第5話
アルマは結局、シトリー退治の為に西の孤児院に向かった。
西の孤児院と言えば、この都市で一番大きな孤児院『アモニ』だ。今となっては住む者はいないが、建物は崩れずいまだに残っている。とはいえ、廃墟と言うだけあって、塗装は剥がれ、窓も割れ、扉も折れて倒れている。
廃孤児院を前にして、アルマはその姿を見上げる。その後ろで天使と悪魔は、頷き合う。
「悪魔の気配だ」
「恐らくシトリーだろう」
アルマは、覚悟を決めて孤児院の中へと踏み入った。
中はさほど壊れていないものの、木造ゆえか草木が茂り始めている。この部屋にある階段は折れ、上がれそうもない。穴の空いた廊下を進み、朽ちた扉が並ぶ廃墟の中を見渡していると、ガブリエルが二歩前に出た。
「悪魔の気配が強い……シトリーだけではなさそうだ。神魔がいるかもしれない」
神魔という言葉に、アルマの肩がびくりと跳ねる。それに対し、ベルゼブブは言う。
「悪魔が創った魔物だ。感情も知性もない人形のようなものだ。霊体ではないから見えはするが、動きは速い。私が憑依しなくても、そのままのお前でも倒せるとは思うが……」
話している最中に床からビキ、と音が鳴る。
アルマが慌ててその場を退くと、床が割れ、黒い蛇の頭をした魔物が現れた。
牙を剥きだし、まずガブリエルに向かって襲い掛かった。
ガブリエルは避けることなく、片足で魔物の顎を蹴り飛ばした。吹き飛ばされた魔物は、壁にぶつかり動かなくなった。
そこへ、ベルゼブブが歩み寄り、忌々し気に魔物の頭を踏み砕いた。ベキベキ、耳障りな音の後、魔物は黒い靄となって消えた。
「品のない神魔だ」
「どっちが……」
二人のやり方に思わず呟けば、ベルゼブブの睨みが飛んできて、アルマは視線を逸らした。
ガブリエルは辺りを警戒する。
「他にもいるようだ。注意して進もう」
「ガブリエル、お前は何もするな。ただついてくればいい」
ベルゼブブの言い分に、ガブリエルは「ええ……」と困惑の声を漏らした。
そんな二人の関係性に違和感を抱きつつも、アルマは進む。
それから、三人はシトリーを探しつつ、襲いくる神魔を次々と仕留めていった。アルマは銃で、ベルゼブブは爪を振りかざし、ガブリエルは足技をもって。
そうこうする間に、三人は二階の大広間――かつては子どもの遊び部屋だっただろう場所に辿り着いた。壊れた玩具が散乱している。
手掛かりはないかと見渡していると、ガブリエルがしゃがみ、壊れた人形を持ち上げる。少女を模したであろうそれは、しかし、持ち上げただけで首が取れてしまった。
ガブリエルは無言だったが、その表情はとても悲しげだった。
「……どうしてあんた、いちいち泣きそうな顔をするんだ」
アルマの疑問に、ガブリエルは微笑みを向けるが、悲しみは隠せていない。
「どうして、か」
「人間をとても愛しているからだ」
代わりに応えたのは、ベルゼブブだった。
「人間の辛苦を思うだけで涙を流す。まさに慈愛の天使だろう」
「慈愛……」
「お前は思ったことはないか? 人間を愛しているなら、何故、助けを求めている時に助けてくれないのだ、と」
表情が強張る。何度も思ったことだった。どうして神は、祈りを聞き入れられないのだろうか、と。こんな惨劇を許されているのだろう、と。
「……ある」
「対する答えは、人間が自分で蒔いた種を刈り取っただけのことだ」
「自分で蒔いた、種?」
「自分の行いの結果、失敗するか成功するか。それは、その者の態度次第ということだ。気に食わない結果になったとして、それを神のせいにするのは、違うと思わないか?」
言わんとしていることはわかるが、いまいち納得のいかないアルマは眉間に皺を寄せる。ベルゼブブは、その皺に指を突き付けてぐりぐりと動かした。結構痛い。
「天使が助けるのは、神が本当に必要と思った者に対してだけだ――それが、神への信仰心に繋がっているのなら、猶更だ」
「……わからない。私には、神が助ける者を選り好んでいるようにしか思えない」
