第33話 大好きな君に

 季節は変わり続け、そしてまた、めぐってくる。

 あの頃、この公園には散った桜が風に流れていた。

 ここで彼女と出会った。

 出会った、と言っていいだろう。あの日、あの時、幸太は美咲とともに恋を始めたのだ。

 もちろん、彼女にはそれよりはるか以前から想いを寄せていた。それこそ、12年間、想い続けた。

 だが、幸太が彼女と関係をつくり始めたのは、まさしくこの場所からだった。

 今、季節はひとめぐりしようとしている。

 園内は梅が見頃を迎え、気の早い河津桜かわづざくらも満開だ。菜の花畑も、鮮やかな黄色の花がにぎやかに咲き誇っている。しかもこよみの上はまだ2月というのに、気温は18度まで上がって、歩くとわずかに汗を感じるほどの陽気でもある。

 ゆっくり、ゆっくりと一歩ずつ、幸太は思い出をたどるように歩いた。

 すべて、美咲との思い出だ。

 ソロ・コンサートの、美咲の凛々りりしい姿。

 ふたりで、足が動かなくなるまで風船割りをしたこと。

 逃げる彼女を追いかけて、樹の周りをぐるぐる走った。

 そのときの、美咲のはじけるような明るい笑い声。

 ふと長い髪から香る、みずみずしくさわやかなにおい。

 一緒に食べたたこ焼きやソフトクリームの味。

 好きな歌を口ずさむ美咲の姿を、写真に収めた日。

 そして、幸太が、愛するひとに想いを伝えたとき。

 すべて、ふたりでつむいだ歴史、並んで歩んだ道だ。

 原っぱまで足を踏み入れて、幸太の耳は管楽器の音をかすかに聞いた。

 この日は土曜日で天候もよく、平日の放課後帯と比較すると人が多い。あちこちで、カップルや、親子や、グループが思い思いに声を上げている。

 だが、そうした人の声とはまったく異なる、異質な音が、気高けだいほどの音色を響かせて、彼の耳には届いた。

 原っぱの中央にある、大きな樹。

 彼は、自分の足元からその樹へ、一筋の線が伸びているように思われた。

 白と青のストライプが入ったシャツワンピースに、ヒールの利いた白のサンダル。

 春を飛び越えて、初夏のような涼しげなよそおいの女性が、丁寧に、心を込めてサックスを演奏している。

 (美咲……)

 幸太は心のなかで、その名前を口にした。何度想っても、決して色あせることのない、美しい名前だった。この1年間、いや13年間、幸太にとって愛を象徴する名前であり続けた。

 もっと、もっと彼女を愛したい。

 ずっとずっと愛し続けていたい。

 これからも、彼女の名を呼びたい。

 幸太は、見えざるラインによって結ばれたその道を、まっすぐに歩いた。

 芝生を踏みしめるように歩き続け、やがて美咲は彼の姿を視界に見出みいだして、演奏をやめた。

 なぜか、ふたりは互いにたたずんだまま、しばらく見つめ合った。

 そして、美咲が歩き出し、すぐに走って、そのまま飛び込むように、幸太と抱き合った。

「コータ、会いたかった!」

「美咲、お待たせ!」

 ふたりは、失った時間を取り戻そうとするように、いつもの樹の下で、話をした。

「受験、長かったね。けど昨日、美咲の合格聞いて、俺ほんとにうれしかったよ。たぶん、自分の合格聞くより、うれしいと思う」

「コータは結果に自信があるからじゃない?」

「俺の場合はさ、やりたいことがあって大学に行くわけじゃないから。だから自分よりも、美咲が目標に向かって近づいたことの方が、うれしいんだよ」

「コータ、ありがとう。昨日、電話でも言ったけど、ほんとにコータのおかげだよ。それから、ふたりの愛の力」

 対面で言うと恥ずかしさが先に立つのか、えへへ、と美咲は照れ笑いを見せた。ひざの上に組んだ両腕に頬を乗せる仕草が、いかにも愛らしい。

 幸太はふと、美咲の爪が見慣れたよりも長く、色づいていることに気づいた。

「美咲、ネイルしたの?」

「あ、気づいた?」

「見せて」

 手にとってよくながめると、決して派手ではないが、コーラルピンクのワンカラーデザインがいかにも春めいて、手に大人びた華やかさと美しさを付加している。

「コータはネイル嫌い?」

「まさか。すごくきれいだし、似合ってるよ。もともときれいだったけど」

「よかった、うれしい! ほんとはコータに相談してからにしようかなって思ったんだけど、受験中だから邪魔しないようにしよって思ったの。コータが気に入ってくれて安心」

「美咲がしたいことは、我慢しないで、なんでもやったらいいよ。たった一度の人生だから、後悔したらもったいないし。それに、俺は美咲のことまるごと好きだから、美咲がほんとにやりたいことをやったのなら、それで嫌いになったりはしないよ」

