5-1
雄鶏もまだ目を覚まさぬ夜更けにフィーネは音をたてぬように部屋の窓を開けた。
深い眠りに落ちているルカを横目に窓から飛び降りた。
降りた先は地面ではなく、体を大きくしたノクスの背の上だ。
そして顔を上げ、空きっぱなしの部屋の窓を魔法で閉める。
これで明け方までルカにバレることはないだろう。
【フィーネ、準備は良いか?】
「うん、行こう」
フィーネはノクスに跨り、振り落とされぬようにその体にしがみついた。
星が輝き、流星が流れる空を駆けていく。
向かう先は部活棟近くの湖畔。
これから夏が訪れるためか、生ぬるい風がフィーネの頬を撫でていく。
あっという間に飛行は終わり、ノクスは地面に降り立つ。
フィーネも湖畔に立つ人影を確認して地面に足をつけた。
目立たないために白い制服ではなく、黒のワンピースを着ているがこのまま闇夜に溶けてしまうのではないかとフィーネはそっと目を閉じた。
そして息を吐いて目を開き、こちらに近寄る人影を見据えた。
何故こんな夜な夜な寮から抜け出したのか。
「あなたのお望み通り会いに来ましたよ。ヒュドラ寮のヘンドリクセンさん」
「だいぶ待たされたんだけどな。なあ、フィーネ・ブラック?」
人影が月明かりに照らされる。
あの日はたくさんの1人として認識していたがそれは間違いだった。
犯人、ヘンドリクセンは既に要求を提示していたのだ。フィーネに会いたい、と。
だがフィーネの臆病さが事態を大きくしてまった。
「訪れたあの日とは姿が違う気がするんですけど」
「お前も分かっているだろう? 変身薬だよ。何かと便利でさ」
その言葉にフィーネは顔を顰めた。
あの時は目立たない顔つきで一緒にいたルカでさえ、名前は覚えていても顔は覚えていないと言っていた。
それはフィーネも同様だったが、今この瞬間立っているヘンドリクセンは明らかに顔つきも体つきも違うことは分かった。
加えて彼にまとわりつく禍々しい黒い影もフィーネには見えた。
正確には
変身薬で隠れていたのだろう。
あの禍々しい黒い影は『妖精の呪い』だ。
妖精の呪いは陽性を殺した者にかけられる呪いだ。
隣にいるノクスも感じているのか、先程からずっと唸っている。
「妖精の呪いが怖くないんですか?」
「別に。俺はあの方の役に立てるならそれでいいし。それに変身薬を使い続けるには妖精の羽が必要だからな」
かつてフィーネの父、ソルオは薬師の師として何度も忠告していたことある。
『この世界には万能薬はあるけど使ってはならない。使ってしまえば生きることも死ぬことも出来なくなってしまう』と。
当時幼かったフィーネには分からなかったがそれが恐ろしいものだということはソルオの顔を見て分かっていた。
その万能薬こそが妖精の羽なのだ。
妖精の羽はすり潰して飲むとどんな万病も傷も癒すことができる。
だが妖精から羽を奪うということは妖精の命を奪うということ。
妖精の命を奪うとその妖精から呪いがかけられてしまう。
その呪いはその人物の魂の穢れとなり、死後この世界を彷徨い続ける。
誰かに見つけてもらうことも叶わず、もちろん触れることもできない。
救われるためには死神を探し出し、その穢れた魂を差し出さなくてはならない。
だが死神に魂を差し出すということは今後新たに生まれ変わることができないのだ。
「何が目的ですか? 上級生の人を操って襲わせたり、お母さんの日記を盗んだり」
「あの時お前が素直に名乗ってくれたら襲わせることも日記を盗むこともしなかったって」
「話を逸らさないでください。何が目的ですか?」
淡々としたフィーネの態度が気に入らなかったのか、ヘンドリクセンは眉を寄せた。
そしてマントの内側からナターリヤの日記を取り出し、乱暴に投げ捨てた。
フィーネの激昂がノクスに伝わったのか、咆哮をあげてノクスはヘンドリクセンに襲いかかる。
だがヘンドリクセンは無表情のまま、ノクスの牙を受止めてそのまま地面に叩きつけた。
「ノクス戻りなさい!」
フィーネの声に我が返ったのか、ノクスは立ち上がって傍に戻ってくる。
感情を共有できるのは普段は利点になるがこういった心の駆け引き場面では不利になる。
怒りで早まる鼓動を深呼吸で落ち着かせ、目の前にいるヘンドリクセンを観察する。
眼前に迫る恐怖を押し殺すように震える手で拳を作った。
(冷静に…冷静に…)
やはり表情を変えないヘンドリクセンは噛まれた腕周りについた土埃を払う。
だがノクスに噛まれたはずの腕の傷が綺麗に修復されていく。
その光景は一見すれば神秘的だが、フィーネからすればおぞましかった。
なぜなら妖精の呪いである穢れが腕にまとわりつき、黒く侵食しているからだ。
傷の修復の速さから見ても相当な数の妖精の羽を奪ったのだろう。そして比例するように命も。
フィーネは日記を拾い上げ、強く睨む。
すると視線に気づいたのか、ヘンドリクセンは嘲笑の笑みを浮かべた。
「ああ、目的だっけ? あの方がお前のことを気になってるからだよ。俺はそれが気に食わない。俺より強いならまだしもお前は弱くて脆くて臆病で1人ではなにもできない。何も無いお前が腹が立って嫌いだから」
腹が立つ?嫌いだから?