「なら、理解できずともよい。ただ、ガブリエルは、お前が思っているより、お前達の味わう痛みを感じている」
ベルゼブブが指を離し、踵を返す。そのまま部屋を後にする。
ガブリエルの方に目を向けると、彼は立ってこちらを見ていた。
「お前は、お前が思う通りに感じていればいい。お前の自由意志を、私は尊重する……神を愛していなくても、その心はお前だけのものだ」
それだけ言って、ベルゼブブの後を追う。
二人の言い分を理解できたわけではない。納得したわけでもない。
ただ、ガブリエルの言葉に、アルマはどこか肩の荷が下りたような心地を覚えた。
更に階上へと向かうと、三階は神魔の巣窟だった。
大部屋を埋め尽くす勢いのそれは、ざっと30体はいた。
アルマが倒せたのはせいぜい9体ほど。大半は二人が相手をした。
最後の1体を打ち抜いて、膝に手を着く。
「くそ、なんて数だ……」
苦しそうに息を切らしていると、それを嘲笑うかのように、けたたましい笑い声が辺りに響いた。
『ハハハハハッ! なかなかできる人間ではないか! 気に入った! お前を我の玩具にしてもよいぞ!』
威圧感のある声。馴染みのある気配に、アルマは顔を上げた。
「お前が、シトリーだな!?」
『ほう! 我の名を知っているとは! ますます気に入ったぞ!』
気味の悪い悪魔だ、とアルマが鳥肌を立てていると、薄ら笑いを浮かべたベルゼブブが言う。
「久しいなシトリー」
『へ、え!? べ、ベルゼブブ様!!??』
シトリーの声が明らかに動揺し出す。続けて、ガブリエルが問う。
「何を企んでいる?」
『ええっ!?? ががががガブリエル様!!? な、何故お二方が、ここに!??』
狼狽える悪魔の様を、ベルゼブブは鼻で嗤った。
「実はこの娘と契約していてな。お前たちを大人しくさせようと思っているのだ」
『な、にを!!? 何故にあなた様のような方が、人間の味方を!!?』
「勘違いするな。私は、お前たちがサタンの封印を解こうとしていることに不満を抱いているだけだ。私の自由な時間を、あいつに奪われてたまるか」
『う、うぐぐ……しかし、これもルシファー様のお望みです』
その名に、ベルゼブブはぴくりと眉を上げた。
「……ルシファーの?」
『左様でございます。ルシファー様は、サタン様を目覚めさせ、早急に人間を滅ぼしたいとおっしゃっておりました。そのために、我々も動いているのです』
ガブリエルの顔が歪む。シトリーは言葉を続ける。
『しかし……ガブリエル様がいるなら、話が変わりますな。ガブリエル様、我らの元へ。ルシファー様があなた様を求めておいでです』
「それはできない。私は、サタンの封印が目的だ。ルシファーの願いを叶えるつもりはない」
きっぱりと言い切るガブリエルに、シトリーは残念そうに『そうですか』と零した。そして、語気を強めて言う。
『では、無理やりにでもあなた様を捕えるまで! あなた様を捕え、ルシファー様にお渡しすればきっと……我の地位も!!! ハハハハハ! 地下で待っていますぞ!!』
シトリーの声が消えて行く。
アルマは唖然としていたが、ベルゼブブは困った様子で腕を組んだ。
「あの阿呆め」
「……ガブって、悪魔に好かれてんのか?」
アルマがふと湧いた疑問を口にすると、ベルゼブブは真顔でこう言い放った。
「好かれるも何も……我々悪魔の初恋は、ガブリエルだ」
「…………は?」
予想だにしない単語に、アルマの頭は真っ白になった。
ガブリエルが「違う」と慌てて口を挟んだ。
「初恋ではないだろう」
「初恋だろう。お前に告白した悪魔が何人いると思ってる」
「やめなさい、アルマが勘違いをする」
「何も間違ったことは言っていないはずだ。特にルシファーなんて、お前にどれだけ」
「わかったから」
顔を赤くして狼狽えるガブリエルの姿に、アルマは理解の追いつかない頭で呟く。
「悪魔が、天使に、恋……?」
「違う、アルマ、これは、誤解だ」
しかし、ベルゼブブは容赦なく話を続ける。
「我々悪魔は、元は天使だった。ガブリエルと共に活動していた時期もある」
