第31話 クリスマス・イブ

 期末試験を終え、終業式が済む頃は、街はもうクリスマスムード一色だ。

 ただ、受験生にクリスマスはない。

 幸太や美咲も例外ではなく、彼ら受験生にとって、冬休み期間というのはまさに最後の仕上げに移る段階と言っていい。

 高校3年のカリキュラムは2学期中に終えて、3学期は自由登校になる。始業式と卒業式以外はほぼ顔を出さない生徒も、そう少なくはない。

 クリスマスがどうのと浮かれてはいられないわけだ。

 終業式のあと、

 (美咲とも、しばらくはゆっくり会うこともできなくなるな……)

 と、そのことが頭から離れず、悄然しょうぜんと帰宅した幸太だった。

 幸太も美咲も、大学受験の本番は2月。それまでは、時間をしんで受験勉強に励むことになるだろう。

「ただいまー」

 気だるい声とともに玄関を閉めた幸太は、三和土たたきに女性もののスニーカーが乱雑に脱がれているのを見て、思わずぎょっとした。

「げっ……」

「コーちゃぁん」

 姉の幸美ゆきみが奥からひょっこり顔を出した。

 たちまち幸太の眉に嫌悪感が浮き、口からは不平が漏れた。

「なんで帰ってくんだよ!」

「だって、大学休みだと退屈なんだもぉん」

「この前帰ってきたときは実家は暇だって言ってたろ」

「だからぁ、コーちゃんと遊びたいんじゃない」

「シネ」

「ひっどぉい。お姉ちゃん傷ついて自殺しちゃったら、コーちゃんのせいだよ。そんなの悲しくない?」

「興味ないね」

 幸美は下手なうそ泣きとともに、幸太に抱きついた。

「いい年こいた女が泣き真似をするな、気色の悪い!」

 幸美というお邪魔虫の登場で、大学受験にも黄色信号が点滅したように思われた。

「マジ、センター試験でしくじったら全部姉ちゃんのせいだからな」

「お姉ちゃんにそんな脅迫は通じないわよ」

 (無視だ、無視……)

 幸美の腕を乱暴に振りほどいて、部屋にひきこもる。

 が、いつ気配を消して入ってくるかもわからない。部屋にカギがないというのは子どもにとって大いにストレスだ。姉や母は、なぜか知らないが幸太にプライバシーがないと思っているらしく、許可を求めるどころかノックもせず入ってくることがある。

 迷惑な連中だ。

 幸美対策で、ドアの取っ手にキーホルダーをかけ、入ってこようとすればすぐに分かるようにした。

 (まったく、俺は家のなかで何をやらされてるんだ)

 もっとも、さすがに幸美も最低限のラインは分かるのか、部屋に邪魔をしに来ることはなかった。

 クリスマス・イブの日。

 幸太はこの日も、もっぱら勉強に集中している。夕方になって、美咲からメールが入った。

『コータ、元気?』

『お疲れ様。もちろん元気だよ! 美咲はどう? 寒くなってきたから、体調崩してない?』

『うん、私も元気! 今日はイブだね』

『そうだね。美咲は家族でどこか行くの?』

『ううん、家でママがなにかつくってくれると思う。そのあとケーキかな。コータは?』

『うちもそんな感じかな、たぶん』

『来年は、クリスマスデート、できたらいいな』

 幸太は、最後に美咲が送ってきたメールの、その文末に目が釘付くぎづけになった。

 美咲の顔がそのまま思い浮かぶような、にっこりと愛らしい顔文字が添えられている。

 だがこのときの幸太にはそれがなぜか、さびしい気持ちをぐっとこらえて笑顔を見せる美咲の表情に重なった。

 と思うと、幸太はもう胸のなかが美咲への想いでいっぱいになり、いてもたってもいられなくなった。

 彼はあたふたと着替えながら、自分の行動を異常だと思った。美咲のためでなかったら、このような衝動的で無鉄砲なことはしないだろう。

 夕食の準備が進むリビングで、幸太は集まった3人の家族に告げた。

「ごめん、俺ちょっと出かけてくる」

「なにコーちゃん、どこ行くの?」

「彼女が会いたがってる……気がする。だから、会いに行きたいんだ」

 自分でも、なにを言っているのかよく分からない。聞いた方もさぞ混乱するだろう。

 だが、両親と姉は、みな笑顔で、快く送り出してくれた。

「お料理とっとくから、行ってあげなさい」

「気をつけて行っておいで」

「マシュマロちゃん、かわいいね。好きな人には、会いたくても、会いたいって言えなかったりするんだよねー」

 ありがとう、と言い残して、幸太は走り出した。

 電車に乗っているあいだ、落ち着かず、何度も携帯電話の画面を見た。

 最後に幸太に送られたメール、幸太にはそのメールを打った美咲の気持ちが分かるつもりだ。

 駅に着き、幸太はまっすぐに美咲の家を目指した。

 すでに空は真っ暗だが、美咲と一緒に歩いた道、忘れるはずもない。

 家の前まで行くと、中からあたたかい色の光が漏れている。あの2階の明かりが美咲のいる部屋だと思うと、愛情がずんとこみ上げて、胸が熱く、息をするのさえも苦しくなった。

