旅路
ゆうすけ
私はずっと旅をしてきた
やあ、お嬢ちゃん。よくここが分かったね。
こんなところを見つけてもらえるとは、少しは私にも運が残っていたようだ。
ああ、ありがとう。ふう。やれやれ。ここはとても冷たかったよ。ただ、身が清められたとも言えるかもしれないがね。どぶの中で錆びついたり、泥の奥深くに埋もれてしまうよりは身ぎれいになれているかもしれない。少なくとも今の私は、ゴミも泥もばい菌も、ましてや最近流行のウィルスなんかも付いていない。そこは安心してもらっていい。
え? めちゃくちゃ冷たいって? そりゃもう何か月もこの川の水に晒されていたからね。でもそのおかげでこの輝きだよ。ぴかぴかだろ?
おや? お嬢ちゃん、ハンカチで拭いてくれるのかね。それはありがたい。まったく生き返る気分だ。ああ、身体が温まった気がする。
せっかくだからちょっと聞いてくれるかな。私の生い立ちと、これまでの人生の旅路を。
◇
私は見ての通り昭和四十七年の生まれなんだ。お嬢ちゃんのお父さんよりも少し年上で、お嬢ちゃんのおじいさんよりは少し若いぐらいかな。
世の中はまだバブル前。最後の昭和レトロと呼ばれた時代だった。ちょうど石油ショックで大騒ぎになった時期だよ。お嬢ちゃんは石油ショックなんて言葉、知らないだろうな。何年か前のコロナ騒ぎの最初のころ、マスクやトイレットペーパーが店頭からなくなって大騒ぎになったことがあっただろう。それは知っているよな? あれと最近の値上げラッシュが同時に起こったと思えばいい。ただ当時はまだ物価も安かった。子供のお駄賃なんて私の弟分だけで十分だったんだよ。私と同僚が数人いれば、十分お年玉にもなれた時代だ。
東京から大阪まで新幹線で二千五百円だったからね。私一人で喫茶店でコーヒーが二杯飲めたし、私一人で町中のバスにも乗れた。大学卒の初任給、会社に入って最初にもらう給料のことだね、は約五万二千円だった。今はだいたい二十二万円だ。
ほう。気がついたかい? 面白いだろ? 今、東京から大阪まで新幹線で一万三千円ぐらいだ。新幹線はこの五十年で五倍強になっているけれど、初任給は約四倍だ。これは新幹線の値段が上がったとみるべきか、初任給が上がっていないとみるべきか。私は後者だと思うのさ。
実際、平成一ケタ後半には大卒初任給の平均が十九万円を超えていたのに、そこから二万円上がるのに三十年かかっている。私が駆け出しだったころは一年で一万円以上上がったこともあったのにね。
もっとも、初任給ってのは企業から見ると最も上げにくい賃金の一つだから、分からないでもないがね。初任給を上げるということは、結局全従業員の給料を底上げしなければいけないってことなんだよ。
勤続三年目の社員よりも入社一年目の社員の方が給料が高かったら働く気なくなるだろ? ここ数年働き方改革とやらで初任給を引き上げる機運が高まってきて、それでやっとこの数字だ。平成十年から平成三十年までの二十年間はほとんど変化がなかったというのが真相なんだ。
上げにくいわりには初任給を下げるのは比較的簡単だ。すでに働いている従業員の給料を下げるのは建前上従業員の同意が必要となっているが、まだ働いていない新入社員の初任給は極論すれば求人広告を修正するだけで下げられる。だから基本的に初任給は上がる時は景気動向からワンテンポ遅れて上がり、下がる時は景気動向と合わせてすぐ下がるという性質を持っているんだ。
ああ、ごめんな。ちょっとお嬢ちゃんには退屈な話だったかもしれないな。
分かりやすいのはタバコの値段かな。お嬢ちゃんのお父さんはタバコは吸うかい? え? 吸わない? まあ、それぐらいの年齢の人から吸う人が少なくなってきたからね。おじいさんは吸っているか。昔吸っていた? まあ、そうだろう。
今はタバコひと箱六百円だ。私が駆け出しのころは百五十円だったんだよ。ちょうど四倍になっているのが分かるだろ? 私と同僚が二人いればタバコが買えたのに、今じゃ六人いないとダメなんだよ。
ちょっと面白いから計算してみようか。お嬢ちゃんは算数は得意かな? 初任給でタバコを何箱買えるかを計算してみよう。大卒社会人一年目の初任給が全部タバコの現物支給だったとしたら何箱もらえたか、と言い換えることもできるな。グラフにするとこんな感じだ。
→https://kakuyomu.jp/users/Hasahina214/news/16817330653468476613
昭和五十年代の初頭は初任給の伸びがすごかったから、毎年初任給相当額のタバコは増えて行ったんだ。これでもちょっとずつタバコは値上げされていたんだよ。でもそれを上回る初任給の伸びだったんだな。ピークは昭和五十年と平成七年。だいたい九百箱に届くぐらいになっていた。さっきも言ったように初任給というのは景気から遅れて上がってくる性質があるからね。世の中の景気が悪くなり始めたころにこのグラフのピークが来るのはある意味必然だ。
