第10話 魔女と魔女裁判と・・・

 ここのところ重厚にすら思えてならない黒縁眼鏡をクイっと上げる女の子、阿武隈は壇上に立つ。

 

「皆さん、ご静聴を!先日、東郷先生から“七不思議“について詮索するな、と指導された我々ではありますが、教室での大胆不敵な犯行声明、東郷先生の杖の取り替えに引き続き、化学部や園芸部でもイタズラが発覚したようです。私、阿武隈一年学級委員長はこれを由々しき問題であると受け止め、ここで学級裁判を執り行うべく提案を皆さんに問いたいと思います。賛同の方は挙手を!挙手をお願いします!」


 またも鼻までずり落ち、再びクイっと持ち上げられる黒縁眼鏡。

 学級委員長阿武隈の熱の籠った演説に対し、挙手をしたのはただ一人、「はい、はい、はーい!!」と吹雪だけだった。

 阿武隈は実に不服そうに教壇机に手をつき、眉を顰めている。だが、不意打ち同然の意見表明に近かったのだから惨憺たる惨状になるのも摂理だ。民主主義とはいつだって突然に執り行われる解散総選挙のようなものではなく、成熟した議論と頭のおかしな自然法論者を廃した基盤の上に成り立つのである。


(……それに、お昼ご飯あとのポカポカタイムに教壇でマジメ腐った黒縁眼鏡の講演会など。きっと生徒諸君にとって毒でしかないだろう)


 案の定、化学部員の響なんかは早々とゲーム画面に視線を戻している。

 なし崩し的に“友達”となっていたアリスも机を隣にしている私にもたれかかって涎を垂らしている始末で、さらさら聞く気などないのだろう。座席が近所とあって世間話をしていた赤城も困惑を露わにしながら閉口している。皆、皆、私を含め、似通った反応だった。

 それら沈黙をどう捉えたのかは阿武隈本人にしかわかり得ないことだが、気には障ったらしい。


「皆さんは当事者意識が足りないのです!平和ボケです!いいですか、法と秩序を乱す行為はすべからく律されるべきなのです!お絵描きバンクシーは心揺さぶる絵を描けども犯罪です!天下の泥棒ネズミ小僧も義勇があれども犯罪!トムもジェリーも仲良くとも喧嘩しちゃ犯罪なのです!此度のイタズラの首謀者は我々の平穏無事に学校生活を送る権利を蔑ろにし、壊し、弄び、嘲笑う犯罪者!しかるべき処分がとられるべきです!」


 ふんす、と、言いたいことを言い終えた阿武隈は黒縁眼鏡を両の指で支える。

 ふんす、じゃあないのだが。論理論法が極端な子だ。“我々の権利”とは察するに学生手帳第一ページ前項の権利宣言のことだろうが、個人的な実定法主義的思想の如何はともかく、バンクシーしかり、ネズミ小僧しかり、まるで共感に繋がらないじゃないか。トムとジェリーに至っては人間じゃないし。

 はーい、はーい、僕もそー思う!と羽虫の羽音の如く鬱陶しい吹雪はともかく、賛同者が現れるとは到底思えないが、、、


「いいと思うなー。私はさんせー」


 ……しかし、何がどうして。

 ……賛同者が現れてしまうのだ。

 賛同の意を表明したのは化学部員の暁だった。

 食えない人間性は表皮の裏に隠匿され読み取れそうにない。口端をやや不自然に上げる暁は、「実は私もすっごく気になっていたの」と腰掛ける車椅子をギシギシ鳴らす。

 

「コンゴウにはもう話してたっけ。七不思議、まだいくつか残ってるけど、最後の一つは魔女の正体なんでしょ?だったら、私たちは魔女の正体を暴かなくっちゃ負けってことになっちゃう。だから、やろうよ。ううん、やるべき」


「……やるべきって、学級裁判を?」


 我ながら、小賢しい勘が働き、発言する。

 彼女が提案するのは文字通りに、“学級裁判”なのだろうか。

 もっと禍々しく、おどろおどろしい“なにか“ではないのか。

 まさか数いるクラスメイトの中でも私に噛み付かれるとは思っていなかったようで暁はふと瞠目するような様子を見せるも、すぐにニヤリと口端を釣り上げ呟くように宣言するのだ。それはもう、実に楽しそうに。実に愉快そうに。


「もちろん、“魔女”裁判を、ね」


 魔女裁判。

 魔女裁判。

 魔女裁判。

 これほど、これほどまでに、黒猫を不愉快にさせる言葉があっていいものか。

「そういうことをすんなって意図の東郷先生の話だったの、わからないのかな?」と語気を強めるも、「あら、意外。テレスってそんなお利口さんの優等生だったっけ?」といなされてしまう。


「山田さんには悪いけど、僕も暁さんを支持しよっかなぁ。僕から提案しようと思っていたほどだよ。魔女の正体、気になるしねぇ!」


「私は元より同意しています。むしろ私に加賀さん暁さんが同意しています。元を辿れば私の案です!名称をいじっただけじゃないですか!学級委員長の威厳を奪わないでください!」


 暁に続き、加賀、阿武隈も同調を示す。ギャルの五十鈴も「おー、じゃ私もー」と。

 魔女裁判。魔女裁判。魔女裁判。臓物を捻り搾り取られるかのような吐き気を覚える単語だ。それも目的の趣旨は娯楽や好奇心のため。

 歴史を慮る聖人でもなければ、権利を勝ち取ってきたことを自負する活動家でもない私だが、しかし、これだけは到底許諾できない。

 阻止せねばならない。“魔女”の正体が白日に晒されることは、断じて。

 断じて。

 断じて。

 ……いや、いや、待て。そもそもどうして“魔女”裁判を率先するのだ。

 ……阿武隈は名称を弄っただけというが、いや、根本が違うじゃないか。


(……どうして、“犯人”探しじゃないんだ?)


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「くだらん!」


 健全な民主主義とは、えてして否定から始まるものなのかもしれない。

 阿武隈学級員長の提案を真っ向から批判するのは、腕白な男子生徒の武蔵だった。


「よっぽど派手な手口のミステリだったなら探り甲斐の一つや二つもあっただろうが、姑息というか、こんなしょっぱいイタズラごときに時間を潰せるほどわしゃは暇じゃないじゃ!くだらん!それに部活もある。頭でっかちのくだらん享楽に付き合う義理などありゃせんぞ!」


 頭でっかちとは、おそらく阿武隈のことか。

 なるほど、阿武隈学級委員長がグギギと歯軋りを立てるほどには正論なのだろう。

 追随するように、武蔵の隣にいた大和も「あ、オレもパスで」と言い出す始末だ。


「この馬鹿に賛同ってわけじゃないんだけど、それ、放課後とかも時間使うだろ?無理だね。オレも部活あるし。あと今日からってんなら話にならないな。顧問がラインパウダーを買い足し忘れていたらしいから、先輩とホームセンターにまでチャリで買い出しに行く羽目になったし。やっぱ、パスだな」


 馬鹿と馬鹿にされ「誰が馬鹿じゃ!」と憤慨する馬鹿はともかくとして。

 私はどう動くべきなのか。

 実を言えば、状況が飲み込めていない。当初は“犯人”を探りあてる予定だったのだが、なぜだかクラス内の空気の流れからして“魔女”の摘発にシフトチェンジしてしまっている。うまく“犯人“だけを絞り込めればいいのだが、かといって“魔女”についての核心を踏みぬかれれば本末転倒だ。

 とはいえ、このまま犯人の行方が掴めず“魔女”の悪行とやらを暴露されてもマズい。

 最低限、疑わしき被疑者を選定するためにはクラスメイトとの対話が不可欠だろう。

 ……と、私が刻々と迫る昼休憩終了のチャイムに気を張りつつ思案を巡らせていると、


「……あ、あの、……やっぱり、私からもお願い。二人の話も聞きたいの」


 おもむろに立ち上がり、反対派の二人を宥めたのは意外な人物だった。

 園芸部の赤城だ。


「……やっぱり、だめ、かな?忙しいよね。ごめんね」


 目線を下にし、俯く赤城。自分でもあまり分のいい要求ではないことはわかっているのだろう。なんせ賛成組にただ一人自分が加わっただけなのだから。故に無理強いの姿勢は取らない。実際、「いや、でもな。こっちも先輩との約束があるし、」と大和は逡巡する様子を見せている。相方の武蔵も大和と共に要求を断るだろう、そう思い私も大和も武蔵に視線を向けると、武蔵は大和を一瞥するとふっと鼻で笑って見せていた。


