第6話
日の光の届かぬ室内に、大量の蝋燭が灯されている。
壁は溶けた蝋がびっしりとこびりつき、所々に火が揺らめいている。
その怪しい光の中、部屋の中央に何かが突き出ている。まるで牙のような、角のような、とにかく尖った大きなものが、天井に向かって聳え立っていた。
それを囲うように、黒い衣服を纏った者達が立って、延々と呪文を囁いていた。
そこに、大きな足音がひとつ。皆が一斉に振り返れば、黒いフードに金の装飾を施された男が来た。
彼を見て、呪文を唱えていた者達は、頭を下げてその場から離れた。
その男は、聳える物を見上げて言った。
「プルソンとシトリーが、地獄に送り返されたそうだ」
男の言葉に、ざわ、と場がどよめく。
「ただのエクソシストにはできない芸当だ。恐らく、天使と同等の何か、それとも、それ以上の悪魔にやられたか」
男が角に向かって手を伸ばす。しかし、触れる寸前に声が響いた。
「やめてよ、俺の大事な角に触らないでくれる?」
その声の主は、角の裏側にある祭壇の上に座っていた可憐な少女――アルマを引き裂いた、あの少女だった。
男は、フードの下から覗く紫色の瞳で少女を睨んだ。
「あなたなら、誰があの二人を倒したかご存知なのでは?」
「知ってるけど教えなーい。自分達で探したら?」
可憐な姿に反して、少女の声は男のようにも聞こえた。
フードの男は、それを聞いて小さくため息をついたが、数歩少女に近づき、腰につけていた短剣を持ち上げた。
「では対価を」
「やだよ、人間から与えられるなんてちょー屈辱」
「……どうしても教えていただけないのか」
「がんばってー」
姿こそ愛くるしいのに、あしらうように手をひらひらと振る様は、明らかにこちらを見下している。
男がどうしたものか、と考えていると、後ろから声が飛んできた。
「ヒュブリス様! クラウンを見つけました!」
その声に、その場にいた全員が「おお」と歓喜の声を上げた。
少女の顔に興味が浮かぶ。
「なーんだ、簡単に見つかったの」
「捕えられたか?」
男――ヒュブリスは、すかさず尋ねる。報告の者は首を横に振ったが、顔には喜色があった。
「いいえ、しかし、場所は特定できています。すぐにでも捕えに行けます」
「そうか。では、残りの者達は次の召喚を。クラウンに見つかる前に儀式を実行しろ」
その言葉に全員が頭を下げ、影にかき消されるように立ち去る。
部屋に残ったヒュブリスを、少女はケタケタと笑いながら見つめる。
「早くいいやつが出るといいねー」
「……そうですね。しかし、一体誰がプルソンとシトリーを倒したのか」
「特別に教えてあげよっかなー?」
少女は祭壇を降り、くるくると回りながらやってきては角に来て寄りかかる。あどけない顔をしているが、その瞳は翡翠色をした蛇の目だった。
「エクソシストではあるけど、天使と悪魔、同時の契約を果たした奴がいるよ」
「双方と契約? そんなことが可能なのか?」
「下級同士じゃまず無理。どちらも強い存在じゃないと、どちらかに影響されて消えることだってある」
「では、上位の天使と悪魔ということか。しかし、そんな無茶な契約に耐えうる人間がいるとは……」
「相性いいんじゃなーい?」
アハハ、と笑いながら踊りだす少女。これ以上は教える気はないようだ。
代わりに少女は歌を歌い始めた。
「ヘテ ヘテ エレベ
トチ トチ シエテ
ウェケ ウェケ ザギデ」
それは、何かの呪文のようにも聞こえる。
ヒュブリスはその言葉を聞きながら、次の策を巡らせ始めた。
アルマが目覚めると、自分の家だった。
リビングのソファで寝ており、体の不調もすっかり消えていた。いつの間に寝入ったのか記憶が曖昧で、困惑しながら身体を起こしたところで驚愕した。
エルが、ガブリエルの膝に座って一緒に本を読んでいる。
「ちょ、ちょっと!?」
「おはよう、アルマ。調子はどうかな」
「ネ、チャン! オ、ハヨ!」
アルマが起きたことで、二人は読書を止めて笑顔を見せる。
しかし、アルマはガブリエルがいることに驚き、慌てふためく。
「ど、どうして、あんたがここに!?」
「シトリーを帰した後、お前は眠ったんだ。それで家まで送って……」
「い、いや、でも、エルは……!」
アルマは言葉に詰まった。ベルゼブブには成り行きで話してしまったが、今、咄嗟には上手く言えなかった。彼女が半神魔であることを。
ガブリエルは、何かを察したのか、エルの頭を撫でた。その顔は慈愛に満ちている。
「この子は、とてもいい子だな。私ともすぐ打ち解けてくれた。大事に育てたんだな」
