日溜りドロップアウト

鳥宮奏

第1話 畑滝高校 復学科

 山間から眩い光が溢れ出す。昔自分がいた場所ならそこら中から人が出す音が聞こえてきただろう、と相川雄二は思った。しかしここは同じ東京都でも山梨県との県境、富士の大自然に囲まれた畑滝村。豊かな緑が広がるこの場所には、鳥のさえずりと風に揺れる草木の音だけが響いていた。


「雄二、陽が昇ったぞ。 雲一つない」

「そうだね」


 畑滝高校男子寮、二階建て木造アパート前の少し開けた空間で雄二はクラスメイトの墨田龍之介と乾布摩擦をしていた。もちろん服は着ていない。

 彼らの吐く息は白い。標高の高さもあって畑滝の朝は冬のような寒さだった。寮の桜を見るまでは、今が春であることを忘れてしまう。 


「ねえ龍之介。 寒くないの?」


 雄二は声を震わせながら尋ねた。


「全く」


 即答だった。

 龍之介は色々と常識からかけ離れている。それは上から下までボディービルダーのように引き締まった筋肉が十分すぎるほどに物語っていた。


「そっそうなんだ。 僕は疲れたから先にやめ――」


 先にやめるね。と言おうとした刹那、龍之介が雄二の両肩をガシッとつかんだ。


「雄二。 痩せたいんじゃないのか?」

「痩せたいよ、そりゃ。でもさすがに――」

「諦めるなよ!!!」


(頼むから人の話を最後まで聞いてくれ!!)


「俺はな、雄二が――友達が豚みたいにプクプクと肥えてくのが見過ごせねえんだ」


 龍之介の目は真剣だった。


(僕の事をそこまで――)


 雄二の視界が滲む。大粒の涙が頬を伝った。

 しかし雄二はそこまで太ったわけではない。500g程度増えたくらいだった。


「ありがとう龍之介。 僕頑張るよ!」


 そう、このダイエット(鍛錬?) には目的があった。それは痩せて、出来たら筋肉をつけて、夏のプールの授業の時同級生の藤崎茜を振り向かせる事。雄二は彼女に好意を抱いていた。


