第29話


 氷の道を走り続けると、扉の前で待機している二人の姿があった。二人の無事な様子に、アルマは胸がいっぱいになった。


「ガブ! エル!」


 ガブリエルもエルも、泣きそうな顔でアルマに駆け寄った。


「アルマ!」

「ねえ、ちゃん!」


 二人は走ってきた彼女の身体を強く抱きしめた。


「よかった! 無事で……!」

「ねえちゃん!」

「あぁ……お前も無事でよかった」


 感動の再会を果たし、三人はお互いに微笑んだ。

 アルマはガブリエルの顔を見上げて言った。


「ガブ、私、神を信じられるかまだわからない」

「え?」

「でも、神は私を見ている。そうだろ?」


 その言葉にガブリエルは目を見開いたが、すぐに嬉しそうに微笑んでアルマの頭を撫でた。


「そうだ。そうだとも。神はいつだってアルマを見てくれている。どんな時も、何をしていても、アルマを信じている」

「……うん、わかった。私も、神の行いをもっと見ようと思う。そのためにも――」


 扉を睨みつけた。次は六層だ。


「まずはベルを助けにいく」


 ガブリエルはアルマの決意に頷いた。すると、背後から気配を感じ振り返る。そこにはマモンがいた。


「行くのか、ベルの層に」


 彼は片手をエルに向けた。


「その半神魔、現界に戻しておいてやる」

「え? だがお前は……」

「ルシファーからの命令だ。この先にその半神魔を連れて行くのは無理だ。本当ならガブもだが……言っても聞かねぇだろ。だから、そいつは俺が責任もって現界に連れて行く。トルソとかいう女の所に連れて行けばいいんだろ?」


 アルマは、ガブリエルへ目線を向けた。彼は静かに頷いた。今のマモンなら、預けてもいいと思えた。

 それから、エルを見る。


「エル。先に家に戻っててくれるか?」

「ねえちゃん?」

「ちゃんと帰ってくるから、家でお風呂とかご飯とか準備して待っててくれ。ベルも連れて帰るよ」


 頭を優しく撫でそう伝えると、エルはしばらく黙っていたが、やがて笑顔で「うん」と答えた。


「わ、たし。まってる、ね」

「エル」

「だいじょぶ。だから、がんば、って」


 以前よりも上手く話せるようになった彼女の姿が嬉しくて、アルマはエルの身体を抱きしめた。


(ありがとう、信じてくれて)


 アルマは心の中で礼を言った。

 エルはマモンの元へ行き、共に姿を消した。それを見届けた後、アルマはガブリエルを見る。


「ガブ、お願いがあるんだ」

「どうした?」

「絶対に、消えないでくれ」


 目を見開くガブリエルに、アルマは言葉を続けた。


「もう、私にとってガブはいないといけない存在なんだ。だから、消えてほしくない。もっと、一緒にいてほしい。お母さんと一緒にいられなかった時間を、もっと感じたいんだ」

「アルマ……」

「天使にこんなことを言うのは可笑しいってわかってる。でも」

「わかった」


 アルマの言葉に、ガブリエルは力強く頷いた。


「私は、アルマの気持ちに応えたい。決して、消えないよ」

「……うん。絶対だよ」


 ガブリエルは頷く。それを聞いてアルマも、ようやく心から安心を得た。

 二人は扉の前に立った。ここから先はベルゼブブがいる層だ。アルマは覚悟を決めて扉に触れた。

 しかし、扉は開かなかった。びくともしない扉に、アルマは叩いたり身体で体当たりするが、何も反応しない。


「おかしいな、今まで開けられていたのに」

「……まさか、ベルが固く閉ざしているのかもしれない」


 つまり、彼女の意志で閉ざされている可能性があるということだ。

 アルマは先ほど助けられた、泥のようなものを思い出す。「帰れ」と言っていた。つまり、彼女はここから先に自分達を入れたくないのだろう。アルマは扉を叩いて叫んだ。


「ベル! 開けてくれ!」


 返事はない。けど、その扉は拒絶しているようにも見えた。


「私は帰らないからな! ベルと一緒に帰るって、エルとも約束したんだ! 私に、約束を破らせる気か!」


 ギ、と音が聞こえた。慌てて扉から離れると、扉は勝手に開いた。その扉の向こうは、今まで見た事がないくらい、真っ暗な闇と、酷い異臭がした。アルマは思わず鼻を押さえてしまったが、隣でガブリエルが目を見開いた。