「う、うん……」
もしかしたら、ベルゼブブから聞いているのかもしれない。彼の余裕ある態度を見ているとそう思えてくる。
ふと、台所から漂ういい匂いに気付く。誰かが勝手に料理をしている。
慌てて台所に向かうと――黒いエプロンを纏ったベルゼブブが、料理をしていた。
慣れた手つきで包丁を持ち、野菜や肉を切って、煮詰めたソースの中に入れていく。
アルマが呆然とそれを眺めていると、ベルゼブブが気付いて振り返った。よく見たら、長い髪もひとまとめに結われている。
「おはよう」
「お、おはよう……? あんた、何して……」
「見ての通り、料理だが」
「ええ……」
確かに、料理をしてみたいとは話していたが、まさか本当にやるとは。
「料理というものを初めて体験してみたが、なかなか面白いものだな」
「……初めてにしちゃ、慣れた手つきしてるけど」
「そうか? しかし、困ったことが一つある」
そう言いながら、ベルゼブブは鍋からすくった汁を小皿に垂らした。スープというにはとろりとしている。
「味、というものがよくわからない。味見をしてくれ」
「え」
差し出された小皿に、アルマは思わず躊躇った。
「どうした」
「呪われたり、毒が入ってたりしてないかと」
「私を何だと思ってる」
「悪魔」
「わかった。では彼女に頼むか」
そう言って、リビングでガブリエルと共にいるエルの方を見るので、アルマはそれをひったくって一息にあおった。
ごくり、と喉を鳴らして飲み下したそれは、煮込まれた野菜と肉の旨味がしっかりと染み出し、コクがあり、零れ出た言葉は。
「……うまい」
ベルゼブブが「そうか」と満足気に頷く。
「美味いか?」
「え? あ、うん……」
「なるほど」
ベルゼブブは納得した様子で、調理に戻る。今度はまた野菜を切り始めた。
アルマは、その光景に、なんだか懐かしさを覚えた。
それから30分ほどした頃だろうか、ひび割れたテーブルには、二皿ずつのシチューとサラダが並んだ。盛り付けも心なしか凝っており、見た目にもおいしそうだ。
エルが目を輝かせる。その隣から、ガブリエルが聞いた。
「何を作ったんだ?」
「シチュー、というのを作ってみた」
「しちゅー」
興味津々そうに見ているが、二人の分の皿はなかった。
「あんた達は食べないのか?」
「食べる必要がない」
「おいしいって感覚もわからないし……」
霊体に食事は必要ないのか。それもそうか。と思っていると、エルが「スゴイ」と歓声を上げ、待ちきれずにスプーンを手に取った。
「タ、ベテ、イイ!?」
「あ、あぁ、いいよ」
毒や呪いもなかったことだし、と内心にしまいつつ、複雑な気持ちでエルに許可を出す。
エルは満面の笑顔と共に食事にありついた。まだ慣れてないのか、スプーンを握る手は拙い。
シチューを一口、含むと、彼女の頬が紅潮する。大きな瞳がキラキラと輝いた。
「オ、イシ!」
「そうか。おいしいか」
ベルゼブブの顔に喜色が浮かぶ。望むものが作れて満足しているようだ。
「タ、ベヨ!」
「う、うん」
エルに言われて、アルマもスプーンを取るしかなかった。いかにおいしそう、且つ味が良くとも、悪魔が作ったものだと思うと躊躇ってしまう。
仕方なく食事を始める。やはり、美味い。
その味は――昔、母親が作ってくれた味に、どこか似ていた。
匙を進めるうちに緊張は解け、いつしかアルマの顔は穏やかに綻んでいた。
ガブリエルが、それをとても嬉しそうに眺めている。
「オ、カワリ!」
「はやっ」
空になった皿を差し出すエルに、思わずアルマは声を零した。
ベルゼブブは、咎めることもなく皿を受け取り、おかわりを注ぎに向かう。
するとエルが言った。
「タ、ベナイ?」
ガブリエルの手を掴んで引っ張る。先程からも思ったが、エルは天使や悪魔を視れるだけでなく、触れることもできるようだ。大方、それも半神魔であることに起因するのだろうが。
当のガブリエルは困惑していた。
「私達は食べても意味が……」
「タ、ベヨ!」
「でも……」
悩むガブリエルに、ベルゼブブが皿を差し出した。エルのおかわりついでに持ってきたようだ。
「食べてみたらよいのでは?」
「でも……味の感想も、うまく伝えらえると思えないが」
「アルマやエルは、おいしいと言っている。おいしいは、食事に対する最高級の誉め言葉なのだろう? なら、問題はないと思うが」
そう言ってベルゼブブは、問答無用でガブリエルの前にも皿を置いた。
ガブリエルは、シチューをまじまじと見た後、スプーンを手に取り、すくって口に運ぶ。
