第28話


 扉を潜った先は、氷の洞窟だった。壁、天井、床が全て氷で覆いつくされている。その氷は透明度が高く、まるでガラスのように虹色の輝きを放っている。

 ここは五層、ルシファーの層だと聞いている。辺りを見回しながら、滑らないように注意を払い進む。

 しかし、ここはとても寒かった。身体が冷える、というより、心臓が凍りそうな、そんな錯覚がする。胸を押さえ、震える身体に鞭を打って歩みを進める。

 エルとガブリエルを見つけなくては。と思っていると、背後から何かが迫る気配を感じた。

 アルマは二丁拳銃を抜いた。後ろを振り返り乱射する。銃弾はその者をしっかりと捉えていた。しかし、それは剣で全て弾き落された。

 アルマは目を見開いた。相手は、美しい男だった。黒に近い紺色の、太ももまで伸びた長い髪を緑のリボンで結び、靡かせながら、片手に持つレイピアを持っている。

 アルマは我に返って再度に銃弾を放った。男は、素早い動きで弾丸を弾く。

 しばらくの間、攻防戦が続いたが、アルマの銃弾がなくなったのと同時に、男も動きを止めて立った。

 アルマは舌打ちをしながら銃を投げ捨て、エミリからもらった銃を持った。


「お前も悪魔か」


 そう問いかけると、男は静かに頷いた。無口な悪魔のようだ。

 アルマは静かに距離を取りながら相手を睨み続ける。今まで戦ってきた悪魔の中でも、底知れない力を持っていると感じた。感情も見えない、敵意や殺意も読めない。


「ゲーティアか?」


 男は顔を横に振った。


「サマエル」


 簡潔に名乗った男に、アルマは目を見開く。

 その名前は、謎とされている『死を司る天使』の名だったはず。情報が明らかにされておらず、天使か悪魔かさえもわからないと教会で学んだことがあった。


「サマエルって、悪魔だったのか」


 思った事を思わず口にしてしまうが、サマエルは気にしない様子で、レイピアを構えた。そのポーズは、かつて戦ったボティスと同じ、騎士が剣を構える姿と酷似している。


「ルシファーの言った試練。俺を倒す」

「……なるほど、そういうことか」


 銃を構える。こいつを倒せば、エルとガブリエルに会える。と思った瞬間、銃を構えていた手が、吹き飛んだ。

 いや、斬り飛ばされたというのか。アルマは驚いて言葉を失う。サマエルの動きは今まで相手にしたどの悪魔よりも速かった。

 いつの間にかアルマの目の前に来て、レイピアを振り回している。

 アルマは距離をとるが、斬られた手の痛みで顔を歪めた。ぼとぼとと血が滴る。彼女の血を見たサマエルは、少しだけ笑った。


「綺麗な、赤」

「う、るさい……!」

「神への憎しみで真っ赤」


 ふと、蘇る。あの時、自分の身体を二つに裂いたサタンの言葉。彼女も言っていた。

 ――神へのにくしみで真っ赤っか。

 ギリ、と歯を食いしばって自分の服を破り、斬られた手を止血する。そして、まだある手を懐に突っ込んでナイフを取り出した。ないよりマシだ。とアルマは汗を流しながらサマエルを睨んだ。


「私は、天使も悪魔も、神の味方もしない……私を信じる者だけが味方だ!」

「ほんとうに?」


 ずっしりと身体が重くなった。突然、視界が真っ黒になった。

 サマエルが近づいて片手で目を塞いだのだ。彼の声が、脳に直接響く。


「ほんとうに、味方がいると思う?」


 やめろ、と口に出したかったが、それは、身体を引き裂かれたことで出せなかった。手足をもがれ、胴体だけになって地面に転がる。ナイフは落ちて、サマルの足先に当たった。

 彼は、転がったアルマを見下しながら、レイピアを彼女の頭の横に突き刺し、身を低くした。そして、流れる血に手を添え、口元まで掬い上げて舐めとった。彼の口が赤く染まる。

 サマエルの、楽し気な、それでいて哀れみの籠った目が向けられた。


「お前が、味方だと思っているだけじゃないか?」


 ぶわ、と血が溢れそうになった。否定しなくては、違うと。けれど、身体も口も、うまく動かない。

 サマエルは、落ちたナイフを拾って、アルマの首筋に突き付けた。


「お前を助けてくれない相手を、味方だと思っていいの? エクソシストとして生きている理由も、味方がいないから、じゃないのか?」


 顔を横に振る。違う。違う。トルソがいる。エルもいる。そう声に出したいのに出なかった。


「悪魔なら、お前を救える」


 顔を上げる。サマエルの、宝石のように美しい赤い瞳に、吸い込まれそうになる。


「悪魔なら、お前の気持ちを理解できる。だって、欠けているから」


 そう言ってサマエルは、自分の上着の胸元をはだけた。胸元に巻かれた包帯を乱暴に破ると――そこには、ぽっかりと穴が空いていた。向こうが見えるほどの大きな空洞に、言葉が出なかった。


