第18話運命の分かれ道が交差する時
――コンッコンッコンッ。
木製のドアをノックする。安っぽい作りのドアの中は空洞でやけに音が響く。
中から久しぶりに見た気がするボロアパートのオーナーである気の強そうな婆さんが出て来る。
少し元気の無いえるしぃちゃんの姿をジロジロと訝し気に暫く見つめていると、ハッと、何か理解したように深く頷いた。
「あんた――田中かい?」
えるしぃちゃんの生前の人間である田中 菊次郎の精神性は本気で驚いた。
異世界へと生まれ変わり姿もだけではなく性別すら変わっているのだ、このボロアパートに住んでいた中年のおっさんと繋げることが出来ないだろうと諦めていたのだから。
親戚がやって来て代わりに住む事になったとそれっぽいウソを用意したのにも関わらずこの婆さんは気づいた、気づいてしまったんだ。
「な――んで?」
えるしぃはひどく喉が渇いた感覚に陥った。きっと、声は掠れていたのだろう。理解してもらえて嬉しかったのか今の姿を知られて悲しかったのか分からない。
驚愕の感情が湧き上がり最初に出た言葉が――問いかけだ。
オーナーの婆さんには失礼だったかも知れない、と。声を出してからえるしぃは気づいた。
「なんで――だって? そんなの、――その時化たツラが奴にそっくりだったからさ。まぁ、何かあったんだろう? 茶ぁぐらい出してやるから飲んでいきな」
そう言うとオーナーの婆さんは顎で室内の方向を指し示し部屋に戻っていった。恐らく早く入れという事なのだろう。えるしぃは重たい足取りでトボトボと玄関を潜り室内へ入った。
洗った際に良く乾かさなかった為、水気を吸った靴を脱ぎ捨てると湿った靴下もついでに脱ぎ捨て乱雑に靴の上に乗せた。
えるしぃは心に余裕が無いのか普段の小物エルフなら他人の家に上がる際には、キッチリと靴を揃えた上に汚れた靴下を脱がないのだから。
えるしぃはそういえば、と。思い出してきた。――あの婆さんは昔からそうだ。田中菊次郎として生きていた時に、仕事で失敗した時や、会社を辞めた時だって暖かいお茶を淹れてくれたんだったな、と。
けれど家賃の支払いが遅れた時は鬼のように恐ろしいババアだったがこういう時はやけに優しかったなと。ひとり、思い出し笑いをしてしまう。
部屋の中央にあるちゃぶ台の前にドカリと胡坐をかいて座る、婆さんはキッチンでお湯を沸かしているようだ。
えるしぃは先程稼いだ『おちんぎん』のお札を小さく折り畳んで向かいのちゃぶ台の隅に置いた。
こうして気を使われているときに限って支払うお札がやけに汚れて見えた、まっとうに稼いだお金も混ざっているが大部分がろくでもない奴らから毟り取ったお金なのだ。
だが。――もう、この手は血で汚れ切っている。ああ、駄目だな、感情が後ろ向きになっている。
えるしぃは客観的に自身を見つめることが出来なくなっており負の感情が出やすくなっている。
やはり、ひとめで田中菊次郎だと正体を見破られたからだろう。
ハイエルフではない生まれ変わる前の人間性の一番弱いところが出てしまっている。自身の事をエルシィ・エル・エーテリアとも、えるしぃちゃんとも認識できていない。
――私は、私は。――田中菊次郎だったよな?
涙がひたひたと流れて行く。黙って声を出さずにすすり泣く。何が悲しいのかよく分からない。ただ――泣きたかったんだ。本当に色々、色々あったんだ!