「よし!じゃあまたやりますか」


 雄二は拳を上げて気合いを入れた。


「おう!!!!!」


 龍之介も拳を上げて答えた。

 男達はまたタオルに手を伸ばし、雄大な自然を前に摩擦を始める。

 しかし突然、後ろから蹴りを入れられた。


「何やっとるんじゃお前らーー!!」

「「ぶふぁっ」」


 衝撃で地面に倒れる。見上げると、そこには蹴りを入れた張本人――クラスメイトの楠原葵が今日も上下ジャージを着て、仁王立ちで立っていた。


「ゆっ雄二君大丈夫?」

「藤崎さん……」


 同じくクラスメイトの藤崎茜に起こしてもらう。


「ありがとう、でもどうしてここに?」


 ふふっと笑ってから茜は答えた。


「あのね、朝どんどんどんってドア叩く音がして出たら葵ちゃんが顔を真っ白にして

『寮の前に裸で布を体に押し付ける幽霊が出た!』って言ってきたの」


 茜は身振り手振りで葵の真似をして説明した。


「それで現場に行ったら半裸の僕と全裸の龍之介がいたと」

「そうそう! でもなんでこんなことしてたの?」

「まあ、その、色々と――」

「……?」


 どうしたものか、雄二は答えに詰まった。君を振り向かせるためだなんて口が裂け

ても言えない。


「茜、そいつらに近づいちゃダメよ! 馬鹿がうつるから」


 幸い、葵が茜の間に入ってくれた。


「馬鹿とはなんだ! 俺らは寒中摩擦をしていただけの一般市民だよ!」


 龍之介が立ち上がり近づいてきた。


「きゃあああああ!!」


 茜が顔を手で隠す。葵は顔を真っ赤にして手を上下にあたふたさせた。

 龍之介は裸だった。朝日で大切な部分は隠れているが、それ以外はありのままの自分を曝け出していた。


「どっどこの世界に全裸で寒中摩擦するやつがいるんじゃああ!!」

「ぐわあああ!!」


 龍之介がさっきとは比べ物にならない蹴りを食らう。衝撃で190cmの巨体は浮き上がり、そのまま速度を落とさず寮の玄関扉に突っ込んだ。


「龍之介―!!」


 衝撃で扉は木っ端微塵に壊れた。


「あそこまでしなくてもいいんじゃないかな……」

「大丈夫よ、生きてるから。 たぶん」

「たぶんって何だよ!?」


 その時雄二はハッと気が付いた。葵が誰にも語らない――彼女が昔日本代表に選ばれる程の実力を持っていたスポーツが何であるかが分かったのだ。


「龍之介に食らわせた拳の尋常じゃない威力――もしかして、葵が昔やってたスポーツって相撲?」

「どっどうしてそうなるんじゃああ!!」

「ぶふあああ!!」


 龍之介と同じように強烈な拳を腹に食う。浮き上がった体は龍之介と同じく玄関に突っ込んだ。

 すると男子寮の入り口奥から、熱い男の声が聞こえてきた。


『相撲!? 相撲と言ったか???』


 葵は深いため息を吐いて、茜はやれやれと頭に手を当てた。


「まーた馬鹿が来たよ……」

「はははは! 青春じゃないか!」

「どんな青春よ!?」


 扉を蹴り飛ばし、スーツ姿の男は表れた。それと共に、突っ込んできた僕と龍之介が外に投げ出された。


「雄二、龍之介。 女子に負けるだなんて情けないなあははははは!」


 男は雄二と龍之介を指さしながら、いつも通り大きく背中を後ろに沿って笑った。


「うるせえ怪力サイコ野郎!」

「先生、僕たちが今投げられた意味ありましたか!?」

「敗者に口出しする権利はなああああい! さあ葵、相撲を始めようか……」


 そう言うとスーツ姿の男――数学教師の竹道拓斗はブレザーを脱ぎ、ネクタイをほどいた。

 茜は顔を真っ青にしてウサギのように葵に飛びついた。


「葵ちゃん、あの人多分相撲を地下格闘技と勘違いしてるよ! 絶対やめた方がいいよ!」 

「――てきた」

「え?」

「燃えてきたじゃないの!!」



 あの後、乱入してきた竹内と葵は相撲ならぬ総合格闘技を始めた。しかし決着がなかなかつかず、泥沼の戦いとなった最終盤。


 「――やるじゃないか、葵」

 「ふんっ あんたもね」


 まだ両者に言葉を交わす余裕はあったものの、疲れで大粒の汗を流し服はボロボロになっていた。


 「私たちは何を見せられているんだ……」


 少年漫画のような戦いが繰り広げられる中、残りの三人は置いてけぼりにされていた。


 「これで最後よ」

 「了解だ」


 葵は構えた。竹中はピクリともしない。


 「先生動かないの?」

 「もう疲れちまったんじゃねえか?」


 そう言う間も竹内は一歩も動かずに二本の足で堂々と立っていた。自分と龍之介をダンベルみたいに持ち上げられる男がスタミナ切れで負ける訳がない、と雄二は思った。

 そしてハッと気が付いて竹中を見た。


 「いや違う――受けるつもりなんだ!」


 雄二の視線の先、両腕を組み悠々と立つ竹中の視線は確実に葵の目を捉えていた。


「そんな無茶な!?」

「やっぱあの人頭おかしいよ……」


 驚く外野に無表情だった竹中は口元を歪めた。


「来い! 葵いいいいい!!!」


 葵は助走をつけてから地を強く蹴り、浮きあがった。


「速い!」


 雄二は叫んだ。

 瞬き一つ程の短い間に彼女は宙を舞っていた。そして蹴りの体制にすぐさま切り替えると竹中を目掛けて一気に降下した。


「舐めるなああああ!!!」

「なんてな、受けるだなんて死んじまうわ――あ」


 竹中は組んだ両手を下ろし迫りくる葵目掛けて走り出そうとした。しかし、前に出した右足を踏み外してしまいバランスを崩した体は顔から地面に突っ込んだ。


「ぐへっ」

 

 その上に葵が乗っかり衝撃で竹中は情けない声を出した。

 

