第27話


 二層目は、とにかく静寂に包まれていた。

 棘だらけの壁と床、天井に囲まれた悍ましい場所だったが、見かける悪魔たちは皆眠っている。こちらが横を通り過ぎても起きる気配すらない。アルマは、しっかりとエルの手を握りながら、静かに、起こさないように歩く。

 ガブリエルもその後ろを歩いていたが、彼の服を誰かが掴んだ。振り返ると、彼の服を掴んでいたのはベルフェゴールだった。ベルフェゴールはまるで子供のように眠そうに目を擦りながら、言った。


「どこ行くの……僕はまだ、起きてるよ……」

「ベルフェゴール……」


 名を呼べば、悪魔達の目が覚める。彼らはゆっくりと身体を起こしながら、アルマたちを囲んだ。やばい、逃げ道がとアルマは焦るが、ガブリエルはベルフェゴールの身体をそっと包み込むように抱きしめて、膝の上に寝かせた。

 あやす様に、少女の背中を撫でながら微笑む。


「眠いね。起こしてごめんね。もう少し休みなさい」

「ダメだよ……あそびたいんだよ……」

「大丈夫、眠ればまた遊べるから」


 本当に子どもをあやしているようだ。とアルマは思った。

 ベルフェゴールはガブリエルの服を離すまいとぎゅっと握りしめたが、やがて撫でられる感触で心地よくなったのか、眠りについた。その様子を見ていた悪魔達も、ゆっくりとその場から離れた。

 どうやら、ベルフェゴールの意志に反応しているようにも見える。アルマは胸を撫でおろした。

 ガブリエルはベルフェゴールの背中を撫でながら、そっと離れた。そして、アルマたちの元へ来て「行こう」と静かに言った。

 その道中で説明されたが、ベルフェゴールは「怠惰」と呼ばれているが、実際は少し違うそうだ。面倒くさがりというより、「眠い」状態が強いそうだ。起きているときは常に不機嫌なのだ、と。


「眠っているときのベルフェゴールが、本来のベルフェゴールなんだ。安らぎを求め、与える天使だった」

「そうなのか……」

「だから、眠りたくないという気持ちと、眠りたいと願う気持ちの双方があって、それがあの子を狂わせている」

「……悪魔は、複雑なんだな」


 先ほどのマモンも、きっと何かが欠けているのだろう。ガブリエルを心配する姿が、本来の彼なのかもしれない。

 彼らを知れば知るほど、彼らに同情を向けてしまいそうになるが、それは決してしてはいけないとアルマは頭を横に振る。

 彼らは、悪魔。人間を苦しめる、害ある存在。けど、ガブリエルにとってはどうなのか。先ほどの彼の行動を考えると、大切な存在であることに違いはない。ガブリエルにとっては、全ての者が自分の子どものようなものだ。


「……ガブ、辛いよな」


 心の中で言ったはずが口に出していたらしく、ガブリエルは驚いた顔をする。しかし、彼はすぐに微笑んだ。


「私より、あの子達やお前達、人間の方が辛いだろう」


 あぁ、この天使はいつもそうだ。

 いつも誰かを優先する。だから、いつも傷ついている。そんなこと、もうさせたくない。

 アルマは、エルの手を強く握った。

 三人は、再び階段の前にたどり着く。マモンがいた階層と同じように逆さまになっている。跳んで、階段に立ち、降りていく。この階層は天井も地面も全て棘だらけなのでどっちが上か下かわからなかった。

 そして扉の前に到着し、アルマは扉を開けた。そこも暗闇の中だった。意を決して、中に入る。しかし、中に入って驚いた。

 ドボン、と突然水の中に放り込まれたのだ。エルとアルマは藻掻くように手足を動かすが、掴むものは何もなかった。

 息が、と口から泡を吹き出すが、ガブリエルが二人の身体を抱き寄せ、頬にキスをする。すると、呼吸ができるようになり、二人は驚いてガブリエルを見た。


「私の力を少し分け与えた」

「え、あ……話せる。息もできる」

「ここは、レヴィアタンの階層なんだろう。彼は水の中に存在する悪魔だ。泳いでいくしかない」


 ガブリエルの言葉に頷く。ガブリエルはそのまま二人を抱いたまま、泳ぎ始めた。

 水の中にも悪魔たちが泳いでおり、こちらを見ては優雅に泳いでいる。すると、突然水の流れが変わった。ゴゴゴ、と音を立て、渦を巻き始めた。ガブリエルはその渦から逃れようとしたが、突然足を誰かに捕まれる。

