用者さんの本日の様子を書きこんでいる。
先週は益子早苗さんの連絡ノートをちらっと見れた。彼女が送迎車でこっちに向かう前の朝の体温は、36・4℃って書かれてあった。
「福留くん、今月は連続で来てくれてるけど、来週はどうする? 無理しなくていいのよ」と聞かれた。
「ぜひ、また来週も」と俺は仕分けのバイトのころのガツッッとしたノリを出した。
「さなちゃんが気になる?」
「あ……正直、とても気になってます」
「本当に無理するんじゃないよ、最初から飛ばすとあとでヘタレるよ」と、もうひとりの職員さん。「制度的にまだ、学業を終えてないんだから。自宅で勉強もアリだよ。来るなって言ってるんじゃないけど」
「ありがとうございます」
「さなちゃんは、一品一品やっつける食べかたするよね。嫌いなものはとことんスルーして」
意識はしっかりしているらしい。しかし家族が、身体拘束に同意せざるを得なかったそうだ。つまり、ベッドで暴れないようにされている。
「知らない人しかいないところで、どうしているかしらと思うと……早く帰ってきてほしい」
俺は無言で軽くうなずいた。
「さなちゃん、ここの停電で失禁してしまったりもしたの。顔の表情は笑いっぱなしで…………かわいそうよ」
食事の前、普通に薬を飲んでるとこは見た。注射には抵抗を覚えるだろうか。さなちゃん。
いま俺はなんでも悪いようにとらえてる。
次週の約束は、とりつけた。
୦
五十メートルかそこら先の、狭い歩道を縦にならんで歩く二名の後ろ姿。前は女のようだ。
あの男女――
そこへ、後ろから来た二五〇ccくらいのバイクのミラーが一瞬の間に俺に当たって、バイクはそのまま走りぬけていった。
体は足で支えたが、自転車のほうが歩道側に横倒しになった。
「福留くん」
四条さつきの声だ。
こっちへとひき返したさつきの連れ、すなわち藤野賢が俺の起こしかけた自転車を支えあげてくれた。
「かすっただけだ……けどムカつくぜ、んなろめがア」
ああ。
押し寄せてきたぞ。どうしてくれるこの『死にぞびれた』感を。
「轢き逃げか。青信号になっちまったな」
それとも、『命拾い』か?
「バランスくずして…………なんともないぜ、サンキュウ」
「このへんで会うのはめずらしいな、福留ちゃん」
と藤野は言った。
ていうか、生まれて初だよ、学校以外でおまえに会うのは。
「実習の帰り道だよ」
車道の音にかき消されないぐらいの声は出しながら、ハンドルを押した。
「俺たちは妊婦健診に行ってきたとこー」
「つきそいか」あすは日中から働くんだろう。「終日休みなんだな、きょう。変わりないんか」
「おかげさんで順調ッす。ま、そうこうしてたら……採血するだけで『性別』がわかる検査っちゅうの、受ける時期逃してるっぽいもののね」
足をとめてるさつきに追いつく。
「あとは健診のエコーでわかって教えてくれるかもしれないけど、別にいいじゃんって、さつきは言ってて」
「そうよ、産まれればわかるんだもん、そんなとこにわざわざお金使わなくっても――福留くん」
「大丈夫よ。ボサッとしてて、情けのぅ」
「さつき、そこ、ガム」
「え。あ、やだ」
さつきは、道ばたのガムをよける。
「いけませんねえ、こんなところに吐き捨ては…………そういえば、妊娠検査薬もいらなくなったんだったな。おまえが病院に担ぎこ――あ。そこ、犬のフン」
「やだー。もーお」
「いけませんねえ。ここにさしかかると、いつも同じにンコ臭え。なんなんだろうな、まじクソ民度低い」
民度低い……か。
「なぁ、藤野、無知って……罪か?」
「んッ」
「『無知は罪』なのか?」
「どうしなすったよ、福ちゃん」
「常套句だろう、
「うう……む。すくなくとも俺は言わないなそれは」
さつきが肩越しに振り向きつつ、「関心の向けどころっていうのかな? 無知とはちがうと思うなぁ」と言った。
「ソクラテスが言ったかは疑わしいね」と藤野。
なに?
「じゃだれが唱えやがったんだー、きっしぇえなあ」
「ま・ま、気を取り直して。俺んちすぐそこだぞ、寄ってくか? いま、酒はないけどな」
「酒はあんまり飲まないから、いい……っじゃなくて。こっこ困るだろ、俺がそんなとこにあがり込んだら」
藤野は、「なンでよ」
「お、おま、言っただろ、トゲトゲのタンパクが放出されて、注射打ってない人間にまで影響ーって」
「昨今いうシェディングのことか。気にするなよ、俺の家族だって接種ずみだもんよ。気にしすぎたら、おちおち電車も乗れやしねえ」
「おまえが平気でも、四条が」
「なあんだ、大丈夫ってー。うちもあたし以外打ってるって、言ったよ?」
――そんな顔で、よしてくれよ。
「お、お、おまえが大丈夫って、赤んぼ……」
「やだ福留くん、そんな泣きそうなー」
「泣きそうなんかかぜがっ目に」
涙が小鼻の溝を伝ってこうとする感触があった。
やべえ……やべえ。タオルハンカチ……
藤野はハンドルを握る俺の手に、手袋の上から自分の右手をかさねると、
「気を揉ませたな」
と言い、もう片方を俺の肩に回した。「福ちゃん」
もう出ちまってんだ、泣くにまかせてやれ、このさい。
「気にしないでよ、ね。この子全然いやそうにしてないよ」
それがおまえの思いこみだったらどうするよ、四条。
「行こ。予定あるの?」
藤野が肩ベルトの上から俺を軽く押した。
「んー」
タオルハンカチで顔をおさえながらスーパーの店先を見て、俺は声をあげた。
「おい。焼きいもだ」
「茨城県産、有機栽培。いいねえ。いいにおい」
焼きいも機を見て、さつきが言う。
手早く調達した。藤野んちの家族はこの時間不在ってことだが、いても足りるように買った。袋を藤野が持ってくれた。
「ふふ。賢は皮ごと食べるんだよ」
「へーぇ。そういや俺、フライドポテトは皮つきのが好き」
「緑色になっちゃったじゃがいもは気をつけないとねー、芽が出ちゃったのもね」
そんなふうにさつきがつけ足した。
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