ふところ島のご隠居・第三部・救済編

KAJUN

第三部  救 済 編

第一章  多羅葉 (たらよう)

第1話 有常、老僧に出逢うこと

第三部  救 済 編


第一章    よう




   一



 暑さも盛りの頃である。


 世のなかの喧騒をよそに、ふところ島の野辺には眠るような静かな時が流れていた。

 青草を輝かせながら、南風が心地よく吹きわたってくる。


 若者を乗せたつやのある栗毛馬が、草原をすべるようにわたってゆく。

 若者は鹿ししのつくりものを相手に、騎射うまゆみの稽古を飽くことなく繰り返している。



 多羅葉樹たらようじゅの木陰では、少女と老僧が、どちらも愛想よさげに談じあっていた。


 老僧は、墨のころもに袈裟をかけ、菅笠すべがさを目深にかぶった旅装である。

 背中のおいをかたわらにおろし、倒木に腰かけ、杖を手前のほうに突いて猫背に寄りかかっている。


 少女のほうは、年歯としは十六ほど。

 簡素で清潔な、袖なしのひとえから、二の腕が健やかに伸びている。

 髪を後ろで結び、背が高く、顔立ちははっきりと、瞳は生き生きとして、おとなしく黙っていても、冗談めいたことを聞いたなら、たちまちに笑いころげてしまいそう。


 そうして口元に喜びの予感を秘めながら、木の幹にすこしだけ肩を寄りかからせて、馬を駆る若者のほうを、夢みるようにみつめている。


「知りあいか」

「うん」

 少女は嬉しそうにうなずいた。

「次郎さ、って言うの」

「次郎殿か。なかなかの御仁じゃの」

「でしょう?」

 自分が褒められたとでもいうかのように、初々しい瞳が隠れもない喜びにきらめいた。


「お坊様、これ、次郎さに渡してくれる?」

 と、少女は手巾を差し出した。

 洗い立ての清潔な布地が、綺麗に折り畳まれている。

「自分で渡せばよかろう」

「ダメなんだ。会っちゃいけない、口きいちゃいけないって言われてるから……」

「?」

「でも、見ちゃいけないって言われてないから、こうやって隠れてずっと見てたんだ」

 事情わけもわからず、老僧は手巾を受け取った。


「お坊様、よろしくね」

 無邪気にそう言って立ち去ろうとした少女を、老僧はあわてて呼び止めた。

「そなた、名は」

「みお」

 明るい声で言って、雌鹿のようにかろやかに、少女は駆け去った。

「やれやれ……」と、老僧はため息をついた。



 稽古をひと段落して、次郎さ――波多野はだの次郎有常ありつねが汗まみれの顔で近づいて来ると、なつこく、老僧は声をかけた。


都風みやこふうだな」

 有常はぎょっとして、老僧を怪訝そうに見つめた。

 この場所は、有常の秘密の稽古場だった。

 茂りに茂り、うずたかく積もった葛の葉が、緑の壁となって周囲を広く取り囲んでいる。

 小川や湿地が入り組んでいて、滅多に人の来ない場所である。

 この人は、いったいどこから迷い込んで来たのだろう……。


「まあそう怪しむな。ただの野僧であるよ」

 笠の紐をほどき、老僧は笑顔を見せた。

 痩せこけて眼窩がんかこそ落ちくぼんでいるが、眼光はきらめくようで、鼻太く、耳大きく、どこか人好きのするような大らかさを漂わせている。


「『都風』と、おっしゃいましたか」

「褒め言葉だ。弓のとり方も、身のこなしも、悪くない」

「……」


「ほれ、次郎どの」

 老僧は座ったまま、なにげない様子で手巾を差し出した。

「私の名を?」

 思わず有常は警戒し、身をすくませた。


「ははは。『次郎さ、に』と言って、里の娘が置いていったのだ。みお、という……」

「みおが?」

 若いまなこに燃え立つような喜びの光が駆け抜けるのを、老僧は見逃さなかった。


 丁寧に礼を言った有常は、手巾を受け取り、そっとひたいに押しあてた。

「貴僧は、いずこからおいでですか」

「ふむ、都にいたこともあれば、高野山にいたこともある。先ごろは伊勢にいた。決まったすまい住処は持たぬ、今日の枕の行方もわからぬ、流浪の気まま者よ」


 老僧は笑って、杖を野原のほうへさし向けた。

「この辺りのふところ島というところに、知った人がいる。今日はそこへ、宿を願おうかと思うて歩いてきたが、どうも歩いているうちに迷うてしまった」


「ふところ島のたてへ?」

「ご存知か」

「私はそこに住まいしております」

「ほう、では、ご一門か?」

「ええ……いえ、家人けにんです」

 有常は言葉尻を濁した。

 見ず知らずの者に、いらぬ詮索をされたくない。


「領主の平太殿は、お元気かな」

「殿は……とてもお元気です。貴僧は、殿のお知り合いですか」

「ああ、古い、古い知り合いだ」

「ならば、ご案内しましょう。殿は今、鎌倉におりますから、すぐに使いを出しましょう」

「それは思いがけなくもかたじけない」

 頭をさげた老僧の穏やかに両目をつむった様子は、尊像のように清らげであった。


「それでは早速、ゆきましょうか」

 せっかちに言う有常に、「じつは、の」と、ひじりは首を横にふった。

「先ほどから眩暈めまいがして、立ちあがることができぬのだよ。暑気にやられたようで、こうして体を休めておる。若い頃は頑丈そのものであったが、寄る年波には勝てぬ。ハハ、鬼の霍乱かくらんとは、よく言ったもの」


「そうでしたか……。飲み水はございますか?」

「うむ、この竹筒に」

「しばらくお休みください。のちほど、馬でお送りいたします」

「かたじけない。稽古をつづけなされ」

「はい。御名を窺ってもよろしいでしょうか」

 老僧はうなずいた。


西行さいぎょうと号す」

 およそ四十年ぶりの、東下であった。




※ 平太殿 …… 大庭景義のこと。大庭平太景義。ふところ島景義。

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