魔女狩り

第4話 黒猫と家族 『現在』

 夢を見た。明瞭さを著しく欠くその夢には、三人の人間が手を繋いで立っていた。

 一人は父親らしき人物。

 一人は母親らしき人物。

 一人は娘らしき人物。

 そして三人は今から二年後、燃え盛る真っ赤な業火によってその命を絶たれるのだ。それは漠然と、まるで抽象画を映写機のフィルムに現像して上映しているような錯覚上での出来事。私は上映中の映画の観覧者である。その映画の内容を書評する立場にはあるだろうが、介入する権利を持ち得ない黒猫である。

 これは予知夢ってやつだろうか。そういえば、さっきの映画に黒猫は登場しただろうか。

 まぁ、どうでもいいことである。どうせ、寝て起きてみれば綺麗にさっぱり忘れていることなのだから。


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 寝心地が悪いと思って目蓋を開けてみれば、年端もいかぬ人間の少女に包まれていた。

 何やらふわふわとした暖かい羊毛のようなものに私は包まれており、包んでいる人間の少女は、私がウトウトと目を開け閉じしている様を見ていたのだろう「よかった!よかった!生きてる!」と歓喜と安堵の籠った声をあげる。

 濡れた真綿を耳の穴に詰められているようなぼんやりとした感覚。

 しかし、不思議なもので、彼女の発するそれが人間の言葉であることは理解できた。

 どうして猫である自分が打ち付けに人間の言葉を把捉するようになったのか。

 理屈なんてわかるはずもなく、また寝惚け眼な自分にはどうだってよかった。


「…………にゃー」

 

 呼び戻される最後の記憶、こうなる前の記憶はかなり朧げである。

 ……『桜』?そうだ、『桜』だ。厳冬の日々を耐え凌ぎ雪解けの季節となった今日、まさしく桜色の桜吹雪を見上げながらひとしおを感じていたその最中、人間の操る奇怪な鉄の塊に跳ね飛ばされたのだ。打ちどころが悪かったのか、それとも反応さえままならなかった勢いのせいなのか、私は直後に気を失った。

 人間への悪態を思う存分つきたいところだが、死んでいないのも人間のおかげのようなので口を紡ぐ。

 しかし、にゃー、と鳴いていればよいこの口で人間の悪口とな。

 誠に猫らしくない。これは由々しきアイデンティティの喪失である。


「猫ちゃん、頑張って!もうすぐだからね!もうすぐ、お母さんに見てもらえるから!」


 気付けば視界に水滴が零れる。さっきまでの桜吹雪は一転、曇天の元、大粒の雨が降り注いでいる。

 ずぶ濡れの少女は我が身を惜しまず私が濡れないよう防波堤代わりに矮躯な身体で私を覆い、懸命に私を救おうと息を荒立ててくれている。正直を言えば、君の母親に紹介される猶予があるなら獣医にでも駆け込ん欲しいと言うのが本望なのだが、どうせ拾われた命なのだから流れに任せようと思う。

 まもなく辿り着いたのは、この娘の家らしき場所だった。

 山の麓の隠れた一軒家、ログハウス風のその家は、さながら『魔女の家』といえばしっくりくるだろうか。


「やっと着いた!おかあさーん!おとーさーん!だれか!猫が、猫が――――――」


 ふわっと薬草の香りが鼻腔をついた。それが魔女の家の最初の匂いだった。

 私も体力の限界だったようで、そこの後の記憶はぷつりと途切れている。

 これが私と魔女の初顔合わせの記憶。そして、魔女の家、魔女の家族との邂逅の日の記憶でもある。


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 一年後に父親と母親と娘が死ぬ夢を観る。


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 魔女の家の表札には『西田』と書かれている。すると、私の主人のアリスは『西田アリス』になるのだろうか。ちょっと不格好に思える。

 ちょうど去年の今頃に拾われたのだったか、なんて物思いに耽りながら分厚い本を紐解く。人間の言葉、文化、文字を憶えているのだ。私は魔女に拾われてからというもの、変わったことが二つあり、一つは寝床、そしてもう一つは言葉である。私は去年の今日、前触れもなく『言葉』を習得したのだ。

 だからアリスの言葉を言葉と認識できたのも、この家が『魔女の家』だと思えたのも、これが理由らしい。

 しかし、私は猫である。猫である自分に違和感などない。けれども、うーむ。


(……思考回路のそれが猫らしくない。日向ぼっこをしている猫なんかを見つけると、なーんも考えてなさそうだな、なんて思ってしまう)


「それはですね、猫畜生、君が言葉を憶えたからなのです。言葉は事象を整理立ててしまうのです」


 ナチュラルに感情を読まれたわけだが、その声の主は判然としている。

 優雅にハーブティーと洒落込みながら私の心を読むのは、アリスの母親の西田ツボミである。幼い頃に失明したそうで目を開けている姿は見たことがないけれど、彼女ほどに隠し事が通用しない人物もいないだろう。現に私の心は雑な小説を朗読するかのように読まれてしまうのだから。