「え、あ……そうか、そうだよな。悪魔は、元は天使だもんな」
「ガブリエルは天界の中でも、とりわけ美しく慈愛に満ちた天使だ。同時に、我々にとって母のような存在でもあった。それゆえに、ガブリエルに恋した天使は多い。そして、恋に落ちたが故に、悪魔になったのだ」
ガブリエルが顔を曇らせる。
「……やはり、私のせいなのか」
「そうではない。これは我々の意志だ。恋をしたのも堕ちたのも。お前のせいではない」
「ちょ、ちょっとまって」
アルマは、割って入って疑問をぶつけた。
「あんた達に、恋愛感情ってあるの!?」
「意志も心もある。だから悪魔になったのだ」
悪魔や天使に関する常識が、ガラガラと音を立てて崩れていくような感覚を、アルマは覚えた。
加えて、先程のベルゼブブの言い方が引っ掛かる。ガブリエルに恋した。そのせいで悪魔になった。これはどういうことなのだろう。
混乱するアルマの肩に手が置かれる。ガブリエルが苦笑を浮かべて触れていた。
「アルマ、今は難しい事は考えなくていいから。とにかく、今はシトリーを」
「そうだ! あいつをなんとかしないと」
元はと言えば、シトリーを追ってここまで来たのだ。
アルマが走り出すのと同時に、二人も共に向かった。
調理場の隠し扉に、地下への階段があった。
元は冷蔵室だったのだろう。いまだ強い冷気が満ちており、アルマは凍えそうになる。すかさずガブリエルが肌を寄せると、じんわりと温かく、震えも収まった。
三人は寄り添って地下へと降りると、広い空間へと出た。
そこは、プルソンの時と同じように、悪魔の紋章が描かれた床の上に、異形の存在が浮いている。
他のエクソシストたちが証言していた、豹の顔をした男だった。その背には黒く歪な鳩の羽がはためいている。
「ほーう、なかなかに悪くない女だ」
「ふん、お前の趣味に付き合うつもりはない。大人しく地獄へ帰れ」
アルマが親指を立てて下に向けると、豹の顔がにやりと歪む。
「それはできんな。我の目的を果たすまで、そして、ガブリエル様を手に入れるまで、引き下がるつもりはない!」
手を差し伸ばした先には、ガブリエルが。彼は困ったように眉根を寄せた。
「私は行かないよ」
「残念だったな。ガブリエルもこの娘と契約している。そう簡単にお前の元には行くまいよ」
「何っ!?」
ベルゼブブの言葉に、シトリーは驚き、歯噛みする。
「ぬぬぬ、ならばその娘、殺すまで!」
シトリーが両腕を振るうと、青く光る鋭い剣が出現した。威圧感と殺気が満ちる。
「アルマ、憑依するぞ」
ベルゼブブは、アルマの返事を待たずにアルマに乗り移った。
再び姿を変えたアルマは、爪を使ってシトリーの剣を受け止めた。ガァンッと硬い音が響く。シトリーの剣は重く、冷たい。
「ハハハ! どうした! ベルゼブブ様がついていながら、お前の力はその程度か!」
「こいつ、速い……!」
振るわれる剣の勢いは凄まじく、捌ききれずに肩や足を斬り裂かれる。痛みを感じることはないものの、アルマは押されていた。
シトリーが笑いながら、剣を地面に突き刺す。
頭の中にベルゼブブの声が響く。
『飛べ!』
直後、足元に無数の剣が飛び出した。飛びのいても、飛びのいても、追うように剣が生えてくる。
シトリーからの攻撃を避けることしかできず、アルマは毒づいた。
「くそっ、どうしたらいい!?」
『ふむ。ならば、新しい力の使い方を教えよう。手をかざし、集中しろ』
とにかく手を前に突き出すと、そこに黒い靄のような塊が生じ、弾けた。
目の前の空間に、ヒラヒラと無数の蝶が舞う。
『私の蝶を貸し与えた。後は、お前の意思で操れるはずだ』
蝶に意識を向けると、無数の蝶たちがシトリーに向かって突っ込んでいく。
「小細工を!」
シトリーが蝶を払うように、両手の剣を振るう。
蝶は斬り裂かれると爆発した。それは決定打には程遠いが、シトリーの意識を削ぐのには充分だった。今、こちらに剣の攻撃は来ていない。
すっかりと蝶に意識を持っていかれたシトリーの腹に、爪が突き立てられる。
