6.『お色気作戦』発動よっ!!
「おはよ……」
「あ、ああ、おはよ……」
翌朝、家の前で待っていてくれたトオルに咲は小さな声で挨拶をした。ぎこちない抑揚で答えるトオル。ふたりはそのまま黙って歩き始める。
無言。
少し離れた距離。
咲は左斜め前を歩くトオルを見て終始むっとしていた。
(あの一宮って女とは一体どういう関係なのよ!! こんな可愛い子が近くにいながら、どうしてよっ!!)
咲はトオルと仲良く歩いていた昨日の光景を思い出し、ほとんど眠れぬまま朝を迎えていた。何度電話で問いただそうかと思い手にしたスマホ。結局答えを聞くのが怖く何もできぬまま今朝に至っている。
冷たい風が吹く晩秋の朝。ポケットに手を入れたまま歩くトオルが咲に声を掛けた。
「なあ、咲」
「……なによ」
自分でも怒っていると分かるような不機嫌そうな声。
「昨日の静谷のことなんだけどさ……」
そこまで言ったトオルに咲が大きな声で言い返す。
「あの一宮って女は何なのっ!!」
「え?」
前を歩いていたトオルが立ち止まり咲の方を振り返る。
「一宮?」
トオルの頭に昨日一緒に文化祭で使う本を買いに行った光景が思い浮かぶ。咲が言う。
「ああいう女が好きなの!?」
怒気を含んだ声に一瞬驚くトオル。すぐに答える。
「いや、好きとか嫌いとかじゃなくて文化祭で使う本をだな……」
トオルが昨日の有希との買い物の説明をする。必要だから彼女と一緒に買いに行ったとのこと。
(え? 文化祭の本? それを買いに行っていただけですって!!??)
不満と寂しさと嫉妬の炎に焼き尽くされていた咲の心に、安堵という名の優しい雨が降り注ぎ始めた。
咲の顔が真っ赤に染まる。もしかして勘違いをして怒っていたのは自分の方であったのかもしれない。咲はトオルはポニーテールが好きなのかと思い、今朝昨日の一宮有希とそっくりなポニーテールにまでして来ていた。
トオルはなぜ本屋での有希のことを知っているのかと思いつつも咲に尋ねる。
「それより咲こそあれなんだよ、静谷と」
(やばっ)
作戦が失敗し、完全に動揺していた咲に上手く誤魔化せる余裕はなかった。
「あ、ああ、あのね。ラブレター貰って……」
嘘ではない。本当のことではあるが、それを彼に伝える必要はない。
「やっぱり咲はモテるな」
「いや、そんなんじゃなくて……」
言うことやることすべてが裏目に出る咲。再び歩き出したトオルの背中を見ながら思う。
(なんで上手く行かないのよ!! なんでなんでっ!!!)
勉強や友達の恋愛相談なら手に取るように先が見えるのに、どうして自分のことになると自慢の脳がすべて考えることを停止するのか。咲は混乱しかけていた。トオルが言う。
「なあ、咲」
「……な、なに?」
嫌われてしまった。作戦がまた失敗に終わって嫌われてしまった。咲の声は失意に満ちていた。
「可愛いじゃん、その髪型」
(え?)
咲に何か甘酸っぱい矢のようなもので心を射抜かれたような衝撃が走った。
トオルが好きだと勘違いしてまねた一宮有希の髪形。自分の勘違いで怒ったり嫉妬したり悲しんだりしたが、たったそのひと言で咲を幸せの絶頂へと変えた。
(やだ、嬉しい、嬉しい、嬉しいいいいい!!!!)
