第17話 逃走

 ――そして、夜中。

「……そろそろいいか」

 あれから、僕は表向き何食わぬ顔で部屋に戻り、ベッドに潜り込んだ。

 で、城が寝静まった頃を見計らって動き始めた。

 すでに服は着替えている。ミルカに用意してもらったなるべく目立たない服でベッドに潜り込んでいたのだ。もちろん女性物の服である。さすがに男物の服を用意してくれとは不自然過ぎて言えなかった。

 まぁ、これなら街中へ逃げても目立たないだろう。服装なんて逃げてからどうにかすればいい。

 むくりと起き上がり、素早くドアに張り付いた。

 ……人の気配はないな。

 ゆっくりとドアを開けた。

 外には誰もいなかった。特に見張りなんかは配置されてないようだ。

 でも、油断はできない。ここは王城だ。外に脱出するのはそう簡単ではないだろう。

「気を引き締めていこう」

 僕は気を引き締めた。


μβψ


 死ぬほどあっさり外に出られてしまった!

「おいおい……こんなにあっさり出られていいのか……?」

 思わず王城を振り返っていた。

 途中、確かに見張りはいたが……あんまり気を張っている感じはなかった。石ころを投げて気を逸らしたりしたら簡単に突破できてしまったのだ。

 確かに逃げるのは得意だけど、これは王城の警備がザル過ぎるだけなのでは……?

「さて、外に出てきたはいいけど……どうしようかな」

 この王都そのものが城壁に取り囲まれているから外には出られない。

 でも、街中に入れば姿を隠すことはできるだろう。

 ……まぁ、ある程度は王都に潜んでこの世界の情報を集めて、ついでにお金も集めて、それから別の街へ逃げればいいか。

 幸い、僕はミルカたちに女の子だと思われている。

 なら、普通に男として街に紛れてしまえばいいのだ。そうすれば見つかることはないだろう。

「……ま、ニグレドに与えられた力を使わなかったら周囲にウォーロックだとバレることもないだろうしね。気をつけていれば何とかなるでしょ」

 僕は元々根無し草だ。帰る場所がないのは異世界だろうが現実世界だろうが変わらない。ふらふらする場所が東京の繁華街から異世界になっただけだ。

 なに、これまでと同じように生きていけばいい。

 よく分からないけど言葉は通じるし、どうにでもなるだろう。

 僕は一度、王城を振り返った。

「……ごめんね、ミルカ。残念だけど、僕は君の求めているような存在じゃないんだよ」

 彼女たちが欲しているのは〝聖女〟だ。

 そして、僕は〝聖女〟ではない。それどころかただの詐欺師だ。

 ならば、僕が彼女たちの要求に応える必要も義務も存在しない。

 仮に似たようなことができる〝力〟がいまここにあるとしても……僕がそれを、彼女たちのために使う義理はないのだ。

 所詮、彼女たちの事情など僕にとっては他人事だ。

 ドラゴンのせいで国のみんなが困ってるって?

 ああ、そうかい。せいぜい困ればいい。なに、今まで何とかなってたんだ。じゃあこれからだって何とかなるよ。それに、もしかしたらこんな偽物じゃなくて、本物の聖女様ってやつが出てきてくれるかもしれないしね。僕みたいな偽物じゃなくて、頼るなら本物に頼った方がいいよ。

