第31話


「地上に戻る前にルシファーに会いたい」


 そう言ったのはアルマだった。アルマの発言にベルゼブブもガブリエルも驚いたが、マモンが「七層にいると思うが」と伝えた。ベルゼブブに頼んで、七層に向かう事を告げた時、ベルゼブブは少し渋った。


「……奴がまだいると思うが」


 奴、というのはサタンのことだろう。だがアルマは、覚悟を決めた目でベルゼブブに言った。


「どうしても会いたいんだ」

「何故だ?」

「ルシファーの気持ちを知りたい。戦うためじゃない。もう一度、あいつの気持ちを知りたいんだ」


 揺るぎない言葉に、ガブリエルとベルゼブブは顔を合わせたが、アルマの言葉に反論しようとはしなかった。

 マモンも気になるのか「俺もついていく」と言った。結局、四人で七層に向かうことになった。ガブリエルがアルマを抱えて、三人は翼を広げて、一気に六層まで下る。

 ベルゼブブの層に再び入り込むと、驚いた。泥しかなかった空間が、今では神秘的なキノコと蝶だらけの森に変わっていたからだ。幻想的な赤紫色の輝きを放つ巨大なキノコと、銀色に輝く蝶たち。さっきまでいた場所とは思えなかった。

 驚くアルマを見て、ベルゼブブは少し言葉を詰まらせる。


「先程のあれは、サタンの影響を受けていたせいだ」

「これが、本来のベルの層なのか」

「まぁ……放っておいているから、殆ど毒の胞子しか蒔かないキノコだらけだが」

「綺麗だ」


 正直な感想を述べるアルマに、ベルゼブブは一瞬だけ驚いて顔を逸らした。

 そして、七層の階段へと辿り着いたが、驚いたことに階段が破壊されていた。飛んで上がり、奥まで辿り着くも、扉まで粉々に破壊されていた。

 破壊された扉からは、黒い泥のようなものが滴っていた。その滴った痕には、蛇の模様がついている。それを見て、ガブリエルが顔を歪めた。


「サタンだ」


 ベルゼブブとマモンが扉に近づく。警戒しながら覗くと、くすくすと笑い声が響いた。


『にいさん、にいさん、大好きなガブリエルがきたよ』


 空気が揺れる。ベルゼブブとマモンがその場から離れた。すると、巨大な蛇の鱗を持った手が、ガブリエルとアルマを鷲掴みにした。

 二人はそのまま、扉の奥へと持っていかれる。


「アルマ! ガブリエル!!」


 後ろからベルゼブブが追いかけてくる。しかし、手の方が早かった。一気に二人を引きずり込んで、暗闇の空間に投げた。

 ガブリエルが慌ててアルマに手を伸ばしたが、それは別の手によって掴まれ暗闇に引きずり込まれた。


「ガブ!?」


 アルマが声を上げるが、背後から声が響く。


「ようやくお話しができるね」


 銃を構えて振り返る。しかし、その姿を見て目を見開いた。

 長い赤髪と、両側頭部から生える細い白髪をふわりと揺らしながら裸体を晒す、自分と同い年くらいの女。しかし、その翡翠の目を見て、理解する。


「お前が、サタンなのか」


 アルマの問いに、女性はくすくすと笑った。


「そう、お前たちが言う悪魔サタン。その本性がこの姿だ」


 低い声が脳裏に響く。痛みさえ伴うその声に、アルマは怯むことなく銃を向け続けた。


「ガブをどこにやった」

「にいさんが連れて行った。にいさん、ガブリエルの事、大好きだから。取り戻したい?」

「当たり前だ」

「でも、今のお前にできるかな? ただの人間が、霊に勝てるとでも?」


 馬鹿にするように話す言葉に、アルマは頭にきて銃を乱射した。

 しかし、サタンの身体に当たっても、それは水面のように揺れるだけ。サタンは面白おかしそうに笑った。


「残念。対悪魔の武器を使っても俺は倒せないよ」

「本当に、最強の悪魔なんだな」

「そうさ。俺は天界にいた時から誰よりも強いはずだった――ミカエルよりも、強かったはずなのに」


 笑みが歪む。ギリ、と歯を噛みしめ、悔しそうに拳を握りしめた。


「神が、ミカエルが、俺を馬鹿にする。お前は二の次だと言わんばかりに、俺の事をおざなりにした。許せるか? 知識も権力もある天使として生まれた俺が、こんな扱いを受けていいと思うか?」