えるしぃが生前に生まれ育ったこの地球にすでに肉親はいない、両親も親戚もみんな死んでいるからだ。
写真や思い出なんて残っていない。幼少の頃にみんな亡くなったらしくずっと施設で育ってきたからだ。
誰にも愛されず育ってしまった結果なのか、婆さんに対して態度が大きいのは子供が両親に甘えている姿に酷似する。所謂、反抗期というものであった。
えるしぃは両親に甘えられなかった、婆さんがえるしぃの心を理解してくれた気がして甘えているようだ。
ひとしきり泣いて少し落ち着いたようだ。
ハイエルフとして伊達に三百年以上生きていないし、自己分析は少しはできていると思っている彼女。
タイミングを見計らったように婆さんが湯気がほわりと湧き上がるあつあつの緑茶を淹れて、リビングへ入って来た。
えるしぃの目の前に湯飲みをコトリと置き、ちゃぶ台の向かい側にゆっくりと座った。
「――まぁた、血生臭い金を持ってきやがって。はぁ、次から家賃が遅れる時は前もって言いな。もちっと、立派な金を稼いできな。あんたは昔っから隠し事がへったくそなんだよ」
――そうか、そうなんだ。気を付けなきゃな。
自身の顔をペタペタ触りながら首を傾げている。
「あんた。時間が経っていないのに随分と経験だけを信じられないくらい積んでいるね。わたしゃ見えるんだよ。その人間が過ごしてきた背景が――ね。ハッキリとじゃないよ? だけど、あんたが壮絶な経験をして何度も死んだってことぐらいはね」
――死んで、いる? そんなことはない筈だ、こうして生きているのだから。
「比喩だよ――つまりは何度も壊れちまっているのさ、心がね。――嬢ちゃん出てきんさい」
――ん? 誰の事を言っているんだ? 心がザワザワする。
えるしぃは顔を両手で覆い、狂ったように髪を振り回し始める。まるで何かを思い出さないように、もがき苦しんでいるようだ。
「ああ、重症だね。分かってんだよ、少しずつ互いを理解していかないと取り返しがつかなくなっちまうよ――良いのかい?」
ぴたり。
そう表現する事が正しいように固まった。えるしぃの纏う雰囲気が急激に変わると、その両眼は金色に輝いていた。
『「――いえ、自然と調和はしていたハズなのですが、感情の乱高下が激しく精神の均衡が崩れ始めていました。――この世界に戻って来て回復を促し、良い方向へ向かってはいたのですが……」』
――誰だっけ? わたし? いや。私だよね? ちょっと、落ち着かなければ。
えるしぃは精神が分裂してきている。
今までえるしぃちゃんとして安定していたハズの精神性。それが異世界での出来事や運命に振り回される人たちや暴力に触れることにより乱れていた。
――わ、わた、わたしは引きこもりのコミュ障クソ雑魚ナメクジヨワヨワハイエルフだ!!
異世界で生きていくために身に着けていた自己の精神を安定させる暗示を掛けていくえるしぃ。戦争の際何度も何度も使用しており癖のようなものになっている。
「はッ、はッ、はッ――は、あぁっ! ――――すぅ、ふぅ。大丈夫、大丈夫、大丈夫」
えるしぃはこういう時にこそハイエルフ的精神統一を行うんだ、と。大きく息を吸い込んでゆっくり吐き出していく。
「どうだい? 焦らなくていい。あんたはあんただ。田中だった奴もあんただし、さっき喋った女もあんただ。全てがあんたの一側面でしかない。ゆっくりと、穏やかに、お互いを受け入れてやんな」
顔を俯けブルリと身体を震わせる。
過去の全てを受け入れ認めるという事はえるしぃにとって、とてもつらく苦しい事であった。――彼女の、彼の精神性はそこまで強くなかったのだ。
ボンヤリ瞳の色が金色と銀色を行き交っていく。えるしぃの現在のありようをその瞳の色が明確に示している。
『「…………ええ。お騒がせしました。あなたは……私より立派な女神になれそうですね……私……なんかよりも……」』
女神であったエルシィは敬われ拝められていた。
彼女の心の中を置いてけぼりにしながら周囲の人間達は――素晴らしい! 立派で偉大な女神だ! 世界を導く心優しきお方だ! 我々に救いを! と。理想を押し付け彼女を孤独へと追い込んだ。
「なんかじゃないさね。あんたはきっと数多くの困難に直面してきた。悩み、苦しみ、悲しめる奴はそれだけ同じ境遇の連中を理解して上げれるんだよ。傲慢にも救えるとは言わない、ただ“理解”して上げれるだけでも救われる人間は数多くいるさね」
――…………。救える、か。