「言葉とは厄介なものなのです。どうでもいいことを、さもどうでもよくなくしてしまう。私も言葉もわからぬ畜生である猫になりたいと思うものです」


(猫には猫の苦しみがあるんじゃい。例えば、ほら、自由経済に参加する権利がないとか)


「猫風情が人権を希求するのですか。滑稽で見ていられませんが、三文小説のネタとしては面白そうなものです」


(……はいはい。そうですか、そうですか)


 椅子に腰掛けたまま、不敵に笑う母親。病弱らしく、春風に靡く黒髪を耳に掛け、いつも書斎の隅に座りながら点字を指でなぞっている彼女の姿はパッと見れば怜悧な印象を抱かせる。だがしかし、私は初対面以降、一度だって彼女から『それらしい』、言ってしまえば『大人しい』やら『知的』だとかは感じることはなかった。

 まったく、嫌味な人である。これではまるで私が飼い猫ではないか。

 あ、そうか、飼い猫だったか。……これだと三文小説と言われても詮方無いな。


「テレスー、どこにいるのー?あ、あー、お母さんと一緒なの?」


 無邪気にドアが開けられた。入室してきたのはアリスだった。

 暇をしていたのだろう私の飼い主であるアリスは私を呼びにきたはずにも関わらず、私をそっちのけで母親の方をジッと見てモジモジとしている。こんななりだが母親は一児の母親であり、魔女としての商売も上々の人物である。研究と称して小屋に籠る期間も長く、ありていに言えば暇ではないのだ。


「……あ、あの、お母さん。いつもの本、読んだける。だから、さ?」


 だからアリスも要望を遠慮がちに伝える。まるで子供らしくない。

 母親も母親である。世間一般の母親らしい態度を取らずに「そう」とだけ答え点字の浮かぶ書籍を閉じる。猫の私が人間社会の世間一般を語るのも笑い種なのだが、猫らしくない猫である私なのだ。母親らしくない母親を、子供らしくない子供を詰るぐらいはかまわないだろう。

 

「わかりました。ではいつもの本で、魔女の薬の勉強をしましょうか」


「いいの!やったー!」

 

 アリスと母親の関係は親子というより師弟に近いように思える。時にアリスは母親の足に、時には腕に、時には目に、その過程を経て得られる魔女の薬の知識にアリスは喜びを感じているようだったが、私にはいいように使われているようにしか見えない。

 これが愛娘に対する対応なのだろうか。猫だからわからない。


「アリス、今日は晴れていますね。外の景色が見たいです。案内をお願い」


「うん、わかった!じゃ、いつものとこに行こ!」


 アリスは母親の手を引く。それに諾々と受け入れて着いていく母親。

 アリスが母親の代わりにドアノブを捻ると、奥から体格の良い精悍な顔立ちの外国人の男と鉢合わせになる。アリスの父親の西田クリスチャンである。ギリシャ人とマケドニア人(現在は北マケドニアと国名を変更しているらしい)のハーフであり、髪色も赤褐色と明る色。学生時代をアジア圏で過ごしたらしいグローバルな人物である。

 父親はどうにもぶっきらぼうというか、愛想が無い。「出掛けるのか?」と聞く父親。「ええ」と母親。


「そうか、足元には気を付けて。アリスも、遠くには行かないように」


「うん、大丈夫だよ、お父さん!いつものとこだから!」


 そうか、と言い残し、父親は奥間に消えていった。

 海外を飛び回るジャーナリストが父親の職種であるらしく、その職業柄か海外赴任も多く、それはアリスの妊娠時・出産時もそうだったようだ。流石にと思ったのか以降は自宅にいる期間が多くなったようだが、とはいえ猫の私も、あまり会わないな、と思うくらいには頻繁に出張を重ねている。

 そっけない会話。これは夫婦間の不和のようにも見えるが、大丈夫なのだろうか。


(ともあれ、西田家の家族関係に介入はできないだろう。なぜならば、私は猫なのだから)


 だから最近お気に入りの哲学者を読み耽る。

 言葉の勉強ついでに、人間とはいかに面倒くさい生き物なのかと嘲笑うために。


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 半年後に父親と母親と娘が死ぬ夢を観る。

 

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「テ、テレスー!お、お化け、お化けが出たー!!」


 まただ。今年に入って何度目の騒ぎだろうか。

 時期は稲穂が礼儀のよくなる季節である秋、銀杏の匂いに鼻をつまむ私であったが、アリスは恒例にもなったお化け騒動で一人騒ぎ立てている。いつかレンタルしたホラー番組にでも触発されたのだろうが、初めこそ初々しくて愛らしく思えたのだ。しかし、この頻度となると流石に鬱陶しくなるのも条理である。

 

「だから、お化けなんていないって。ほんと、人間って迷信が好きだね」


「いるって!いるんだって!だって物音がするんだもん。ガンガンって!」


 お化けが、お化けが、と親譲なのだろう碧眼をウルウル潤ませるアリス。

 無性に放っておきたい気分に駆られるが、そうやって問題解決を間延びさせていたから今があるのだろう。なんだったら放っておくともっと五月蝿くなっている未来さえ見える。嘆息を挟み、私は読みかけの本を閉じる。グーッと背筋を伸ばす。