 ま、何にせよ僕の出番はない――ということだ。

 そう、結局ここにも僕の居場所はない。

 〝僕〟のことなんて誰も求めていない。

 誰にも必要とされていない。

 そんなことは僕自身がいちばんよく分かっている。

 そして、この世にはそんなふうに迷子になっている僕らを都合良く助けてくれるような、そんなヒーローみたいな〝誰か〟なんてどこにもいない。

 それが現実だ。

「じゃーね☆」

「おっと、どこに行くつもりだ?」

「!?」

 歩きだそうとしたら声がした。

 思わずビクリと肩を震わせてしまったけれど……そこにいたのはニグレドだった。

 ほっと息を吐いていた。

「……なんだ、君か。何か用?」

「いや、別に用事ってわけじゃねえんだが……こんな真夜中にいったいどこに行くつもりなのかと思ってな」

「いまこのタイミングで出てきたってことは、君は常に僕をどこかで監視してるんだね、やっぱり」

「監視とは人聞きが悪いな。オレ様はただ、相棒のことが心配で見守っているだけさ」

「物は言い様だねえ……それで、君はどういうつもりなの? 僕にいったい何をさせたいわけ? 僕に力を与えたのは、何か魂胆があるからでしょ?」

「ああ、そりゃもちろんあるぜ?」

「やっぱりそうか……さっき聞いたよ。君、昔この世界を自分の物にしようとして仲間を裏切ったんだって? しかも百年に一度復活して悪さを繰り返してるそうじゃないか。もしかして今度は僕を利用して復活しようとかしてるんじゃないの?」

「ああ、聞いたのか。この世界の〝神話〟を」

「聞いたよ。だから、君の正体はもう知ってるよ。邪神なんでしょ? つまり悪い神様ってことだ。まぁいかにもそんな感じはしてるけどね」

「ククク……」

 ニグレドは急に笑いだした。

 僕は首を傾げた。

「……何がおかしいのさ?」

「いや、オレ様が邪神だのアルベドが慈悲深き女神だの何だのと、相変わらず人間どもは的外れなこと言ってやがるな、と思っただけだ。そもそもオレ様たちは〝神〟じゃねえ。あくまでもその遣い――〝天使〟でしかねえのよ。オレ様とアルベドなんざ神の足元にも及ばねえチンケな存在さ。ま、でも確かに人間から見たらそう見えるのかもしれねえけどな」

 ニヤニヤ、とニグレドはあの妖しい笑みを浮かべていた。

「だいたいの力を〝聖なる力〟だとか言ってるのが本当に滑稽だぜ。オレ様たちの力は人間の価値観程度じゃ定義できねえもんなんだよ。どっちが悪で、どっちが善とか、そんなものはねえんだ。ただ対極にあり、相克しているに過ぎない。お前らの視野はあまりにも狭すぎる。だが、それでも仮にお前らの価値観で定義するとすれば――やつの“極光の力”もオレ様の“深淵の力”も、どっちの力も〝悪〟ってことになるけどな?」