「そうか、そうか。あいわかったぞ赤城。わしゃは乗った!このクズと違ってな!」


「……なっ、テメェ!」


 清々しいほどの裏切り。即決。即決である。

「女の頼みだ、断れん!」と昭和の江戸っ子節を炸裂させる武蔵。のわりには阿武隈学級委員長の提案をバッサリ切り捨てていましたけどね、貴方。要するに中学生にしてはわかりやすい下心もあるのだろう。赤城も罪な女の子だ。

 とうの赤城も快諾してもらえるとは思っていなかったのであろう、目を丸くしていると、


「あー、あー、わかった!ホームセンターの約束は後日に改める!だけど部活もあるからな!そこんとこちゃんと配慮しろよな!」


 結果、阿武隈学級委員長の提案は受け入れられる空気感となる。ゲームに没頭している様子の響や、爆睡をかましているアリスなどの無投票者はものの数にも入らず、私のようなごく少数意見は数の力に沈められ民主主義は実行されるのだ。

 つまり、魔女裁判は執り行われる。もっとも、時期は未定、解決手段も未定、なんなら犯行手口もろもろわかっていない状況であるが。

 しかし、妙なことの多い昼休みだ。さっきだって。そう、誰が見たって妙なのだ。

 どうして、赤城は急に“魔女裁判”の話に乗り出してきた?


(……赤城も、それに暁も、何を目論見なんだ、いったい。くそ、わからん)

 

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 転校初日から一ヶ月は経過しただろうか。

 六時間目の今はグラウドにて体育の時間。

 好きでも嫌いでもない教科であるが、体育教師(数学など他教科も兼任している)がゆるゆるな雰囲気を許してくれているものだから、その分厚い厚意に甘えないわけにもいかず私は残暑を凌ぐために木陰で足を伸ばしていた。

 他の生徒ものびのびと体育に励んでいるようで、暁なんかは読書を嗜み、怒れる阿武隈の発声運動に付き合っている。

 一方、体育会系の部活動に所属する武蔵と大和はラインパウダーを赤い牛車のような器具を使いラインを引いている。

 横幅は100mほどだろうか。ピシッと伸びたメジャーの上を同じように沿ってラインを引いているはずなのだが、一方武蔵のラインはどうにもガッツリ傾いてしまっており、他方大和のラインはピンッと見事に一直線だ。性格が遺憾無く出ている線引きである。


(……“魔女”裁判の決定日からかれこれ数日、あれから七不思議は発見されていない。このまま停滞してくれればいいのだが、)


 自ずと七不思議の犯人探しの熱気は下がってしまっている。

 のめり込みやすく、飽きやすい。中学生は幸か不幸か単純だから、これが条理である。


「おい加賀ぁ!お前もライン引け手伝えや!働けや!くつろぐなや!」


 そういえば、ここ数日で大まかな人間関係がわかってきた。

 意外だったのが、化学部員の暁の交友関係だ。田舎特有の閉鎖的コミュニティは繋がりが広く深いと聞くが、彼女のコミュニティはまさにそれだった。それこそ、アリスや私のような超アナログ主義者を除くクラスメイトのSNSアカウントを共有しているだけでなく、どうやら他学年とのつながりもあるらしい。なんなら昨晩は赤城ともネット通話をしていたそうで、女子界隈において暁という人物は中心に近い地位にあるのだろう。

 一方で、男子生徒同士の溝はどうも深い。とかく、運動部員と加賀の相性はよろしくないといえよう。


「えー、やだよ。紫外線をモロに浴びちゃうじゃあないか。肌が焼けてしまう……」


「は!?知らんのだが!?てか、太陽光で肌が燃えるってのか?お馬鹿なんじゃねぇの!?」


「馬鹿というか俗物だよねぇ、君は。これだから肌美学のハの字も知らない輩は困っちゃう」

 

「あぁ!?」

 

 まさしく売り言葉に買い言葉。青筋をくっきり浮かばせる武蔵はわかりやすく自身の道理に従わない加賀に苛立っている様子で、加賀も飄々としながらも確かな喧嘩腰である。それらを嗜めるのは、はぁ、と深いため息を吐く大和だった。


「……おい武蔵、アイツに力仕事をやれって言ったって無駄なことぐらいわかってんだろ。喋ってないで手を動かせ。あと、お前はいい加減真っ直ぐ線を引けよ。たぶんそれ100メートルちょっとオーバーどころじゃねぇぞ」


「いいや、黙ってらんねぇ!わしゃ曲がったことが大嫌いなんだ!特に!人が汗水垂らしている横でなんの気苦労もしなさそうなヤツとかな!加賀、オメェは前々から気に食わなかったんだよ!女ったらしなところもそうだが!女ったらしなところもそうなのだが!!オメェは他人を使うことばっかり考えているように見えてならん!ほら、さっさと働け、キビキビ働け、ラインを引け!」


「ふん。曲がったことが嫌いな割には、その線、すっごく曲がっているように見えるけどねぇ」


 ただでさえ理性の歯止めがゆるゆるそうな武蔵だったが、いよいよ堪忍袋の緒が武ちぎれたのだろう、加賀に詰め寄る。それを、おいおいやめろ、と肩袖を引っ張り仲裁する大和なのだが、加賀も加賀でガンを飛ばしており雰囲気はさながら一触即発の様相であった。

 数秒の静止の後、結局は鼻をフンっと鳴らし、武蔵は不完全燃焼ならが線引きに戻った。

 相当イライラが募っているのだろう、引いた線は先ほどよりもずっととヨレヨレだった。


(……いやはや、青春を見てしまった)


 猫はいつだって傍観者である。傍観者こそ猫である。

 干渉することなく他人を他人事として見ているだけ。

 だからこそ、密かに希うしかない。どうか、どうか、アリスと私には面倒を押し付けないでくれ、と。どうか、私たちと距離のあるところでアホな人間のアホな行動で笑わせてくれ、と。10メートルやそこらの別世界の出来事も、起承転のあと、終わり煮え切らない結までいったところで視線を外す。

 悠々自適な木陰ライフに戻ろう。

 授業終了時刻まで、もう一眠り。

 ふぁー、とひとあくび。終了のチャイムまで、この換毛期の抜け毛のように散り散りに散る枯れ葉を指先でいじくりながら待つとしよう、そんな心持ちでコオロギの鳴き声に耳を傾けていると、


 ……ポンポン。


 背後から肩を叩かれる。アリスだろうか。いや、アリスにしては些か遠慮気味で、人のことを慮った力の配分だ。

 あいつは、あれだ。バンバン!!だ。たまに骨が軋む。

 しかし、だったらこれは何者なのだろう、と振り向く。

 ……そこには“ギャル”がいた。

 ……“ギャル”がいたのだ。ギャルの五十鈴だった。


「ねー、山田さんさー。あーしら、マジ仲ビミョウじゃんね。ちょっとツラ貸してくんね?」


「……ちょっと、ツラ、を?」


 ……なるほど。意訳するまでもなく、「おうおうネェちゃん」案件じゃないか。

 なるほど、なるほど……。何かしでかしたかな?うーん。政治家並みに記憶になさすぎる。……ところで、唐突だが、みなさんはクラウチングスタートのメリットをご存知だろうか。クラウチングスタートとは、On Your Markでお馴染みのアレのフォームのことである。猫時分、私は人間のその奇妙奇天烈なポーズに失笑していたものだが、聞けばアレは重心を水平に保ち初速を上げるための理想的な状態を作り出すフォームであったらしい。

 ……さてさて、体育の時間だ。体育の時間とあれば、あれだな、走らないとな。

 私は一も二もなく、白線の上を駆けた。


 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「……ぷっ、うひひwww、ひー、ひーwww。マジ笑った!山田さん、走れんだねーw」


 ゲラる五十鈴。ニッと意地の悪い笑みを浮かべながらも、冗談だとわかる口調で私を小馬鹿にする。

 世渡り上手がすぎる女の子だ。将来が明るく、大変不安である。

 いや、しかし、このギャル、私を何だと思っているのだろうか。まったく。猫科の私はその気になれば人間の全速力よりもずっと速いんだぞ。人間風情が舐めてもらっちゃ困る。


「もぉー、めんご、めんご!そんな睨まないでよー、びっくりさせちゃったねーw」


 おい、ちゃんと、ごめん、って謝れ馬鹿野郎。めんご、ってなんだ馬鹿野郎。

 現在、六時間目の体育も終わり、放課後。久しく覚えなかった肌寒さ、刈り取られた稲穂、秋の到来である。

 回想すれば、六時間目の体育の時間、グラウンドにて。追いかけ回され息のあがった私に対し、追いかけ回し汗だくの五十鈴の会話内容は私の思っていたような物騒なものではなく、“交友会”の提案だった。曰く、「ぜー、ぜー、……よ、ようこそウェルカムパーティーはいかが?」とのこと。


