第26話


 ガブリエルと共に下へ降りていく際、暗闇に呑まれていくのを感じた。

 その後の記憶はなく、とにかく、どこかに立っている感覚だけがあった。

 何も見えず、感じず、聞こえず、首を動かそうにも、そもそも身体があるのかすらわからない。自分の存在が希薄に思えた。

 まるで、消えて行くような、そんな錯覚がした。


「アルマ!!」


 ハッと意識が戻る。そして、辺りの光景に目を奪われた。

 辺りは森の中だった。が、どこか既視感を覚えるような、ありふれた景色だった。しかし、所々に不釣り合いな、溶岩のような池がある。

 驚くアルマに、隣からガブリエルが心配そうに顔を覗き込む。


「大丈夫か?」


 アルマは小さく頷いた。


「ここは、どこだ? 地獄に来たんじゃないのか?」

「いいや、ここは、地獄だ」

「こんな普通の……いや、普通じゃないのか」


 溶岩池を横目で見て、ここが現実とは異なっていることを理解する。

 とにかく進むか、と足を踏み出そうとした時、声が聞こえた。


「来れたんだね」


 銃を構えて振り返る。

 そこには、ベルフェゴールがいた。彼女は小さく笑いながら手を振った。


「ようこそ、一層目の地獄に」

「一層目?」

「そう、地獄は七層あるんだ。全部、ベルの身体の一部から作られているんだよ。ここは、まだ優しい一層目さ」


 アルマは、辺りを見回す。自分達は彼女の身体の中に来たのか、と思っていると、辺りから草木が揺れる音がした。

 よく見ると、色んな姿形をした者達が木陰に隠れていた。ガブリエルが、動く。アルマの身体を抱きかかえ、その場から走り出した。

 それと同時に、隠れていた者達も、一斉に追いかけ始めた。ベルフェゴールが言う。


「ここに来たからには、僕達と遊んでくれるんだよね?」


 その言葉に、アルマは理解する。あれは、皆、悪魔だ。

 ガブリエルが素早く森を駆けていく。後ろを見ると、悪魔達は楽し気に笑いながら追いかけてくる。あれだけの数を相手するのは難しい。ガブリエルの判断は正しい。

 森を駆け抜けると、今度は溶岩の湖に辿り着く。上から流れ落ちる滝さえも溶岩で、湖の淵には黒い結晶が生えている。

 ガブリエルは一瞬だけ振り返った後、その湖の上へと飛び上がった。アルマを抱いたまま、宙へと浮遊する。

 ふわりと上空まで来ると、空の景色に驚いた。真っ黒な、骨ばった肉が、空に広がっている。

 これは、と思っていると下から声が響いた。


「アハハ、どこへ行くの?」


 近づく気配に、ガブリエルは避ける。下から飛んできたのはベルフェゴールだった。彼女はにっこりと笑いながらこちらを見る。


「遊んでくれないと、怒っちゃうよ」

「お前達と遊ぶ暇はない」

「えーでも、折角地獄に来てくれたんだ。遊んでくれないと、泣いちゃうよ」


 わざと泣き真似をするベルフェゴールに、アルマは銃口を向け、撃った。エミリの特製銃が、その頭を吹き飛ばす。しかし、ベルフェゴールの頭は風に包まれて再生する。


「無理無理、そんな玩具じゃ僕達は止まらないよ」


 楽し気に笑うベルフェゴールに、アルマは舌打ちをした。そこへ、ガブリエルが耳打ちをする。


「アルマ、歌を」

「え?」

「私に続いて」


 それだけ言って、ガブリエルは歌いだした。それは、聖歌だった。優しい歌声が地獄内に響き渡る。ベルフェゴールが顔色を変えた。


「や、やめてよ! そんな歌!」


 アルマは、しばらく、歌うガブリエルを見ていたが、覚悟を決めて彼に続いた。異なる旋律が彼の歌声と混ざり合い美しいハーモニーを生み出す。

 すると、ベルフェゴールは苦しそうに頭を抱えた。森の中にいた悪魔達も苦しみだし、その場から逃げ出した。

 ベルフェゴールは顔を歪ませて、ガブリエルたちに襲い掛かった。


「やめろって言ってるだろッ!」


 伸びた爪をむき出しに襲い掛かるベルフェゴールに、ガブリエルはアルマから片手を離し、ベルフェゴールの手を掴んだ。そして、そのままぎゅっとベルフェゴールの身体を抱きしめた。子どもをあやす様に撫でるガブリエルは、歌い続ける。ベルフェゴールはしばらくもがいていたが、やがて大人しくなり、目を閉じる。


