10.可愛いお嫁さん

 キッチンに立ち、リビングで寛ぐトオルを咲が見つめる。一通りの勉強を終えたトオルが楽しそうにテレビを見ている。咲が料理をしながらこれまでの状況を分析する。


(まず私は『幼馴染み』。同じ学校で朝も一緒に登校し、いわば一番近い存在)


 咲がボウルにミルクを入れシャカシャカと混ぜ始める。



(だけどこれまでは全くその幼馴染みから脱却ができなかったわ。『女』と言うよりは家族とか兄弟とかの方が近い感覚……)


 咲が棚からパスタを取り出す。



(だけどこの数か月ですっかりその意識も変えられたはず。『可愛い』とか『女だと思っている』とかその確証となる言葉も聞けたし)


 そして沸騰した大きな鍋の中にゆっくりとパスタを入れる。



「あはははっ!!」


 リビングから聞こえるトオルの笑い声。


(だけどまだ何かが足りない。何か決め手に欠けるというか。そもそもどうしてこんなに可愛い子がすぐ近くにいるのに平然とテレビ見て笑ってられるの??)


 咲は全くこちらを見向きもしないトオルを見ながらむっとする。



(できたわ)


 そう思いつつも慣れた手つきでカルボナーラを作り上げ、スープとサラダにスクランブルエッグ、それにパンを幾つか用意しトオルに声をかける。



「できたわよ。運んでくれる?」


「ん? ああ、いいよ」


 トオルはそう言って笑顔でこちらに歩いて来る。



(やだ、なんて可愛い顔なの……)


 咲はトオルの顔を見て、改めて自分は彼のことが好きなんだと思った。



「うわっ、めっちゃ美味そう!! 俺の大好きなパスタじゃん!!」


 トオルはプレートに乗せられた咲の料理を見て嬉しそうに言う。



「私、前よりもさらに料理上手になったんだから!!」


 咲も同じくプレートを持ち歩きながらトオルに言う。一緒に歩いていたトオルが答える。



「マジで? 咲、結婚したら絶対いいになるよな!!」



(えっ!?)


 プレートを持った咲が固まる様に立ち止まる。



 ――お嫁さん



 なんて可愛らしくて甘美な響き。

 トオルのお嫁さんになりたいと深層意識で考えていた咲にとって、それは心の奥深くをぎゅっと握られるような甘い衝撃であった。



「お、お嫁さん……?」


 微かな声で咲が言う。

 椅子に座ったトオルが答える。



「ああ、お嫁さん。咲は料理も上手だし家事もできるだろ? 頭もいいし、絶対いいお嫁さんになると思うよ」


 咲の顔が一瞬で真っ赤に染まる。


「や、やだ。そんなことないよ。恥ずかしい……」


 そう言いながらも満面笑みの咲。トオルの向かいに座りジュースを注ぐ。



(やだ、なんかこうしていると、本当に新婚さんみたい……)


『お嫁さん』に『新婚さん』。

 咲はどんどん自分が幸せのそのへ導かれて行くような気がした。



「いっただきまーす!!! うわっ、うめぇ、マジうめぇ!!!!」


 咲が座ったと同時に食べ始めるトオル。大好物のパスタをガツガツと口に入れる。



「うふふふふっ……」


 咲は昔と全く変わらないトオルの食べっぷりを見て思わず笑みがこぼれる。



「咲、本当にうめぇよ。最高だよ!!」


「うん、ありがと」


 咲は満面の笑みでそれに応える。



(ああ、幸せ……)


 ふたりで囲む食卓。

 まるで本当に新婚生活のよう。こんな時間がずっと続けばいい、咲は心からそう思った。



「そういえばさ、咲」


「なに?」


 パスタを食べながら咲が答える。



「咲は大学、どこへ行くの?」


 尋ねられた咲がトオルの顔を見つめる。



(決めていない。なぜって、あなたと同じ大学に行きたいから……)