「悪魔は、神への罰を受けて自分の大事な一部を失った。俺は『心』を失った。みんなそう。神が許せない。俺達から奪った神が、許せない。お前も神が許せないから、エクソシストになったんだろう」


 そうだ、あの惨劇の日。エルと初めて出会ったあの日。

 神など信じないと叫んでいたあの時、確かに許せなくて、聖職者を辞めた。

 彼の言う通りだ……だけど。


「どうして、泣く?」


 アルマの目からは涙が溢れていた。何故、と思う前に涙はとめどなく流れていく。アルマは顔を横に振ったが、涙は止まらない。心が、苦しい。

 そして、理解した――本当は、違うんだと。


「辛い?」

「つ、らい。私の、気持ちが、わからない」


 サマエルはその頭に手を置いて撫でた。


「悪魔と、一緒になる?」

「ならない、違う……私は……」


 神なんて憎いはずだ。憎いはずなのに。本当は――


「私は、神を、信じられなかった、だけだったんだ。神が嫌いだなんて、思ったことが、なかったんだ……」


 ああ、なんていうことなんだ。神は、自分にとってとても大きな存在であった。それを、未だに引きずっていたとは。

 幼い頃、神に祈った。そして神のために戦った。ただ、その見返りがあの惨劇なら、と信じられない気持ちになっただけ。でも、本心は、嘘であってほしいと願っている自分もいた。

 でも、その気持ちを信じたくなくて、拒絶していたのは、自分だった。今、理解してしまった。


「苦しい」


 その言葉を聞いて、サマエルの目が細くなった。


「死にたい?」


 その問いに、アルマは、すぐに答えられなかった。しかし、一言だけ。


「神さま」


 と言った。

 その時、カラン、と音がした。顔を横に向けると、そこには、十字架が落ちていた。それは、かつて自分が血だまりに捨てた十字架だった。アルマの目が見開かれる。

 サマエルも驚いていたが、その十字架に触れようと手を伸ばすと、アルマが遮った。


「触るな」


 手を止め、アルマに目線を向けるサマエル。そこには、決意に満ちた目があった。


「それは、私が持ち続けた、信仰の証だ」


 その言葉で、十字架が強く光る。すると、斬られたはずのアルマの手足が元に戻っていた。アルマは驚いたものの、すぐにサマエルの腹を足で蹴り飛ばした。

 突然のことで、サマエルは攻撃もできず距離を取られる。アルマはナイフと銃を拾い、そして十字架へと目と向けたが、十字架はもうそこにはなかった。

 後ろからサマエルが迫ってくる。アルマは走り出した。

 アルマが、床から生える氷の塊の裏に隠れると、サマエルは無差別に氷の岩を砕いた。

 アルマは走り続け、やがて足を止めて振り返って銃口をサマエルに向け、撃った。サマエルは先ほどと同じように銃弾を弾こうとしたが、エミリの作った銃は剣を折った。バキン、と音を立てて折れる剣にサマエルが驚く。

 アルマは、そのチャンスを逃さないともう一発、頭を撃った。吹き飛ぶことはなかったが、額に命中したサマエルの身体が仰け反る。しかし、サマエルの額はすぐに元に戻る。

 やはり効かないのか、とアルマはナイフを握った。サマエルは折れた剣を捨て、ゆっくりとアルマに近づいた。アルマは、ナイフを握りしめ、サマエルに斬りかかる。


「うおおッ!!」


 その喉に向かってナイフを突き立てる。サマエルは抵抗することなく、そのナイフを、甘んじて受けた。血が飛び散り、アルマの顔にかかった。

 その血を浴びた場所から激痛が走り、アルマは顔を歪めてサマエルから離れた。


「う……ッ!?」

「俺は『毒』。全てが、毒になった存在。俺の血を、浴びて、無事だった奴は、いない」

「ぐあぁあッ!」


 膝をついて身体を抱きしめて悶える。痛い。まるで、蛇に絞め上げられているかのようだ。息ができない。

 藻掻くアルマは、サマエルを睨みながら、それでも、言わずもいられなかった。


「が、ぶ。べ、る」


 ザアッ、とノイズが響いた。何だ、と思っていれば、目の前に黒いドロドロの何か現れた。それは原型すらなかったが、泥に包まれたような赤い目がサマエルを睨んだ。

 サマエルは驚き、後ろに下がろうとしたが、両足がもがれる。地面に倒れると、泥が爪の形となってサマエルの背中を突き刺した。

 サマエルは血を吐いたが、その後、動かなくなった。唖然とその光景を見ていたが、泥はアルマを見て近づいてき、そして、手の形となってサマエルの返り血を拭い、癒した。

 アルマは驚いた。泥が、微かに人の頭のような形を取る。その中に浮かぶ目は、彼女の目だ。


「ベル」


 名を呼んだが、彼女は一言。


『帰れ』


 とだけ言って消えて行った。

 アルマは、それだけでわかった。彼女も苦しんでいることに。

 ぐっと拳を握りしめて立ち上がる。まだふらつくが、もう毒の痛みはない。

 サマエルに目を向けると、ぎょっとした。もうサマエルは起き上がっていた。足も治り、いつの間にか血も止まっていた。ただ茫然と座っているサマエルに銃を向ける。


「まだ、やるのか?」

「もう、いい」


 簡素に、つまらなさそうに言うサマエルに、アルマは銃を下した。

 もう戦う意志はないのだろうと、何故か理解できた。

 サマエルはアルマを横目で見て、言った。


「ルシファーを探して」


 頷いて、サマエルを置いてその場から歩き出す。

 アルマは辺りを警戒しながら、奥へ進んでいく。そして、大きな氷の塊を見つけ、駆け寄った。

 そして驚愕する。その氷の中には、下半身のないルシファーが眠っていたからだ。その身体は千切れている、否、再生しようとしているのか、徐々に形を取り戻しているようにも見えた。

