第2話 春驟雨①

 バスから降りるとメジロが桜の枝から飛び立った。

 春、それは別れの季節。

 今までずっと過ごした家からいざ離れるとなると、あんなにも嫌っていたのに恋しくなってしまう。


「さようなら、僕のユートピア」

「は?」


 初老の運転主は、涙ぐんみながら料金を払い訳の分からない言葉を残して降りた僕を見て当惑していた。

 ふふ、戸惑うのは当然だろう。だって、この言葉の意味を貴方は分からないのだから。


「何でもありませんよ」

「はあ」

「どうぞ行ってください」

「……」


 少し気まずい沈黙が訪れた。


「は、発車します」


 バスはまた走り出す。その姿が見えなくなるまで、僕はずっと眺めていた。その間、時折運転手はそっと後ろを振り返りすぐ怯えたようにすぐ前を向いた。


「ま、気のせいだろう……それにしても雨が降りそうだな」

 見上げると黒い雲が空を埋め尽くしていた。今にでも降り出しそうな雰囲気だった。

 僕はバスとは逆の方向へ、スーツケースを引いて急いで歩き出した。

 東京都畑滝村は山梨に近い山間の少し開けた場所にある小村だ。一番高い人工物は山を跨ぐ送電棟。あとはひたすらに田んぼが広がり、民家は見渡す限り片手で数えられる程しかない。


「――寒い」


 天気が悪いとはいえ、標高が高い事もあり、4月とは思えない涼しさだった。厚手のパーカーを着てきたが、それでも少し肌寒かった。

 一度止まり両手を擦って温める。吐き出した息は湯気のように白かった。

 村を横断する川の表面は凍っていた。しかしその下で動く黒い影と、ガードレールの下で芽を開いた黄色いラッパ水仙は春の訪れを感じさせた。

 そんな都会では見られなかった豊かな自然に見とれていると、後ろから爆音の洋楽と共に魔改造されたエンジンのうるさい音が近付いてきた。


「なんだなんだ!?」


 黒いワンボックスカーだった。そして速度を落とさず横すれすれを通り過ぎると、すぐにブレーキを踏んで車体を滑らせた。

 キキキキと、タイヤが道路を擦る音が響いた。それと共に大量の白煙が舞い上がる。

 その様は、ドリフトというよりも昔見たSFアニメ映画のワンシーンに似ていた。


「ゲホ、ゲホ!」


 思わず僕は咳き込んだ。


「いやあすまないすまない! これは、不可抗力だ……うん。 昔攻めた峠を思い出したとかそういう訳では決してないぞ!」


 車から聞こえてきたのは意外にも、女性の声だった。


*


 雨が降り出した。最初は小さな雨粒が車のフロントガラスにポツポツと打ちつけるだけだったが、徐々にその音は大きくなり、降りしきる雨の音が車内に響き渡った。

 車はさっきよりも緑が深い、樹海の中を走っていた。獣道と変わらない状態の道路は、法定速度を優に超えた速さで走ると遊園地のアトラクションのように揺れた。宙に体が定期的に浮かび上がる異常状態に命の危険を感じた僕はドアの取っ手を必死に掴んでいた。


「いやあすまない。 転校生だなんて初めてでつい興奮して」

「は、はあ……」


 乱暴な運転と魔改造された車とは裏腹に、当の本人は浮ついた感じがしない、いたって真面目そうな美人だった。しっかりと着こなしたスーツと絹のように綺麗な黒髪は清楚な印象を与えた。

 当然と言えば当然だろう。なんせ彼女――風音ゆきは畑木高校の校長だ。道路交通法を犯しても、校長だ。


「先生、一ついいですか」

「なんだ、言ってみたまえ」


 校長は変わらず自信たっぷりの目線を僕に向けた。


「前を向いて運転して下さい! なんでずっとこっち向いてんだよあんた!!」

「おっとそれは失礼した」


 車体が大きく左に揺れる。

 危うく森の中に突っ込む所だった。


「先生、あともう一ついいですか」

「なんだ?」

「先に前見て!」

「うむ……」


 不満そうに頬を膨らませた。


「転校生は僕が初めてって本当ですか? その、復学科は多いものかと思っていたので」

 

 苦い記憶が頭に浮かぶ。

 僕の質問に校長は柔らかい目つきで答えた。


「確かに君の言う通り、文科省の想定した復学科は君みたいな転校生が大半になる”予定”だった。 ただ、ここは東京都。 私立なら通信制が、公立なら定時制が山ほどある。 それに畑滝はドが付くほどの田舎だから来たいと思う人間が少ないんだ」