「ね、むい……」


 それだけ言って、ベルフェゴールは姿を消した。

 二人は歌を止めた。どうやら、聖歌は悪魔に効果てきめんのようだ。

 ふと、下の森から歌声が聞こえた。ハッとなって下を見ると――森の真ん中で聖歌を歌うエルの姿があった。

 アルマは目に涙を浮かべた。ガブリエルも彼女の姿に気づき、下へと降りた。

 エルは、ずっと歌い続けていた。周りにはたくさんの悪魔がいたが、誰も彼女に近寄ろうとはしなかった。聖歌のお陰だろう。

 アルマは地面に降り立ってすぐさま、エルを抱きしめた。


「エル……!!」


 エルは目を見開き、歌を止めた。


「ねぇ、ちゃん?」

「無事で、よかった! 本当によかった……!」


 アルマは涙を流しながら、強くエルを抱きしめる。エルは、ようやくアルマに会えて嬉しいのか、顔をくしゃくしゃにして、わんわん泣き始めた。怖かっただろう。こんなところに一人落とされて。それでも、彼女は生きていた。アルマにとって、何よりも嬉しかった。

 その様子を見ていたガブリエルも安心したように胸を撫でおろし、二人をそっと抱きしめた。

 それから、二人が落ち着いた頃、アルマはエルの身体の状態を確認する。大きな怪我はないものの、かすり傷はある。ここに落ちた際にできたものかもしれない。アルマはガブリエルに振り返る。


「エルを地上に戻したい」

「そうだな。このまま連れて行くのは危険だが……」


 そう話していると、後ろから声が響く。


「なんだ、そいつを地獄から出したいのか?」


 振り返ると、そこにはマモンがいた。彼は手をポケットに入れたままこちらを見て片手を上げた。


「よう」

「お前……!!」


 アルマはマモンを見て敵意を剥き出し、銃口を向ける。マモンはケタケタと笑いながら近づいた。


「そうカッカすんな。俺はその半神魔に興味はねぇ」

「じゃあ何しに来た」

「ガブと戦いに来ただけだ」


 顔を上げる。ガブリエルは悲しそうに目を細めたが、マモンは続ける。


「そいつを地獄から出したら、ガブは俺と戦ってくれるか?」

「……戦わないよ」

「えー。でも、俺と戦ってくれるならそいつを地獄から現界に送り返せるが、どうする?」


 ニヤニヤと笑うマモン。こいつはガブリエルを連れ去って悪さをした悪魔だ。信用できないというのが本音だった。だがエルもここにいては。そうと思っていると、エルはアルマの服を掴んで頭を横に振った。


「ヤ! ねえ、ちゃんと、いっしょ!」

「エル……」


 もう離れたくない、という瞳が訴えていた。アルマは、彼女のその気持ちに、微笑んで頷いた。


「わかった。エルの事は私が守るから」

「ウン! うた、うたう!」


 にこやかに言うエルに、マモンは「それなんだよ」と困った様子で肩を竦めた。


「そいつの歌が、悪魔達には厄介なんだよ。できれば地獄から追い出してぇ」

「ふん、誰がお前らの思う通りにするか。ガブもエルも、お前の望むようにはさせない」

「なら――」


 マモンの身体から数多の鎖が出る。ジャラジャラと音を立てながら宙に広がり、三人に向かって降りかかる。


「死んじまってもいいよなぁ!?」


 アルマはエルの身体を抱えて銃を構える。その時、ガブリエルが双剣を取り出し、数多の鎖を素早い動きで砕き斬った。バラバラになる鎖にマモンは驚いた顔をする。ガブリエルは、マモンを睨みながら後ろにいるアルマに言った。