そんなことのためにルカやティム、寮長を巻き込んだというのか。
日記は盗まれ、平穏が乱され、何も知らない私はそんな理由で襲われたのか。
フィーネの頭の中はいつの間にかマグマのように沸き立つ怒りに塗り替えられてしまっていた。
心臓の奥から熱くなっていくようだ。
いつもは出てくるのに苦労する言葉も今は吐き出したくて仕方がない。
耳飾りの魔法石が段々輝き出す。気持ちに比例するように魔力が集まっていく。
「強いとか弱いとか嫌いとかうんざりだ!! あの方なんて知りませんけどただの迷惑です! 私のことを付け回して何を知ったというんです? そんなことでわかった気にならないで下さい、あなたは私の全てを知らないくせに! この怒りもあの時の恐怖も涙も!」
呼応するようにノクスは毛を逆立てその姿を変えていく。
青い瞳は夜明けの中でギラギラと輝き、敵を狙い定める。
半分やけくそ気味になったフィーネは地面を踏み締める。
「私には何も無い。兄さんにとってもお荷物。でもそれは『まだ』でしかない!」
「まだ? お前はここで俺が殺すのに? あの方の目に止まった時からお前の未来なんてねえーんだよ馬鹿が!!」
「そんなもの貴方が決めることじゃない!外野は静かに見守ってろって話なんだよ!!そもそも私の未来にお前はいない!!邪魔だ!!」
ヘンドリクセンはネックレスの魔法石を輝かせ、魔力を込めた拳でフィーネに殴りかかろうとする。
だがそれはノクスに炎に拒まれ、炎を受け流すために身を引いた。
フィーネは右手を掲げ、お腹に力を込める。
「妖精達よ!聞こえるか! 同志の呪いはここに! 我が友人の無念を、願いを、今ここで救う!」
「お前に救えるものなんてねぇんだよ!! 弱いお前が自分すら守れないのに! きゃんきゃん吠えるんじゃねぇー!!!」
ノクスを払い除けてフィーネに襲いかかる。
魔法で身体強化された拳がフィーネの魔法の盾とぶつかり合う。
盾に小さく亀裂が入り出す。
変身薬を服用しているから身体強化の魔法にプラスとして働いているようだ。
フィーネにはヘンドリクセンがとれほどの妖精の命を奪ったのかはわからない。
彼が殺そうとする理由も生い立ちも『あの方』もわからない。
だがフィーネだからこそ分かることもあった。
それはヘンドリクセンにまとわりつく妖精達の泣き声と悲鳴だ。
妖精達もまたフィーネの幼い頃からそばにいた存在だ。
もしも家族も同然のベルティナもこの悲鳴の中にあったら?
もしも自身のせいで襲われてルカやティムが怪我をしてしまったら?
(無理だ。あの人を許せるはずがない)
瞬間、夜明けの光と共に湖に風が巻き起こる。
巻き起こる風はフィーネやヘンドリクセンの間を吹き抜けていく。
フィーネには優しく撫でるように。
ヘンドリクセンには立つのもの困難なほどの体当たりのような風が。
風と共に怒りの声が運ばれてくる。妖精達の声だ。
【ああ!可哀想な同志!】
【人間に殺されてしまった同志!】
【救え!救え!】
【歌を!歌を!救いの歌を!】
巻き起こる風は湖の周りに咲く花々を摘み取り、花の嵐を作り上げる。
その光景は美しく、夜明けを迎える世界を彩ろっているようだった。
だがそんな光景はヘンドリクセンにとって地獄絵図に見えるはずだ。
なぜならその嵐にかけられた呪いが吸い込まれていき、黒く嘆きの嵐に見えるからだ。
その刹那、ヘンドリクセンは声を上げて痛みを叫んだ。
「あぁああ!!痛い…! フィーネ・ブラック!!俺に何をした!?」
「貴方にかけられた呪いを妖精達に伝えただけです。妖精は祝福を与える種族。今、貴方は呪いを解く祝福を授けられていますよ」
「なっ…!? そんなことしたら!」
「妖精の治癒能力が消え、今までの痛みや変身薬の副作用が一気に襲うでしょうね。呪いと祝福は表裏一体なんですよ。知っていました?」
その言葉を聞いたヘンドリクセンは恐怖の顔を浮かべ、その壮絶な痛みと共に倒れた。
倒れる間際、残る力で口が動かしていた。
黒の魔女、と。
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