「自我を失っているのか」


 え、と顔を上げる。ガブリエルは言葉を続けた。


「サタンに何かされたんだろう。恐らく、あの子は正気を失っている。アルマ、もしかしたら、ベルと戦うことになるかもしれない。その時は、私を使って戦いなさい」


 アルマは言葉を詰まらせる。ベルゼブブと、戦わなければいけない。できればそんなことをしたくはないのが本音だ。それにガブリエルのことも、今は大丈夫そうだが、会うまでの彼がどれだけ苦しそうだったのか覚えている。

 意志を強く持たないと。アルマは覚悟を決めてガブリエルを見上げた。


「ガブは、道具じゃない」

「え?」

「だから、ベルと戦うことになっても、ガブはガブの為に戦ってくれ。私は私の為に戦う」

「アルマ、それは……」

「憑依して消えそうになるくらいなら、憑依しなくていい。ただ、サポートしてくれればいい。契約者のお願い、聞いてくれるよな?」


 アルマの言葉に、ガブリエルは悲しげな顔を見せるが、少し黙って「わかった」と答えた。


「だが、必要だと判断したら憑依する。それだけは、覚えていなさい」

「あぁ」


 にっこりと笑うアルマは、ガブリエルの手を掴んで共に扉に向かった。

 異臭が漂う中、二人は覚悟を決めて踏み入る。二人が入ると、扉は勝手に閉められた。

 中は、真っ黒な空間の中で臭いは酷くなる。吐き気や、頭痛を催したが、それどころではないとアルマは足を進めた。ガブリエルの手をしっかりと握りながら。

 歩み続けていると、声が聞こえてきた。しかし、それはこちらに語り掛ける声ではなく、独り言のようだった。


『神は、何故、私達を滅ぼしてくれなかったのか』


 それは、懇願。


『私は、仲間を失いたくない』


 それは、悲願。


『私は、好きだった』


 それは、告白。


『何故、私はこんなにも飢えているのだ』


 それは、疑問。

 ぽつりぽつりと言葉を放つのは、ベルゼブブの声。ガブリエルの手が強く握ってくる。

 アルマは、これが、彼女の本心なのかもしれない、と思った。


『人間は、脆い。だから――』


 暗闇の中が突然開ける。二人は明るくなったその空間に目を見開いた。

 壁も床も天井も泥だらけで、蠅や蝶が集り、不快な音を立てて飛んでいる。その中心に佇むのは、ベルゼブブだ。

 彼女はこちらに背を向けたまま、独り言を言っていた。


「完璧なものなど、存在しない。しかし、神とミカエルはすべてにおいて完璧だった。それが羨ましく妬ましかった」


 言葉を続ける彼女に、アルマはガブリエルの手を離して、ゆっくり近づく。

 蠅や蝶が邪魔するように集って体当たりしてくる。しかし、アルマはそれを払いながら進んでいく。すると、ベルゼブブの声がこちらに向けられた。


「帰れ、と言ったはずだが」


 アルマは足を止めた。

 ぶわ、と蠅と蝶が消えて行った。アルマは、その後姿を見ながら言った。


「言っただろ。エルに約束したんだ。ベルと一緒に帰るって」

「わかっているだろう。今の私が、お前達に害を成すことくらい」

「わかっているさ」


 アルマは、エミリの銃を手に取った。


「それでも来たんだ」

「サタンは、この下で抑えている。もうお前が成すべきことはない」

「そうだとしても、ベルまで犠牲になってどうする。私は、ベルもガブも失いたくない」


 ベルゼブブが振り返る。彼女の顔に驚いた。

 彼女の目は黒く染まり、泥のような涙が滴り落ちている。

 アルマは顔を歪めた。彼女は、苦しんでいる。


「人間が、私を失いたくない、だと? 私は悪魔だぞ。そんなことを言って、神に見捨てられたらどうする」