「ああああッ!!」
アルマは両手をシトリーの腹に突っ込むと、真横に一気に引き裂いた。シトリーの身体が真っ二つになる。
分断されて地に落ちたシトリーを見下して、アルマは笑う。
「お前らの思い通りになんか、させるものか」
すると、シトリーは牙を剥き出して笑った。
「お前のその感情……いいぞ、まさに悪魔の贄に相応しい。我ら悪魔は、その感情にこそ引き寄せられる。お前は永遠に、悪魔と戦い、踊る運命だ」
「永遠に、戦う……私が?」
言葉が、頭の中に沁み込んでくるような妙な感覚を覚える。アルマは頭を振るうが、その感覚は拭えない。
シトリーは続ける。
「神への愛を失くしたお前は、永遠に神に愛されない。何故なら、我々悪魔がお前を――」
ドンッ、と大きな音が聞こえた。
顔を上げると、そこには怒りを露にしたガブリエルが、片手でシトリーの頭を押さえつけていた。
シトリーの顔が、みるみる怯えに歪む。
「それを決めるのはお前ではない。神の御心を弄ぶなら、私が相手になるぞ」
静かに手を離すと、豹の顔は情けなく涙を流し、懇願を始めた。
「ああ……我らの愛しい天使、ガブリエル様! あなたに嫌われたくありません……!」
「どうして私基準になってしまうんだ……ほら、地獄にお帰り」
そう言って、シトリーから離れるガブリエルは呆れ顔だった。
目の前のやりとりに呆けていると、ベルゼブブの声がした。
『地獄に送るぞ。アルマ、呪文を』
「あれか、前の言葉だよな?」
アルマは身構えると、ひとつひとつ思い出しながら唱えた。
「地獄の檻、我は導く者。彼の者を地獄へと導かん!」
大きな声ではっきりと唱えれば、再びあの黒い渦が現れ、シトリーの下に蛇の牙が現れる。しかし、シトリーは喰われる間際、アルマに向かって叫んだ。
「女よ! 覚えておくがいい! そうしてベルゼブブ様に身体を預けていれば、いずれその意志は飲まれるだろう! そして、我らの仲間となるのだ! 地獄で待っているぞ!」
バグンッ、とシトリーは蛇に呑まれ、渦の中へと落ちていった。
蝶が弾け、元の姿に戻ったアルマは、ふらりと後ろへ倒れかける。
ガブリエルが慌てて支え、座り、その膝に彼女の頭を寝かせた。
「頑張ったな」
「……これで、二体目、だよな」
「あぁ、本当に、ご苦労様。しばらく眠りなさい」
そう言ってガブリエルは、片手をアルマの目元に置いた。次に聞こえてきたのは寝息だった。手を離せば、アルマはしっかりと眠っている。
その横で蝶が集まり、ベルゼブブの姿に戻る。彼女は小さく咳払いをした。
「人間に身体を預ける行為は慣れんな」
「ベル、お前も無理をしているんじゃないのか?」
その言葉に、ベルゼブブは「なぜ?」と笑って首を傾げるが、ガブリエルの顔は真剣だった。
「あれほどまでに”人間と関りたくない”と言ったのは誰だったかな?」
「……気が変わっただけだ」
「お前は、他の子達と違って、嘘だけはつかない子だ。それはわかる。けれど、ここまでこの子に肩入れする理由はなんだ?」
ベルゼブブは目線を逸らし、ため息をついた。
「知りたいと思ったからだ」
「知りたい?」
「神への信心を捨てた人間が、もう一度神の御心に仕えられるのか、それとも悪魔に身を委ねて罪を侵すのか。どちらに傾くのかを。我々には、人間の心を理解する力は与えられなかった。故に知りたいと思うのだ。神がどれだけ人間を信頼し、その信頼に人間がどう応えるのかを」
ベルゼブブの言葉に、ガブリエルの顔に悲しみが浮かぶ。
彼女が知りたいと思う「感情」の「理由」を、ガブリエルは知っていた。それが哀れでたまらず、彼は涙を流した。
「何故、泣く」
「……お前たちが、最悪の道しか辿り着けないことに」
「それはもういい。我々が選んだことだ。お前が悩むことではない――我らの母よ」
ガブリエルの涙が、アルマの頬に落ちて消えていく。
眠るアルマの顔は、とても穏やかだった。
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