第6話 黒猫と家族 『愛』

 父親と母親と娘が死ぬ、その二日前の日。春雷迸り豪雨吹き荒れる日のことです。


「疑いが確信に変わった日は、つい昨日のことなのです」


 貴方のおっしゃる通り、私はアリスの母親、西田ツボミとの対談の機会を得ました。空が割れんばかりにゴロゴロと雷鳴が轟く日だったものですから、貴方が聞き耳を立てそびれたことも頷けます。ですが、私にとっては、あの日の彼女の文言は一字たりとも忘れることのないものでした。


「……なんですか、藪から棒に。私はね、猫畜生、貴方に構っているほど暇ではないのですよ」


「……西田ツボミさん。今の私が冗談を言いたい気分かどうか、貴方にならわかるでしょう?」


「わかるから追い払おうとしているのです。二年です。私が貴方を迎え入れてから二年。なら、そろそろ私のことも理解していていいはずですよ。私、クスッと笑えるジョークは好きですが、つまらないジョークや、はたまたジョークを挟む間のない会話は気が滅入って大嫌いなのです。猫畜生、つまりです、私は今の君と話したいとは思っていないのです」


 母親は盲目ながらも目線をこちらに向けてきます。ゆっくりと、厳かな風に。

 彼女は私を良き理解者とでも認識していたのでしょう。まるで、自分がこの猫の心を丸裸にしてやるほどにわかっているのだから、猫も自分をよく理解してくれているはずなのだ、とでもいう風に。事実、ここに誤謬はないのでしょう。私たちはある種、骨の髄まで理解し合える仲です。それこそ、社会正義や倫理感に心を凌辱されている方々には遠く理解の外の関係性でしょうが、不似合いで不釣り合いで完璧な仲に我々はあったのです。

 けれども、理解し合える仲ではあれども、必ずしも納得し合える仲ではなかった。

 思えば、私はこの日、初めて彼女に正面切って反抗したのだと思います。


「……単刀直入に聞きます。アリスは貴方のクローンですね?」


「……ジョークとしては及第点以下ですよ、猫畜生。何を根拠にそれを主張するのですか?」


「……直にジョークに聞こえなくなりますよ。疑問に思い始めた契機は三ヶ月前の死体の漂流事件からです。どこまでご存知かは知りませんが、死体がここら近くの河川に漂流していました。地方紙に載る程度には騒ぎになった事件です。生で見た人間の死体はぶくぶくと肌が膨れ上がっており、また臓器も腹から食い漁られている状態で、死因は溺死が先か食殺が先かの現場判断でした。しかし、その死体、彼女の風貌には覚えがありました」


「…………」


「……ホワイトブラウンの髪色、そして紺碧の眼球。刑事曰く、ここいらじゃそう見かけないそうです。しかし、あの現場に限って言えば、猫である私だけが合致する人物に覚えがあった。……アリスです。なんと顔の造形もそっくりだったものですから、アリスに死体を見せなくて正解でした」


 しかし、口にはしませんでしたが、その死体の推定年齢はアリスのそれではなかった。むしろ、西田ツボミさんに非常に近かった。

 背丈も、そっくりだと思っていた顔の造形も、思えば思うほど西田ツボミさんの方に似通っていた。面影は間違いなく西田ツボミさんにあったのです。けれども、口に出さずに飲み込んだのはひとえに当時は無駄な会話だと思ったからです。私と西田ツボミさんとの間柄に、無駄な会話ほど、苦痛に満ちた時間もないですので。


「……猫畜生、他にもあるのでしょう、貴方の主張が」


「……そうですね。半月前のことです。父親の書斎から、貴方の人生の概略を図したような資料を発見しました。無断で盗み見たことは両者に忍びないところではありますが、こっそり承諾無しに父子のDNA鑑定を敢行する父親と、私と貴方との仲です、許されて然るべきでしょう。眼球、売られたそうですね。そこには貴方の元来の髪の色と眼の色も叙されていました。ホワイトブロンズの髪色で、碧眼だった、と」


 その時の西田ツボミさんは、眠っているようで大人しく、しかし言葉を誤れば喰われかねない不気味さも相まっていました。

 もっとも、髪の色も眼の色もそうだろうとは思っていました。どちらかでも異なれば隔世遺伝でもない限りアリスが自分との血縁が無いことが確定する。髪の色に関しては、染めさせたのは貴方ですから元の色を知っていてもおかしくありません。しかし、眼の色は違う。よほどジャーナリズム精神を燃やしたのでしょう。なんだったら、教会の調査は西田ツボミさんの眼の色を知るためだけに手を出したのではありませんか。……否定、されませんか。