「……けど、失いたくないのは本当だ。だから、ベルの事を救いたい」

「救う?」


 面白おかしそうに笑うベルゼブブ。それに対し、アルマは真剣だった。


「人間が悪魔を救う? 馬鹿を言うな。我々はもう救われない存在だ。お前が何を考えていようと、これは覆せない」

「なら今、救わせろ。将来、滅ぼされるというなら、今のベルを救いたいと思うのはいけないことなのか?」

「無論だ」


 彼女は両手を広げた。すると、彼女の身体が泥のように溶け、地面と同化する。アルマは駆け寄ったが、彼女はもうそこにはいない。代わりに、層全体が揺れる。


『悪魔を救うのは神の意志に反する。それが当然のことだ』

「お前は……結局、私に負担をかけるのが嫌なだけだろ!」


 アルマは叫ぶ。


「なんだかんだ、私達人間を優先にする! 悪魔なら、もっと貪欲に奪ってみせろよ! それが悪魔じゃないのか!?」

『貪欲になっても、私が欲しいものは手に入らない』

「なら、今の怒りをぶつけるくらいしろ! 私はお前の契約者だ! お前の気持ちを受け止める権利くらいあるだろ!」


 ゴゴ、と地鳴りがする。地面が盛り上がり始め、ガブリエルがアルマの身体を抱いてその場から離れる。

 盛り上がった泥は肥大化し、巨大なベルゼブブの上半身を形作った。宝石のように光る赤い目が、アルマたちを睨んだ。


『ならば、今ここでお前との契約を切るために、お前を殺そう』

「はっ、私を殺すことなんてベルにはできない――絶対にだ」

『戯言を。手加減はせんぞ』


 彼女の手が動く。鋭い爪が生え、アルマ達に狙いを定めて振り下ろした。アルマとガブリエルはその場から走る。地面が切り裂かれる。まるで底なし沼のようにどろどろと動く地面の上を、アルマは走り、ベルゼブブに向かっていく。

 ガブリエルはその様子を見て慌てて駆け寄ろうとしたが、天井から落ちてくる泥の槍に遮られ向かえなかった。


「アルマ!」


 名を呼んだが、彼女は振り返ることなく叫んだ。


「絶対、憑依しない!」


 ガブリエルは驚いた目でアルマを見た。

 アルマは、もう一度振り落とされた手を避け、下ろされたベルゼブブの手に乗った。そして、そのまま彼女の顔まで駆けていき、その赤い目に向かって銃を構えた。

 一発、赤い目に銃弾が直撃する。ベルゼブブの動きが鈍った。すると、ベルゼブブの泥の髪から巨大な蝶が何羽か現れ、アルマに体当たりする。強く当たられ、アルマは地面に落ちる。それをガブリエルが慌てて抱き留め、その場から離れるように走る。


「アルマ、怪我は!?」

「大丈夫! ベルは私が止める!」

「……わかった」


 そう言ってガブリエルは足を止め、ベルゼブブを見上げた。

 彼女の周りに蝶が舞っている。


「あの子の、顔に向かって投げる。サタンの影響が強く出ているなら、どこかに呪いの源があるはずだ。それを見つけなさい。お前なら……できるはずだ」

「わかった。思い切り投げてくれ」


 ガブリエルは頷き、アルマを、ベルゼブブの顔に向けて、強く投げ上げた。その際に蝶がアルマを襲うが、アルマは銃を使って蝶達を撃ち抜いた。そして、ベルゼブブの顔にしがみついた。ベルゼブブは手を伸ばして振り払おうとしたが、手が上がらず目を見開いた。

 よく見ると、手が凍っていた。下では、ガブリエルが両手を広げて氷を生み出していた。

 アルマは、その隙を逃さず、ベルゼブブの目を見た。その目の奥に、蛇のような紋章が見えた。アルマは、躊躇うことなく、その目に手を突っ込んだ。ベルゼブブから悲鳴が上がる。