 ゴゴ、と空間が揺れる。驚いて足元を見ると、ぎょっとした。

 下に、渦を巻く空間の中に、二つの竜の頭が顔を伸ばしてこちらを睨んでいた。恐ろしい獣の姿に、冷や汗をかいた。


「俺は特別な存在のはずだ。なのに、天界を追放され、悪魔として呼ばれ、地に封じ込められた。こんな辱めを受けて、許せるはずがない」

「そんなの、ただの我儘じゃないか!」

「それがどうした? 俺は俺の望みを叶えるだけ」


 段々と口調が変わってくる。女の身体だったのが、いつの間にか男の身体になっていた。

 サタンは両手を広げ、空間を捻じ曲げる。アルマは、身体が割かれそうな痛みに悲鳴を上げた。


「ぅあッ!?」

「手始めに、お前を殺す。お前の心にはまだ神がいる。俺は、それを許さない」


 ギチギチ、と痛みが襲う。声を上げられず、身体を抱え込むように蹲るが、突然バツン、と音を立てて一瞬で痛みが消えた。何だ、と顔を上げて驚くと、サタンが嫌悪に顔を歪めた。


「やはり神の愛を受けているのか」

「え……?」


 驚くアルマをよそに、サタンは言葉を続ける。


「おかしい。ただの人間がガブリエルを視たのも、俺の呪いを消すことも、できようはずがない。そんなこと、預言者の御下がりだったはずだ。だがお前は――神の愛を直接、受けている」

「神の、愛?」

「その愛で、俺の望みをかき消そうというのか。許せない」


 サタンは片手を伸ばした。ぐん、と身体が引き寄せられる。そのままサタンに首を掴まれ、締め上げられる。


「ぐっ」

「この手で、確実に、殺して――」


 強く絞められ、息ができなくなる。だがアルマは、首を絞められながらも銃を持つ手を動かし、そのままサタンの頬を殴った。ゴッ、と音が響く。サタンは驚いた顔でアルマを睨んだ。


「殴った? 人間が、俺を?」


 すると、アルマを掴んでいたサタンの腕が斬られる。間に割り込んできたのは、ベルゼブブだった。彼女は怒りの目でサタンを睨み、その顔に蹴りを入れようとしたが、吹き飛ぶ。片足がなくなったベルゼブブは、アルマを抱えながら離れた。

 だが、サタンの手は瞬く間に再生し、殴られた頬に触れる。徐々にその目が鋭くなる。


「人間が……」

「アルマ、ガブリエルは?」


 サタンの言葉など無視して、ベルゼブブはアルマに問いかける。アルマは答えようとしたが、首を絞められていたせいで声がうまく出なかった。すると、サタンが髪の毛を逆立ててアルマを睨んだ。


「許さない」


 下にいた竜が、長い首を伸ばしてアルマたちに襲い掛かる。ベルゼブブは羽を広げてその攻撃を避けたが、サタンがベルゼブブの髪を掴んだ。強く引っ張られ、ベルゼブブは顔を歪める。そして、サタンの手はアルマの服を掴み引っ張った。ビリビリ、と上着が破れる。


「死を望むほどに後悔させてくれる」


 大きく口を開け、アルマの首筋に噛みつこうとした。しかし、アルマは銃口をサタンの口の中に入れて撃つ。サタンの頭が弾け飛んだ。

 そして、ベルゼブブがサタンの身体を蹴り飛ばして距離を置いた。ベルゼブブの吹き飛んだ足が蝶に包まれて元に戻る。サタンの顔は、水のように揺れながら元に戻っていく。

 アルマは息を飲んだ。今までの悪魔とは次元が違うと。思わず震えが走りそうだった。


「これが、サタン」


 横からあの竜の頭が襲い掛かる。すると、そこへ数多の鎖が飛んできて竜の頭を縛り上げた。口を塞がれ、成す術もなくもがく。もう一つの頭も鎖に捕まり、暴れまわっていた。

 飛んできた鎖の先を見ると、マモンがいた。彼は黒い翼を羽ばたかせながらニヤリと笑った。


「一つ貸しだ」


 ベルゼブブは、アルマをマモンに向かって投げた。マモンはアルマを受け止めたが、ベルゼブブはすぐにサタンに伸びた爪で斬りかかる。しかし、サタンはその手を掴み、もう片方の手もベルゼブブの腕を掴んだ。