「……これが、人の言う”おいしい”という感覚か」
「どれ。私にも一口」
横からベルゼブブが、ガブリエルのスプーンを横取り、一口食べた。じっくりと口の中で転がした後「なるほど」と納得する。
「香ばしいな。それでいて、これは野菜の味か? あまい、という感覚がある」
「じゃあこの……味、お肉かな? 舌の上に残る感じがする」
何やら二人で話し込んでしまった。
味を知らないと、こんな状態になるのか、とアルマは二人を不思議そうに見た。 しかし、やはり懐かしい気持ちになるのは何故だろうか。こんなに心穏やかに食事をしたのは、いつぶりだろうか。
昔、父と母が台所に立っていたことを思い出す。自分のために「工夫して、おいしい料理を作るから待っててね」と言われた記憶がある。二人は、こういう味も、ああいう味も、と言い合いながら試行錯誤していた。
そんな思い出と、目の前の二人の姿が重なる。
(まさか、こいつら相手に思い出すなんて)
目に込み上げるものを感じて、ぐっと、スプーンを握りしめた。
その隣は、エルが嬉しそうにはしゃぎながら食事を続けていた。
ドサ、と倒れる音が路地裏に響く。
悲鳴を上げる暇もなく倒れる黒づくめの者を、トルソは睨みながら背後を振り返った。
黒い衣に身を包んだ――悪魔崇拝者。銃や剣を彼女に向けて威嚇する。
「くそ、まさか気づかれるとは」
「エクソシストを甘く見ていたか」
彼らからは焦りが見える。
トルソはニタ、と笑いながら剣を肩に置いた。
「てめぇらが何を企んでいるかは知らねーが、また悪さしてんだったらここで沈めてやるよ」
トルソは、新しい玩具を見つけたかのように目をギラギラさせた。
突如、その場に強烈な威圧感を感じ、咄嗟に飛びのく。頭上から何かが降ってきて地面を割り、砂埃を上げた。
「こいつではないな……」
脳に直接響くかのような声に、トルソは頭を押さえた。眼帯をしている目が痛む。まるで共鳴しているかのように。
「別の場所を探せ。この都市にいるのは間違いない」
その言葉に、悪魔崇拝者達が引き下がる。
トルソは「待て!」と叫んで追おうとしたが、土埃の中から現れた存在によって止められる。
どこかの騎士の肖像画から出ててきたような出で立ちをした大男。しかし、その口には長い牙が、額には二本の太い角が生えている。蛇の舌を揺らしながら、こちらを睨むのは金色の目。
「女、これ以上、邪魔をするなら私が相手になろう」
重たい威圧感と、低く響く声に不快感が強まる。目の痛みは増し、頭までも痛み出す。トルソは苛立ちを露にして、剣先を向けた。
「てめぇ、何者だ」
男が剣を構える。その所作は、まさに騎士そのものだった。
「我が名はボティス。ゲーティアの悪魔の一柱なり」
「げ、ゲーティアの悪魔!?」
思わず声を上げてしまう。
「何でそんな奴が……これも、悪魔崇拝者どもの召喚か!?」
「お前達は、エクソシストという職だったな。元は聖職者と聞いている」
「それがどうした!?」
「女、お前が聖職者を辞したのは、その呪い故か」
かっと頭に血が昇り、トルソはボティスに斬りかかった。
しかし、ボティスはその剣はあっさりと弾き飛ばした。トルソの剣は、回転しながら飛んでいき、壁に突き刺さった。
次の瞬間には、騎士の剣は喉笛に突きつけられていた。
殺される。ここまでか。そんな思いとは裏腹に、ボティスは剣を下げた。
戸惑うトルソに、ボティスは言い放った。
「その呪いごと殺すのは惜しい。呪いに蝕まれるのを待つとしよう」
余裕ある態度に腹が立ったトルソは、ボティスの顔面を殴ろうと向かっていった。その拳も片手で簡単に押さえられる。同時に目に激痛が走った。
「ぐあああっ……!?」
「その呪いは素晴らしいぞ……人間としての感情を、徐々に失っていくのだからな」
身体ごと投げ飛ばされ、背中から地面に叩きつけられる。
痛みでもがき苦しむトルソを、ボティスは見下げた。
「どのようにもがき苦しんで最期を迎えるのか、見ものだな」
ボティスは姿を消すと同時に、トルソを苛んでいた目の痛みが消えていく。
ただし、叩きつけられた背中の痛みはそのまま、頭の中は不快な余韻で満たされていた。
トルソは地面に転がったまま、悔しそうに拳を叩きつけた。
「あたしが、感情を失う? ふざけんな!」
絶対に嘘に決まっている。そう思うほどに、あの悪魔の言葉が、頭の中を駆け巡った。
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