慈愛の女神と呼ばれる存在であるエルシィは確かに苦しみ、沢山泣いてきた。その生きてきた中で確かに救えた、と言える人間は少なからず存在していた。
「あんたの名前は? ああ、今いる人格全てさね」
そう言われた彼女は少し考えるような様子で両目を閉じ沈黙する。婆さんは時間はかかっても良いと言わんばかりに腕を組みじっと待っていた。
『「エルシィ・エル・エーテリア……です。今の私は慈愛の女神と呼ばれたエルシィ。――そして我は殺戮の闘神と言われた、そうじゃな……エーテリア、とでも言っておこう。――そして、この身体に生まれ変わる前の精神性の私が田中、菊次郎であり、えるしぃとなった存在、だ」』
自身で名を名乗りながら彼女は、彼女達は理解した。
田中菊次郎という精神性とえるしぃは未分化で曖昧な存在である、と。
しかし、慈愛の女神エルシィと殺戮の闘神エーテリアはハッキリと分化している。
「やっと、分かったってツラしてるさね。でも、悪い気分じゃないだろう? 分裂していることが悪いわけじゃない。無理に纏めちまう方がかえって悪くなっちまう場合もあるんだよ。――ようは、いい塩梅で住み分けできればいいんだよ。ま、それをちゃんと理解さえできりゃあ後は全部テキトーでいいんだよ、テキトーで。ひひひひ!」
適当にすればいい、と言われ綺麗な顔をしたエルフはぽかんと口を開けて唖然としている。今までなんかいい話をしていたのに最後に全力で放り投げられたのだ。
『「テキトー…………アハッ。ハハハハハハハハッ!! フヒヒヒッハハッ!! ハァッハァッフゥー。――まったく婆さんらしいなぁ……テキトーって。もっとこう、なんか言い方があっただろうに。……ありがとう、婆さん」』
えるしぃは婆さんが気を使ってくれたのだろうと理解していた。でも、その心遣いはとっても心地がいいな、と感じていた。
「そんなに気にしなくていいんだよ。けれど、あんたがちょっと大金持ちになったらこのボロアパートの立て直しの金を貢いでくれりゃあいいさね。けけけけ!!」
『「――言っちゃったねぇ。でっかく、一億円とか稼いじゃったらババーンと立て直してやるんだからねっ!! でも、一部屋だけは私がオーナーだよね? そしたら内装を勝手にかっこ可愛く弄っちゃうんだからね!?」』
――なんだか心の濁りが溶けていく気がする。きっと、何かが溜まっていたんだろうな。
何かが切り替わった気がするえるしぃは自身の心の中に存在する複数の精神を認め合い、明確に認識した。
――全てがわたしであり、私でもあり、我でもある。
「言ったね? あたしが死ぬまでに稼いできなよ。いつまでも待たせたらいつの間にか死んじまってるさね。――ほら、そんなに元気が出たなら帰って風呂にでも入ってしまいな。ちょっと、あんた臭いんだよ!?」
自身の体臭は気づきにくいと言われているが、そんなことはないだろう? と、えるしぃちゃんはパーカーの袖の匂いを嗅いでみる。――そういえば子供達と遊んで沢山汗を掻いていたし、夜の町中を駆け巡っている。正直本当にくちゃい……。
『「本当だっ! ――婆さん、たまに、遊びに来てもいい?」』
「何言ってんだい。家賃を払いに来ない気かい?」
いつもは家賃を銀行引き落としで対応していたが。婆さんが言うのならそう言う事なのだろう。月に一回は顔を出せ、と。
えるしぃの両目は金眼と銀眼のヘテロクロミアの状態になっており、変化をする様子は伺えない。
婆さんの家を出る際にはえるしぃとして挨拶をする。
「――また来るよ。今日はありがとう婆さん。お金稼げたら美味しいお土産買ってくるね? ――おやすみなさ~い」
「はいはい。ゆっくり休みな」
そういうと、玄関へ向かい靴下を手に持ったまま濡れた靴を履いた。
婆さんはリビングでのほほんと茶を啜っているようだ。
来た時には重たく冷たく感じた木製のドアが、今は暖かく感じている。
ドアを開け外に出てから丁寧に戸を閉めると、婆さんが住んでいる部屋に向かってお辞儀をした。
――今回は本当に婆さんに助けられてしまったな。私の慈愛の女神として最上位の加護を婆さんに――送った。
お礼がバレると恥ずかしいので気づかれないように送ったけれど、恐らく気付かれるだろう。次に顔を合わせた時に苦笑いしながら『余計な気を使わなくていいさね』とでも言ってきそうだ。
――婆さんお休み。ちゃんと風呂入って寝るからな。
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