 どっちにしたって、血縁に妄執的に拘る貴方のことです。死に物狂いで調べ上げたことでしょう。

 そんな貴方が眼の色、髪の色で騒いでいないのであれば、アリスと合致していた証拠以外の何物でもない。


「……つまり、漂流死体の正体は私のクローンであった、と?」


「……貴方かアリスか、どちらかの、です。同一人物なのだから同じことでしょうが。物騒な調合内容物でしたが、成長促進剤なるものもあるようですから、クローン作成後に成長促進剤を投与し貴方は等身大の貴方を作り上げた。そして事を成した後、貴方は不要になった人体を野犬にも喰わせるために近場の川沿いにでも放置したのでしょう。川までなら幼いアリスでも徒歩圏内です。器用な貴方であれば問題も少なかったでしょう」

 

「……全てが状況証拠ですよ。探偵役としては二流以下ではないですか」

 

「……だったら面倒ですが、DNA鑑定でもしますか。作業場の夥しい血痕と、貴方と、そしてアリスと」


 西田ツボミさんはふーっと息を吐き、背もたれに重心を預けると、私にぐらいしかわからない程度に笑っているようでした。

 そして呟くように「やはり、二流以下です。DNA鑑定なんて、最近は奥の手でも使いませんよ」と。


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「……ふふ、ふふふふ。思考能力までのろまなのですね。貴方ならもっと早く気づけたでしょう。考えてもみなさいな。もともと、私は君の心の声が手に取るようにわかっていたのです。アリスではなく、私が、です。それは何故なのか。魔女の不思議な力はときに神秘的ではありますが、ときに合理的でもあるのです。答えはアリスの素体が私だからでしょう。馬鹿で間抜けで阿呆な君の前でクローン作成を行なってみたり、話を振ったのは、ヒントだったのですよ?」

 

 ふふふふ、と西田ツボミはイタズラが成功した子供のようにくすくす笑うのだ。

 率直な感想として、恐怖が先だった。彼女以上に、悍ましい人間を私がこれらか見ることがあるのだろうか、と思うほどに。


「ジョークとしては及第点以下ですが、推理に関してはギリギリ及第点を差し上げましょう。その通りです。アリスは私のクローンです。いえ、正確にはアリス『達』と呼ぶべきでしょう。沢山いますからね、彼女達」


 西田ツボミは「……すこし、振り返りたい気分です」と、ドラマの犯人役がネタばらしするように、過去を振り返り始める。

 それはのちに西田クリスチャンから聞く内容だったのだが、自身が教会から小銭で買われたこと、教会に子宮を含む臓器と眼を売られたこと、宣教中に西田クリスチャンと出会ったこと、そして、


「……貴方は一度、視力を取り戻しているはずです。西田クリスチャンの血縁の眼球を自身の眼としているはずです」


「……おどろきです。猫畜生がそれに気付いているとは。もしかして、本棚の裏の部屋、見られてしまいましたかね」


「……ええ、見ましたとも。それはもう、呪詛のような血文字がびっしりと壁を埋めている隠し部屋です。そこにクローンの一人を隠していたのでしょう。思い返せば、半年前、アリスが作業小屋から物音を頻繁に聞いていたようですし、間違い無いはずです。覚えたてのように拙い日本語が壁一面だった。しかし、それは不自然なのです。アリスは貴方の知識を継承していない。だから、クローンも知識を継承していないはずなのです。しかし、日本語は書けた。……だったらそれは、貴方が日本語を教えてでもいなければ説明がつかないのです」

 

 まさか、教えている本人が日本語の読み書きを知らないわけもないだろう。

 しかし、西田ツボミが眼を売られた時期、彼女は日本にはいなかったはずだ。だったら、日本語をいつ会得したのか。簡単だ。日本に来てから、日本語を覚えたのだ。


「……ただ、解せないこともあります。何故、再び失明したのですか?」


「……私が失明した理由、ですか。……ふふふ、きっと猫畜生には理解できませんよ。君のような凡俗は美しい景色を見て、ひとときの感動を享受していることでしょう。けれども、視覚に頼る生活は、美麗な過去を他の色彩で押し流してしまう。私はそれが許せなかった。彼の涙は、彼の情動は、私の視覚を通して記憶されている。私は我が世の春を教会の臓器売買施設で迎えたのです。その記憶を、色褪せたくなかった」