「……で、どっから聞こえてきたの?」


「あっち!あっちから!ついてきて!」


 走るアリスは後方の私に早く早くと煽ってくる。しかし猫の歩幅は人間のそれと違うのだから無理をさせないで欲しい。

 そうして連れてこられたのは庭の奥まった場所にある古びた作業小屋。敷地内なのだろうが、田舎の、それも山地の敷地の線引きなんてもんは微妙なもんで見かけるたびに法的に大丈夫なのだろうかと思わされる。ほんのりと薄暗い山分けの場所なもので、ここに住む私もあまり近寄ることのない小屋だ。


「なんでこんなところから。アリス、いつもこんなところにいるの?」


「そうじゃないの!音!音がするの!こう、バンバンって!私だって、一人でこんなところ来たくないよ!」


 なら無視すればいいのに、と思うのだが、そういうわけにもいかないのが人間の性らしい。

 しかし、これが仮に人間の大の大人の不審者だったりすれば私にいったい何が出来るというのだろう、せめてアリスは守れるのだろうか、とお化け騒動なんかよりもよっぽどホラーな想像に一匹肝を冷やしていると、

 

「……やかましい。どうしたのですか?」


 その作業小屋の扉からひょいっと顔を覗かせたのは、誰を隠そう母親だったのだ。

 現在何らかの作業中だったのだろう、いつもの済ました顔の頰には汚れを拭った跡があった。

 

「え、お母さん!?どうして、こんなところに?」


「どうしてって、ここが私の作業所だからですよ」


「作業所って、その、一人で作業をしているの?えっと、目とか、大丈夫なの?」


「大丈夫ですよ。何年盲目で生活を営んでいると思っているのですか。だいたいの作業なら文字通り目を瞑っていたって可能です」


 呆れた顔を見せる母親。まったく、何年盲目の生活とやらを営んでいれば目隠し状態さながら一人作業に勤しめるのだろうか、知りたいところだ。そんなものは猫は当然に、人間だって出来る業とは思えないのだが。やはり映画にあったシックスセンスなる感性が一部人間には備わっていたりするのだろうか。

 それはそれとして、母親の未知はともかく、小屋内の人物が不審者ではなくって良かった。

 結局、幽霊の正体見たり枯れ尾花、よく言ったもので、いつだって事実は単純なものなのだ。

 

「でも、ちょっと大きい物音だったよ?……お母さん、私も手伝うよ?」


「……ごめんなさい。次からは、気をつけますね。手伝いもまた別の機会にお願いしますから」


 母親の返答には妙なラグがあったように思えたのだが、アリスは事の真相を突き止められ、母親の回答に満足したらしく、住処である家の方面へと戻っていってしまった。私もそれに追随しようとアリスの後を追おうと思ったのだが、「ねぇ」と静かな声音で母親に呼び止められる。


「……猫畜生に理解できる概念なのかは疑問なのですが、ダメもとで聞きます。貴方にとっての『愛』とはなんですか?」


「……あい?はぁ?『愛』?」


「ええ、愛。らぶ。あもーれ。りーべ。あがぺー。つまり『愛』のことです」


 何を言っているのだろう。頭でも打ったのだろうか。それも打ちどころが非常に悪いと見た。

 そんなもの、自分探しと評して世界旅行を満喫する青年でも顔を真っ赤にして痛々しさを自覚するぐらいには痛い質問である、と猫ながら思うのだが、


「……さぁ。あいにく人間のように面倒臭く性欲を綺麗な言葉に変換する能力のない野蛮な種族柄なものでして。敢えて言語化するのであれば、子供を産み、そして育てることに意味があるのではないですか。その過程こそが『愛』なのでは?私には経験の無いことですので、分かりかねますが、」と。


 この上なく適当な回答をしてやったつもりだったのだが、母親は目を丸くしたかと思えば、納得のいったような表情をする。

 ええ、そうよね、なんて独り言を呟きながら、


「そうですね。避妊手術しましたものね」、と。


「そうですよ。避妊手術をした本人である貴方が愛を知らないのであれば私に知りようなどないですよ」


 謂わば私から愛を奪った女である。それを抜きにしたって恨みつらみが多いので是非一度化けて出てやりたいところだ。

 ところで、話は一転変わるのだが、この時には既に母親は懐妊していたらしい。女の子だそうだ。

 そんな事実を、今から三ヶ月ぐらい後になって、大きくなったお腹を見て気が付いたのだ。


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 三ヶ月後に父親と母親と娘が死ぬ夢を観る。


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 母親のお腹が昨晩よりも大きくなっているのではないかと思える日々。

 父親はいつも通り出張中である。どうやら海外で大きな事件があったそうで、最近はめっきりそれにかかりっきりだ。

 一方、我が家の庭先では、アリスが母親の目の代わりとなって薬草を見分ける図鑑を開き、母親がアリスに薬草の薬効を教示している。

 私は付き添いで傍に居るのだが、魔女の薬草とは文字通りに『魔法』のような代物であるので、聞き耳を立てて母親の講義に傾注する。


「それはバイケンソウですね。古代ギリシアの大学者テオフラストスの『植物誌』の中で白いヘレボロスと紹介されているのですが、くしゃみを催させる効能があるとされています。黒いヘレボロスと呼ばれるクリスマスローブもあり、キンポウゲ科の植物もありますが、私はヘレボロスと言えばもっぱら白いヘレボロスのことを指すと考えています。なんたって、くしゃみが出るだなんてユニークではありやしませんか」