 まじまじとそのルシファーを見つめていると、背後から声がした。


「初めてだ。人間に私の姿を見せるのは」


 振り返ると、そこにはルシファーがいた。現れたもう一人の彼と、氷の中にいる彼を交互に見る。起きて立っている方のルシファーを見るが、彼は無表情のままアルマの隣に立った。


「これは、天界から堕ちた私だ。身体の一部を無くし、存在することすら危うい状態の」

「でも、あんた、ここにいるじゃないか」

「これは……この身体は、ベルの身体の一部だ。私の本当の身体は、これだ」


 氷の中を見るルシファーの目は、無感情だった。


「他の者達と違って、私は消えかける寸前だった。だが、ベルが自分の心臓に、私の魂を移したんだ」

「心臓!?」


 ルシファーが頷く。


「そうして、私が仮の姿でも永らえられるよう計らってくれた。そう、私が消えれば、ベルも消える。彼女は、無理を押して私を生かしてくれた、命の恩人なんだ。その上で、彼女は今も、朽ちかけのこの身体を治そうとしてくれている」


 なんということだ、と思った。彼女は、どれだけお人好しなのだろう。仲間に対して、ここまで身を削ってでも救おうとする彼女が、とても痛々しく見えた。


「似てるだろう、ガブリエルとベルは。他者の為に自分の命を投げ捨てるところが」


 思っていたことを当てられたアルマは、否定することなく頷いた。


「だから、私はあの二人が無事なら、どうでもよかったんだ。でも、弟のことを考えると、斬り捨てなければいけない時が来たらと思うと……胸が張り裂けそうになる」

「どうしても、弟を起こしたいのか?」

「起こしたい。けど、そのせいであの二人が犠牲になるのも、耐えられない……矛盾しているな、私の心も」


 自虐的に笑うルシファーに、アルマは向き直った。


「矛盾しているから、堕ちたんだろう」

「……そうだ、その通りだ。私達は、矛盾している」


 ルシファーはようやく微笑んだ。


「矛盾しているから、私達、悪魔が存在するんだ。正しい道を進んでいても、いつの間にか間違ったところにいるのは、私達がそう望んだからだ」

「なら、今更うじうじ言うな。悪魔になったからって、それを後悔するのはおかしいだろ」

「ははは、そうだね」


 アルマの言い分に、ルシファーはにっこりと笑う。少し威圧感がするのは気のせいと思うことにした。


「君は、どうなんだ?」

「え?」

「君は、神を愛しているのか?」


 その問いに、アルマはすぐに答えられず顔を伏せた。あの時、あの十字架を見て思うことはあった。


「わからない。まだ、私の答えは見つからない。でも、あの時、十字架を見て、神が私を見ていてくれたんじゃないかと思った。私が、助けてと願った時、神が、手を伸ばしてくれたんじゃないかと。だけど、それだけだ。確信できてはいない」

「そうか」

「でも、神への信心をなくしても、私は神に見ていてもらえていた。それが本当なら、私は――自分を見直そうと思う」


 顔を上げて、にっこりと笑って見せる。


「神は、いつだって私を見てくれている。それを、信じてもいいんだよな」

「……それを信じるかどうかは、君次第だ。さぁ、ベルの元へ急ぐといい。扉の前でガブリエル達が待っている」


 アルマは頷いて、走り出した。

 その後姿を見送って、ルシファーはもう一度自分の身体に目を向けた。背後からサマエルが姿を現す。

 その手には、折れた剣が握られていた。


「サマエル。ご苦労だったね」

「神の手がここまで来るとは思わなった」


 流暢に話すサマエルに、ルシファーは苦笑した。


「私も驚いたよ」

「ベルが怒る。あの女、本当に殺さなくてよかった?」

「いいよ。決めるのはベルだ。それに……ガブリエルもいる。さて、私たちもベルの元へ行こう。まだ七層の様子を見に行けていないからね」


 その言葉にサマエルは顔を横に振った。


「固く閉ざされている。開けるにはあの女を使うしかない」

「そうか。六層で、ベルの様子が少しわかればいいけど。ガブリエルも……少し消えかけていたから心配だ」

「俺は同行しない。サタンが起きるならそれでいい」

「そうだね、お前は、あの子が大好きだからね」


 それだけ言ってルシファーは姿を消した。一人残されたサマエルは、氷の中のルシファーを見上げた。


「……早く、起きて。   」


 その名を口にすることは、できなかった。

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