「ふーwwwいやーね、そういやさぁ、イタズラの件とかいろいろあって山田っちの歓迎会できてなかったなーってね。やらんとダメっしょ!」


 そうか、やらんとダメなものなのか。なにぶん俗世に疎いもので知らなかった。

 とりあえず、私は二つ返事でこの誘いを承諾した。もっとも私のためではない。

 困ったもので、私以上にクラスメイトから歓迎されてほしい当家のおてんば娘は常時蚊帳の外だ。社交場の用意をしてやる必要がある。とうの本人、ニッコニコなアリスちゃんは私とのイベントごとに深く興味を示されており、食い気味で「行く!」との参加表明を頂いた。

 常時の三割増しで私の腕に絡みつくアリスさん。先走って湯たんぽを抱えている気分だ。いや、湯たんぽにしてはコイツは手がかかりすぎるな。


「あれ、テレスって転校生なんだっけ。溶け込みすぎてて竹馬の友って感覚だったよ」


「……暁ちゃんも歓迎会やろーって言ってたくせに。あ、五十鈴さん、山田さん、……あと西田さん、今日は楽しい会にしようね」


 一階廊下、見渡せば五つの影が伸びている。アリスに私、ギャルの五十鈴に加え、科学部の暁と園芸部の赤城のものである。

 交友会の参加メンバーはこの五人、女子のみである。

 故に労働力を欠いた私たちは暁の介護に手を焼くだろうと思っていたが、五十鈴は慣れたもんだと言わんばかりに車椅子を階下へ運び、赤城はその背に暁をおぶる。あぶれた私もサボっていたわけではなく、ちゃんと応援というか、監視というか、傍観というか、なににせよ極めて重大な職務を全うし、ことなきを得て現在に至る。……いや、ね、あれもこれも腕にまとわりつくアリスちゃんが悪いのです。私は悪くない。私は悪くない。

 ちなみに吹雪は女子判定されていなかったらしい。

 よかった。その共通認識だけで仲良くできそうだ。

 あいつ、まるで可愛くなから。

 一方、モノホンの女子である阿武隈は既に帰宅した後だった。彼女にとって帰宅部員であることに一種の誇りでもあるかのように、イタズラに関する情報収集、もとい、この世で最も停滞した会議の日を除き、彼女は徒歩以上ダッシュ未満の勢いで帰宅するのだ。

 

(……とっても生きづらそうで、将来優秀な子なこった)


 これは皮肉じゃない。心の奥底から湧き出る賞賛だ。周囲の目を見ながらでも邁進できる子供、他人の評価を気にせずいられる子供、それでいて絶対的な自分の指標がありながら、それでいて社会規範にひどく逸脱するわけでもない子供。きっと友達にはなれないだろう。だが、素直に憧れる。

 とはいえ、これは彼女に夢を見過ぎなのだろう。そこまで阿武隈は考えちゃいないはずだ。

 けれども、だからこそ、こうはなれないとも思う。

 だから、私は、アリスに彼女の生き様を教えない。


「……西田さん、こういうのに来てくれるんだ。……今度から誘ってみよっかな」


「……そりゃいいね。どんどん誘ったげて」


 そうは言ってみるものの、まぁ、難しいだろう、そう心根では呟いてみたり。赤城にはなんとしたって頑張ってほしいところなのだが、私が手を加えれば加えるほど本末転倒な気がしてならないのだから事態はどうにも詰んでいる。いやはや、どうしたもんか。


「……で、えーっと、交友会って何をするの?」


「え、そりゃ、女子五人集まればお菓子作りっしょ。基本じゃん?」


 飄々と答える五十鈴。そうか、基本だったのか。寡聞にして存じ上げなかったのだが、すると、そんなものが基本ならば応用は一体何になるのだろうか。超お菓子づくりとかかな。

 しかし、お菓子作りとな。ゆるふわでワクワクあげあげな雰囲気なところ水を差したくはないのだが、、、


「……まぁ、家庭科室って言われた時点でレッツ・クッキングなのは察してたけど。……ここですんの、マジ?」


「……ホコリまみれ、だね」


「……火元使うってだけなら、別の会場を用意してもいいんじゃないの?」

 

「……一応、その、火元の許可を得られるのは家庭科室だけだから、ね」


「化学部の先輩曰く、ここの家庭科室、夏休み前どころか丸一年以上使ってないんだってさー。人がちょっと入らなくなるだけで教室ってこんなことになるんだねー。なんか、退廃的っていうか、諸行無常って感じだね!」


 後半何言ってんのかわからん暁はともかく、絶句する赤城の様相はそのまま私の心情描写で同情する。

 横目で把捉する五十鈴は、にははー、そだねー、と笑っているだけで心が読めない。

 ちくしょう。まさか掃除をやらせるために呼び出したんじゃないだろうな、このギャル。交友会とはなんだったのか。拘留会の間違いじゃないのか。これを横暴と言わずしてなんなのか。やっぱりギャルは信用できない。やはりおうおうネェちゃん案件だったのだ。私も私でのこのことついてくるんじゃなかった。いや、悔やむのは後だ。目下、やるべきはギャルの毒気にやられないようアリスを逃さなければ、、、

 

 ガチャガチャ、ガチャ。


 そんな折りだった。施錠された家庭科室のドアに手を伸ばす生徒がいたのだ。

 いや、生徒だなんて呼び方はよそう。まさか、まさかの、アリスだったのだ。


「……何やってんの?」


「え、いや、テレスこそ。掃除、するんでしょ?しないの?」


 ……………………。

 …………は?……え、うそ?


(……あのアリスが。……自分の部屋すら碌に掃除をせず私に丸投げをするアリスが、……自ら率先して掃除を?)


 これは、……これは、成長なのではないのか。

 やっと、……やっと、芽吹いたのではないのか。


「……おい、……おいおい、野朗ども。間違えた、女郎ども。何をボサッとやってやがる、さっさと取り掛かるぞ」


「……え、山田さんキャラ違うくない?どうしたの?」


 キャラが違うだと?赤城、君は私の何を知っているというのだね。私の、この、手塩にかけて育ててきた愛娘の成長に立ち会って高揚しているこの愛猫心の何がわかるというのだね。あと肩を震わせて笑うんじゃない暁。ゲラるな五十鈴。


「ぷwいひひひひひwwwやーっぱり山田っちは面白いねーwwwで、どんな感じで掃除していこっか」


 そんなもん、決まっておろうが。


「……この指示待ち人間どもめ。たいてい掃除なんて掃いて拭いて磨きゃキレイになるもんでしょうが!」


 ……と、息まき始まったお掃除の会。

 ……あとあと思い返しても、この時の私は少々舞い上がりすぎていたかもしれない。


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 フロアブラシを片手に、また片手で胸元の襟を扇ぐ。暑い。とにかく暑い。

 湿度の高い暑さに、じんわりと水玉の汗が滲み出る。

 入学の歓迎会にボランティア活動をさせるとは斬新なアイディアだな、と皮肉たっぷりに嫌味をぶちまけたい思いは山々だが、誰を隠そうこの私が乗り気になってしまったのだからもう引き返せない。いいや、しかし、後悔はないのだ。黙々と、着実に、ホコリをハンディモップで払うアリスの姿にひとしおの感情を覚える。

 どことなくぎこちないが、けれども真剣な眼差しだ。


(……とはいえ、動機はきっと“私のため”の交友会だから、なんだろうなぁ)

  

 本音を言えば、友達のため、なんてのは欲張りすぎか。

 遠回りながらも前身の吉兆を拝めているのだからよしとしよう。

 ただ、それとは別にいささか晴らせない疑問がある現状である。


(……俗にいう空気の読める五十鈴という少女が、なぜこんな形の歓迎会を執り行おうと思ったのか)


 やはり、思えば思うほど妙なのだ。彼女だったらば、これは五十鈴という少女を過信しすぎなのかもしれないが、もっと器用に立ち回れると踏んでいたのだが。別会場に移るなり、別の催しごとにシフトチェンジするなり、なんなり、代替案を画策できる人物だと思っていたのだが。