「…………」


 肯定などできるはずもなかった。視覚を自分の手で奪うなんてこと、私は如何なる理由があれどもできないからだ。

 けれども、否定もできなかった。生を狂わせる感動は、それがどんな形であれ、美醜問わず訪れるのだから。


「……本題です。クローン、どうして作ろうと思ったのですか?」


 横道から逃げるように本筋へと戻る。しかし、「当ててみますか?たまには私の心を読んでみなさいな」と笑みを浮かべて煽る西田ツボミ。

 聞いた反面、答えは限りなく明白なはずだ。それでも聞いたのは、どこか仄暗いと思ったからだろう。

 

「……子供が欲しかった。貴方は自分の子供が欲しかった。そのためには子宮が欲しかった。だからクローンを作成した。西田クリスチャンは教会ルートを疑っていたようですが、我が国は法治国家です。人身売買・臓器売買に手を染める、子供を攫う、子供欲しさに子宮を奪う、どれも盲目の薬売りにとって容易な事ではない。しかし、魔女にはクローンがあった。……魔女の薬とは、言い得て妙です」


 現代ではコミカルに用いられることが多い『魔女』の単語。けれども、『魔女』の含意は、歴史は、恐れ慄かれていたものだったのではないか。

 悪魔に絆された人間。あるいは、悪魔と同一の人間。彼女は、ときに彼は、人間でありながらも人間の道を外すのだ。そこに善意か悪意かなどの瑣末な基準など介在しない、純粋無垢な衝動的行動の催し。それが非常識なまでに狂ってしまっているだけなのだ。それだけの、化け物なのだ。

 私は、西田ツボミを、正真正銘の『魔女』だと断言する。

 

「……そうですね。でも、幾つか見落としをあるのではないですか。そもそも、私は盲目です。手術なんてできるのものでしょうか?」


 試すような問いかけをする西田ツボミ。彼女にとって、これはジョークの一環なのだろう。

 そして、これはきっと当たり前に生きている人間ならば詰まる回答だ。けれども、その答えは確かにある。盲目の彼女本人が手術台でビニール手袋にメスを握るよりもそれはずっと現実的で、非人道的で、どこまでも狂っているわかりやすい方法なのだ。


「……簡単ですよ。アリスにでも手伝わせたのでしょう。そもそもクローンに日本語を教えていたのだって、西田クリスチャンを喜ばせられるような子供が欲しかったからのついでに、自分の右手が欲しかったから、なんて理由だったはずです。私の知るアリスがアリス『達』の中から選定されたのだって、愛嬌と手先の器用さによるもの。……違いますか?」


 つまり、言葉を濁さずに言えば、アリスとは数いるクローンから適当に選ばれただけなのだ。

 彼女はたまたま頭が良かった。物覚えがよく、日本語の読み書きはもちろん、薬学の知識も意欲的に取り組める子供であった。たまたま手先が器用だった。自分で薬を作ってしまえる程度には。たまたま、偶然、彼女だっただけなのだ。その選定方法は、くじ引き抽選なんかよりもずっと冷めていた。

 そこに母親と子供の関係など、望めるはずもなかったのだ。

 

「……そうですね。そうようですよ。あれは程よいクローンです。どこぞの猫畜生よりも、ずっと素直で、とっても扱い易いお馬鹿です」


 朗らかに答えるアリスの寸評は、まるで消耗品以下の扱いのようだった。

 西田ツボミのクローンは、アリスを除き、神から与えられるはずの自由と時間を殺され大人にされた。就職先は、子宮摘出の献体か魔女の薬の材料のみだ。想像を絶する体験であったのだろう。隠し部屋の悲痛な遺言は、西田ツボミのささくれ程度の気まぐれによってはアリスの未来を預言していた。

 

「……ふふふ、でも、もう一つ見落としがあります。それは――――――」


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「――――――違う。違う!お前の話には穴がある!どうして、どうしてクローンが作れるんだ!クローン作成の材料には『新生児の肉』がいるはずだ!それこそ、入手は困難を極める。教会のルートもない。近所で新生児の失踪記事もない。だったら、クローンなんて、、、」