「最低だ! しかも醜い手使っといて負けたよ!」

「あんなのが俺らのセンコーかよ!?」

「教え子に暴力振るってる時点で教師失格だよ……」


 外野三人は自分達の教師の醜態に阿鼻叫喚していた。


「やった…… 私竹中に勝ったんだ! やったーー!!」


 他が冷めている一方で、戦いに勝った葵は拳を高く上げる程嬉しそうだった。



「それで、朝から相撲ならぬ格闘技大会をしていたと」


 腕を組み、椅子に深々と腰かけている凛とした女はそう言うと深いため息を吐いた。

 畑滝高校三階の校長室には、朝の騒ぎを起こした生徒四人と教師一人が集められていた。それに対峙するのは校長の風音ゆきと、教頭の大原美咲。

 この部屋は陽当たりが悪く薄暗い。加えて突然振り出した雨で、この場には妙な緊張感が漂っていた。

 数秒の間。部屋には窓ガラスに当たる雨の音だけが聞こえた。

 その沈黙を最初に破ったのは竹中だった。泥だらけだった服からいつもの綺麗 なスーツ姿に戻っていた。


「――校長先生、お言葉ですがこれは相撲でも格闘技でもなく青春です」

「話がややこしくなるから貴方は黙ってて」


 置物のように校長の横で立っていた大原は表情を一切変えずに淡々と口にした。


「はい」


 また静寂が訪れる。置時計の秒針が刻む音が響いた。

 そして風音はようやく重い口を開いた。


「いいか、早起きは良い事だ。 乱れた生活習慣を正す良い試みだ。 ただ龍之介」

「はっはい」


 女王の冷たい視線に龍之介ははっと怯えた。


「――服を着ろ」

「肝に銘じます……」

「当たり前よ……」


 しょんぼりとした龍之介を見て葵はむすりと答えた。すると女王は葵に視線を向けた。


「葵は売られた喧嘩を買うな」

「心しておきます……」

「あはははは! 喧嘩はいけないよな楠原!」

「そうだよ先生の仰る通りだぜ!」


 調子を取り戻した竹中と龍之介はそう言うと大きく体を後ろに反って高笑いをした。


「あんたたちがその原因だろうが……」


 そう言った葵の頬はピクピクと震えていた。


「まあまあ、葵ちゃん落ち着いて……」

「藤崎さんの言う通りだよ。 今は落ち着いて?」


 茜と雄二が間に入る。


「お願い、葵ちゃん」

「うう…… 龍之介と竹中はすっごく頭に来るけど茜と雄二がそう言うんなら」


 葵は襲い掛かる事無く動きを止めた。


「いいか諸君。 仲が良い事は結構だが、あくまでも学業優先だ。 よって遅刻は厳禁。――分かったか?」


 はい、と五人は返事した。その声は皆バラバラで葵はまだ少し不満そうだった。

 よろしい、とそれに答え風音は話を続けた。


「ただ “復学科”の諸君がこうして――曲がりなりにも学校生活を謳歌してくれるのは大変喜ばしい事だ!」


 風音は満足そうに顔をほころばせた。大原もさっきまでとは違う優しい目をしていた。

 あはは、と言って茜は照れくさそうに頬を掻き、葵は顔を赤らめて変わらずそっぽを向いていた。龍之介は普段の調子で、はいと大きな声で返事をし、雄二は目をしょぼしょぼさせて涙を堪えた。


「節度を弁えてこれからも元気に生きてくれ。 では竹中以外は解散!」

「僕は残るんですか!?」

「実質あんたが元凶だから当然でしょ?」

「葵ちゃんの言う通りだよー!」


 ぷーっと頬を膨らませて茜は言うと他の三人と談笑しながら部屋を後にした。



 嵐の後のような静けさがまたこの空間に訪れた。


「もう一年か」


 生徒たちの靴音が聞こえなくなると、校長先生は懐かしそうに窓の外を見ながら呟いた。教頭先生は用事で外に出て、この場には私と彼女の二人しかいない。


「あっという間ですね」


 本当に、年を取ると時の流れが速く感じる。でもこんなにも一年も前の事がつい昨日の事のように感じるのは、生徒たちと過ごした日々が充実していたからに違いない。


 「あの子たちは困難を乗り越えた。 それは私達には想像もできない程に辛く苦しい道のりだったに違いない」


 私は頷いた。

 コーヒーに伸ばそうとした手を引っ込めて、私も校長と同じ窓の外――雨風に揺れる桜の木を眺めた。


(そういえば……去年の今もこんな天気だったな)

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