第10話 俺は心優さんの作った味噌汁を食べる。


 鼻孔を刺激する香ばしい匂い。

 

 朦朧とする意識の中でもそれが、味噌の香りだということは分かった。しかしなぜ、味噌の香りが俺の部屋に漂っているのだろうか。この部屋には俺しかいないし味噌だって持っていない。


 結論。

 俺の嗅覚がイカれたか、窓が開いていてどこかの家で作った味噌汁の匂いが……。

 

 違う。俺は眠気眼のまま布団の上で上半身を起こすと、台所を覗く。すると綺麗なお姉さんがまな板の上で包丁を動かしていた。

 

 ……ああ、夢じゃなかったんだ。

 

 暴漢から助けた綺麗なお姉さんが俺の部屋に寝泊まりを申し出る。――なんていうことが現実に起こるわけないと思っていたのだけど、心優さんはちゃんとそこにいた。


「み、心優さん、おはようございます」


 俺の声に気づいた心優さんが、体ごと振り返る。


「あ、おはよー、蒼太君。もうそろそろ起こそうかと思っていたんだよ。もうすぐ味噌汁できるからちょっと待っててね」


 !?


 俺はぎょっとする。

 

 心優さんの顔の半分に模様が入っていたからだ。否、が。寝返りをうって布団から落ちたあと、畳に顔を押し付けて寝ていたからだろう。もしかしてまだ鏡を見ていないのだろうか。

 

 それはそうと、私物のエプロンを装着している心優さん。オーソドックスな黄色のエプロンだ。

 

 多分、綺麗なお姉さんのエプロン姿って、本来はもっとぐっとくるものなんだと思う。でも心優さんの場合は、ピンクのダサいスウェットパジャマの上に着ているし顔に畳の痕もあるしで、なんかもう台無しだった。


「どうかした? 蒼太君。ぼうっとしちゃって」


「あ、いえ。……心優さんが部屋にいるの夢じゃなかったんだって。ちょっとまだ信じられなくて」


「そうだよね。私だって、昨日会った男の子の部屋に泊まるなんて、我ながらすごい行動力だなって思ってる」


「後悔……していませんか?」


「何を?」


「その、自分の行動を。なんで俺みたいな奴の部屋に泊まってしまったんだろうって……」


「全然。もしそうだったら朝ご飯なんて作らずに家に帰ってるでしょ」そこで心優さんの顔が曇る。「……もしかして、蒼太君こそ後悔してる? 私みたいな年増の女を部屋に泊めたこと」


「そんなことないですよっ」俺は思わず布団から立ち上がる。「心優さんめちゃくちゃ綺麗ですし全然、年増じゃないですし、もうずっと一緒にいてほしいくらいですっ!」


 両目を大きく見開く心優さんの顔がみるみるうちに赤くなる。すると小さく「きゃっ」っと声を出して、顔を反らした。


 あ、やっべ。


「す、すす、すいませんっ」


 俺は慌ててを隠すと、トイレに駆け込んだ。一人のときは当然、気にしなかったが、今後は収まるのを待ってから布団から出たほうがいいだろう。なんとも厄介な生理現象である。


「……蒼太君、あの」


 ドア越しに話しかけてくる心優さん。


「すいませんっ。御見苦しいモノを見せちゃって」


「ううん。それはいいの。だって若い男の子なんだし。そうじゃなくって……嬉しかった」


「え? 嬉しかった……?」


「うん。私のこと綺麗って褒めてくれたのもそうだけど、ずっと一緒にいてほしいって言ってくれたのが、すごい嬉しかった」


 そうだ。俺はそんなハズいことを、まるで告白するかのように心優さんに伝えていたんだ。朝立ちのほうに意識が向いていてすっかり忘れていた。


「き、昨日の今日で心が浮ついているだけかもしれませんけど、今のは、一応、俺の本音です」


「……うん。本当に、いれるといいよね」


 なぜだろう。

 それは、どこか寂しそうに俺の耳に届いた。

 


 ◇



 心優さんの作ってくれた味噌汁は率直に言って、美味だった。

 実は言うと、残念系の心優さんのこともあってか、味のほうを少し心配していたのだが、全くの杞憂に終わった。


 一緒に出された白米は、心優さんが家から持ってきたものをレンジで温めたものだが、これも問題なし。白米と味噌汁という、ザ・日本の朝ご飯を久しぶりに味わったが、こんなにも気持ちが晴れやかになるのかと俺は驚いた。


「ごちそうさまでした」


「どういたしまして。白米なんだけど、ちょっと硬かったでしょ? ごめんね」


「いえ、普通においしかったです。コンビニ弁当の白米とは雲泥の差で」


「ふふ、ありがと。でも、今日の夕飯には炊き立てのご飯をちゃんと用意するからね」


「え? でもお米ないですよ?」


「大丈夫、お姉さんが買いますから」


 えっへんとばかりに胸を張る心優さん。

 

 今、目の前の心優さんはすでにパジャマから私服へと着替えている。今日の恰好は、無地で淡いブルーのエレガントワンピースにカーディガンを羽織った、これまたフェミニン系スタイル。


 つまり何が言いたいかというと、カーディガンのボタンをはめていたら、今のでボタンがはじけ飛んだだろうなということだった。


「で、でもお金とかそんなにないですし……」


「もう、言外をちゃんと察してよ、蒼太君。私がお金も払うに決まってるじゃない」


「いや、悪いですよ。じゃあ、せめて半分に――」


「はっきりしておくね」


 心優さんが箸を置いて俺を見据える。あまりにも真剣な顔なので、俺は若干、委縮した。


「は、はい」


「私は蒼太君の家に押しかけて居候している身。だから同棲みたいに立場は対等じゃなくって、私は蒼太君にとって厄介者みたいなものなの」


「厄介者だなんて、そんなこと全然思ってませんよ」


「思ってなくても居候ってそういうものなの。蒼太君のプライベートを侵害しているし、布団の半分を奪っているし、水や電気やガスだって使ってる。だからせめて、お金くらいは私が出したいの。ううん、出させて。じゃないと私が納得できない」


 布団に関しては、ほとんど畳で寝ていたので大丈夫です。と言いそうになったが、余計なことを口にする雰囲気でもない。

 

「別に気にしていないですけど……そうですね、心優さんがそこまで言うなら」


「素直でよろしい。じゃあ私はATM担当ということでよろしくね」


 ATM担当のお姉さんに男子高校生が養われるお話――。そんな漫画があったような気がするが、あまり記憶が定かではない。


「言い方……。で、でも自分の物は自分で買いますからね。二人にとって必要な物だけを買ってくれればいいですから」


「えー、蒼太君の欲しいものも買ってあげるのに。二人にとって必要なものだけにお金出しても恩返しにならないし」


 恩返し。そういえば、その恩返しを俺にしたいと言っていたっけ。


「何か買ってもらうとかそういう恩返しじゃなくて、なんか別のでいいですよ」


「もっと別のって何?」


 と前のめりで聞いてくる心優さん。ワンピース越しのおっぱいがぷるんと揺れた。〝谷間でエンジョイ〟という文言がいくつも脳裏で浮遊しているが、俺はぶんぶんと頭を振ってどこかにやった。


「え、えっと……そうだっ。今日のこの朝ご飯みたいに御飯を作ってください。それが俺にとって何よりも恩返しになると思います」


「料理かぁ。だったら任せて。けっこう得意なほうだから」


 こうして、幸せな朝の一幕が終わった。

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