「うん……ありがとう! そしたら私、髪もばっさり切ろうかな!」

「ショートにするの?」

「うん、どうかな?」

 と言って、美咲は胸まで届く長い髪を手で束ねて、ショートヘアーのシミュレーションをして見せた。

 すごくいい。

「美咲、ショートの方がいいかもね。きっと似合うよ!」

「えーそうかな。なんか幸太にそう言われるとうれしいけど緊張しちゃう」

「大丈夫だよ。絶対にきれいだから、やってみて」

「分かった、そうする!」

 美咲はずっと笑顔だ。しばらくぶりに会えたのが、よほどうれしいのだろうか。

 と思っていると、

「コータ、なんかずっとにこにこしてる。私に会えてうれしそう」

「えっ、それ美咲でしょ」

「コータだよ!」

「美咲だってずっとうれしそうににこにこしてるよ」

「えーそうかなぁ」

「うれしくない?」

「……うれしいよ、すっごく」

 うれしくない、とは冗談でも傷つけるかもしれないと思ったのか、美咲はそう言ってくれた。

 話題は自然、卒業式のあとの旅行の件になった。

 美咲は試験が終わったあと、幸太と一緒に行きたいところをじっくり考えていたらしい。家族以外と過ごす初めての旅行だし、あまり遠すぎず、ただ普段行かない場所を、時間を気にせず幸太とゆっくり歩いてみたい、と。

「それでね、コータがよければ私、横浜に行きたい」

「横浜、いいね。行こうよ!」

「やったぁ! 私、行きたいスポットたくさんあって。明日までにプラン考えてみるね」

「日にち、いつにしよう?」

「3月の7日と8日はどう?」

「いいよ、じゃあ決まり!」

「楽しみだね! 待ち遠しいよー」

「俺、楽しみすぎて待てないかも」

「えっ、待てないとどうなっちゃうの?」

「うーん、爆発しちゃうかも」

「あはは、コータが爆発したら悲しいから、おとなしく待っててねー」

 楽しい時間は、いつもあっという間だ。

 だんだんと空の色が変わり、あと30分もすれば、閉園のアナウンスが入るだろう。

 幸太はこの日、気になっていたことをこの時間に解消したいと思った。

「美咲、さっきの曲、もう一度だけ演奏してくれる?」

「いいよー」

 演奏に合わせてサビを幸太が口ずさむと、美咲は驚いた様子で、曲を終えてから、

「コータ、この曲知ってたんだ!」

「美咲のおかげでファンになったからね」

「歌詞まで知ってるなんてすごいよ!」

「あの日 あの時 あの場所で 君に会えなかったら……」

「ん?」

「この公園のこの場所で、俺のすべてが始まったんだよ」

「コータ……」

「今みたいに、一生懸命にサックスを吹く美咲の姿が、俺は好きだよ。あの時から、ずっとずっと」

「うれしい」

 美咲は瞳を涙ににじませ、語尾を震わせながら、応えてくれた。

「私もあの日のこと、忘れたことないよ。コータとの時間、全部が大切な思い出」

 彼女は、美咲というひとは、いつも幸太の愛情を大切に大切に受け止めて、そして懸命に、言葉と行動で想いを表現しようとしてくれる。

 そういう美咲が、幸太はたまらなくいとおしい。

「これからも、ふたりの大切な思い出、いっぱいつくっていこう。大好きな君と、俺はずっと一緒にいたい」

「約束よ」

 それはふたりにとって、口にするまでもないことであったかもしれない。

 約束しなくとも、ふたりがともに生きるかぎり、思い出はこれからもたくさんつくられていくだろう。

 だがこの場合のふたりは、それを言葉にして、約束をしたかった。

 約束をすること、そしてその約束をなぞってゆくこと。

 それも、ふたりにとってはこの上ない喜びであったからだ。

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