このグラフを見るとピークに近づくとタバコの値上げをして調整していたのが分かる。だいたい初任給で六百箱~七百箱ぐらいを基準にタバコの値段を決めていた感じなんだな。タバコの値段ってのはね、お嬢ちゃん。今でも実質的にガチガチの統制価格なんだよ。タバコの値段の七割は税金だからな。一応建前上は専売公社から民営化されたJTが決めていることになっているけどね。日本全国どんな僻地でもタバコの値段は同じで、スーパーとかドンキ行っても安売りなんかしてないだろ。え? そんなの知らない? まあ、お嬢ちゃんがタバコの値段を詳しく知っていたりしたら、それはそれで通報しなきゃならないけどね。
それはともかく、2011年にいきなり一箱三百円から四百四十円に値上がりしたんだよ。いきなり1.5倍だから、さすがに私も驚いたね。ちょうど初任給が頭打ちの時期だったから、これで一気にタバコは高級品になってしまった。お嬢ちゃんのおじいさんもこれぐらいの時期にタバコやめたんじゃないかな。
まあ、政府の財源不足、環境意識の高まりによる嫌煙ムード、そして東日本大震災による生産力の大幅ダウンと外部からの値上げ圧力要因がまともに重なったという側面もあるがね。それ以降は初任給で四百箱~五百箱が基準になっている。ここ数年初任給が毎年十パーセントずつ伸びているのに合わせて去年今年と五十円ずつ値上がりした感じだ。二年で百円上がっているんだから大したもんだ。
どうだ? 面白いだろ? 社会経済の動きはこんな身近なところにも現れているんだ。タバコの値段をサンプルにしたから、お嬢ちゃんにはちょっととっつきにくかったかな。でも企業努力とか流行りすたりなどの影響が少ないモノの値段としてタバコはうってつけなんだ。
私も下層とはいえ、日本の経済を支えて旅をしてきたという自負があるんだがね。三年ぐらい前からかな、なぜか厄介者扱いされることが増えたんだ。みんなスマホで十分と思うようになったらしい。そして、かばんの奥とかタンスの裏とか引出しの底とかベッドの下とか、そういう陽の当らない場所で放置される機会が増えてきたんだ。確かにスマホは私から見ても便利だとは思うがね。
要するに私が言いたいのは、この五十年で私一人の価値というものがどんどん下がってきているということなのさ。
今まで私は数えきれない人の手から手を渡り歩いてきた。時に凶器まがいのこともやらされたこともあるし、またある時は偶然とはいえ、チンピラを銃弾から守ったこともあった。私の同僚には動物に飲み込まれてしまったのもいるし、あるいは偶然人身事故に巻き込まれて亡骸とともに焼かれてしまったものもいる。
ただ、私たちはみな、そうやって社会を支える役割を担っていることに、なんの疑問も持っていなかった。散って行った仲間たちを使命を全うしたものとして羨むことすらあったんだ。この感覚はお嬢ちゃんには分かってもらえないかな。
なのに、だよ。最後に私を手にした女子高生ぐらいの女の子は、手が滑って私を川に落としてしまったあげく「あー、落としちゃった。川の中に手を入れるの冷たいから、ちょっともったいないけどこれぐらい、ま、いっか。しょうがないねー」と笑いながらそのまま行ってしまったんだよ。きっと彼女は「まあペイペイで払っとけばいいもんね」ぐらいにしか思っていなかったんだと思う。
お嬢ちゃん。たしかに私はもはや一人では缶ジュースすら買えない半端者になってしまっているがな。それでも、この世の中で人が活動する限り、私と私の仲間たちが不要になることはないんだよ。
これからもずっと、物理的に壊れない限り、私は旅を続けていくつもりだ。さあ、お嬢ちゃん、私をどこへでも連れて行ってくれ。コンビニでも自販機でも百均のレジでも。
どこへ行っても、幸せをお嬢ちゃんに分けてあげることができる。それが私の使命であって、私の人生なんだよ。きっちり百円分だけだがな。
このまま水の中で忘れ去れるかと思っていた私は、お嬢ちゃんに拾ってもらえて心から幸せだと思う。
ありがとな。
◇
「おまわりさーん!」
「おお、ヒロちゃん、今日は塾はどうしたんだい?」
「今から行くの! でね、ヒロ、そこの河原の岩のところで百円玉拾ったー」
「おお、そうか。じゃあおまわりさんが預かっておくよ。ここに名前書いてくれるかい?」
「名前?」
「そうだよ。名前を書いておけば三ヶ月後にこの百円玉はヒロちゃんのものになる。落とし主が現れなければ、だけどね」
「えー、そうなんだー。やったー! おまわりさん、ハゲで顔怖いけど好きー!」
「ははは、おまわりさんもヒロちゃんのこと好きだよ」
◇
これからも彼の先の長い旅路は、続きます。
(了)
旅路 ゆうすけ @Hasahina214
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