 霧がかる白昼夢にて、声を荒立てているのは父親の西田クリスチャンである。

 言ってしまえば、どこぞの人っ子を攫っていようが、どこぞの子宮を掻っ攫っていようが、クローンでそれらを補っていようが、結果としては変わりないのだ。どれもが人の道から外れた外道に違いない。だが、しかし、一点だ。一点だけ、西田クリスチャンにとっては看過し難い大問題に直面する。

 混乱していることを悟られまいと口元を隠しちゃいるが、月夜の提灯である。

 

「……別に、魔女の薬学本には『幼児』としかないでしょう。それは別に、『人間の新生児』じゃなくたっていい」


「……あ、……は?」


 だが、所詮はその場を取り繕った詭弁である。確かに薬学の本には『新生児』としかないのだ。

 それに、人間の新生児なんて、一回の出産に二人も産めれば多い方である。

 そんなもの、非効率的に過ぎる。もっと適する動物がいるはずじゃないか。


「……例えば、猫の新生児、だって可能のはずですよ」


 さて、西田クリスチャンの大罪の過去を聴いた。西田ツボミの汚れた過去を暴いた。西田アリスの偶然に編まれた過去を晒した。

 だったら、次は私の朧げな過去でも告白しようじゃないか。だって、私は西田テレスなのだから。

 

「……実を言うと私、捨て猫だったのですよ。多頭飼育崩壊、ニュースでも取り沙汰の社会問題ですが、私はその中の一匹でした。保護された時分には、漏れなく栄養失調だったそうです。そんな私を拾ってくれたのは気難しい老爺でした。一人暮らしで、ずっと前に伴侶に先立たれた方です。息子が二人いたようですが、なんせ偏屈な老爺でしたから、帰省する影もありません。小鳥の囀りが唯一の会話だった家でした」


 懐古する。老爺はほうれい線の深い人だった。常時、口がへの字の頑固な人だった覚えがある。

 そんな人だったが、ご飯をくれる時、「ん」と喉を鳴らすのだ。それを合図に私はご飯にありついていた。


「……私を拾った時点で老爺の老先は短いだろうとは思っていましたが、彼との同居は二年で幕引きでした。老衰による孤独死です。腐っていく過程を見届けました。思えば、床に伏せる前、我慢でもしていたかのように老爺は私を撫でましたが、それが最初で最後の触れ合いでした。語らずの彼と私でしたが、奇しくも、貴方と彼女が求めていた理想に近い関係性だったのかもしれません」


 いらないことを語り過ぎましたね、と話を本筋に戻す。

 どうやら、西田クリスチャンの興味も他にあるようだった。

 

「……老爺は私を買い始めた頃、狂犬病の予防接種のついでに、多頭飼育崩壊の前例から私に避妊手術を施しました。請け負ったのは、当時、腰痛を患っていた老爺に薬を調合していた薬屋の店主だったそうです。……そうですね、誰を隠そう、西田ツボミさんです」


「…………」


「……そこでの記憶は朧げです。断じてはっきりしたものではありません。しかし、何かを塗られたかと思えば、ボーッと忘我の境を迷う期間が続きました。ペットの飼育歴のある老爺ではなかったですから適当な期間だったのかは定かではないようでしたが、それなりの期間の入院です。そして手術。……そこで、ふと、我に帰るタイミングがありました。記憶は定かなものではありません。ですが、朧げだからこそ否定できるものでもない」


「…………」


「……にゃー、と私とは別の猫、いえ、子猫の鳴き声が聞こえた気がしたのです。……気が付かない私も間抜けなものですが、どうやら私は避妊手術をさせられていたわけではなかったようです」


「…………」

 

「……私は、出産していたようです。数匹の命を、私は産み落としていた」


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「……つまるところ、アリスは、私の新生児の肉で出来ているのではないですか?」


 クローンさえ作成してしまえば、成長促進剤の材料である『人間の脂肪』はクローンからいくらでも剥ぎ取れる。これで、障害は消滅する。証拠は私の子供の行方を問うてもいい。もっと確実な手段を取るならば、アリスに吐かせればいい。地獄を地上に作り上げたのだ。アリスの手も借りているはずだろう。