 下を向けば、そこには大きな海蛇の下半身をし、角を生やした男が一人、ガブリエルの足を掴んでいた。

 尖った歯を剥き出しながら、怒りを露にするその男に、アルマは銃を向けた。しかし、水の中のせいというのもあってトリガーを引いても発砲できない。ガブリエルは二人の身体を離し、渦に呑まれないように押しのける。アルマはエルを抱き寄せて手を伸ばしたが、ガブリエルはあの男によって下へと引っ張られる。


「ギギ……ギイイイ…!!」

「ガブ!」


 奇怪な声を発する男は、ガブリエルの身体に噛みつこうと口を開いた。すると、ガブリエルは目を細めて両手を広げた。

 突然、水が割れ、空間が生まれる。アルマとエルはそのまま水の中に埋もれてしまうが、水面に出てガブリエルを見た。宙ではガブリエルが男の頬を叩いた。叩かれたことに驚いた男は、自分の頬を押さえてガブリエルを見たが、彼は悲しげに見つめている。


「レヴィアタン。私を食べても、天界には戻れないんだ」


 その言葉に目を見開いて、レヴィアタンは奇声を発した。水が弾け飛ぶ。まるで弾丸のように飛んでくる水玉に、アルマはエルを庇うが、その前にガブリエルが降りてきてアルマに言った。


「アルマ、飛んで。私の身体を」


 ガブリエルがアルマの身体に憑依する。アルマはエルの身体を抱き上げ、片翼で宙を飛んだ。後ろからレヴィアタンが追いかけてくる。いつの間にか人型だった部分はあの蛇のような形になり、大きな口を開けている。

 そうか、こいつがレヴィアタンなのか、と。レヴィアタンは水の弾を放ち、アルマはそれを避けながら飛び続ける。

 すると、先の方角に階段が見えてきた。覚悟を決め、スピードを上げる。しかし、レヴィアタンも速く、すぐ後ろをついてくる。口が、アルマの足を捉える。アルマは焦り、両足を曲げ、レヴィアタンの口先に足を置いた。


「いい加減に、しろ!!」


 レヴィアタンの顔を蹴り飛ばす。レヴィアタンは悲鳴を上げてその場から落ちて行く。その間にアルマは階段の上を飛んだ。一気に昇りつめ、見えてきた扉を開ける。暗闇の中を、迷うことなく入った。

 ガサガサ、と地面に転がる。いつの間にかガブリエルとの憑依が解け、アルマはエルを抱きしめながら顔を上げた。

 その場所は、薔薇だらけの花園だった。赤い薔薇が咲き乱れ、天井はあの肉壁だった。あまりの薔薇の香りにむせそうになったが、その隣でガブリエルが息を切らして倒れているのを見て駆け寄った。