「……どういうこと?」

 そう聞き返した時だった。

 どこからともなく、不気味な咆哮が夜の空に響いた。

 それは人の心をざわつかせ、不安にさせる化け物の聲だった。

「……なんだ、今の?」

 空を見上げた。

 コンクリートジャングルの空と違って、ここは驚くほど星が見えた。

 今さらそんなことに気が付いたけど……でも、今はそれについては別にどうでもよかった。

 夜空に、いつの間にかあのブラックホールのようなものが浮かんでいたのだ。

「――」

 見上げた途端、ぞわりとした。

 あれは――瘴気だ。

 真っ黒な霧が渦巻いて、中心に近づくほど黒は深く濃くなっていく。その中心はもはや漆黒であり、夜の黒さえ上塗りするほどの深い闇色になっていた。

 それはまるで、夜空にぽっかりと開いた虚無の穴のようにも見えた。そいつはちょうど真上にあって、僕はうっかり頭上に開いていた底なしの深淵を覗き込んでしまったのだ。

 不意に、その奥にいる〝何か〟と目が合ったような気がした。

 それには見覚えがあった。

 頭を打って意識を失った時に見たアレだ。

 いや、でも――そうだ。

 その前にも、僕はずっと以前にアレを見たことがある。

「なるほど。お前はやはり、かつて〝深淵〟を覗いたことがあるようだな」

「え?」

 ニグレドが僕を見ていた。

 暗闇の中に、妖しい双眸が浮いている。

 その様子はまるで深淵の底からこちらを覗き込んでいるアレのような目だった。

「それもまた、オレ様を知覚するための条件の一つだ。なるほど。だからお前はここにいるわけだ」

「な、何の話?」

「お前よ、過去に自殺しようとしたことあるだろ?」

「――」

 思わずニグレドのことを凝視してしまった。

 うっかり契約してしまった時と同じくらい、心臓をグサリとさされたような衝撃があった。

 ニグレドは暗闇の中でもはっきりと分かるくらい、ニヤニヤと笑っていた。

「ああ、やっぱそうなんだな。まぁそうだろうな、とは思ってたぜ。それもまた、オレ様を知覚するのに必要な条件の一つみてえなもんだからなぁ」

「……何で、君がそれを」

「知っているか、って? 簡単な話さ。ようはオレ様とお前は同類なのさ。同類同士だから、こうして引かれあった、ということさ。簡単な話だろう?」

「……」

「お前は過去に、全てに絶望した。そして自ら命を絶とうとして、深淵を覗き込んだ――そうだろう? そういう目をしてるぜ、お前さんはよ」

 ……ああ、確かにこいつの言うとおりだ。

 僕はかつて、飛び降りて死のうとしたことがある。

 生きているだけ時間の無駄だ――と、本気でそう思ったからだ。

 と言っても、あれはまだ僕が他人に縋り、どうして誰も自分に手を差し伸べてくれないのか、その理不尽さに絶望して泣いていた頃の話だ。あの時の絶望なんて、今となっては本当にどうでもいいことでしかないことばかりだ。

 でも、あの時の僕は本気で死のうと思った。

 ビルの屋上のふちに立って、地上を覗き込んだ時――僕は確かに見たのだ。

 あれこそが、こいつが言うところの〝深淵〟というやつなんだろう。

 そこで確かに目が合った。

 途方もなく深く暗い穴の底から、こちらを覗いていた〝何か〟と。

 それはまさに――いま僕の目の前にいる〝邪神〟の双眸とよく似ていると思った。

 頭上に渦巻くあの大きな瘴気の奥底にいる化け物と変わらない、気味の悪い目だ。

「……君は、いったい何なんだ?」

「へっ、まぁオレ様のことなんざ気にするな。それより、ちゃんと空に気をつけておいたほうがいい。多分落ちてくるぜ、あそこから」

「落ちてくる?」

 何のことかと思って、再び夜空を見上げた。

 ――どろり。

 虚無の穴から、わずかにどす黒いものがこぼれ落ちた。

 かと思ったら、どろどろしたものは、あっという間にすごい勢いで溢れだした。それが見る見る内に、何かの形へと変わっていくのが見えた。

「……え? ちょっと待って? あれなに? なんかヤバそうなんだけど?」

「見たままだ。いままさに、あの瘴気からドラゴンが生まれようとしてるのさ」

「ド、ドラゴンが……?」

「ああ。しかもけっこう濃い瘴気だな。ありゃそこそこのドラゴンが出てくるかもしれねえな。こんな人の多いところにドラゴンが出たら、はてさて何人死ぬことやら……」

 ニグレドは肩を竦めた。

 僕はさすがに焦った。

「お、おい!? どういうつもりなんだよ!?」

「どういうつもり、とは?」

「あれって君の仕業なんだろ!?」

「オレ様の仕業? なぜそう思う?」

「だ、だってドラゴンを生み出す瘴気は邪神の力――悪しき力の片鱗だって……」

「おいおい、そりゃ濡れ衣だぜ。とんだ〝勘違い〟だ。そもそも瘴気ってのは人間の負の感情から生まれる〝呪いの力〟なんだよ」

「呪いの力……?」

「ありゃオレ様の持つ〝深淵の力〟とはまるで違う。もっと低俗で――もっとどうしようもない存在だ」

 やがて、どろどろしたものは二対の羽根を持つ大きな化け物になった。

 あれを自分の目で見れば、確かに誰もがこう呼ぶだろう。

 ――ドラゴン、と。

 あのカメレオンの出来損ないみたいな、よく分からないのとは違う。

 あれこそ、正真正銘、誰もが想像する本物のドラゴンだった。

 瘴気から生まれた二つの大きな影は、そのまま王城へと真っ直ぐに落下してきた。

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