「それ、ヘレボロスって、たしか魔女の薬の材料だよね!確かヘレボロスの粉末をひとつまみ、高い純度のチョコレートを五グラム、アサとケシの代用の薬草を片手に半分ずつ、挽いたひまわりの種、それに人間の脂肪を百グラムと魔女の血液で、……えっと、効能は、」


「成長促進剤です。草木や花、猫のような生き物にも適用可能ですよ」


 ひっ、と身震いする。得体の知れない薬効もそうだが、人間の脂肪を百グラムとはバイオレンスである。

 これが冗談に聞こえない理由があるのだ。なにせ一度、私は私自身のクローンを作られているのだから。

 一年以上前のこと、怪しげな粥を飲まされたかと思えば、毛を毟られ、いつの間にか眼前には私と瓜二つの毛並み毛色の子猫がにゃーと呑気に鳴いているのだ。追加で先の説明にあった成長促進剤を処方されたのだろう、みるみるうちに子猫は大人猫と変貌を遂げ、そのまま実験材料にされてしまった過去がある。

 科学は時に倫理に背くことがあるが、その場でアリスには同じ体験をさせないよう約束させたことは私史上最大の功労の一つだろう。

 やはり、母親は魔女なのだ。魔女を倫理で語れば齟齬が生まれて然るべきなのだろう。


「因みに、クローンの作成には新生児の肉を使用します」


「なんで急にクローンの話?……えっと、クローンの作成の材料はケシの代用の実と、イヌホウズキ、トウダイグサ、ドクニンジンと、あと魔女の血液を煮て粥状にして被験者が食べるんだったよね、お母さん。なんか、テレスとの約束?で私にはやらせてくれないけど。本に書いてあったの、憶えてるんだ!」

 

 ……流石に、新生児の肉は何かの暗喩だろう。そもそも人間の新生児の肉なんて入手するルートがない。

 母親がいくら魔法じみた薬効を産み出せる魔女だといえども、そんなイリーガルもイリーガルな手段は講じ得ないだろう。それに、もし仮に新生児の肉など一介の魔女が入手出来てしまうのであれば、この国はもはや法治国家としての機能を完全に失ったと言っていい。

 しかし、それがわかっていてもなお、気分が悪くなりそうな材料のラインナップだ。


「……ふう。さて、猫畜生が盛って喧しいので、今日はここでやめにしましょう。興が削がれました」


「えー!もー、テレスが五月蝿いせいで、……って、あれ?今日テレス喋ってたっけ?」


「……にゃー」


「あ、喋った」


「……貴方はもう少し可愛げのある声では鳴けないのですか、猫畜生?」


 すみませんね、あんまり可愛げがなくって。てへぺろ。

 いよいよ呆れられて母親は自室へと戻っていったようで、その後、私たちにはしばらくの暇が生じた。一面見渡せども山、山、山。山に囲まれて生きているこの場所は、自然は腐るほどあれども、自然以外には何もない。よって、私たちは恒例の暇を潰すための方策に頭を悩ませる暇潰しをすることとなる。


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 暇つぶしを決行した日、この片田舎で事件があったのだ。後日、地方新聞の片隅に載る程度の事件である。

 母親の講義の後、自由時間という名の暇が出来てしまったため、私とアリスは散策へと出掛けた。とは言っても子供と猫の足だ。そう遠くにも行けず、アリスは川岸の平べったい石を拾い上げて水切りとして遊び始め、私は岩場の上でくつろぎながら見守ってやることぐらいしかやることがなかった。

 一、ニ、三、四、五、……アリスの放った石は水面をジャンプする。

 私はそれを見ながら間延びするあくびをしていると、不意に山奥だというのに人の声が聞こえてきたのだ。


「――――――」


「――――――」


「――――――」


 それも複数人の人間の大人の声である。

 暇に胡座をかいていたこともあり、私とアリスは一も二もなく釣られて声のする方向へと様子を見に行くことにする。すると、緑に満ちた山奥の中に人工色の黄色が線を引いていた。立ち入り禁止テープである。一見して事故か事件か、定かではないが何かしらが近辺で起こったことは明白ではあるのだが、野次馬の人数も少人数、一部カメラを首からかけるメディア風の人物もいたのだがなんとも退屈そうな眼をしていた。

 少々気になり、私は「様子を見てくる」とアリスに伝える。

 一方「えー」と反抗するアリスだったが、私はアリスをその場に残して立ち入り禁止テープの向こう側へと覗きに行った。


「……なんだ、あれ?……人間の、死体?」


 川の中洲、砂利が積載するその場所に女性らしき人間の腐乱死体があった。

 腐乱死体だとパッと見ただけでわかるくらいには死体で、生気がなかった。

 皮膚がぶくぶくと膨れ上がった死体は、紺碧の眼球、明るい髪色の長い髪を身体に絡ませており、さながら打ち上げられた人魚のようだ。

 その死体の傍で手を合わせている髭の濃いスーツ姿の男性は、横の若い男性と何か言葉を交わしているようだった。若い男性は青ざめている様子で口を押さえていたが、髭の濃い男性は苦い顔をしながらも死体に対する所見を述べているのだろう。