 睨み合う二人。サタンはベルゼブブを見て馬鹿にするような目をする。


「あんな人間の味方をするなんて、お前も情けなくなったな」

「ふん、尊厳も何もないお前よりはマシだろう。同じ悪魔とて、貴様のような奴を野放しにしておくわけにはいかん」

「ははは、にいさんが嫌だと言っても?」

「無論。貴様は、もう一度封じられるのだ。我々のためにな」

「やれるものなら」


 サタンの蹴りがベルゼブブの腹部に入る。ベルゼブブは悲鳴を上げることもできず顔を歪めたが、すぐにサタンを睨んだ。サタンは嗤う。


「やってみるがいい!」


 直後、ドス、とサタンの胸に双剣が刺さった。その場にいた全員が驚いて振り返る。

 離れた場所で、ガブリエルが手を翳していた。反対の腕には、眠るルシファーを抱えている。ガブリエルは、悲しみを滲ませながらも険しい目でサタンを見ていた。

 サタンは突き刺さった双剣に顔を歪ませた。ベルゼブブを突き飛ばし、両手を胸に伸ばす。


「神の、剣を、俺に……!!」


 剣を抜こうとしたが、バチン、と音を立てて弾かれる。徐々にサタンの身体が女に戻っていく。

 やがて、サタンは顔を歪ませたまま、その場にいた全員を睨んだ。


「なるほど、お前達は俺の復活の邪魔をするつもりか。なら、ここに長居は無用だ」


 そう言って、サタンは姿を消した。ベルゼブブが慌てて横にいる竜を睨んだが、竜もまた姿を消した。


『現界で、お前たちを待っている。俺を見つけられればな』

「待て!」


 ベルゼブブが叫ぶが、サタンの気配はもうしなかった。

 ベルゼブブは悔しそうに「くそ」と毒づいたが、アルマはその光景をただ見ている事しかできなかった。

 ガブリエルはアルマに近づく。


「大丈夫か?」

「うん……ガブは?」

「私は大丈夫……ルシファーが心配だ」


 そう言って、ガブリエルは腕の中で眠っているルシファーを見た。


「私を、サタンの影響から引き離そうとしたかったんだ。だが、途中で意識を失くした。きっと、力を使った反動だろう……」

「そうか……サタンはもう、地獄にはいないのか?」


 アルマはベルゼブブに問いかける。ベルゼブブもアルマに近づいて頷いた。


「あぁ、もうこの空間から消えている。奴め、私の力をすり抜けて行きおって……」

「とすると、また地上であいつを探さないといけないのか……」

「地上に戻る。だが、ルシファーを連れて行くわけにはいかない」


 ベルゼブブはマモンからアルマを奪い取り睨んだ。


「マモン、しばらく地獄でルシファーの回復を手伝え」

「えっ! 俺が!?」

「お前も元は治癒の力を持っている。できるだろう」

「そ、れは……」


 言葉を濁らせるマモンだったが、ガブリエルからの懇願の目線に、舌打ちをした。


「わーかった。わかったから。だが、これきりだ。それ以上は何もしねぇ」

「それでいい。我々は地上に戻る。その後どうするかは、お前の好きにしろ」

「そうさせてもらう」


 マモンはガブリエルの腕からルシファーを奪い取るように抱えると、そのまま姿を消した。

 その場に残された三人は、これからの事を考えた。サタンの封印が一つ解けた。地上では悪魔が増えている。そして、サタンも力を増しているのはさっきのことでよくわかった。


「サタンを止めないと、人間の被害が増えていく」


 呟いたアルマの言葉にガブリエルが頷いた。


「だからこそ、早く封印をし直さなくては」

「だが、奴の力が一つ戻ったことで、奴の力は前より格段に上がっている。その分、こちらも対策を考えねばならない。地獄に連れて来ても通用しなかったのだから」


 ベルゼブブは片手を伸ばす。すると、彼らは一瞬であの地獄の入り口の上に来た。

 アルマは驚いたが、その後に来た吐き気に顔を歪めた。ガブリエルが慌てて背中を擦った。


「霊の世界に行ったのだ。反動が酷いだろう。我々と契約していたお陰でまともな形でいられたのだ」