 ぐらぐら、と揺れるベルゼブブの顔から落ちまいとしっかりと泥にしがみつく。そして、目の中に手を伸ばした。もう少しで、掴めそうだ。

 すると、頭上から垂れてきた泥の塊が槍となって、アルマを突き刺した。ガブリエルは声を荒げた。


「やめなさい!!」


 ガブリエルは背中から翼を広げた。六枚の美しい羽だった。

 勢いよく飛び上がり、双剣を取り出してアルマを突き刺した槍を斬る。アルマは、血を吐きながらも、手はしっかりと伸ばしていた。そして、その紋章を、手に掴んだ。

 パキン、と何かが割れた音がした。


『アアアアアアッ!!!』


 悲鳴が響き、その衝撃で吹き飛ばされる。飛んでいるガブリエルの腕に抱き留められ、離れた。アルマは血を吐きながらベルゼブブを見た。

 彼女の背から、黒い翼が生えていた。彼女の悲鳴で、層全体が揺れていた。


『おのれ……よくも私に、こんなものを植え付けたな……!!』


 誰かに怒っている様子だった。

 彼女は翼を広げ、怒りで我を忘れている様子だった。ベルゼブブの手が振り回され、ガブリエルの身体に直撃する。

 ガブリエルは悲鳴を上げる暇もなく、そのまま割れた地面に向かって落ちる。その際離れてしまったアルマは、泥の地面に落ち、底なしの崖下に落ちて行くガブリエルに手を伸ばしたが、届かなかった。


「ガブーッ!!」


 アルマは、ガブリエルを追うように下に向かって飛び降りた。落ちて行く彼に手を伸ばすが、届かない。上ではベルゼブブが悲鳴を上げている。

 やがて二人は、闇に呑まれた。



 目を覚まして、慌てて起き上がる。身体の傷は、と目を移すが、服は破れているものの傷は癒えている。

 立ち上がり、走る。ガブリエルは、と辺りを探すが見つからない。


「ガブー! どこだ!?」


 声を上げても、彼の返事はない。

 代わりに聞こえてきたのは、苦しそうな声だった。

 足を止めた。目の前に見えてきたものを見て、言葉を失う。

 壊された彫刻が、地面に転がっている。ゆっくりと近づいてそれを見ると、ベルゼブブの形をしていた。

 アルマは、その彫刻を一つ一つ拾い上げ、繋げる。意外にもしっかりと繋がり、元の形に徐々に戻っていく。

 やがて彫刻は、元の形に戻った。まるで祈っているような姿をしていた。

 アルマは、安堵する。


「本当、あんたってお人よしだよな」


 バキ、と彫刻にヒビが入る。そこから光が溢れ、やがて弾け飛んだ。光が波のように押し寄せ、アルマを包み込んだ。


「お人よしはどっちだ。馬鹿者め」


 目を開けて、まず視界に入ったのは、ベルゼブブの悲しそうな顔だった。

 いつもの、あの姿に戻って、アルマの頭を撫でている。

 アルマはベルゼブブの顔を見て、苦笑いした。


「でも、助けたかったんだ」

「だからといって、サタンの呪いを直に掴む馬鹿がどこにいる。無理をして、本当に死んだらどうする気だ」

「だから言ったろ、ベルは、私を殺せないって」

「……あぁ、その通りだな」


 否定せず肯定するベルゼブブ。ふと、目を横に向けると、寝そべって眠っているガブリエルがいた。アルマは慌てて、ガブリエルの顔を覗き込んだ。辛そうな顔はしていない。それだけで胸を撫でおろした。


「翼を出したからな。少し休ませれば起きるだろう」

「そうか、よかった」


 アルマは腰を下ろしてベルゼブブを見る。彼女は、少し申し訳なさそうな顔をしていた。


「わざわざ地獄に来なくてもよかったのだぞ」

「だって、ベルが心配だったから」

「私は地獄の王だ。容易く死んだりしない」

「でも、私は契約者だ。契約者の心配をしてもいいだろ?」


 歯を見せて笑うアルマに、ベルゼブブは目を見開く。そして、「勝手な奴だ」とようやく笑みを零した。

 ベルゼブブはアルマを優しく抱き寄せた。


「怖い目に遭わせたな」

「平気さ……なぁベル」

「なんだ」


 アルマは顔を上げてベルゼブブを見上げた。


「ずっと、傍にいてくれるか?」

「はぁ? 何を言い出すかと思えば……」

「お願いだ。私はもう、一人にされるのが嫌なんだ。ガブとベルが傍にいてくれないと……駄目なんだ」

「そんなことないだろう。お前にはエルやトルソがいるだろう」

「うん。でも、二人もいないとダメなんだ。失いたくないんだ」


 本心を語るアルマに、ベルゼブブが驚く。

 そして、彼女は目を細めてアルマの背を撫でた。


「悪魔はいずれ滅ぶ。それを忘れるな」

「……わかった」

「我々に依存しても、救われるかはわからないぞ」

「それでも、傍にいてほしい」


 ベルゼブブは、静かに「そうか」とだけ答えた。

 やがて目を覚ましたガブリエルが、二人の様子を見て、小さく微笑んだ。

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