 彼らは近辺の警察官なのだろう。その会話に耳を傾ける。


「……皮膚が腫れ上がってやがる。こりゃ、わかりやすい水死体だな」


「……結構グロいっすね。死後数ヶ月ってところでしょうか?」


「……なんとも言えんな。ただ、不運な事故だったろう、ってぐらいか。水辺ででも足を滑らせたのだろうが、そこで溺死か。肌の具合から見て、そのまま河川に流され運ばれてここまで行き着いたのかも知れん。それに、見てみろ、野犬かなんかに臓物を食い荒らされたのだろう臓器がいくつか欠けている。詳細は鑑識に頼ることになるだろうが、事件性は薄いって見てもいいんじゃないか。……どっちにしろ、俺らの仕事はまずご遺体の身元を割り出さないといけないことだな」


「……うっ。マジで誰なんっすかね。腐乱が進んで簡単に身元割れそうにないですけど。碧眼に、ホワイトブロンズの髪色を見るに外国人なんっすかね?」


 様子を伺うに、現場判断ではおおかた事故死と見ているのだろう。

 野次馬もメディアの人間も退屈そうにするわけだ。川に流されてくる人間の死体だなんて珍しいものじゃない。そもそもここは山奥の河川、勾配も急で川も流れが激しい。アリスも一人では置いてはおけない危ない場所であるために、人間が一人や二人流されてきたって話題性は即日に風化する程度の出来事だ。

 しかし、私は、私だけは、この場で一匹、拭いきれない違和感に苛まれているのだ。私は人間の死体に近づく。


(…………あ)


 そして、私は、その死体の違和感に勘づく。

 この場で私だけが勘づけるのだ。それは、見たくなかった、では済まされない後悔だった。


「あ、こーら。猫ちゃん。ダメでしょ、勝手に入ってきちゃ!」


 叱咤の後に抱え上げられる。そこにいたのはさっきの若い方の警察官だった。

 髭の濃い警察官から煙たがる目で見送られた後、「その黒猫、私のです!ごめんなさい!」とアリスは平謝りして引き取ってくれるまで自分が放心状態であったのだと気付かなかった。帰宅後にはアリスにこっぴどく怒られたのだが、同時に私の心は密かに安堵もしていたのだ。

 彼女に、あんなもの、見せずに済んだのだと。

 あれは、ひどく醜い残骸だった。


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 一ヶ月後に父親と母親と娘が死ぬ夢を観る。


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 雨垂れが屋根を打つ悪天候の昼過ぎ、テレビではめっきり国境を超える某教会で横行していたとされる人身売買疑惑でもちきりだった。曰く、赤子の孤児を斡旋業者に売り飛ばす、なんて非人道的なことをしていたらしく、物知り顔の専門家気取りが結論をぼやかしながら経緯を話していた。

 面白いと思って見ていた記憶のないテレビだったが、今日は一際つまらないと見切りをつけ、アリスを探すことにする。

 アリスならこの時間帯、自室で魔女の薬草学の勉強中だろう。こっそり覗いてやろうとしていると、


「……いままで、すまなかった。ツボミ。愛している」


「……私もですよ、クリスチャン。愛しています」


 両親の寝室のドアが隙間ほどだけ開いており、中では明かりも灯さずに抱き合っている父親と母親がいた。

 デバガメ心がくすぐられたのだ。様子を伺うに、特に生殖行為を行なっている風でもなく、父親が母親に泣きついている形であるようだった。「ごめん」としきりに謝罪の弁を口にする父親に、「いいのですよ」と母親は何度も宥めて微笑みかけている。


「……いや、君には謝らなければならないんだ。僕は、ずっと君を疑っていた。性懲りも無く、ずっと、だ。だけれども、それは僕の杞憂だったのだ。疑われていたままで気分が良い訳も無いだろう。だから、僕は君の気がするまで謝らなくてはならないんだ。家族だから。本当に、すまない」


「……貴方に探られて痛い腹は私にはありませんよ。私は、貴方の気が済むのであれば、それでいいのです」


「……すまなかった」


「……いいのですよ。そもそも、私は貴方に拾われた身だったのですから。好きに疑ってもらってもいいのです」

 

 会話の内容はよくわからなかった。だが、話のさわりを理解するに何かしらの謝罪であることは明白だ。

 贖罪の意思のある父親と、その気の無い母親。重苦しい空気感ではあるのだが、そこにはいつしか私の懸念した夫婦間の不和などはなく、いかにもプラトニックな関係性が垣間見えていた。「この子の名前、もう決めたのか?」と父親が母親の膨れたお腹に額を当てていると、「女の子らしいですから、カンナ、なんていいのではありませんか?」と母親はいつになく優しい声音で答える。