 もう、隠し事ができる段階にはいないのだ。吐くか、押し黙るかの二択。

 しかし、二択などなかった。西田ツボミは、隠し事をするつもりなどなかったのだから。


「……アリスの名前はですね、クローン全員に共有している名前なのです。クローン、じゃ味気がないでしょう。由来は不思議の国のアリスです。メルヘンな世界観の作品ですが、夢見心地な作品いうか、それがどうにも麻酔代わりの麻薬を処方していた時の彼女たちにぴったりでしたので、アリス、いいな、と」

 

 我ながら冴えたジョークではないでしょうか、と事もなげに話すのだ。嬉々として、楽しそうに。

 従属の身である私だ。彼女の心に裏がないことばかりがわかってしまう。私たちは理解し合える仲なのだ。だから、嫌と言うほど、今の高揚を抑えられずにいる彼女の心を理解してしまう。


「……猫畜生にはわからん話でしょう。私たち人間はね、愛に飢えているのですよ。愛ばかりは自分の身一つでは叶えようがない。そんな不確定要素の塊が愛なのです。けれど、私は私で愛を勝ち得ようとした。……旦那さんが欲しかった。優しい旦那さん。私のジョークに微笑んでくれる旦那さん。私の料理を褒めてくれる旦那さん。私の愛を受け止めてくれる旦那さん。その人のためなら、多少の浮気ぐらい目を瞑ってあげられる。私を疑ったって、許せる」


「…………」沈黙を貫く。


「……子供が欲しかった。私が産んで、育ててあげられる子供。紛い物ではない、本物。いくら頭の出来が悪くたって、不器用だって、笑ってあげられるような子供が欲しかった」


「…………」沈黙を突き通す。


「……でも、全部、無理だったのです。私には子宮がない。子供を産めない。子供を産めない妻に意味はないし、旦那さんもそう思っているでしょう。……だから、子供を産めるように子宮を自分のお腹に戻したのです。……私の力で、私の独力でやり遂げたのです!」


 かつて、神の宣教師だった彼女が『愛』を欲するのだ。無償の愛をばら撒く神の下ではなく、人の愛を欲した。

 途方もなく愛を欲した。愛を渇望した。そして、愛は、クローンを殺させた。

 私が彼女に狂っていると、そう言い放てられればどれほど気が楽だっただろう。

 

「……貴方は、辛かったのですね。手元に愛がないことを、誰よりも知っていたから」


「…………頑張った。……頑張ったよ、テレス」


 その所作は、その目尻に涙を溜める姿は、どこかの誰かと酷似していた。

 だが、しかし、その子と彼女とは決定的に違うのだ。一つだけ、違うのだ。


「……わかって、くれますよね?……テレスなら、わかって、くれるよね?」


 ……あぁ、理解できる。わかってあげられるよ。

 ……貴方が長年追い求めてやっと掴めた愛の高揚感も。

 ……貴方がずっと探し求めていた友達と話せる自由も。

 ……そして、私の心を聞いて、私の心を初めてちゃんと理解して、人生で初めて『罪悪感』の萌芽を抱き始めていることも。

 

「……もちろん、ですよ」


 けれども、もし、彼女と彼女に酷似する女の子との決定的に違い点を述べるのであれば。

 それは、結局、彼女は誰からも『愛』されることはなかった点なのだろう。


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 ふと、『テセウスの船』のパラドックスの命題を想起した。テセウスの船とは、それは有名なパラドックスの命題であり、ある物質を構成するパーツを取っ替えた際、取り替える前の物体と取り替えた後に物体、それを同一として認められるかの問いである。


「……あ、あはっ…………あ、」


 換言しよう。西田クリスチャン。

 貴方は異物の子宮から産まれたアリスと、西田ツボミ本人の子宮から産まれたアリス、これを同一視できるのか。

 

「……笑って、……僕、笑っていたのか。……違う。違う、違う、違う!!僕は、笑っていない!!僕は、僕はアイツの悪行をくい止めるためにアイツを殺したんだ!!愉悦のためじゃない!!イカれた魔女を狩殺すためだ!!大義があった!!僕は、僕は、アリスと家族のためを思って、……あああ、ああ、……あは、あははは、はははははははははははははははははははははははは!!!」


 アリストテレスは『自然学』にて、四原因説を唱えた。世の中の全ての物事は四つの要因、その物がどんな形をしているかの形相因、その物が何のために作られているかの目的因、その物がどんな材料でできているかの質量因、その物を誰がどのように作ったかの作用因、これによって成り立っているとした。