「アルマ、意識を集中させて、ベルの居場所を見つけるんだ」

「ベルの居場所……?」

「恐らくこの一層目にはベルはいない。だが、どこかにいるはずだ。お前は契約者だ。ベルの力を感じ取ることができるはずだ」


 再び襲い掛かってくる鎖に、ガブリエルは飛び上がる。身体を捻り、鎖の間を通ってマモンの頭上に来る。そして彼の肩を片足で踏み押し、地面に叩きつけた。そしてその首に双剣を交差させ、ぎりぎりのところで止める。

 ガブリエルがマモンを抑え込んでいるうちに、アルマは急いで意識を集中させた。

 いろんな雑音や気持ちで集中力が散漫になってしまう。しかし、その中で、微かに聞こえた声があった。


「アルマ」


 下だ。はっきりと聞こえた声に、アルマは顔を上げた。


「ガブ! 下から聞こえた!」

「ということは、下に層があるのか」


 再び舞う鎖を、今度はアルマが銃弾で確実に撃ち砕いた。ガブリエルはその音を聞きながら、マモンに顔を近づけた。


「下に行くにはどうしたらいい?」

「ハッ、俺が教えるとでも?」

「お願いマモン。あの子を、サタンを……私は封じ込めに来ただけだ。あの子がお前達や人間達を傷つける前に、私が止めなくては……」


 悲しげに、心から懇願するガブリエルに、マモンは言葉を詰まらせた。彼はしばらく黙っていたが、「退け」と言った。ガブリエルは剣を抜き、マモンから離れる。マモンは身体を起こしながら頭を掻いた。


「お前、本気で神の力なしであいつを封じ込めるっていうのか」

「あぁ」

「馬鹿だろ。そんなことしたら、消えるかもしれないんだぞ」

「それでも、お前たちや人間達の事を考えれば、私はどうなってもいい」

「よくねぇ!」


 マモンが叫んだ。先ほどと打って変わって、本当に心配しているような声だった。その変わりようにアルマは驚愕する。


「いいか、お前は、俺達悪魔にとっても大切で、失い難い存在だ。一緒に堕天してほしいとも思ってる。なのに、消えるのを前提であいつを止める? ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ……俺達がそれに耐えられると思うのか?」

「心配してくれるのか?」 

「当たり前だろ。確かにお前と戦いたいとは言ったが、消すつもりなんかさらさらねぇ」


 拳を握りしめて顔を逸らす。本心からそう言っているのだとわかる。


(本当にガブが好きなんだな)


 アルマは、なんだか羨ましくも思った。

 ガブリエルはしばらく黙っていたが、顔を上げてマモンに微笑んだ。


「それでも、ベルを助けに行かなくては。あの子が、サタンに何をされているのか、心配なんだ」

「……あいつ、七層でサタンと戦っているぞ。だが、七層は今、どこの地獄よりも地獄だ。そんなところに行ったら、お前もその人間も、ただではすまねぇぞ」


 ガブリエルは「そうか」と言ったが、すぐに真剣な目を向けた。


「それでも行かなくては。あの子達をあのままにしておくわけにはいかない」

「……そうかよ。どうなっても知らねぇぞ」


 マモンは立ち上がり、散りばめていた鎖を身体の中にしまいこむ。


「下に行くには、階段を上れ。歩き続けていれば見つかる」

「上る? 下るんじゃないのか?」

「この地獄はあべこべに創られている。下に降りるなら上に。上がるなら下に。それがこの地獄の造りだ」


 少し混乱しそうになったが、アルマはガブリエルを見る。彼が理解したように頷いたので、アルマも頷く。

 するとマモンが、先頭を歩き始める。


「ついてこい。案内してやる」

「え、でも……」

「ふん、人間を地獄に案内する機会なんてそうそうねぇからな。だが、お前のためじゃねぇ。ガブとベルのためだ。勘違いすんな」


 ぶっきらぼうに言う悪魔に、アルマは唖然としたが、従うことにした。

 それから、マモンの後に続き、地獄を歩いた。簡単に説明を受けたが、この地獄は七層から成るという。

 人間でいう臓器が層になっており、全てがベルの臓腑なのだそうだ。そして、それぞれの層に七大罪が住んでいる。一層目はマモンが、二層目はベルフェゴールが、三層目はレヴィアタンが、四層目はアスモデウスが、五層目にはルシファーが。そして六層、七層はベルゼブブ、所謂彼女の本体があるという。