 少し悩んだ咲がトオルに言う。


「まだ決めていない。トオル君はどうするの?」


「俺? 俺、大学なんて無理だよ。高校卒業できるのかすら微妙だし」


 口いっぱいにパスタを頬張りながらトオルが答える。咲が尋ねる。



「え、じゃあ高校出て働くの?」


「分からないけど、それも考えている」



「じゃあ私もそうする」


「は?」


 スープを飲もうと手にしたスプーンを持ったままトオルの動きが止まる。



「何言ってんだよ、咲は医大に行くんだろ?」


「前はそう思っていたけど、今はどちらでもいいかなって……」



『あなたと一緒に居たい』


 咲はなぜその簡単な言葉が口から出ないのかと自分がじれったく思う。



「そんな言い方よせよ。お前は医大に行って医者になって、たくさんの人を助けなきゃ」


 並外れた天才だと知っているトオルが真剣な顔で言う。咲が医師になって困った人を救う。これは小さな頃から幼馴染みとして育ってきたトオルの思いである。



「その方が良いのかな……」


 咲がサラダを食べながら小さな声で言う。


「そうだよ。絶対。俺は咲にそうなって欲しいと思ってる」


「そうなの?」


「ああ」


「じゃあ、そうする」


 医者になるということをこんなに簡単に決められるのはやはり宮崎家の天才少女。

 ただ彼女にはとって医大に行って医者になる事より、どうやって楽しいキャンパスライフをトオルと過ごせるかということの方が重要であった。恋は失明である。



「そうか、良かった。咲……、わっ!!」


 安堵したトオル。

 ちょっと気が抜けてしまったのか、テーブルに置かれたスープに肘が当たりそれがズボンの上へとこぼれてしまった。



「だ、大丈夫!?」


 慌てる咲。トオルが立ち上がって言う。



「大丈夫だけど、ごめん。床とか汚しちゃった」


 咲が首を振って答える。



「いいのよ、そんなこと。熱くなかった? 大丈夫なの?」


「あ、ああ、大丈夫。もうそんなに熱くなかったから。それよりさ、咲……」


「なに?」


 トオルは汚れてしまったズボンを見ながら咲に言う。



「悪いけど、風呂、貸してくれないか?」



(え?)


 咲はトオルの顔を見て固まる。



(風呂、風呂、風呂、風呂っ!! トオル君が、お風呂に入る!?)


 咲の頭に全裸で体を洗うトオルの姿が浮かぶ。



(やだやだやだ、やだっ!! えっち!! でも、見たいっ!!!!)


 そしてその全裸の横で、胸を隠し全裸で顔を赤くする自分の姿を想像する。



(きゃー!! 私、一緒にお風呂に入ってるぅ!!!!!)


 そして始まる。咲は自分の想像の中での妄想に酔い始める。



「な、なあ、咲……」


「むふふふっ、むふ、ふふふっ……」


 妄想に酔い、トオルの前で半目になって不気味な笑みで笑う咲。



「なあ、咲。咲……、咲っ!!!」


「ひゃっ!?」


 突然大きな声で呼ばれて咲が我に返る。



「で、どうなんだよ。いいのか、お風呂借りても?」


 咲が頷いて答える。


「え、ええ。いいわ。使って。今、沸かしてくるわね」


「ああ、悪いな」


 トオルはスープでベタベタになったズボンを見ながら言う。



「あ、咲」


 お風呂を沸かしに行こうとした咲をトオルが呼び止める。



「あと、もうひとつ悪いんだけどさ……」


 咲がトオルを見つめる。



「家に行って俺の持ってきてくれる?」



「え?」


 黙ったままトオルを見つめる咲。何も答えない咲にトオルが言う。



「今うちもさ、両親旅行でいないんだよ。だから俺の部屋に行って着替え、持って来てくれるか?」



(ええっ!? えええっ!!!!!)


 一体何を考えているのか分からないトオルの言動に、咲の頭はパンク寸前になってしまった。

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