 そんなもんなのか。

 いや、しかし、だ。

 模範的とも思える教師との現代的な関係性の締結と維持。

 孤立気味だった転入生の私に臆せず声をかけられる胆力。

 いわゆるコミュ力お化けが、このような初歩的なミスを犯すとは思えないのだが。


(……まぁ。考えていたって納得する結論が思い浮かぶわけでもあるまい。所詮、他人事なのだから)


 ……にしても、どうしてここまで汚いのかね、この家庭科室は。

 その程度を言い表せば、歩けば上履きの靴跡がくっきりと床に浮かび上がるほどのホコリの積もり具合である。

 ひとつモノを動かせば、動かしたモノの跡も、デキの悪い砂絵のように残ってしまう。

 どうもここから見渡す限り、ここしばらくで何かモノが動かされた形跡はなさそうだ。

 けほ、けほ、けほ、……。まったく、神聖な食事処に対する意識が低いのではないのか。掃けば塵取りに収まらず舞い上がるホコリに肺をおかしくしそうで堪らず窓を抉じ開けた。


「……なんなの、この学校。家庭科の授業ないの?ホコリ食ってんの?」


「……家庭科の授業、あることにはあるんだけどね」


 私の悪態に赤城が申し訳なさそうに事情を説明する。


「……お料理を教えられる先生がいないんだって。生徒の数も少ない分、ほか科目と兼任している先生ばっかりだから。けどね、お裁縫が得意な先生がいるから、もっぱら私たちの家庭科の授業はお裁縫なんだ。先輩も、そのまた先輩も、全学年お裁縫。だからうちの学校、みんなエプロン作れるんだよ」


 赤城は少し誇らしげに、誇らしげな自分に恥ずかしげに答えてくれた。

 そうか、エプロンを作成する授業があるんだな。そうか。そうなのか。

 で、それはそうと、エプロンの完成形を私見せてもらってないんですがねアリスちゃん。で、もしかしなくとも、数ヶ月前に持って帰ってきた得体の知れない布切れで今やお風呂上がりのバスタオルとして活躍されているアレはエプロンだったりしますよねアリスちゃん。


「ふふふ、とっても楽しい授業なの。そこらの既製品持って提出したら、いいデキだね、って褒めてもらえるもの」


「……いつかバレると思うよ、暁ちゃん」


「えー、あーしもおんなじことしてんだけどウケるwww」


 ウケねぇよ。ちゃんと作りなさいよ。親目線、そういうのなんだかんだ大事にするんだから。

 談笑しながらも台に置いたバケツで雑巾を洗い、絞り、動ける連中に渡す暁。その雑巾を受け取り窓枠の掃除に勤しむアリス。実を言えばもっと対局というか、床やらキッチンやらコンロやらを綺麗にしていただきたかったりするのだが、学友との共同作業現場に立ち会えるだけでもヨシなのだ。

 思い出とは、後生大事にするはずのものなのに、たいていハナカミのように使い捨てされるのだから切ない。

 その点で、後悔なんかよりもずっと悪質のように思える。


(……ん?)


 と、アリスの穴埋めではないが、大雑把ながら床掃除に従事と奇妙な跡があることに気づく。

 一つ、二つ、三つ……な具合で、その跡は連なっているのだ。

 なんだこれ。


(……足跡?)


 普通の足跡ってんなら私だって見向きもしないのだが、これ、私よりも数センチ大きいようだ。他四人も私と足裏のサイズにそう差異はなかったように思うのだが、するとこれは誰の足跡なのだろう。足跡に積もるホコリの具合からして昨日今日のものではなさそうだが、昨年一昨年といったものでもない。

 ……これ、誰のだ?……いや、何人も候補はいるんだから考えるだけキリがない。

 ……もっと端的な疑問がある。例えば、……これはどこに行きたがっているのか。

 私よりも幾分か歩幅の大きな足跡を追う。

 すると、行き着くのは巨大冷蔵庫だった。


(……でっかい冷蔵庫。両の手をめいっぱい広げたってギリギリ抱き抱えられない大きさ。まぁ、型式が古そうなことを勘案に入れれば、こんな寂れて久しい家庭科室でも、家庭科室なのだから、家庭科室らしい設備があったってなんら不思議はない、かな)


 どうやら電力は通っているらしく、耳を押し当てるとモーターの駆動音が聞こえる。

 カビの巣窟を覗くのは億劫だったが、しかし気になってしまったものは仕方がない。

 思い切って冷蔵庫の取手を引っ張ろうと力んだが、冷蔵庫は微動だにしなかった。


(……あ?なんだこれ。……取手に鎖?)


 それも神経質なまでに、何重にもぐるりぐるり、と。おまけに錠まで。

「あー、サボってやんの」と背後から暁。こいつにも持ち場があったはずなのだが。いや、軽口にマジレスは英国人に薩摩隼人。喧嘩になる。控えよう。「うるせぇ、お前も働いてねぇだろ働け」と紳士な対応でお紅茶でも濁しておくとして、これでも在学歴で言えば先輩。いちおう意見を拝聴したく一寸ばかり大きな靴跡と冷蔵庫の取手と指差しコメントを求めるが、「なんじゃこれ」と先輩同級生はポンコツを露呈させる。


「……あー、わかった。ねぇ、ねぇ、テレス。きっと男子どもがここにエロ本隠してるんだよ、きっと。誰だろ、誰だろ。武蔵くんかな、それとも大和くん?いやー、大和くんはムッツリだろうしなー。加賀くんがこんなの持ってるのわかると他の子よりもキモさが倍増だね」


「…………」


「ん、どったの?」


「……いんや、別に。しかし、開けられないもんかと考えたけど、まぁ、いいかなって思えてきてしまった」


「え、なんで?開けて中身を確かめないの?」


「……やだよ。だって、腐ってたらどうするんだ。それこそキモキモのキモじゃん」


「あー、それはキモいね。私、納豆とかダメな派なんだ。臭いから」


 納豆がダメとは。これだから軟弱で好き嫌いの激しい人間は。いいか。納豆は発酵食品だから栄養価も高く、生活習慣病予防から納豆菌による大腸ケアまでなんでもござれの満点食品なんだぞ。あと、うまいし。あの臭さの良さを共有できんやつとは仲良くなれそうにないな。ちなみにうちのアリスちゃんったら最近タマゴやら刻みネギやら胡麻油やらを載せてアレンジまでしちゃってね。あれがまた、、、……よし、帰ったら納豆食おう、そうしよう。


「……しかし、冷蔵庫のなか、気にならないって言ったら嘘になる」


「じゃあ、開けちゃいなよ」


「……いやだよ、だって、キモいし」


 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 萎む山際の稜線を眺めながら、脇道深くの帰宅路をのそのそ三人連れで歩く。

 膨れ顔のアリスは途中の帰路で別れた。何度釈明したってわかってはくれないのだが、都合上、アリスと私はほやほやの友人関係であり断じて親戚関係であるなどと悟られてはならないのである。あくまで友人、あくまでクラスメイト。ここを墨守せねば私はアリスを学校へ送り込んだ意味が無くなる。

 故に、はじめの交差点にてアリスと別行動となる。

 次に、ぶんぶん!と両手を頭上に振るう五十鈴と。

 そして現在、野放図な会話の輪に加わっているのは、私と赤城、暁であった。

 

「……その、最後、ごめんね、二人とも。私がコンタクト落としちゃったせいで帰り時間遅くなっちゃって」


 赤城から本日幾度目かの謝辞を受ける。

 正直、くどい、と思うが気が済まないのだろう。あえてここでホコリは払うまい。

 我が歓迎会の終始は家庭科室に足を運んだ時点でわかっていたように、とっても残念の一言に尽きるデキだった。なんたって主役の私を交えて掃除スタート掃除フィニッシュなのだから。結果として家庭科室はそれなりに綺麗になったものの、お菓子作りに費やせる時間的余裕はなかった。


「それにしても、コンタクトなんてよく探し出せたよねー」


「……え、あ、うん。ありがとうね、手伝ってくれて」


 その提案は誰からしたわけでもなかったが、結局お菓子作りをすることなく解散の風向きとなっていた。

 唯一落胆の表情を隠せずにいたアリスを除き解散ムードで帰り支度を始めており、五十鈴が暁の介抱のため車椅子に寄り添い、私が陰ながらアリスを宥め、赤城がひと足さきに家庭科室から出ようとしたそのとき、

「……あ、ごめん、……コンタクト落としたかも」と。

 