「なるほど」

「――不安か?」


 校長は変わらず前を向いていた。

 思いがけない質問で、僕は少し呆気にとられた。


「……いや、不安だろうな」


 言葉に詰まっていると、先生が代わりに答えてくれた。


「でも君は自分の意志でここに来たのだろう?」


 その問いかけに、僕は首を縦に振った。


「どうしてここに来たいと思ったんだ?」

「――から」

「声が小さい」

「やり直したいと思ったから! だから、ここに来ました」


 大きく息を吸ってから口に出した。最後の方の言葉は弱弱しくなったけれど、先生は終始相槌を打ってくれた。


「よろしい。 その気持ちがあれば十分だ。 ――いいタイミングだな、見えてきたぞ」


 森を抜け、車は僕がいたバス停よりもさらに狭い、そして遥かに標高の高い所にいた。下の集落と同じようにして山に囲まれた平らな土地には、擬洋風建築の建物と二棟の木造アパートが立っていた。



 手入れが一切されてない庭を進むとツタだらけの壁が表れた。屋根にも所々草が生えていた。しかし、この今にも崩れそうな建物は廃墟ではない。


「――これが畑滝高校男子寮だ。 歴史を感じるだろう」

「なんか出てきそうな建物ですね……」

「あはは……」


 先を曲げた針金を器用に鍵穴に抜き差ししながら、校長は自嘲気味に笑った。


「――よし、開いたぞ」


 針金?


「鍵使えよ!! あんたなんでピッキングしてんだよ⁉」

「ああ、中は綺麗だから安心してくれ」

「だめだこの人なんも聞いてない!」


 声を荒げて疲れた僕は、ぜえぜえと息を吐きながら寮に入っていく校長の後に続いた。

 やっぱ大丈夫なのかこの人?


「お邪魔します」


 靴を脱ぎスリッパに履き替える。床はフローリングされていて、外観とは真逆で清潔感があった。


「一階は後で紹介する。 先に部屋まで案内するからついてきたまえ」


 そう言うと校長は玄関のすぐ手前にある階段を急いで上がっていった。

 すると短い悲鳴と共に足を踏み外す音が聞こえてきた。


「うわあああ!」

「大丈夫ですか⁉」


 急いで駆け寄ると、校長先生は両手を手すりにがっしり掴み、傾斜と平行に浮かんでいた。それは体操選手が披露する鉄棒技のようだった。


(いや、そうはならんだろ!!)


「だっ大丈夫だ。 バリアフリーに改装しておいて正解だった…」


 流石に冷や汗を頬に浮かべた校長は、震えた声で言うとゆっくり姿勢をもとに戻した。


「バリアフリー関係ありますか……」



 二階に上がって右側の、一番奥の角部屋に僕の部屋はあった。

 部屋番号は03、ドア横の表札にはしっかり僕の名前が書かれていた。


(ここが僕の部屋……)


 生まれて初めての一人暮らしに僕の胸は高鳴っていた。


「さあ、開けてみろ」

 

 校長先生が僕に針金を手渡した。


「鍵をください」

「ああこれはマスターキーだった。 失礼、君のは――これだ」


 どうやら針金はマスターキーだったらしい。訳が分からない。

 僕は差し出された、今度は本物の鍵を指す。ピタリと鍵穴にはまり、回すと開錠の音が狭い廊下に響いた。

 そのまま僕は扉を開いた。

 開けっ放しの窓から冷たい風が雨粒と共に玄関に流れ込む。畳の上でカーテンは大きく靡いた。

 緑萼桜の白い花びらが目の前にゆるりと落ちた。風に乗って来たのだろうか。僕は何となくそれを拾い上げた。


「……!」


 眼前に広がる光景に、僕は思わず息を呑んだ。

 風が穏やかになり白いベールで包まれた部屋が明らかになると、そこには窓かけで頬杖をついて、儚げに外を見つめる少女がいた。少女の白い肌は桜の花びらと同じ色をしていた。


「何ですか、突然」


 少女の発言に、校長は額に手を当てた。


「何ですか、じゃないよ。 ここはお前の部屋じゃない――こいつの部屋だ」


 背中を押され、少女のすぐ近くに立った。やけに強い香水の香りがした。


「あ、えっと……は、初めまして。 相川雄二です」

「私は星峰碧。 よろしく、相川君」


 星峰さんは立ち上がり、満面の笑みで答えた。

 僕はなぜかその表情が引っかかった。


「――よろしく、星峰さん」

「……うん。 じゃあまた学校で」


 浮かない様子でいる僕を気にせず、星峰さんは駆け足で部屋を後にした。

 ドアの閉まる音がすると、校長は何も言わず星峰さんがいた窓際に向かった。そして物悲し気に微笑んで、溝に溜まった埃を外に掃ってから窓を閉めた。


「――星峰についてどう思う?」


 校長は星峰さんと同じように、外の桜を見つめていた。僕はその姿に星峰さんを照らし合わせ、その時の素直な感想を言葉にした。


「美人だと思います」

「そういう意味じゃなくてだな……」

 僕はハッとなって顔を真っ赤にした。


「はは、やっぱり何でもないよ。 すまんすまん、さっきの質問は忘れてくれ」

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日溜りドロップアウト 鳥宮奏 @eggball

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