「な、るほど」


 納得するものの、やはり気分は悪かった。すると、閉ざされた扉の向こうから声が響いた。


「ここに異端者がいるはずだ!」


 どうやら聖職者達の声のようだ。地上には戻ってこれたようだ。するとベルゼブブは片手を扉に翳した。

 ドカン、と音を立てて扉が破壊される。その向こうで、数人の武装した聖職者達が驚いた顔をしてこちらを見ていた。彼らには、ベルゼブブとガブリエルが見えていないのだろう、浮ているようにしか見えないアルマを見て声を荒げた。


「お前、何で浮いて……」

「邪魔だ」


 そう言ったのはベルゼブブだった。片手を前に出して、聖職者達を吹き飛ばした。わぁ、と悲鳴を上げて聖職者達が転がる。ベルゼブブはアルマを抱えたままその上を飛び、後ろをガブリエルがついていく。

 アルマは転がる聖職者の顔を見て、顔を歪ませた。

 三人はそのまま通路を通っていく。広場まで出ると、ベルゼブブはアルマを地面に下した。


「まずはこの教会を出なければな」

「あぁ」


 アルマが歩き出そうとした時、背後からあの聖職者達が追いかけてきた。

 彼らはアルマを逃がさないように広がって回り込み、武器を構えた。


「異端者め! これ以上勝手なことは許さないぞ!」

「やれやれ……」


 ベルゼブブがまた片手を上げたが、アルマがそれを制した。アルマは、そのまま彼らに近づく。聖職者達は後ずさったが、アルマはそのままリーダーらしき男を睨んで言った。


「お前ら、こんな所で油売っている場合じゃないぞ」

「何?」

「サタンが復活したんだぞ、私の相手をしている暇があるなら、一人でも多くの人間を救ったらどうなんだ」


 えっ、と聖職者達がざわつく。戸惑う彼らに、アルマは声を荒げた。


「お前らがあの祭司の言う通りにしかしないせいで、強い悪魔が人間を苦しめているんだぞ! さっき見ただろ、私がいた場所を。あれは地獄の門だ。馬鹿な聖職者達のせいで生み出された、地獄の門だぞ!」

「そんな……」


 信じられない様子で顔を横に振るが、アルマは言葉を続けた。


「地獄の入り口が教会の中にあるなんて、神が望むと思うか? 本当に神の意志だと思うか? 自分の頭でよく考えろ! 自分達が神から見て、本当に正しい事をしているのかどうかを!」


 それだけ伝えて、アルマは彼らの前から立ち去ろうとした。

 すると、彼女の前に男女の聖職者が立った。男は金髪、女は茶髪を結っていた。アルマはその二人の顔を知っていた。


「ドボルトさん、エナさん……」


 名を呼べば、二人は優しい顔で頷いた。その二人を見て、ガブリエルがそっと近づいた。


「お前達は……」

「やはり、見間違えではなかったか」


 二人の目にはガブリエルが見えているようで、彼を見て頭を垂れた。ドボルト、という男はもう一度アルマを見た。


「アルマ、エミリは元気にしているか?」

「ええ、元気にしていますよ」

「それは良かった。娘が元気なら、安心だ」


 心からの言葉にアルマも微笑む。ベルゼブブは「なるほど」とあの武器屋の娘の両親であることをすぐに理解した。

 エナという女性はガブリエルと、その後ろにいるベルゼブブを見て驚かなかった。


「天使様と、そちらの方は」

「私は悪魔だ」

「そうですか」


 ベルゼブブの正体を知っても拒絶の態度を示さず、エナはアルマに近づいてその肩に優しく触れた。


「アルマ、少しお話を聞かせてもらっても?」

「え、でも……」

「大丈夫、彼らのことは夫に任せて。少しだけ話を聞かせてほしいの」


 アルマは、ベルゼブブとガブリエルを交互に見る。二人は問題なさげに頷く。それにアルマも頷いて、エナに「わかりました」と伝えた。エナは夫のドボルトに放心状態の聖職者達を任せ、教会の中を進んでいった。

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