「ベルが現界しているときは、魂という本体は地獄に置かれている。つまり、あいつの力の源が六層か七層にある。だが、今にして思えば、あいつは元々、サタンの魂を封じ込めるつもりで七層を創ったのかもしれねぇな」


 確かに、今、七大罪で人間の世界に封印されているのはサタンだ。彼女は、サタンも地獄に入れたいという望みがあったのかもしれない。やはり、優しい悪魔だ。

 そうこう説明を受けているうちに、階段らしき場所を見つけた。しかし、変わっているのは、それが逆さまであること。手すりは下に、階段の足場も下をむいている。それでいて向かうのは上。いや、歩けば下に向かうような、そんな頭がおかしくなりそうな構造をしていた。

 マモンは階段に近づき、手すりに触れた。


「これが、下へ降りる階段だ」

「ど、どうやって足を乗せるんだ」

「こうだ」


 マモンは、軽くジャンプしてその空間に飛び込んだ。

 すると、いつの間にかマモンの身体は逆さまになり、階段に足をついている。


「これで視界も変わる。跳んでみろ」

「……わかった」


 もう人間の常識を持ち込んではいけないと判断し、マモンに倣って、エルと共にジャンプする。すると、視界がぐるんと回り、階段の上に降り立った。そして驚く。自分たちが歩いたあの森が、今度は天井にあった。あの肉ような空は、今度は下にある。気持ち悪くなりそうだったが、同じように来たガブリエルが心配そうに背中を擦った。


「大丈夫か?」

「あ、あぁ……変な空間だな」

「俺達には羽があるからな。こういうのなんて、当たり前の景色なんだよ」

「そうなのか……」


 こんな景色を、霊は当たり前に見ているのかと思うと、人間の方が不便なのだろうかとも考えてしまう。マモンは、階段を降り始める。


「俺が案内できるのは二層の入り口までだ」

「ありがとう、マモン」


 ガブリエルが礼を言うが、彼は不機嫌そうに顔を逸らした。


「悪魔に礼なんかするな。そんなことを言うのはお前だけだ」


 そう言って階段を降りるマモンを追いかける。アルマは、ある事を質問した。


「お前、何でエルを攻撃しなかった?」

「は? なんだいきなり」

「だって、お前ほどの悪魔なら、エルの歌を止めることくらいできただろう。あのベルフェゴールだって、嫌がって攻撃してきたんだから。なのに、お前は何もしなかったのか?」

「……嫌なことを聞きやがる人間だな」


 彼は頭を掻いて、言った。


「そいつの歌が、懐かしかっただけだ」


 それだけ答えて、彼は階段を進んでいった。

 やがて、逆さまの折のような門に辿り着いた。どうやらここから二層に入れるようだった。ガブリエルは門を開けようと手を伸ばしたが、マモンが遮る。


「おい、天使のお前が悪魔の臓器に触れるな。怪我をする」

「あぁ、すまない」

「全く、気をつけろ」


 マモンが扉に触れて押す。ギギ、と音を立てて扉が開かれた。

 向こうは、暗闇が広がっている。


「いいか、ベルフェゴールはガブが眠らせたから攻撃はしてこねぇが、同じ階層にいる悪魔はお前達を襲う。戦いたくねぇなら同じ階段を探せ。扉を開けるのはお前だ、人間」

「私?」


 自分を指され、驚くアルマ。


「そうだ。ガブは天使だから扉に触れねぇどころか、悪魔の中にいるだけでも異質だ。悪魔はそれに群がる。ガブを守りてぇなら瞬時の判断を疎かにすんじゃねぇぞ」

「……肝に銘じておく」

「殺されねぇように気張れよ」


 アルマは頷き、ガブリエルを見た。ガブリエルも同じように頷いた後、暗闇の中に入った。エルも、アルマと手を繋いだまま、共に中へと入っていく。そして三人が入った後、扉は勝手に閉められた。

 マモンはその場で笑い出した。


「さて、あの人間がどれだけやれるか、見せてもらうか」


 ケタケタと笑った後、マモンはその場から姿を消した。

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