 

(……まったく、覗いているこっちの調子が狂いそうだ)


 ……と、自業自得な感情に心を掻き乱されていると、


「……いいなぁ」、と。


 吐息と聞きまごうような呟きをしたのは、私の探し人であったアリスだった。

 羨望の視線がそこにはあった。であれば、アリスは何を見て羨ましいと思ったのだろう。母親だろうか。それとも父親が。両親ともどもか。はたまた、それ以外の何かなのか。アリスの声は決して大きな声ではなかったけれど、「……アリス?」と父親がアリスと私の気配に勘づきドアを見やる。

 猫の私はともかく、デバガメがバレたアリスはバツが悪そうにその場を立ち去ろうとするが、


「待ってくれ!アリス!」


 父親はアリスを呼び止め、アリスも振り返りこそしなかったものの足を止めて父親の言葉を待つ。

 しかし、父親は言葉では応えなかった。アリスの背後から抱擁したのだ。「すまなかった」と、陳謝しながら。


「僕が未熟だったんだ。だが、もういいんだ。僕の仕事は終わったから。だから、これからはちゃんと父親をしようと思う」


「……甘えても、いいの?いつもお父さん、忙しそうにしてるからダメだと思ってたけど、今日は、甘えてもいいの?」


 アリスも、強がっていた節があったのだろう。

 彼女は元来からして強がりをするのだ。痛いものを「痛くない」と言い張り、辛いものを「辛くない」と言い退け助けを固辞する。強がって、涙を拭って、自分はいかにも大丈夫だって顔をしたがる子供なのだ。けれども、本当は泣き虫で、臆病で、ずっと年相応に甘えたがりで。


「……あぁ。いいぞ」


 彼女は隠すことも忘れて大粒の涙を流し、父親へと抱きついた。

 おそらく、この時アリスは初めて、父親に抱擁されたのだろう。


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 三日後に父親と母親と娘が死ぬ夢を観る。


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 父親は珍しくタバコを咥えていた。雲行きの怪しく肌寒い昼間のことだった。

 アリスはめっきり甘えん坊になっており、終日父親にベッタリだったのだが、いまは母親と日課をしているために席を外している。家族に配慮して外の玄関口にある石段に座って煙を吐いていたのだが、ふと私の存在に気付くと灰をコンコンと灰皿に落として私の方へと向かって歩いてくる。


「……お前も、もうここに来て二年が経つのか。早いものだな」


 父親は私の頭をごつごつとした手で撫でる。思えば、初めての体験かもしれない。

 特に距離をとっていたわけではないのだが、私は父親ににゃーと鳴くに留めていた。


「……お前は常々賢い猫だとは思っていたが、こう相対すると僕を見透かしているような眼をしているのだな。……僕は愚かな父親だ。だからお前が時に羨ましく思うよ。お前のようにまっすぐと生きられれば、きっと僕の苦しみは苦しみとして認知できるものでは決してなかったのだろう」


「……にゃー」、私は肯定も否定もしない。


「……僕にはね、好きな言葉があるんだ。金科玉条と言っていい。マザー・テレサの言葉でね、少し長いが「思考に気を付けなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気を付けなさい、それはいつか行動になるから。行動に気を付けなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気を付けなさい、それはいつか性格になるから。性格に気を付けなさい、それはいつか運命になるから。」というものだ。直で聞いたわけではないが、力のある言葉だと思ったよ」


「……にゃー」、聞いているとだけ、父親に伝える。


「……僕は、これを逆説的に捉えているんだ。一時的な衝動などは、淘汰される。一時的な気の迷いなんかは、日々の修練によって否定される、とね」


 私は父親の前ではあまり話さない。父親も、あまりそれを望んでいないようだったから。

 だが、一言ぐらい意味を聞いておいてやれば、と思わなくもないのだ。


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 アリスが私に何かを聞いて欲しそうにモジモジとしている。

 だから何も聞かずに放っておくと、「もう!聞いてくれたっていいじゃん!」と私を抱きかかえ頬を膨らませる。ここまでが様式美である。学ことなく繰り返す自分にも嘆息しながらアリスに何があったのかと問うと、アリスはおもむろに胸元から四枚の映画のチケットを差し出してきた。


「……ちょっと前にね、お母さんのお客さんからチケット貰って。でも、お母さん盲目だし、テレスは猫だし、お父さんも好みじゃないかもしれない」


 チケットの絵柄を観るに女児向けのアニメ映画なのだろう。

 間違いなく父親の好みではない。映画なのだから母親も楽しめないだろうし、私は言わずもがな猫である。

 だが、娘がひとたび観に行きたいと懇願するのであれば、両親揃って日にちを空けるものではなかろうか。


「……でも映画はね、ただの口実なの。本当は皆んなでお出かけしたいなって思って。考えてもみれば、私たち家族でお出かけしたことなんて一回も無かったと思うし、旅行みたいな大きな行事じゃなくたっていいから街中を観て回りたいななんて。……だけど、映画のチケットじゃ、一緒に来てくれないかな?」


