ふところ島のご隠居・第三部・救済編
KAJUN
第三部 救 済 編
第一章 多羅葉 (たらよう)
第1話 有常、老僧に出逢うこと
第三部 救 済 編
第一章
一
暑さも盛りの頃である。
世のなかの喧騒をよそに、ふところ島の野辺には眠るような静かな時が流れていた。
青草を輝かせながら、南風が心地よく吹きわたってくる。
若者を乗せた
若者は
老僧は、墨の
背中の
少女のほうは、
簡素で清潔な、袖なしの
髪を後ろで結び、背が高く、顔立ちははっきりと、瞳は生き生きとして、おとなしく黙っていても、冗談めいたことを聞いたなら、たちまちに笑いころげてしまいそう。
そうして口元に喜びの予感を秘めながら、木の幹にすこしだけ肩を寄りかからせて、馬を駆る若者のほうを、夢みるようにみつめている。
「知りあいか」
「うん」
少女は嬉しそうにうなずいた。
「次郎さ、って言うの」
「次郎殿か。なかなかの御仁じゃの」
「でしょう?」
自分が褒められたとでもいうかのように、初々しい瞳が隠れもない喜びにきらめいた。
「お坊様、これ、次郎さに渡してくれる?」
と、少女は手巾を差し出した。
洗い立ての清潔な布地が、綺麗に折り畳まれている。
「自分で渡せばよかろう」
「ダメなんだ。会っちゃいけない、口きいちゃいけないって言われてるから……」
「?」
「でも、見ちゃいけないって言われてないから、こうやって隠れてずっと見てたんだ」
「お坊様、よろしくね」
無邪気にそう言って立ち去ろうとした少女を、老僧はあわてて呼び止めた。
「そなた、名は」
「みお」
明るい声で言って、雌鹿のようにかろやかに、少女は駆け去った。
「やれやれ……」と、老僧はため息をついた。
稽古をひと段落して、次郎さ――
「
有常はぎょっとして、老僧を怪訝そうに見つめた。
この場所は、有常の秘密の稽古場だった。
茂りに茂り、うずたかく積もった葛の葉が、緑の壁となって周囲を広く取り囲んでいる。
小川や湿地が入り組んでいて、滅多に人の来ない場所である。
この人は、いったいどこから迷い込んで来たのだろう……。
「まあそう怪しむな。ただの野僧であるよ」
笠の紐をほどき、老僧は笑顔を見せた。
痩せこけて
「『都風』と、
「褒め言葉だ。弓のとり方も、身のこなしも、悪くない」
「……」
「ほれ、次郎どの」
老僧は座ったまま、なにげない様子で手巾を差し出した。
「私の名を?」
思わず有常は警戒し、身をすくませた。
「ははは。『次郎さ、に』と言って、里の娘が置いていったのだ。みお、という……」
「みおが?」
若い
丁寧に礼を言った有常は、手巾を受け取り、そっとひたいに押しあてた。
「貴僧は、いずこからおいでですか」
「ふむ、都にいたこともあれば、高野山にいたこともある。先ごろは伊勢にいた。決まったすまい住処は持たぬ、今日の枕の行方もわからぬ、流浪の気まま者よ」
老僧は笑って、杖を野原のほうへさし向けた。
「この辺りのふところ島というところに、知った人がいる。今日はそこへ、宿を願おうかと思うて歩いてきたが、どうも歩いているうちに迷うてしまった」
「ふところ島の
「ご存知か」
「私はそこに住まいしております」
「ほう、では、ご一門か?」
「ええ……いえ、
有常は言葉尻を濁した。
見ず知らずの者に、いらぬ詮索をされたくない。
「領主の平太殿は、お元気かな」
「殿は……とてもお元気です。貴僧は、殿のお知り合いですか」
「ああ、古い、古い知り合いだ」
「ならば、ご案内しましょう。殿は今、鎌倉におりますから、すぐに使いを出しましょう」
「それは思いがけなくもかたじけない」
頭をさげた老僧の穏やかに両目をつむった様子は、尊像のように清らげであった。
「それでは早速、ゆきましょうか」
せっかちに言う有常に、「じつは、の」と、
「先ほどから
「そうでしたか……。飲み水はございますか?」
「うむ、この竹筒に」
「しばらくお休みください。のちほど、馬でお送りいたします」
「かたじけない。稽古をつづけなされ」
「はい。御名を窺ってもよろしいでしょうか」
老僧はうなずいた。
「
およそ四十年ぶりの、東下であった。
※ 平太殿 …… 大庭景義のこと。大庭平太景義。ふところ島景義。
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