「……そう責任を感じることはないよ。帰ってから特にすることもないし」


「ほんとだよ、赤城ちゃ〜ん。そこらへん、もっとシャキッとしないと!」


「……うう。返す言葉もない」


「……テキトー抜かしやがってからに。君は碌に探してなかっただろうが」


 ……と、経緯はこんなところだ。私の気にするなの言葉にも偽りはない。心底ダルそうにしながらもアリスが協力してくれた事実は私にとって大きいものだったし、そのためにホコリまみれになるぐらいなら安いものだ。

 やたらと威張る暁は「なにをぉ〜」とご立腹である。


「失敬な!ちゃんと探すとこは探してたよ。キッチン台とか、食器棚とか、足元とか、その辺を!」


「……」


「……なんだぁ、その目は!楽なとこばっかじゃねぇかって目は!私は、ほら、車椅子だから!踏んづけちゃいけないから、あ・え・て、なにもしなかったのだよ。合理的な理由があったのです。お分かりです?」


 こいつ、開き直りやがった。しかし実際動かれると邪魔だったろうからそれでいいのだが。

 テキトー嘯く暁だったが、これも日常茶飯事なのだろう。「暁ちゃんも、じっとしておいてくれてありがと」といなす赤城。


「……次、赤城の家だよね。私もっと先のとこだから、暁の車椅子当番変わるよ。往復するのは手間でしょ」


「……あ、そうだね。山田さんの家ってまだ先の方なんだ。……ありがとね、じゃあ任せよっかな」


「ふっ、テレス。任せたよ、私の車椅子。赤子を扱うように大事に大事に運んでねー」


 こいつは投げ捨てられたいのだろうか。ちょうどここは畦道だ。頭を冷やすにはちょうどいい。

 ……と、口に出すのは憚られた。ちょっと不謹慎に思えたから。

 ……難しい。人間の会話の線引きはいつも繊細で理不尽過ぎる。


「……山田さんってさ、その、思ってたより優しいね」


「……どう思われていたのか気になるけど、そうかな?」


「……うん。実はちょっと気難しい人なのかなって思ってたんだ。なんとなく。でも、気がきくし、西田さんにも積極的だし。今だって、いろいろ考えて提案してくれてるし。あ、あはは、いきなりこんなこと言うの、ちょっとキモイかな?」


「……ふ。今更気がついたのかね?私の偉大さが」


「……ふふ。未熟者ですから。いまさら、です」 


 素直に微笑む赤城と、控えめに笑う私。別に優しいと評される人柄、もとい、猫柄ではないと思うのだが。それにアリスに対して積極的と第三者からは映るのか。気を張らねば。「ふっ、テレスちゃん調子に乗ってるねぇ」とちゃちゃを入れる暁。


「あれだね、テレスはわりと同級生っぽくないよね。上級生と話してるみたいになるね」


「……どう受け止めればいいんだ、それ」


「あー、ほら、いい意味だから。いい意味で!」


 そんなふうに言われると途端に悪い意味で言われてるように思えるのだが。

 なんか話題の中心が自分ってところにむず痒さを感じる。話題を変えよう。

 

「……そういや、赤城。ずっと疑問に思っていたことがあるんだけど。聞いても?」


「……私に?うーん、どうぞ?」


「……火元、赤城がいうには火元は家庭科室にしかないって話だけど、私の記憶が正しいなら屋上にもガスコンロがあったはずだけど」


 ウッと、痛む腹でもあったのだろう、赤城は目に見えて狼狽する。先ほど家庭科室前で私は家庭科室以外に火元の許可は降りないものなのかと問うと、ここ以外で火元の許可はいられない旨の返答をしたのは、他でもない赤城だ。

 目が泳ぐ赤城。だが、はぁ、と嘆息すると白旗をあげんばかりに告白する。


「……そうだよ。ほんとはダメなんだけどね、あれ。園芸部員の所有物として倉庫の肥やしになってる状態だけど。……まぁ、屋上に来る生徒の大半は知ってる子ばっかだから無駄かもしれないけど、校則的にはアウトだから。内緒にしておいて欲しいんだ」


 ……なるほど。だから大っぴらに「園芸部員保有のガスコンロで料理大会だー!」ってなわけにはいかない、と。

 しかし、だとすると、あのコンロに用途はなんだったのだろう。

 男二人でようやっと持ち上げられる鍋を載せられるコンロ、、、


「……うーん。思えば、倉庫にフライパンみたいな調理器具はなかったようだけど」


「……まあね。たまに、先輩がおヤカンでお湯を沸かしてるぐらいの用途だから」


「……たしか、イベントに使った、とも聞いた気がするけど」


「……もしかして、山田さんって記憶力すごく良かったり?」


「……それなりにね」


 なんとなく見えてきたコンロの用途。

 赤城は隠しきれないと悟り、白状する。


「……あー、うん。正直にいうとね、たまーに園芸部員が集まって密かにパーティーしてたりするんだ。その時にちょくちょく重宝するから。実は暁ちゃんも参加してたり。……でも、西田さんとか誘えてなかったり、そもそもひっそりとやらないとダメだったりで、なんだか言い出しにくくって」

 

「あー、あれは美味しかったねー!鍋パ!みんなでつっつき合ってさー!」


 赤城とは対照的に能天気な暁。鍋パ、ねぇ。楽しそうだ。もつ鍋なんかは私のフェイバリットなんだけれども。

 ……ん、あれ、鍋パ?

 

「……山田さんも、また誘うね」


「……あ、ああ、うん。機会があればぜひ。園芸部員一年生とは今後とも弊社をご愛顧賜れれば」


 もう是非。アリスとかアリスとかアリスとか、何卒よろしくお願いしたい。

「こちらこそ、ご贔屓に」と赤城。すると小脇をツンツン突っつく女が一人。


「私たち化学部員とは遊びの関係だったのね、、、」


 と、メンタルがヘラヘラなムーブをかます暁。


「……遊びだなんてとんでもない。私は真剣に君とは距離を置かせていただきたいだけだよ」


「う、ひどい。およよ」


「……およよはきょうび聞かないよ、暁ちゃん、、、」


 じきに赤城とも「じゃ、あた明日」と横断歩道を渡る背中を見送る。残るは私と暁だけだ。

 必然、私が車椅子を押すこととなる。特にこれと言って不服はないし、腐っても福祉の精神ぐらいは健康体を保っている自負のある私ではあるのだが、この視点だとどうにも暁という女がしおらしく見えてしまって大変遺憾だ。


「……じゃ、帰ろっか」


「うん。私、あっちー」


 へいへい。と、私は車椅子を押す。

 

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 街灯が灯る。随分、回り道をしてしまった。

 静謐をはむ仄暗さは、数えるうちに来る夜を仄めかしている。早いとこ帰ってやらないと、うちの聞かん坊がやかましくがなりたてて収拾がつかなくなりそうだ。とはいえ車椅子の少女一人を往来のど真ん中に放置もできまい。障害とは生きていく上で障害たり得るから障害とされるのだ。足が不自由だなんて代表的なわかりやすい障害の一つである。

 たわいもない軽口が会話を紡ぐ。

 今晩の飯の話。

 クソ映画の話。

 聞いてもいない恋の話。

 どうしてこうも会話の内容が乱雑となるのか、脈絡がないものとなるのか、わからない。ただ、私たちは笹舟だ。整然と整えてやる必要性も感じず、揺蕩うままに会話の進行を波の意のままに任せた。


「私ね、絶対にあの男の子はあの女の子とくっついちゃダメだと思うの。バチェラー視聴歴一年の私が言うんだから間違いない」


「……みじか。誇るほどのもんじゃないだろ」


「いやいや、一年だよ。意外と長いんだよ」


「……まー、うん。一年ね。一年もあれば、身長だって数センチ伸びたりしちゃうしね」


「ほら、体重だって指数関数的に増えちゃう」


「……君と違って運動ができるんでね、私は」


「言っときゃいいよ。糖質制限にカロリー管理バッチリの私はお陰様のナイスバディです」


「……ナイスバディ?ハッ。どこがかしらん?」


「あー、どこ見て言ってんのー。えっち」


「……スケッチ?」


「ワンタッチ。古いよ」


「……古くないよ。ざっと数年前流行の」


「数十年前流行の、だよ。同い年だよね?」


「……こっわ。うわ、こっわ」


「なにが?」


「……君も歳とりゃわかるよ」


 なんでもない会話。生産性皆無の会話。駄弁を絵に描いたような会話。ずーっと続くようで、あの風吹けばあっけなく途切れてしまいそうな会話。きっと、私たちはいま世界で一番くだらない。「あそこだよー」と指をさされた先は、立派な門構えの一軒家だ。暁の家なのだろう。私は人間の金勘定に疎い自覚があるのだが、それでもここがある程すなわち、一つの日常の終わり。