「ガブ!?」


 彼は苦しそうに、荒い息をしている。――憑依は彼にとって負担なのだろう。いや、自分に憑依の反動がないところを見ると、彼が全部負っているような気もしなくもなかった。


「お前、まさか私の負担を減らそうとしているのか?」

「……お前が倒れてしまったら、エルが不安になってしまう。大丈夫だ。少し休めば、動けるから……」

「馬鹿野郎! 自分の身体を大事にしろ!」


 思わず叫んでしまう。アルマの目から見ても、ガブリエルは自分のことを後回しにしすぎではないかと感じた。

 すると、そこへあの声が聞こえてきた。


「あら、わざわざ地獄へ来てくれたの?」


 顔を上げると、そこにはアスモデウスが優雅に立っていた。彼女は手を軽く振って近づいてくる。

 アルマは銃を構えた。アスモデウスはにっこりと笑う。


「うふふ、そんな武器じゃ私は倒せないわよ」

「ふん、ガブとエルに近づいたら噛みついてやる」

「あら、怖い怖い。でも……ガブリエル様を渡してくれるなら、あなた達を次の層に連れてってもいいわよ」


 交換条件か。アルマは親指を立てると下に向けた。


「絶対、渡さない」

「……そう、じゃあ、死ぬ覚悟はあるってことね」


 アスモデウスから殺意と敵意を向けられる。エルが怯えた様子でガブリエルにしがみついたが、ガブリエルはエルを撫でながら言う。


「歌っていなさい。それがエルを助けてくれるから」


 その言葉に、エルは頷いて歌い始める。ガブリエルはその様子を見た後、立ち上がって、アルマに近づいた。


「アルマ」

「ガブ、ここは私が」

「憑依を。私の力を使いなさい」

「えっ」


 なんで、とアルマが振り返ると、彼は優し気に微笑んでいた。


「お願い、力になりたいんだ」

「ガブ……無理だと思ったら、離れろよ」

「わかった」


 そう言って、彼はアルマの身体に憑依した。白い衣をまとって、アルマは双剣を握る。

 アスモデウスが攻撃を仕掛けてくる。すらっと美しい足を振り上げる。その足を剣で受け止めると、ガァン、と金属音が響いた。驚いてアスモデウスの足を見るが、鉄、という感じは一切なかった。

 アスモデウスが嗤う。


「見るもの全てが真実だと思わないことね!」


 蹴り飛ばされ、後ろへ下がる。薔薇の花びらが散る中、アスモデウスの姿が消えた。

 瞬時に意識を集中させると、頭上から殺気を感じた。急いで剣を振り上げると、アスモデウスの踵が剣とぶつかる。重みで身体が潰されそうになったが、アルマはそれを堪え、もう片方の剣でアスモデウスの腹を狙う。しかし彼女はその剣を避け、片手でアルマの頭を掴んだ。アルマはアスモデウスの手を双剣で叩き斬った。

 ぼと、と落ちる腕と共に離れるアルマ。アスモデウスの斬られた手を見ながら「いやだ」と悲しげに目を伏せた。


「酷いことするわね」

「トルソにしたことに比べたら軽いだろ」

「ああ、あの可愛い子ね。ベリアルと契約したそうね」


 えっ、とアルマは目を見開く。アスモデウスは残念そうに落ちた手を拾う。


「酷いわ、私の人形じゃなくなっちゃったじゃない」

「ちょっと待て! トルソが、ベリアルと契約!?」

「まぁ、仕方ないんじゃないかしら。あのヒュブリスとかいう男、人間の力だけでは敵わないもの」

「まさか、そのために契約を……」

「でも、いいじゃない。同じ悪魔を契約した者同士、仲良くできるじゃない。神に見放されて、よかったわね」


 くすくすと笑うアスモデウスに、アルマは頭にきて双剣を振り回し、彼女の首を叩き斬った。流石のアスモデウスも驚いていたが、頭を落としても尚、その身体は動く。足を振り上げる。ビリ、と白い服が破られて肌が露わになる。

 頭だけのアスモデウスは笑った。


「うふふ、何を怒っているの? 神に嫌われてもいいんでしょ? あなた達は神を嫌っているんでしょ? それとも、ガブリエル様がいるからそんなことを言うなって?」

「うるさい!」

「だから、人間はいい加減なのよ。優柔不断で、物事を決められない。いつも偏ってばかり。だから、嫌い」


 ざわざわ、と薔薇が囁く。


「どうしてにんげんばかり」

「どうしてわたしたちじゃないの」

「あいつらなんて」

「しんでしまえばいいのに」


 頭に血が上る。苛立ちが頂点に達しそうだった。そこへ、背後からガブリエルの声が響く。


『アルマ、悪魔の言葉は、人間の感情を狂わせる。大丈夫、私が傍にいる』


 ハッ、となって目を閉じる。何度か深呼吸をして、アスモデウスを睨んだ。


「お前、人間に嫉妬しているだけか。レヴィアタンより嫉妬深いな」

「は?」


 今度はアスモデウスの声が変わった。彼女は黒い靄になって、一つの形に戻る。元に戻った彼女は、怒りの目でアルマを睨んだ。


「生意気を」

「図星か?」

「そこまで言うなら殺してあげるわよ!」


 走り出したアスモデウスは、アルマに向けて連続の足技を繰り出した。アルマはそれを双剣で弾いたり受け止めたりしていたが、アスモデウスの胸元に隙を見つけ、剣を突き立てた。鈍い音が響いた。アスモデウスは顔を歪めたが、一瞬で霧と化した。だが、次は姿を現さなかった。