 アリスの願いは、年相応に抱くわがままにしてはとても奥手で初々しいものであり、痛々しくもあった。

 だから、魔女の従者として、そして家族の一匹として、私の答えは決まっているも当然だった。 


「……いいよ。私は行く。映画館には入れないだろうけど。ほら、お父さんとお母さんにも聞いてこないとね」


「……うん。うん!ありがとう、テレス!」


 アリスは「お母さん探してくる!」と母親のよくいる書斎の方に向かって行った。

 私は万が一、母親が書斎で趣味の編み物をしていなかった場合のために、二度手間にならないよう母親の出没地帯である山奥の作業小屋へと向かう。しかし一時期お化け騒動にまで発展していた作業小屋からは物音などなく、ここは空振りだろうか、と作業小屋の扉を開けた。

 結果、目を見張ることとなる。


「……うっ。なんだ、……なんだ、これ?」

 

 瞬間、強烈な匂い。床、壁、机の上、それぞれに夥しい血痕が飛び散っていた。

 それはまるでバケツでもひっくり返したかのような血の海の傷跡。とっくに乾いているようだったが、過去に凄惨な何かがあった、それだけは克明に刻まれている現場である。さながら、殺人現場、と言えばしっくりくるようだった。

 作用小屋の奥、そこに私の見知らぬ扉があった。

 以前の記憶と合致しない。記憶が正しければ、あそこには辞書のような書籍が詰まった本棚であったはずだ。

 私は、その扉を開く。


「 くらい ここ くらい こわい たすけて たすけて たすけて たすけて いたい おなかいたい おなかいたい おなかいたい おなかいたい おなかからでていく みんなでていく しんじゃう こわい いたい おなかいたい おなかいたい おなかいたい やめてよ なんで いたい いたい いたい いたい きこえる だれかきた だれ だれ だれ たすけて たすけて おばけじゃない たすけて ここ ここ ここ きて ここに ここに ここに あ いたい いたい いたい ごめんなさい あ そこ しぬ 」 


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 明日に父親と母親と娘が死ぬ夢を観る。

 

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 土砂降りの雨、溢れんばかりにコポコポと排水溝から洪水が山道を侵食する日。

 このような悪天候に我が家に客が来るはずもなく、母親は店番もせずに書斎で編み物を嗜んでいた。

 一方、父親は机の上に項垂れている。よく取材の仕事の際なんかにも煮詰まってああなることがある人だったが、今日の日も何かに煮詰まってしまっているのだろう。声を掛けてやりたいが、今回の件に関しては結構こたえているようで、近寄り難い雰囲気を醸し出していた。

 触らぬ神に祟りなし。私は父親を横目で流し見る程度にしておいた。

 しかし、私はそれでよかったが、柱の後ろには人っ子一人分の影がある。アリスだ。


「………明日、明日に、……明日に渡そう」


 アリスはそのまま、その場を後にした。

 

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 今日、父親と母親と娘が死んだ。

 〇〇年二月二十六日。産婦人科に行く最中の道だった。陣痛が酷いとの母親の申告に父親が車を出したのだ。アリスと私は留守番だった。私がそうした。帰りが遅いもんだから帰宅時に両親を驚かそうとスープシチューをアリスが拵えているところだった。一通の電話が掛かってきたのだ。知らない番号だった。

 受話器を取った。その時に、私達は両親と両親の腹の子の死亡を知った。


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 昨日、父親と母親と娘が死んだ。


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 死因は父親の運転操作ミスによる崖からの落下死だったそうだ。警察官からは、そう説明があった。

 身元確認のため、特別に許可が出た私とアリスで遺体の確認があった。損壊の激しい死体だった。

 初めて、母親の眼を見た。薄く開いた目蓋の奥、そこには父親と同じ新緑のような翠眼があった。

 

(……あまり、この三人の遺体をアリスには見せたくないな)と、思った。

 

 ひしゃげたガードレールをさっき見てきた。事故現場は海岸のくねり道、そこにはハの字に折れたガードレールがあり、真ん中にはぽっかりと車一台分の穴が空いてあった。その崖下深くには乗用車が転落しており、鋭い岩が車の窓を貫いている。説明にあった両親ともどもの即死の情報の信憑性を高めた。

 曲がりきれなかったのだろう、と警察官が他の警察官に話をしていた。

 不運な事故だ。現場を取り仕切っていた全ての人間がそう思っていた。


(……ひどい現場だ。こんなもの、猫でもなければ見ているだけで吐き気を催すだろうな)

 

 私は猫なもんだから立入禁止区域も素知らぬ顔で出入りできたが、アリスを連れてこなかったのは正解だったろう。入れないし、入らせられない。あの現場は、私たちの一つの運命の結末点だった。明日があると妄信していた者たちの無惨な最後。それを悲劇と呼ばずしてなんと呼ぼうか。

