忖度tea (3)

 さつきの言ったことが気になった。


「その、四条。平安時代の貴族は、退屈しのぎに和歌詠んだのかなとは思ったよ。中学んとき」

 時間の流れはまどろっこしかっただろう、って言いたかった。「モーセの十誡じつかいは知ってるよ。石板に刻むんだよな」


 藤野は腕組みして目をつぶり、「ひょっとしたら消しゴムはなかったかもしれんな。鉛筆もだ……」


「あたし最近ねえ、集会のほうにも全然行ってないの。十戒じっかいにも『なんぢ姦淫かんいんするなかれ』ってあるじゃない? なんか目に浮かぶようでしょ」


「なに? それ。聞き捨てならなくね?」

 そこまでこいつらに影を落としてるのか。御倉。


「内輪のフリンは黙認してるくせにって言いたくなるさ」と藤野は立てた片膝に顎を寄せてぼやく。


「うぁ、おぞましや。若いみそらで、キミらもなにやら大変のようだな」

「そのぶん、補講に身を入れるわよ。せっかく先やんたちが卒業させてくれようとしてるんだもんね」


「『姦淫』って言葉はあいまいだーな。『姦淫罪』で見ると、なんとなく通じなくはないが」


「俺たちは純愛だよ。だれがなんと言おうと、なー」


「ははは。いただきます」


 屈しない藤野か。

 皿からクッキーを取ろうとして、晩飯のことを思い出した。

 再びスマホをタップする。


「自分んちに電話入れとく」


 さつきが窓のカーテンをつかんで細く開いた。

「日はだいぶ長くなってきたねー」


 伯母さんが電話に出た。


「あ、俺です」


    ୦


「まるごと偽典は、俺もうっかり断言できないネ。まぎれもない聖典だと主張する者がいたら、それもまた危うい気がいたすよ」


 藤野はさらに付言する。


「神の言葉につけ加えたり、とり除くことを禁じる旨は、申命記や、黙示録にも書かれてあるが、実際どうなんだろうな……」

「脳みそが、だいぶ乳化エマルションしたぜい」


 藤野の聖書はずいぶん読みこんでる質感だったが、マーキングがされてないように見えた。


「もともとが章で区分されてたんじゃないから、そういったのさえも『これに書き加える者』となるんだったら、アウトさね」

「えらく微妙だな。読みやすく分割して、ナンバリングしてるだけっていえばそれまでじゃん」

「好きに解釈しがち、だののたまいながら、俺にも好きな聖句というのはあってさ」

「うん」


「『わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない』」


「ほー。単純明快だな。どこにあんの」


「伝道の書。これ思いおこすと、できることをやるしかないって気持ちになれるんだ。あ、エロい意味で言ってるんじゃないぜ」


「ははは」


 二百歩譲っておまえらが姦淫罪だとしても。おまえらは……


「福留くん、人間の赤ちゃんって、どのくらいの日数で産まれてくるかって知ってる?」

 と、さつきが聞いてきた。


「んー? 十月とつき十日っていうのは、まあ聞くよね」

 一ヶ月30日換算で、十ヶ月目の第十日って解釈で合ってるのかどうかはちょっと。


「詳しいね。ニネベの町の話してて、四十日ってあったじゃない? 四十って数字、よく現れるのよね」

「ふむ」


「この子はいま百十三日目、満一六週。満四〇週のころに、産まれてくる」

 と藤野がフライングした。


「ほぇ……、そうか。二百八十日なんだね」

 俺のおつむで、勝手に二百六十六日に変成されてたのは内緒だ。


 神様。

 俺は、さつきちゃんのおっぱいが大きくなったなぁって、内心思ってます。



「きょうはあれだけど、全然手ぶらでいいから、またこっち寄ってくれよな」

「ありがと。またな」


 俺の運転でよけりゃ、どっか連れてったるよ。の前にレントして、ペーパー歴を初期化しておかないとだな。


 ふたりに見送られ、俺は来たときのバス通りまでの道をたどった。


「さっちゃ……ん」

「――ん?」

「一年だったとき、うちにコロナ死者が出たな」

「いたね。たしか同じ学年の人だよ。どうしたの?」


「いいよ……」


「なに。賢ちゃん?」


「いいんだ、俺もおまえもろくに覚えてないな……入学したてのころなんて」


「賢」


「ほい」


「あたしたちは、おたがい名前を知らなかったよ……」


「ん。さて、おまえと、この子も送りとどけなきゃあーな」


 交差点を折れる。

 吐き切った息を吸いこむと、空の『冬の大三角形』の一番目立つやつと、オリオン座とが目に入った。

 なんとなく言わなかったけど、そのうち親とは暮らしてないことも聞いてもらおう。


 難解度はともかく、旧約聖書で目にとまった叙述、『わが愛する者よ、日の涼しくなるまで、影の消えるまで、身をかえして出ていって、険しい山々の上で、かもしかのように、若い雄じかのようになってください』


  日の涼しくなるまで


   影の消えるまで



 きょうインスパイアされた俺は、遅めの晩ご飯のあと、聖典のことを調べたりしてるうちに、寝落ちした。


 今度施設に行ったら、無事なことしかなければ嬉しい。そんなふうに思いながら。



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