 なればこそ、そろそろ私はぬるま湯から足を洗わねばならない。

 

(……ひとつ、ふたつ、看過できない疑念がある。払拭できない疑義がる)

 

 ……私は、

 ……ふと、逃げそうになっている自分に気づいた。


「じゃ、ここまでで大丈夫だよ。迷惑かけたねー。ありがと。じゃ、また明日、、、」


「……その前にいっこ、聞きたいことがあるんだ」


「ええー、改まってなんだい?まっさっか、愛の告白かい?きゃー」


 愛の告白、ね。そんな腹抱えて笑えるもんだったら、おちゃらけた雰囲気のこの小娘に、あんがいお前のこと気に入っているんだぞ、ぐらい言ってやれるのだが。……あ、いや、そっか。嫌いじゃないのか、私。初対面で友達関係を拒絶できるぐらいには気楽な会話の相手だ。

 知らなかったし、

 知ったかぶりかもしれないが、

 こんな気体のような間柄を友達とでもいうのだろうか。


「……どうして“魔女”裁判なんだ」


 そんななにかよくわからない抽象的なものを、グシャリ、と私は紙屑のように丸め破く。


「……え?なに、急に、、、」


「……阿武隈学級委員長の提案、あれは学級裁判だった。その趣旨はイタズラの犯人探し。言わずもがな、ここで言及されている犯人とは大胆不敵にも犯行声明を行い、それを有言実行しようとする輩のことであり、裁判の目的なそんな犯人への追及と糾弾だ。しかし、君のそれは根本からして異なる“魔女”裁判だ。……あぁ、まるで意味が違う」


「……何が言いたいのかよくわからない。悪いことしたやつをとっちめる、ダメなことなの?」


「……だったら“犯人”探しでよかったはずなんだ。“魔女”なる人物を追及する理由はないはず」


「……テレスさ、なんなの急に。やっかみつけられているみたいで気分が悪いんだけど」


 柳眉を逆立てる暁。その双眸には、怒気を孕ませている。

 会話が噛み合わない。ともすれば、わざとなのだろうか。

 だったら、もっともっと噛み砕けばいい。

 一連のイタズラ騒動、これはシンプルな視野で見渡せば見渡すほど、どこか掴みどころのないものと思えるだろう。一般人、もとい、第三者目線からすれば愉快犯的犯行、それこそ正真正銘文字通りのイタズラ事件となる。換言すれば、どっかの誰か主催のレクリエーションでしかない。

 だが、私目線、“魔女”に思い当たる節のある人間では全くの別の解釈となる。

 イタズラの犯人は何か個人的理由で“魔女”に恨みがある。

 これは、脅迫だ。告白しろ、懺悔しろ、許しを乞え、と。

 しかし、これは逆説的にこうとも言える。


「……犯人にとって、魔女ってのは恨みつらみの対象なんだろう。何をしでかしたのかはわからない。小さなことかもしれないし、あんがい大ごとなのかもしれない。しかし、一つ言えるのは、犯人以外の人物にとって魔女の存在をことさら言い当てようとするメリットがまるでないことだ」


「……犯行声明にも書かれていたでしょ。魔女を探せって」


「……たかが犯人の要望でしかない。なら、犯人を探せばいい」


「そんなの、ただの言いがかりじゃ――――」


「……君はわざわざ“学級”裁判を“魔女”裁判と言い換えたんだ」

 

 多角的視野は、物事を一瞬で複雑化させる。国際政治が魑魅魍魎の所以だ。

 私にとっての“魔女”は、脅迫。

 なら暁にとっての“魔女”とは?

 それは、たぶん、底知れない悪意の坩堝である。


「……つまるところ、だ。……お前、“魔女”とやらの悪行をぶちまけたいだけのクズなんじゃないのか?」


「……え?」


「……クラスメイトの秘密を暴露して不幸のどん底へ。楽しそうだよな。私には、そうにしか見えない」


 もしかすれば、暁はすでに誰か魔女の目星をつけているんじゃないだろうか。

 私は、暁の現在地を知らない。一ミリも真実に辿り着けていないかも知れないし、俯瞰し役職丸出しとなった人狼ゲームにでも興じているのかも知れない。暁のコミュニティは広い。悪行の内容も、その悪行たる尺度も風聞から推察しているのかも知れない。あぁ、そうだ、思えば東郷先生の初対面時の人生相談への嫌悪感の露呈、あれは誰かが何かを東郷先生に相談したのではないか。それはもう、大人も、大人だからこそドン引きするような悪行の吐露。

 東郷先生の椅子の前に座った罪人こそが、魔女の正体なのかも知れない。


(……だったら、楽なんだがな。少なくとも魔女はアリスではなくなる)

(……アリスという少女は、自身の魔女性に疑問など持っていなるはずがないから)


 魔女の正体はアリスじゃないかも知れないが、アリスかも知れない。だから、全員黙らせるしかない。

 しかし、愚かなもんだ。他人のワルさが晒され四方八方から白い目を向けられる様への背徳的な愉悦や享楽は度し難くも抑えられない。

 そんなもの、理性の化身たる人間様だったなら、道徳を熟知し学校生活に馴染めているクラスメイト諸君なら百人中百人がダメであることを理解するだろう。しかし、ときに快楽的衝動は薄っぺらい倫理観を貫く。どこまでも社会の構成員である私たちは、社会が悪だと断ずる罪人に対し、無責任を吹聴する。まるで自分に被害があったかの如く。

 要約しよう。暁少女は、クラスメイトを白日の元に貶めようとしているのではないのか、という疑義である。


「……暁、クズな君に踏み込んだことを聞こう。まず一つ目、君は犯人ではないのだろう。その足だ。犯行は不可能のはず。そして二つ目、君は魔女でもないはずだ。魔女なら、このような自殺行為に加担しないし、いや、なによりも罪に苛まれているであろう魔女だったならば、君は笑っていられなかったはずだ」


「……な、……わ、笑って、ない」


「……いいや、気づいていなかったのか。笑っていたぞ。魔女裁判を提案した君は、それはもう嬉々としていて、楽しそうだった」


 怒りの双眸が揺らぐ。俯く所作を見せたかと思えば、私を一瞥し、また俯く。

 聡い子だ。咄嗟に感情の発露を理性が抑え込んだのだろう。私は猫なもんだから、人の汚さの如何など知る由もないのだろうが、きっと、正しいとか悪いだとかは社会の尺度のように見せかけて究極的には個人の尺度の帰属するものなのだろう。

 つまり、すなわち、だ。考えて、考えて、考えて、人はそこではじめて自分の行為の意味を知るものなのだろう。


「……再度問おう」


 もっとも、正義がかくあるべきか、そんな瑣末なことを聞きたいんじゃないんだ。

 私はただ、粛々と事実確認を行いたいだけだ。


「……君は、誰の悪行をバラしたがっているんだね?」


 この時、この刹那、私の本意はただ犯人の目星がつけられればそれでよかったのだ。多少聞きづらい質問をしている自覚はあったし、それも私の身内に関する爆弾発言が飛び出さないかの備えのようなものでそれほどの意味などなかった。あわよくば、魔女のスケープゴードが欲しかったぐらいである。

 誓って、ただそれだけだった。

 それ以外の意図などなかった。

 家々の暖色仄めく蛍光灯を背景に、暁の頬を涙が伝った。


「……ごめん、なさい」


「……あー、いや、こうは言ったけど別にキレてるとかじゃ、、、」


「……ああ、違う、違う、違うの!違う!」


「……なに?落ち着きなよ、だから、、、」


「……違う、違う、違う!!