 私は事故現場から病院へと戻った。患者や看護師が廊下を行き来する中、病院の廊下の隅の陰った場所にアリスは一人座っていた。

 膝を抱き、俯き、このまま影と一体してしまうのではないかと思える風であった。


「……アリス。起きてる?」


 私は言葉を誤らないように細心の注意を払った。

 割れ物を扱うように繊細に、機微に全ての神経を使い、アリスの隣に座った。


「……アリス。私はここに居る。何処にも行かない。ずっと君の傍に居るから」


「……テレス。どうしよう。どうしよう。……ねぇ、どうしたらいい?……みんな死んじゃった。お母さんも、お父さんも、赤ちゃんも、みんな死んじゃった。もう、お話もできないんだよ。薬草の薬効も教えてもらえないし、タバコもやめてって言えない。妹の顔も見れない。どうしよう、全部無くなっちゃった」

 

「……私はずっと一緒にいる。ずっと、ずっと。……だから、」


「……私も、もうしんどいよ。……私も、一緒に死にたかった」


 ほろりと腫れた目蓋から涙を流すアリス。きっともう涙腺だって枯れるってぐらいに出て行ったであろう涙のはずなのだが、それでも溢れてくる者なのだろう。電話の受話器越しに死亡の通知が来た時分には唖然とした表情で忘我を彷徨っていたアリスが、今頃になって心のグジャグジャを整理し始めたのだろう。

 アリスの心の言葉は冷酷に告げるのだ。全ての事象が思い出となっていく、と。

 だから、私はそんなアリスの指先を思いっきり噛んでやった。


「痛ッ!なにすんの!!」


「そんなもんで痛がっている奴が、死にたいだなんて二度とほざくな」


 しんどいことぐらい知っている。苦しいことぐらい知っている。私が代わってやれるならば、如何様にしてでも代わってやりたいぐらいだ。それでも、生きている人間として、後追いなんてもんは許しちゃならんのだ。逃げて、逃げて、逃げ続けることだって人生の哲学かもしれない。そうでしか手に入らない安寧があるかもしれない。だが、家族の棺桶の中に自ら呑み込まれるだなんてことを容認すれば、それは生きるってことの意味が殺されてしまうことと同義だ。

 それは、勝手な話だが、私の哲学に相反する。だから、許さない。


「……なんで、こんな目にあわなくっちゃいけないの。……なんでっ」

 

 アリスは声にならない叫び声をあげる。泣く。泣きじゃくる。そうして泣き疲れて、そのまま眠ってしまった。


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 病院の窓ガラスから日光から入ってこなくなって久しい時刻。

 アリスは三角座りで私を抱き寄せながら眠りこけてしまっていた。寝息をたてている。きっと泣き疲れて夢すら見る体力さえ奪われたのだろう。それはよかった。そんな風なことを思案していると、廊下で白衣の老人とすれ違う。老人はアリスを見かけるや、眉を八の字にして困った表情を浮かべるのだ。


「困ったな。困った。ここで眠られては風邪をひく。……しかし、まぁ、災難があった後だからなぁ」


 白衣の老人はどうやら医者らしく、名札には『張』と書かれている。

 独り言を盗み聞くに、彼は昨日の事故の概要を知っているようで、アリスに憐憫の情を寄せているらしい。

 だから、私は話を聞くこととした。


「ご老人。急な会話を失礼します。ご相談、よろしいでしょうか?」


「……こ、これは、猫が喋っているのかね。いや、まさか、」


「院内で私のような猫が入り込んでいることは先にお詫びします。しかし、聞きたいことがあるのです。お時間は取らせない所存ですので」


「いやいや、それは構わんのだが。……いやはや、奇怪なことがあるもんだ。まさか、猫が人の言葉を介するとは」


 話の早いご老人で助かる。時間を取らせないと言った手前、何を伝えるべきか、何を聞くべきか、何を知り得るべきか、これらをまとめる作業に手間取り逡巡しているところを見透かされでもしたのだろうか、「実はだね、」と老人の方から私へ話を振ってくる。

 手に持っていた書類を私に見せてくる。「日本語は読めるのかね?」と少し興味を寄せながら。


「……私もね、君が傍に居る少女の父親から依頼があったのだよ。彼とは古い知り合いなようなものでね、何度も困った依頼をする男だったが、私も断れない性分なのを見透かされたのが痛恨の極みだった。何度も何度も無理難題を言われたものだよ。そして、これが彼からの最後の依頼となった」


 老人が私に提示したのは遺伝子情報の鑑定書だった。


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 一年前、父親と母親と娘が死んだ。


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 一周忌となった命日、両親と妹のお墓の前で手を合わせる魔女。

 庭先の日当たりのいい場所に墓を作ったのだが、なかなかどうして、我ながら悪くないデキのように思う。もちろん私の独力によるものではなく魔女も尽力した共同作ではあるのだが、もっとも私の仕事量との対比で言うに4:1ほどであったため、心の中でドヤるぐらい許して欲しい。

 魔女はもう泣かなかった。思い出話を語る彼女は些か悲しそうではあったが、彼女は墓標に自立を誇示せんがために笑って話して見せた。

 健気な姿に私のお節介が出かかるが、今日ばかりは黙って魔女の勇姿を見届けとする。


「ねぇ、テレス」


「なに、アリス」


「……変なこと聞くようだけど、テレスってさ、『愛』ってなんだと思う?」


「……ホントに変なことを聞くね。そうだな、たぶん、きっとそれは――――――」

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