咲は昨夜まったく眠れなかった悩みを全て投げ捨てて、少し前を歩くトオルの腕に絡みつく。
「トオル君っ!」
「わっ、な、何だよ!?」
咲はトオルの腕に余り大きくはない自分の胸をぐいぐいと押し付ける。トオルが驚きながら咲に言う。
「ど、どうしたんだよ、急に!?」
『お色気大作戦』
トオルの言葉で一気に幸せの極地となった咲は、毎朝準備していた新しい作戦に取り掛かった。
「なに? いつもの私だよ」
そう言って上目遣いでトオルを見つめる咲。
(いや、怒ったり甘えたり、全然違う気がするぞ……)
トオルは戸惑いながら何を考えているか分からない咲に言う。
「い、いや、そんなことは……、えっ!!」
トオルはそう言いながら目に映ったある物を見て固まる。
(た、谷間……、咲の、胸の谷間……)
咲は毎朝、制服のシャツを下から引きけば、胸の谷間が見えるように調整していた。ここぞというタイミングで自然とその切り札を発動させた咲。混乱していた彼女だが、このタイミングの発動だけは完璧であった。
「トオル君、どうしたの……?」
上目遣いで尋ねる咲。もちろんトオルの視線が自分の谷間に向けられているのは知っている。トオルが顔を少し赤くして答える。
「いや、その、何と言うか……、今日、少し暑いな……」
頬が赤く染まってきたトオル。顔のすぐ横には色っぽい咲のうなじ。そのポニーテールが揺れる度に甘い香りが鼻孔をくすぐる。咲が少し笑って答える。
「えー、暑い? そんなことないよ~、ちょっと寒いぐらいだよ」
そう言って更に胸を押し付け谷間がはっきりと見えるよう強調する。
見たいのだがガン見もできないトオルが、ちらりちらりと横目で谷間に目をやる。その視線を感じ満足感に浸っていた咲もさすがに恥ずかしくなって来る。
(やだ、なんか私も暑くなってきちゃった……)
トオルから発せられる熱気。
それに加えて普段しないお色気作戦などしているので、咲自身も恥ずかしさから暑くなってくる。先程から鳴り続けている心臓の音。それが相手に聞こえるんじゃないかと思うほど大きくなっている。
(も、もういいかな。あまりやり過ぎは怪しまれるし……)
咲は組んでいた腕をすっと放し、いつも通りトオルの横を歩く。
(ふう……)
ふたりの間に安堵という名の空気が流れる。
その安心感のせいか、咲は自然とその質問をトオルにした。
「ねえ、トオル君」
「な、なに……?」
トオルは今日の咲がいつもと全く違うことにある意味警戒して返事をする。そんな彼に気付かない咲が尋ねる。
「私ってさあ……、トオル君の何なんだろう……?」
「え? 何って……?」
ポケットに手を入れ歩きながらトオルが首を傾げる。咲の頭には未だにクラスメートの一宮有希の顔が浮かんでいた。咲が言う。
「何って、そのままの意味だよ」
トオルが好きだと気付き、咲は自分なりに作戦を練り実行して来た。そろそろ何らかの成果のようなものが欲しい。無意識に咲はトオルにそれを求めていた。トオルが答える。
「幼なじみ、だろ? あと……」
(なっ!?)
トオルにしてみれば至極当たり前の回答だった。
しかし尋ねた咲にはそうは受け止められなかった。咲がむっとした表情で言う。
「何よ、それ! そんな当たり前のこと聞いてないわよ!!」
「は? 当たり前って、じゃあ一体何を聞いているんだよ!?」
トオルもむっとして言い返す。咲が何を言っているのか意味が分からない。
しかし咲としてはそのような当然の答えが欲しい訳ではなかった。『幼馴染』からの脱却。自分をひとりの女性として見て欲しい。兄弟や家族のような扱いも嫌いではないが、それを越えた関係になりたい。
ちっとも女の子として扱わないトオルにむっとして言った。
「私のこと女と思ってるの? それとも男とでも思ってるの?」
(は? な、何言ってるんだよ……、一体??)
トオルは意味が全く分からなかった。
それと同時にトオルを襲うある不安。最近様子が変だと思っていたが、まさかそっちの趣味に目覚めたとか? トオルがある種そうではないと言う願いを込めて答える。
「お、女だよ。当たり前だろ……」
咲の表情がぱっと明るくなる。
「ほんとに? 本当に私のこと女だと思ってる?」
当たり前すぎる質問。トオルが警戒しながらもゆっくりと大きく頷いて答える。
「当たり前だろ。女だと思ってる……」
「うんうん」
咲は再びトオルの腕にしがみつくと言った。
「さあ、学校行こっか!」
「あ、ああ……」
咲はご機嫌でトオルと一緒に歩く。
(よしよし、私の作戦も順調に成功しているようだわ。トオル君に『幼馴染』ではなく、『女』として意識させるようになっている!! この調子よ。この調子で行けばトオル君が私だけのものになる日も近いわ!! 頑張るのよ、私っ!!)
ご機嫌な咲。
トオルはよく意味が分からなかったが、咲が嬉しそうなのでまあそれはそれでいいかと思うこととした。
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