 あ、あの、私、あ、あはは、私、裁判開いて、裁判開いてね、それで、えっと、なんで裁判なんて開くんだろうね。別に楽しみとかじゃなくって、えっと、えと、えっとさ、“響”くんを困らせたくって。あ、ああ、いや、違う、違うの、これ違う!!間違っている、間違っている、間違っている!!そうじゃない、そうじゃなくって、そうじゃない!!黙れ!!私、私は、私ね、クラスのため、クラスのために裁判を開きたくって、クラスメイトのためだよ!!そう、クラスメイトのため!!人生一期一会を大事にって先生も言ってた!!バカじゃんね!!それっぽいこと言いやがって。苦しいだけ!!消えろ!!あ、ああ、あああっと、阿武隈ちゃんの学級裁判もいいなって思って、学級裁判って何、きもいね。キモキモキモキモいやでもキモい阿武隈ちゃんに賛同したくって、でもそれじゃ魔女の正体がわからずじまいだからなんのための裁判だよ。頭悪いな!!頭使えよカス!!なんでみんな馬鹿なんだよ!!魔女だよ!!クズだよ!!魔女だよ!!クズだから魔女で、魔女がやったことはクズなんだよ。だから◯◯◯◯が犯人だから!!簡単でしょ!!誰だってわかるでしょ!!犯人!!〇〇〇〇!!あいつしかいないじゃん!!あぁ、えっと、だから響くんが魔女で!!響くん、響くん、響くん、響くん、響くん!!ちゃんとクラス内で言うべきって。そのまんま死んじゃえって。だから魔女裁判なんだよしね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!!思って、ああ、でも、違う!ああ、もう、違う!!!貶めよう思ってない!!そのまんま死んじゃえって!!生き方間違ってんだから!!将来ゴミにしかならないんだから!!そこらへんの底辺ホームレスだから!!自分偽って満足してる低収入の低学歴のゴミだから!!そのまんま消えちまえよ!!生きてても価値ねぇよ!!お前なんて将来童貞で女に飢えてるだけでフェミニスト馬鹿にするぐらいしか人生の価値がわからないゴミなんだよ死ね!!デモでもデモでもデモデモでもデモでも!!!全部私のせいだから!!私のせい!!私のためだったから!!そうしたから!!勝手にやってくれただけで私は全然悪くないんだよ。でも私が悪いの。本当に私が悪い!!間違っているんだ。キモいんだよ、死ね死ね死ね死ね!!死ね!!犯人なんて知らない!!誰が魔女かなんて知らない!!私じゃない!!!!」


 荒く乱れた呼吸。火照った顔に、髪を引きちぎらんばかりに掻きむしる。

 支離滅裂だ。取り繕った言い訳の亀裂に覗く本音。言い切った後、糸が切れたかのように項垂れる。かと思えば、ボソボソと唱えるように「私は昔の私じゃない」と連呼している。「でてけ。でてけ。でてけ」とも。振動するように焦点の定まらない眼球は、すでに私など捉えていない。


(……こいつ、なんだこいつ。)

(……何を言ってんだ)

(……何が言いたいんだ)


 襲ってくる強烈な寒気。ここにいてはならない。鼓動が警鐘の如く鳴り響き、込み上げる嘔吐感にえずく。

 一歩、二歩、私はコレから距離を取り、逃げるようにして帰った。

 走った。私は怖かったのだ。未来を見た気がした。アレはあの子と同種だ。

 心に罪の象徴たる悪魔を飼っている。それも歪に成熟してしまった悪魔が。


(……アリス。アリス、……アリス!)


 さて。

 余談だが、収穫の話をすれば、私は犯人と魔女の両方を知り得た。もっとも、暁が言うには、だが。

 犯人は***だった。言われてみれば、もうコイツ以外に犯行は不可能だ、とも思った。

 そして化学部員の響、コイツが魔女だ。その悪行を、失態を、暁はさらしたがっていた。

 疾走。疾走。疾走。過去、童心ながらに湧き出ていた世闇の恐怖に、今夜ばかりは攫われる。

 

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 我ながら小っ恥ずかしいことを口走ってしまった。「アリス、たまには一緒にお風呂でもどう?」きっと縋るように言っていたのだろうと思うと、顔の熱で卵が茹で上がりそうだ。言わずもがなアリスは二つ返事で快諾。上機嫌に鼻歌を口ずさみながら、脱いだ衣類を洗濯機に放っている、、、までが現状である。

 加減を誤った。私とアリスが同時に入浴したせいで、浴槽から水があぶれる。


「あはは!お湯もったいなーい!」


 いま、あまりアリスに顔を直視されたくない。私はアリスを抱えるようにアリスの後ろに回る。

 なかったようであったらしい私の大人としての矜持は保たれているだろうか。湯煙でちゃんと隠せているだろうか。

 怖かった。怖かった。それはもう、怖かった。

 常々、本当に常々思うのだ。この世にはうまい具合の正義なんてどうしたって存在しないように、悪だって同じ、だなんて言ってしまっていいのだろうか、と。私は、そうじゃないと思ってしまう。正義こそ絶対的にも相対的にも存在し得ないと断じれようとも、悪ばかりは確かに存在してしまうのだろうとの確信がある。それは経験則からだろうか、それとも、内省と反芻の末に行き着いた悲観的な帰結だろうか。

 どっちにしたって、身の毛のよだつ人情事情だ。


「……アリス、学校、どう?楽しい?」


 我ながら、おっさん臭い問いかけだ。

 もうちょっとなんかあっただろう、と、思えばいつもおんなじような思考になっていることに気づく。


「ん、どうしたの、藪から棒に。普通だけど?」


「……普通、ね。楽しくないとは言わんのね」


「えー、なにさ、自分で行けって言っておいて楽しくないって言って欲しいの?」


「……そういう訳じゃ無いけど、、、」


 いや、ちょっとそう思っている。

 私も浅慮だった。学校生活の中で折れ曲がった人格は矯正されるものだろうと期待していたのだが、実際にはアレのような奇形が生まれてしまっている。

 わかりきっていたはずだった。人が人を変えようだなんて、そんなもの最も烏滸がましい行為であると唾棄されるべきものだったはずなのだ。できることといえば、社会規範というか、実行的な倫理というか、それはもう曖昧模糊極まった空気感を感じ取れる能力の育成と、それに付随する自我の抑制を促すに過ぎない。つまり、要約、諦めの目処を図らせられているだけなのかもしれない。

 だが、ほんの一部の人間は、諦められないのだ。

 人が呼吸を止められないように、

 人が幸福を追い求めてしまうように、

 人が人の犠牲のもとに生きるように。

 きっと、そいつにとって、この世とは薪を焚べた火刑場とそう相違ないのかもしれない。


「うーん、でも、最近は楽しいかも。うんうん、楽しい!」


「……あんまり楽しそうには見えないけど」


「えー、楽しいよ。だってテレスいるし」


「……私がいない学校、行きたいと思う?」


「行きたくなーい」


 アリスはグッと湯船に足を伸ばし、バタバタと水面を波うたせる。

 愛らしさはいつも通りだ。だが、今日、私はアリスを背中から抱きしめてしまった。


「……どうしたのー?」


「……どうもしてない」


「……そっか」


 以降、アリスは私の不調に言葉を用いなかった。

 その代わり、今晩の晩御飯の話題に移る。「なんか食べたいものあるー?」と。


「クリームシチュー食べたいねー。そろそろ夜が冷えてきちゃったから」


「……まだまだ蒸し暑いよ」


「そんなことないよ。もうぐんと寒くなっちゃった」


「……そう?」


「うん」


「……そ」


「だから、今晩の私はテレスの毛布にくるまりに行かなくちゃいけないのです」


「……なんじゃそりゃ。換毛期で私の毛布毛玉まみれだからさ、やめときなよ」


「じゃ、私のベットで寝ないとね。あー、そういや、また人間になる薬のストック作らなきゃ。明日にでもつくろーっと」


「……そういえば、クリームシチュー、最近美味しくなったね」


「なにそれー、前まではマズかったってことー?」


「……そうは言ってない」


「ふふふ、今の私は過去の私とは一線を画すのです。料理も薬の調合もトライあんどエラーだよ!」


「……料理も、創薬も、どっちも?」


「うん。トライあんどエラー」


「……いつもどのくらい失敗するものなの?」


「んー、たっくさん」


「……そっか、アリスは頑張り屋さんだねー」


「えへへ」


 濡れた手でアリスの髪をとく。「……はぁ」とため息。

 どうやら、そもそも私に大人の矜持なんかなかったらしい。


(……ともかく、明日も学校へは行こう。行って、学んで、それから物事を考えてみよう)


 ……思えば、この時の私は疲れを抜きにして、悠長そのものだったのだろう。

 なぜ、私は明日を今日と同じような普通を絵に描けると思っていたのだろう。

 ある日を境に全てが瓦解する様なんて、よく見てきただろうに。 


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 早朝、腕時計の時刻は07:00、早練に励む部活動連中よりも早くに校門の鉄格子を通る。


(……アリスと被らんように、と思っての登校なのだが、、、)