『気分最悪……これ以上戦うのは嫌。もう深層まで行って、勝手に死になさい』

「……ああ、勝手にさせてもらう」


 もうアスモデウスの声はしない。憑依が解けると、またガブリエルが倒れそうになったが、アルマはそれをしっかりと支えた。彼の顔は真っ白だった。ガブリエルは息を整えながら、アルマを見る。


「大丈夫か……?」

「お前が大丈夫か、だよ。無理をしたら、消えてしまうんだろ? 私も、そうなってほしくない」

「アルマ……」


 消えてほしくない。今は心から強く思う。彼が消えてしまったらと思うと、耐えられるかわからない。

 ふと後ろを振り返る。そして、目を見開いた。

 眠っているエルを腕に抱いた、ルシファーがそこに居た。こちらを見て、悔しそうに顔を歪めている。


「やはり、無理があるか」


 それだけ言うと、彼は一瞬でガブリエルに近づき、その弱っている身体を抱き寄せた。アルマは手を伸ばしたが、三人はその場から消えてしまう。


「待て!!」


 叫んだものの、そこに取り残されたのは自分だけ。

 ルシファーの声が響いた。


『アルマ、試練を受けなさい』

「試練?」

『私の弟……サタンと戦うために。そして、ガブリエルやこの子を守れるだけの意志の強さを身に付けなさい。今のお前では、二人を守るどころか、自分すら守れない。サタンは、心を揺さぶる悪魔だ。私の試練を乗り越えられなければ、勝ち目はない』

「二人はどこへやった!?」

『次の階層で預かる。何もしないよ……君が、無事に「私」を見つけられればの話だが』


 そして、声はもう聞こえてこなかった。

 残されたアルマは、拳を握りしめた。ルシファーは、本当にあの二人には何もしないだろう。何故か、それはわかる。

 だが問題なのは、自分自身だった。


「試練……」


 ぽつりとつぶやいても誰も答えない。

 アルマは、頭を横に振って歩き始めた。次の階層に向けて。

 次の階段はすぐに見つかった。同じように跳び、階段に乗る。そして下る。薔薇の花びらがひらひらとうっとおしいくらいに巻き付いてくる。まるで、嫌がらせをしているようにも感じた。

 次の層への扉の前に到着し、開けた。ギギ、と音を立てたが、アルマは迷うことなく入っていく。扉は閉められた。

 すると、薔薇の花園では悪魔達が集まっていた。


「散々だな、アスモデウス」


 腕を組んでケタケタ笑うマモン。


「うるさいわよ」


 文句を言うアスモデウス。


「ギギ……」


 悲しげに俯くレヴィアタン。


「ふぁ……でも、うまくいくかな、あの人間……」


 眠そうに目を擦るベルフェゴール。


「それでも、ベルの元にたどり着くまでに、彼女には強くなってもらわなくては。サタンはきっと、彼女の過去を掘り返すだろう。私が与えた試練も、無意味に終わるかもしれない」


 そう答えるのは、眠る二人を大事に抱えるルシファー。

 七大罪たちは、揃って扉を見上げた。


「せめて、ガブリエルやベルが、彼女にとってどれだけ必要な存在なのか、理解してもらわねばならない。彼女の心に、まだ神はいるのだ。その気持ちに、彼女が気付かない限り、一生我々の思い通りに動くだけだろう」

「いいじゃないのか? 悪魔側に来てくれた方が俺は嬉しいが」

「ガブリエルが泣いてしまう。それだけは、避けたい」

「……本当にガブに甘いなぁ」

「既成事実つくったら?」

「ちょっと! 私の前でその話をしないで!」


 彼らの会話は、まるで家族の会話のようだった。ルシファーはその様子を見て微笑んだが、すぐに腕の中で眠るガブリエルを見た。安らかに眠る彼は、本当に美しい。


「……神が、このままにするはずがない」


 その言葉は、七大罪達には聞こえなかった。

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