 携帯電話を手に、幸太には一瞬の迷いがあった。このようなことをして、美咲はかえって、迷惑に思わないだろうか。美咲に嫌われないだろうか。そう思った。

 が、幸太はそれでも意を決した。彼には、美咲の気持ちが分かる。きっと、美咲も彼に会いたいと思ってくれているはずだと。

『もしもし、コータ?』

『うん』

『えへへ、どうしたの?』

『声、聞きたくて』

『さびしくなったの?』

『そうかも』

『私の声聞いて、どんな気持ち?』

『なんか、胸がいっぱいになる。気持ちがあふれてさ』

『うふふ、うれしいな』

『声を聞くと、美咲の顔が見たくなる。手をつないて、ぎゅって抱きしめて、キスもしたくなる』

『コータ、欲張り』

『欲張りだけど、今すぐ、君に会いたい』

『うふふ、今すぐは無理だよ』

『できるよ。美咲が、カーテンを開けてくれれば』

 えっ、という息を呑むような声とともに、2階の部屋のカーテンが揺れた。

 ふたりは窓越しに、しばらく見つめ合った。

 やがて美咲は、よろこびを隠しきれない声とともに、再びカーテンを閉めた。

『40秒で支度する!』

 たっぷり10分ほどは待っただろうか。

 白のダッフルコート、赤いチェックのミニスカート、黒のタイツ、ブラウンのショートブーツ、メイクも薄く整えて、美咲は白い息を吐きながら、玄関から走り出てきた。

 表情は喜色満面で、しかし、唇に人差し指を当てている。もしかして、両親には内緒にしてきたのだろうか。

 すると、美咲は幸太が聞かずとも、小声で疑問に答えてくれた。

「ママにだけ、事情を話して出てきたの。近くに公園あるから、お散歩しよ」

 近くの公園、といっても、都内でも有数の有名な公園だ。中心に大きめの池があり、桜や紅葉の季節は名物のスワンボートでびっしりと埋め尽くされる。

 夜は夜で、特に中央にかかる橋や池の周囲の遊歩道がライトアップされて、静かで幻想的な風景だ。

 こうした雰囲気を狙ってか、意外とカップルの姿も見受けられる。

 ふたりは、橋の近くのベンチに座った。

「コータ、会いに来てくれてありがとう。私、びっくりして、感動しちゃった」

「なんかさ、どうしても美咲に会いたくて。それと気のせいかもしれないけど、美咲が会いたい、って言ってくれてる気がして」

「気のせいじゃないよ」

 と、美咲は幸太の掌を握りしめながら断言してくれた。

「私、コータに謝らなきゃ」

「どうして?」

「私の気持ち、コータに正直に伝えるって約束したのに、早速さっそく破っちゃった。ほんとは、会いたかったの。家族と一緒でも、コータに会えないとさびしいなって。けど、無意識にその気持ち、閉じ込めちゃってた。自分でも、気づけてなかった。でもね、コータは私の気持ち、全部分かってくれたの。コータは私自身も気づいてない私の気持ち、分かってくれたんだって思って、感動したよ」

「じゃあ俺、来てよかった?」

「うん、もちろん!」

 よほどうれしいのか、美咲は幸太の左腕をぐっと引き寄せて、肩に顔をうずめた。

 幸太は、不思議な気持ちだ。

 さびしい気持ちに、美咲自身が気づいていなかった、無意識に閉じ込めていたというのは本当だろう。だから、彼女は幸太に気持ちを隠していたわけではない。

 だが、確かに幸太には分かったのだ。

 美咲の気持ちが。

 幸太は、姉の表現を少し借りることにした。

「俺も、美咲に会いたいけど、会いたいって言えなかった。でも美咲もきっと同じ気持ちなんだと思って、気づいたら走ってたよ」

「コータ……」

 どうしてそんなに優しくしてくれるの、と、彼女は口で微笑み、目は泣きながら、尋ねた。

「前にも美咲に言ったとおり、俺は君のこと、後悔のないように精一杯、愛していたいんだ。君のためにできること、なんでもするつもりだよ」

 うぅ、と美咲はこらえきれず声を放って泣いた。

 幸太は、これ以上ないくらいに優しく、美咲を抱き寄せた。

 胸のなかで、美咲の泣き声がする。

「私、最近、泣いてばっか。うれしくって、幸せいっぱいで」

「美咲、俺も同じだよ」

「コータといる時間が、私は一番幸せで、大切」

「俺も同じ気持ちだよ」

 幸太は、美咲と気持ちを共有できていることがうれしかった。これ以上ないよろこびだった。

 そのよろこびを、幸太は全身で表現したくなった。

 左手で美咲の肩を抱いたまま、おもむろに右手を膝の裏にもぐりこませると、そのままぐっと持ち上げる。

 夜の公園に、美咲の楽しげな笑い声が響き、その声は幸太の腕が限界を迎えるまで続いた。

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