 誰も見ていないだろうとたかを括ってあけっぴろげに欠伸を垂れ流す。眠い。常時であればまだ眠っていたってバチは当たらぬ時間帯だ。

 生活基準を見直すべきなのだろうか。

 いやしかし、万が一にもは避けたい。

 あーでもない、こーでもない、と煩悶していると、


「おー、山田っち。昨日ぶりー、てか、めっちゃ早いのウケるんですけどwww」


 いやいや、ウケないんですけど。どうやら一番乗りではなかったらしい。

 そろそろウケすぎてセメの気苦労も察してほしい少女、五十鈴は玄関口前の校庭でぶんぶん手を振る。

 

「……五十鈴も早いね。日直だったりしたっけ」


「日直にしても早いよねwwwやー、家庭科室の後片付け中途半端だった気がするから、その後始末?的な?」


 それは、それは。なんとも殊勝な心掛けだこと。ぜひに見習わないようにしよう。

 五十鈴という少女はどうにも器用がすぎる。これは手本にならないどころか毒だ。なんたって、人の為に自分を変え、自分を動かし、自分を従わせられる極致を会得している人種なのだから。それは人間社会にとっては当然で、猫にとっては不快で、それでいて魔女にとっては地獄だろう。

 なんたって、だからこその“魔女”なのだから。


(……鍵、教室に貰いに行かないと、、、)


 案の定、一緒に昨日の掃除の続きをするかと聞かれ、まぁまぁはっきりちゃんと断っているうちに職員室に到着。

 東郷先生はいつも、もうこの時分にはデスクで事務仕事をしている。「おはようございます」と互いに挨拶を交わし、鍵束を受け取る。一年生教室のシリンダー錠と、家庭科室のシリンダー錠を金庫から出す。鍵を受け取るのはここ最近のルーティーンと化している。


「東郷先生ー、家庭科室はピッカピカにしておくので、また後でね〜」


「はい、また後で。僕も手が空き次第応援に行きますから」


 不思議な関係性のようで、すごく現代的な教師と生徒の距離感。

 私は受け取りミスのないよう似たようなシリンダー錠を分ける。

 家庭科室のシリンダー錠を五十鈴に受け渡し、教室のシリンダー錠をポッケにしまう。


「山田っちはさー、もうすぐ中間テストだけど、どう?テス勉してる〜?」


「……三日前から本気になるもんに今から頑張ってどないするの?」


「え、意外!勉強タイプかと思ってたのに!草なんですけどwww」


 なにが草なのだろう。草。草ってなんだ。なんなんだ、草って。

 いつも私を混乱の坩堝に陥れるギャル語の一種かもしれないが、たまに響も同じようなことを言っている気がする。そうか、響はギャルだったのか。


「……あ、そうだ。言いそびれていたけど、昨日はありがと。わざわざ歓迎会だなんて。内容は酷いの一言に尽きるし、もうちょっと考えを巡らせてから人を誘えよとはくっそ思ったけど、そういった心意気には感謝だから」


「うへへ、感謝にかこつけてのマジレス乙なんですけどwwwまぁ、私も、そう思わなくはない的な?」


「……主催者がそれでどうするの」


「……実は主催者じゃなかったり」


「……じゃあ、誰が言い出しっぺなの?」


「開催の言い出しっぺは私。だけど、家庭科室でなんか作ろって話を出してきたのは暁っちだかんね〜」


「……暁が?」


「うん。だから思いっきり他人任せにしてたら、こー、あー、なっちゃった的な?うへへ、もち、反省してるwww」

 

 餅が反省してどうすんだ。テメェが反省しろボケ茄子。

 しかし、発案者は件の暁か。うーん、暁。正直なところ、昨日の一件があってどうにも嫌煙してしまう。嫌煙というよりも、嫌悪に近い。ただ純粋に私の歓迎会を催したかったという発想よりも、もっと仄暗い、気色の悪い陰謀じみた作為を感じとってしまう。

 なんだ、家庭科室でお料理もといお掃除をさせる意義ってのは。

 うーん、うーん、……うん?


「……っていうか、あれ、なんか、、、」


 なんか、

 臭くね?


「うゲェ、なに〜、この臭い!笑えないんですけどwww鼻もげそうwww」


 節々に笑っていそうな素振りがあるのは気のせいだろう。しかし、私の嗅覚が特別おかしいわけではないようだ。

 強烈な悪臭。なんといえばいいんだ、これ。鼻がもげそうだ。それも我々が教室に近づくたびに悪臭が如実に存在感を訴えかけてくる。

 誰かが牛乳でもぶちまけたまま、拭かずに放置でもしているのか。

 いや、これをそんな生半可なもんに片づけてはならない気がする。

 しかし、なんだったか。匂いだことはあるのだ、どこかで、これを。


「これさー、この匂いの元を見つけたら私たちが掃除だよね〜、イヤだなぁ、流石にイヤだな〜www」


 五十鈴は軽口を叩きながらも、おそらく匂いの根源があるだろう教室の前に。そして、ドアを開ける。

 開ける。

 開けた。

 …………?


「……なにやってんのさ。ほら、さっさと教室に、、、」


「……だめ」


「……五十鈴?」

 

「だめだめだめ。先生よぼ。山田っち、すぐ先生よぼ」


 ……なんだ。急にどうした。五十鈴は開けていたドアを即時に閉じ、私に先生を呼ぶよう訴えてくる。

 しかし、こっちは何が何だかわかっていないのだ。状況を整理しなければ対応をしかねる。ともかく、と、私は五十鈴の静止を振り切りドアに手を伸ばそうとするが、寸前に五十鈴が身体を張って必死に私の腕にしがみつく。


「お願い!ね。ね!せんせ、先生よぼ!みちゃだめだって!だめなんだって!」


 激しい息遣い。酷い動悸が腕に伝わる。この刹那の合間の発汗も尋常ではない。


「……なにがあるの?」


「ひとりにしないで、ひとりにしないで、ひとりにしないで……っ!」


 一刻も早く私と共にここから離れたいのだろう。私の身体ごと教室のドアから遠ざかろうとする五十鈴。

 ふと、この悪臭について、思い出したことがあった。

 そうだ、この匂い、あれじゃないのか、と。


「……ごめん、ちょっとだけだから」


 私はしがみつかれている反対の腕でドアに僅かな隙間を作る。

 そして、教室内部を覗く。

 覗く。

 覗いた。


(……ああ、そうだ。そうだった。どうして思い出せなかったのだろう)


 この匂い。

 これ、あれだ。

 腐臭だ。


「…………っ」


         猫の死骸

 

 猫の死骸 猫の死骸 猫の死骸 猫の死骸


 猫の死骸 猫の死骸 猫の死骸 猫の死骸


 猫の死骸 猫の死骸 猫の死骸 猫の死骸


 あえて、だろう。各々の机に置かれていたのは猫の死骸。計13匹。一年生の生徒の人数が12人で教師が1人だから、それぞれ一人の席に一匹の死骸ということになる。短足で血まみれたの猫、すらっとした血まみれの猫、血まみれの三毛猫、血まみれの黒猫、、、

 すべて違う個体で血統も別だろう。しかし、すべて猫、猫、猫。

 どれも腹を掻っ捌かれている。死因は失血?いや、一匹だけ別?

 いや、いやいや、これ、ヤバいだろ。なに冷静に観察してんだ。

 誰か、誰か呼ばないと、、、でも、声が。声が出ない。


(……同族がこうも惨たらしく殺されているんだ。これをしでかした犯人に人の心はない。……その犯人が、まだ、この近くにいる可能性も、、、)


 身の危険を第一に考えるべきだ。やはり、まず大人にこれを報告しなければ、、、


「……ほうこく、しなくて、は、、、」


 …………。……は?

 すがりつき泣き喚く五十鈴、強烈で苛烈で猛烈な腐臭、朝の陽光、秋風にたなびく国旗の音、猫の死骸、猫の死骸、猫の死骸、猫の死骸。どれもがどれも電流のように五感を刺し、腐らせ、溶かす。過激なまでに過酷な現は、極度の動揺を誘い、狼狽たるには十分足るものであった。

 しかし、ただ一点、黒板状の白チョークに、それでもすべての神経を奪われたのだ。

 それは、たったの四文字だった。


『魔 女 参 上!!!』

 

『魔 女 悪 事!!!』


 今日、この日、イタズラが正真正銘の事件となった。

 ……そうして、私は、“魔女”の原罪を目の当たりにした。

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