 西田アリスは西田ツボミのクローンであった。であるからして、娘としての形相因、目的因、質量因、作用因、どれもが欠けていたのかもしれない。


「……あ、ああ、……そっか、……そっかぁ」

 

 殊更、西田ツボミは自分の腹で子供を身籠りたかった。誰かの子宮ではなく、自分の子宮にあくまで拘った。偏執的な『愛』の正体とは過程にあるのだ。『愛』されずに過ごした西田ツボミにとって、『愛』を注げる子供が欲しかった。アリスと言う物体は、決定的なまでに目的因が欠如した。


「……あ、あはは。……ははは。……はぁ、」

 

 殊更、西田クリスチャンは子供が何で出来ているかに執着した。血縁ではない誰かの子宮ではない、自分の妻であり、子供の母親の子宮に取り憑かれた。そうでなければ家族ではないと思い込んでいた。無慈悲なまでの家族に拘泥した。アリスという物体は、彼の人生を狂わせるほどに質量因と作用因が欠如した。


「……僕、夢、叶ったんだ。……あはは」


 もしかすれば、この白昼夢は書いて字の如く、白ずむ昼の見せる夢だったのかもしれない。全てが私の幻想だったのかもしれない。西田クリスチャンの吐露した情報は、ほとんど西田ツボミから前もって聞き及んでいた情報であり、西田クリスチャンの資料に書いてあったことばかりだった。

 だから、西田クリスチャンとの会話談なんてもの、後にも先にも存在しないものなのかもしれない。

 だったらば、彼はどれほど救われるのだろう。それはつまり、彼が、彼の内の唾棄すべき喜びに犯されずに死ねたということだから。


「……テレス。お前に頼がある。今更かもしれないし、どの口が言っているんだって思うかもしれない。……信じてもらえないかもしれないが、」


「……何ですか、お父さん」


「……アリスを、頼んだよ」

 

 だが、それでも、この依頼ぐらいは本物の言葉だと思いたかった。アリスと託された言葉だけは、彼の言葉だと思いたかった。

 西田クリスチャンはアリスを殺さなかった。それは決して慈悲の心ではなく、むしろアリスにとっては残酷なものに違いない。

 けれども、私の大事なものは、そうして救われたのだ。

 だったらば、父親の遺言ぐらい、聞いてやりたいと思うのが猫の情だ。

 

「……最後に、聞かせてくれ。お前は、許せないんじゃないのか。憎いんじゃないのか。アリスを家族と思わず、あまつさえ無理心中を実行した僕を。……お前の子供を奪って、クローンを作成していた魔女を。……そして、お前の子供の肉で出来たアリスを」


「……いえ、別に。……結構どうでもいいんです。そんなこと」


「……どうでもいい、か。……そうか。お前は、猫だったな」


「……どうでもいい、と言うと、語弊がありましたね。実のところ、それどころではなかった、と言うべきなのかもしれません。子供を奪われた事実を知った時は遺憾でしたし、アリスを泣かせた貴方のことは嫌いです。……しかし、私にとっての『愛』は度量が狭い。優先順位があるんです。だから、大事なことを除けば大抵は瑣末ごととして扱えるのです。……『愛』、そうですね、たぶん、きっとそれは――――――」


 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「……テレス、どうしたの?ぼーっとして」


「……あ、ああ。うん。ごめん。何の話だっけ?」


「……えっと、『愛』の話。え、えへへ。変な話」

 

「……話を振ったのはアリスの方じゃん。『愛』、かぁ。そうだな、たぶん、きっとそれは、……なーんだろうね。わからんよ。敢えて言うなら、合理性なんて全部かなぐり捨てて、好きな子のためになんでもやっちゃうことなのかもしれない。……だから、私にとっての『愛』は、今この時の通常運転の日々にあるのです。今日と言う産物は、昨日までの努力の結晶だからね」


 そのためだったら、母親から娘を遠ざけるための『愛』の価値観の刷り込みだってするだろう。

 そのためだったら、父親が疑念を膨らませるために誰も読まない地方紙だって机に置くだろう。

 そのためだったら、家族が死ぬことわかっていても、観覧者として静観を貫くだろう。


「……なーにそれ。テレス、変なのー」


 西田クリスチャン、私は貴方の心中の理由なんて心底どうだっていいのです。

 西田クリスチャン、私は貴方に感謝しているのです。

 あの愛されなかった人を殺してくれたおかげで、魔女には今日があるのですから。

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